2018年9月18日火曜日

ケアの断片が編み込まれた職場

3ヶ月もすぎ、仕事でもただ不安や心配があるというだけじゃなくて、
仕事ならどこでもあるようなアップダウン、うまくいく日、いかない日を経験するようになってきました。
まぁどこだって、ちょっとありえないなという上司や同僚とかっているもので、
それはこの新しい環境でも例外ではないわけです。

私はスポ根の対局のような人間なので、「苦労は買ってでもしろ」みたいなのは強い言葉を使えば、クソくらえと思っています。不要な苦労や、不要な苦痛はいらないと思っている。
どんな経験からも観察や知見を得ることができる、という言葉には間違いはないとおもうけど、その方法で学ぶ必要はあるのか、ということは常に考えるべきだと思うのです。
火を使うときに気をつけるべき、というのは熱い鍋にずっと指をおしつけていなくても学べるわけで、その学びから、「いやいや、みんな耐えてきたからその熱さに耐えようよ」というのはナンセンスだとおもっている。

こんなに反骨精神がつよく、なんかプロレタリアートの火を目に燃やすような人でもなかったのだけど、
5年も社会人をやっていると気づけばこんな感じに条件づけされていた。
「これいまおかしいこと言われてるんじゃ?」と、レーダーでキャッチすると、すぐピリっとするし、その瞬間からとてもdefensiveになるので、職場の私が感じのよい人ではないことは心得ている。
だから、前回の投稿にもあるように、前職の私はASAHIのごとくスーパードライだった。
決して正義感がつよいからもの申すタイプではない。
自分が個人としての人格としてそんな人だと判断されたくなかったからかなといま考えてみれば思う。
「この人仕事だからこうしてるんだな」と思われようとしてたのかもしれない。

例によって、そんなこんなで同僚の一人とぶつかることがあった。
その詳細についてはここでは重要じゃないので、割愛する。
一言でいえば、仕事に予算上、スケジュール上、モラル上の影響が出そうになっている状況だった。
そして、儒教文化からでてきたばかりの私は、ここでは目上の人に対しての異議申し立ては日本よりはしやすいんじゃないかなと思っていた。
でも、来てみて儒教とはまた別の構造的な問題があることに気づく。
先にも書いたように、国際機関における雇用期間の不安定性と短さである。

特にプロジェクト上で雇われている人の場合、マネージャーとの関係は数ヶ月後自分が仕事にありつけるかに影響する。失業のリスクをおかしてまで、マネージメントに異議を唱えることは非常にむずかしい。それはある意味キャラ問題でどうにかなる(場合もある)儒教文化よりも、さらに抗いがたい社会保障上の構造ともいえる。

さてさて、そんなモラルハザードが蔓延している状況で、同僚と衝突した私は悔しさで涙を溜めて、「もう今日は帰宅しようかな」くらいに考えていた。

数人でシェアしているオフィスの中部屋で満身創痍になっている私を前に、一番姉御肌の同僚が「あんたは完全に正しいこと言ったよ、えらかった。よく言ったとおもう」とパソコンから顔をあげていってくれた。それに対して私が「ありがとう、もう懲り懲りで、こんなの」というと、明らかにミーティングをしてた姉さまもう一人が「(ミーティング相手にむかって)ちょっと一瞬いい、ごめんね?Saki、いい?この組織は「もう懲り懲り」とおもってからが一人前よ、これであなたも一人前!(ミーティング相手に向き直り)はい、失礼、続けて」

そこからも、なんとなーく断続的に別の同僚が自分の地元にある日本人街について急に話を振ってくれたり、また別の同僚が「日本の英語の教科書にある、やばい例文」の話を持ち出して一笑いしてくれたり。

なんというか、顔面で地面を打ちそうになっている人を前に、瞬時の判断で安全マットをすばやくそこに敷く態勢がすごかったのである。

鷲田清一(はい、マイブームです)は自著『語りきれないこと 危機と傷みの哲学』の中で「ケアの現場は、ケアの”小さなかけら”が編み込まれたものだ」と書いている。「いろんなところで小さなケアが、それも意図していないケアも含めて、なんとなく起こっている。そういうケアのかけらがうまく自然に編み込まれている空間が一番いいケア施設だといわれている」と。

今の自分の職場はまさにそんな場所だと感じた。

誰一人、なにが問題か尋ねたり、それを解決しようか?とは言わなかったけど、「あ、この人はいまやばいな」と察してほとんど脊髄反射のように対応してくれたように感じた。
私はそのことにとてもびっくりしてしまい、悔しさのボルテージでエネルギー切れになったことすら忘れて、なんだかあっけらかんとその日をすごした。

その後も衝突の発端となった業務を一緒にやっている同僚が「お昼に外に行く?」とそれぞれ別々に声をかけにきてくれたり、
極めつけはその内の一人が「今日は一緒に帰ろう」と言って、バスでの帰路ずっと「Saki、あなたはうちのチームに本当に大切な財産よ。だからこれで気を落としたり、私はいらないんじゃないかって思わないでほしいの。あなたは私たちの宝物よ。それだけはわかってほしい」。ジュネーブの都心に向かう夕方のバスに揺られながら、語りかけた彼女の言葉を聞きながら思った。なるほど、そうか。私は今日”顔面から地面に落下しそうになったところ、同僚にぐっと袖をひかれて助けられたな”と思っていた。けれど、実際は20m高度からすでに顔面先にフリーフォールしていたのだときづいた。その落下中の私を視覚の角で捉えた同僚たちがとっさにブラインドで投げた安全セーフティーネットにすぽーんとキャッチされた私は、その動力のままに網につつまれながら、ぽわんぽわん上下に揺られていたことに1日を終えて初めてハッと気づいたのである。

仕事の場にはなるべくだったら感情を持ち込まないほうが私もプロとして望ましいと思う。けれども、こうして感情の波に足元からすくわれそうになったときに、眉ひとつうごかさずに安全網を投げてくれるような場は、それだけで安心できるなと思ったのでした。

You are a treasure

そんなことを言われたのは、小学校3年生の担任のステイシー先生以来。

あなたはトレジャー、洋画タイトルの下手くそな邦題みたい、なんて思いながら、バスを降りるころにはその日の夕飯の献立を考えてた。



先日弟を訪ねて行った、オランダのGiethorn


2018年8月12日日曜日

冷静と情熱のあいだに、もしくはフロントオフィスとバックオフィスのあいだで

こちらではどんな仕事をしているの?とよく聞かれるようになりました。
圧倒的に現場重視で実行部隊ありきの組織の中で、本部にいる若手ペーペーの自分がどのような役割を担っているのか。それ自体を咀嚼して理解するの自体に時間と熟考を要しましたが、二カ月たった今ようやく頭と腹両方できちんと納得する形で理解が追いついて来た気がします。

私の仕事は民間企業に例えると、ちょうど経営企画や統括室に相当する、と表現するのが今のところ一番しっくり来ています。
経営企画といえば、まさに文字通り経営を企画するところなので、例えば中期計画など組織の戦略を組んだり、四半期ごとにその活動を分析したり、新規事業を立ち上げたり、といった仕事をしているような場所です。
そこをいわば組織のブレーンと呼ぶ会社もあるのではないかと思います。
さて、このように表現すると、花形というか、組織で重役を任されているような印象を与えますが、私がこれを持ち出したのはむしろ自分のabilitycapacityを示すためではなく、inabilityincapacityを説明するためです。

こちらに転職して仕事上、私が一番苦労したのは海外にきたから、ということや業種・業態が変わったということより、この組織での立ち位置の違いでした。
私は前職ではコンサルタントをしていたので、常に社外にいる別組織の顧客からプロジェクトベースで仕事をもらっていました。
この時、顧客はまず 1)問題意識や課題意識があります。
専門性の理由で組織内ではできない、または(こちらの方が圧倒的に多いですが)人手や時間の余裕的に社内でまかなえない仕事がアウトソースされてきます。問題意識がずれていて、それを一緒に後々軌道修正されることはありますが、問題意識はある。

なのでもちろん2)その作業の必要性も認識している。
社外の人にお金を出してでも頼みたいと思っているので、その量や質は都度すり合わせが必要ですが、少なくとも誰かにやってもらわなきゃいけない、と思っている。

そして、3)明確な成果物がある。
多くの顧客は私たちに払ったお金を正当化しなくてはならないし、ちゃんと元を取らなくては、とも思っているので、要求がふわふわしていることはありますが、成果物はあります。会議の企画や準備、商談、分析、レポートなど。

さて、仕事するときのこれら条件がこちらにきて大きく変わりました。

まず、経営企画とは、フロントオフィスとバックオフィスの間に位置する部署ということ。
むしろ、バックオフィス寄り。
だって、メーカーに例えれば、何か特定の商品を管轄しているわけではないし、生産管理をしているわけでもなければ、販売をしているわけでもない。つまり直接売上を持っている部署ではない。
これが全ての条件を変える。
バックオフィスなので、私の顧客は社内にいます。
私の同僚たちは加盟国や被援助国、裨益者に価値を届けているけれど、私の仕事の結果変わるのは概ね社内です。フロントオフィスがよりうまく活動できる環境と土壌を整えることが仕事。

しかもこの経営企画、いるのは局長と私だけ。
(私と彼女の職階には7つ開きがあるので、彼女が私の直接の指示系統であること自体めちゃくちゃイレギュラーなのだが)
中堅社員が頭を寄せ合っているのであれば、組織の戦略づくりとそれを実践に落としていくことが仕事になるのだろうけど、大大大ボスという責任者/意思決定者の元に新米の私一人がついているとなると、

1)必ずしも問題意識はないし、2)作業の必要性は認識されていないし、3)明確な成果物がない。なんて中で作業をすることになる。

例えば、私がこちらにきてした作業の一つが報告書のテンプレ作成(現在進行形)
私が配属されている事業部門(組織には2つの局がある。そのうちの一つ)では、例えば私の着任時、幹部クラスへの四半期報告のための共通テンプレートがなかった。それぞれ全く異なるスタイルと書き方で自由にまとめられた報告書を文字通り、そのままホッチキスで止めて、一つの事業報告かのように提出していた。(これ自体、日本のトップダウンの組織からすると驚きなのだが)
こうなると、局としての成果や活動が報告できないし、何より組織として統率取れてるのかな?なんて不安を与えたりする。
なので、私と局長のポジションからは至極当たり前の作業としてこのテンプレ改編の仕事が着手されたわけだけど、それぞれの部からすれば、「まずはやることをやることをやるのが大切でしょ?その結果を報告するにすぎないだけなのだから、そこに時間をかけるなんてよくわからない」なんて声はもちろんあるし、
それぞれの部で最適だと思った形式を元々選んでいるので、目的には賛成だけど、実際慣れたフォーマットを変えることには消極的だったりする。
加えて、ここが一番響くのだが、このテンプレを変えた結果のインパクトが非常に見えにくい。もしかしたらこの結果、予算が増えるかもしれないし、活動もしやすくなるかもしれないけど、それにテンプレがどれだけ寄与したかはわかりにくいし、すぐには結果が出ない。

この圧倒的違いが、日々の業務をする上では大きな変化だったので、かなり、いやかなり悩んだ。
まずは、私が仕事をするためのファーストステップは部署をぐるぐる散歩しながら、御用聞きをすることから始まる。
必要なことやニーズを把握するために日々部署を尋ねて回って時間をなんとか作ってもらって、ざっくばらんに世間話のようなことをすることから始まる。必要性や彼らの問題意識が把握できないと、まず「顧客」になってもらえないから。
そこから、さらに迷ったのは、自分の仕事の意義を認識してもらうこと。すごいエゴの塊みたいになってしまうけれど、承認と評価を得るためのプロセスである。
なんてったって、テンプレを作るっていうのは、ようは私の毎日はエクセルを広げて入力フォームをカタカタ作ることである。一見したら、秘書業とも思われかねない。
「なんか、あの子エクセル上手ね」じゃちょっとまずいのである。給料以上の価値を出していない、ということだから。
というより、ぶっちゃけ私自身がちゃんと工夫しないと、本当イメージだけでなく、実際秘書だと思っている。
テンプレには組織としてトラックしたい指標や数値を埋め込んで、かつそれを入力していく手間もあれやこれやの関数を使ってできるだけ自動化したり、なんとかその意義が伝わるように工夫するのが私のデスクの毎日だ。
そしてここまでしても多分まだ、「めんどいなぁ、なんか新しい子がきたから報告の手間増えた」って印象は拭えないと思っているので、実際次の四半期レポートをそのテンプレで作って、それを使った分析もして、それを見てもらって初めて後々「なるほどね。まぁよかったかもこれやってもらって」と思われるくらいなのかな、と思っている。(というよりそのくらいの危機感を持たないと秘書じゃない?リスクは常にあると思っている)

だから、こちらにきてから仕事上一番頼りになったのは、民間企業で同じく転職や異動などでバックオフィスを経験してきた友人たちでした。自分がちゃんと正しい方向に歩いているかのか確認するために彼らの金言は本当に良い道標だった。

そして、バックオフィスにいると、社内でのコミュニケーションの重要性がより高まるということもこっちにきてひしひしと感じます。上記の通り、まず御用聞きから初めて、めんどくさがられる作業をお願いするなんてことをするとので、心象は命です。確かに自分もフロントオフィスにいた頃、「経理のあの人は感じがいいし、話がわかるからあの人に相談しよう」とか思っていたし、「社内のために時間割かれるのハイパーめんどくさいけど、xxさんならまぁいっか」なんて勝手なことを考えていました。
前職の私は社内では仕事は仕事と割り切り、社内コミュニケーションはASAHIかよって思うくらいスーパードライだったのですが、今は「感じがよくて、話しやすい子」と思われるのが仕事とその評価に直結します。能面みたいに寡黙に仕事をしていたら、「なんか何考えてるかよくわかんないし、そもそもあの子仕事何してんの」みたいなことになる。
だから、社交スイッチは常にオンだし、社交苦手目 人見知り科の私としてはこれは慣れるまで相当エネルギーを要した。立食パーティーがあるだけで、フルマラソンかよと思うくらいのエネルギーだけを使うのに、それが常に、である。作業的にはエクセルかたかたやってるだけなはずなのに、ものすごい疲弊する、なんて日が最初は多かった。
それでも妥協できないのがこのコミュニケーション。脱アサヒスーパードライな自分。

事業への熱い思いをかけている人たちを前に、彼らの情熱を受け止めて、ツボを探りつつ、一方で完全に利得と有用性ベースで冷静に説得するバランス、
そしてそれを全て包む「感じのよさ」(これが一番とらえどころがなくて難しい)が私のTOR(業務指示書)に書かれるべきじゃないかというくらい大事なのではないかなと思っています。

冷静側から情熱との狭間に
フロントからバックオフィスに転身したよってはなし


登るぞドォーモ

ジュネーブ建国記念の花火大会(8/11)

2018年7月25日水曜日

「国連に転職する」という当たり前じゃない選択

なぜ国際機関か、なぜ国連、なぜいまの組織か。
転職を決めて、国連で移民の仕事をする、と伝えたとき、多くの人は私に「とても “らしい”」選択だと言ってくれた。
流浪してきた帰国子女で、国際政治を専攻し、語学をテコにして仕事をしてきた。
いわゆる人が納得しやすい経路なんだと思う。「国際的なさきちゃんにぴったりだね」周りは喜んでくれる。私もいつからか「グローバル人材」と呼称されることに”慣れて”しまった。そう呼ばれたときに、一度頭の中で引っ掛けて、自問することを辞めてしまった。

だから、人は私にあまり聞かない。「なぜ国連にいくの?」と。でも、私の転職のどこをとってもそれはキャリアパスとして「当たり前」ではないし、むしろ、その選択は何度も自問し、それを意味を確かめていかなければいけない、と私は思ってる。

国連での仕事について少しでも調べたことがある人なら知っているであろう。国際機関での職の多くは2-3年程度の有期雇用だ。それも若手のうちだけではない。役員クラスになってもここでは皆ずっと2年ほどの有期雇用を続けてきてる。これを話すとその次に聞かれるのは大体聞かれる。 
「じゃあ、2年経つとうまくいけば契約更新できるということ?」
実はこれもNOだ。国連では契約が終わると、そのあとまた求職のお知らせに応募しなければいけない。つまり、国連職員とは2年に一度就活をし続けるということなのである。同じオフィスにいる20年選手の部長だって、契約終了が近づくと同じようにまた就活をする。
今回の私の仕事も例に漏れず2年。そして、これが一番驚くべきことなのだが、これを言うと業界の人は「長いね」という。肌感覚だが、4割くらいの人は大体これよりも短い契約で働いている。
国連とはいわばそんなフリーランス集団だ。
日本にいたときの私は、曲がりなりにも終身雇用を用意された仕事についていた。いわゆる出来不出来で人をクビにはしない伝統的な日本企業だ。どれだけ、パフォーマンスが発揮できなくても、つまらない仕事でも、自分の生活は保証してくれた。色々古風なところは多かったが、用事があれば自己判断で早く帰り、ミーティングがなければ自宅から仕事ができ、繁忙でなければ2週間休んでも眉をひそめられることもない、(仕事量は少なくなかったけれど)日本に珍しい働き方が自由な場所だった。

そんな雇用の安定を「捨てて」有期雇用の不安定な生活に突入にするのは当たり前ではなかった。私は少なくとも怖かった。正直にいえば今も不安だ。

じゃあ、なぜ私はそれでも国連に行くという選択をしたのか。
一つは「異端児」を卒業したかったから。
これは能力と居心地の良さという観点で話したい。

就活の頃から新卒の頃にかけて気づいたことがある。
それは自分の比較優位、いわば集団の中でどれだけ際立つ存在であるか、と居心地の良さ、の二つは、
トレードオフ、ということだ。

こちらを立ててれば、あちらが立たず。
いわば交換条件なのである。

就活した時、新入社員の頃、
多くの人がそうであるように、私も不安で仕方がなかった。
自己証明をしたかったし、自分の価値を図ろうと必死だった。
そんな私にとっては、自分の持つ能力や性質に強い比較優位があるところに行くのは自己証明がとても楽だった。
前職に勤めている頃、不思議がられた。「なんでそこに勤めているの」。
いまの職場にくる前のJPOの選考でも、「なぜ国際機関を目指しているのに、その職場にしたのだ。なぜ5年も勤めたのか」と。
答えはシンプルだ。私みたいな人材が少ないからである。私の希少価値が高かったから。
国際業務が得意ではない場所で、語学や海外在住経験をテコにして来た私にとって、自分の埋めるべき穴や役割をみつけるのはそう難しくなかった。外務省や商社に行けばヤマといる私のような人材が、前職ではレアキャラだった。

しかし、同時に居心地はその犠牲になったかなと思う。
入社してすぐ、気づいたのは、自分自身が、多様で寛容な環境に慣れ切っていたということだ。
不寛容に不寛容な自分、ナイーブさに傷つきやすい自分に気がついた。
「え、帰国子女なの、ほらこれ音読して(店にあった英語のレシピ本を手渡される)」
「は、アルジェリアに住んでたの?狂ったイスラームの中で育ったんだね」
ぐっすり寝ていたところ、耳をぎゅっと引っ張って持ち上げられたような驚きと痛さだった。
他社との会話の中でも
「弊社はアフリカ中に拠点があります。ないところは全てただの砂漠です(同社のアフリカ拠点はその時点で9箇所。アフリカには全54か国ある)」
「モロッコってどこ、何語、モロッコ語?」
途上国の拠点を嬉しそうに紹介しながら「だいたいね、ここは日本の江戸時代くらいと思ってください」

開発について、人権について、国際政治については、話を広げようとはなかなか思えなかった。
そんな状況を前にして、自分自身の不寛容がおもてに出てしまうのがわかっていたし、
そんな話を始めることの方が結果疲れる作業になることもわかっていたから。

だから、自分の能力と関心にあう仕事をとってくることも楽ではなかった。
外交や開発の仕事をコンサルとして受けることが、当たり前の会社ではなかったし、
「やりたいなら、仕事を作りなよ」の一言の下、2年目からはせっせと企画書を書いて仕事を取ろうと奔走した。
会社はきっと社内をより多様化するために、チャレンジとして私のようなレアキャラを採用してみたのだろう。
でも、自分の比較優位は証明されやすい一方で、何をするにも、全てに説明が必要だった。
私の能力に、私の関心ごとに、私の存在そのものについて。
在社中に何度もBe the change you wish to see in the world (あなた自身が目指している変革そのものであれ)
という言葉を思い出したが、自分から組織全体を変えようと思うほど私には体力がなかった。

私は前職で明らかに「異端児」だったが、
異端児であることは体力を必要とする。
自分の関心ごとや、信条、が共有される環境で、居心地よく、
同じミッションの下、仕事ができる場所が欲しかった。

ナイーブな幻想は持っていない。
世界を変えられるのは国連だけじゃないし、
移民の仕事も、国際協力も開発も援助もできるのは国連だけじゃない。

でも、国連では少なくとも、国際協力で仕事をすることへの途方もなく体力のいる手間は必要ない。
それは当たり前のこととして、説明さえいらない。
そして、たくさんの「似た者同士」と仕事ができる。

職場環境としての圧倒的居心地の良さが私にとっての国連の魅力だ。
オフィスではおそらく、自国でしか生活したことがない人はおそらく一人もいない。
「おはよう」というくらいのテンションで「SDGsの目標10だけどさー」と話しだす人は珍しくないし、
私の同室の同僚はそれぞれ一つ前のポストではモロッコ、イエメン、ケニアにいた人たちだ。
日本人であるということがわかると、「私の地元のリオデジャネイロの日本人街ではさー」とか「実はJETS6年日本で英語教えてたんだよね」なんて人がいる。

これで、「グローバル人材」としての比較優位を私は無事に失った。
技術と能力はこれからは生身で勝負しなきゃならない。
でも、それと引き換えに得た居心地は代え難いと思っている。

二つ目はさらに個人的な理由だ。
私が長期的なプランで迷ったときに指針にしていることの一つに「10年前の自分に誇れる自分か?」という問いがある。
日本と他国と行ったりきたりしながら育ってきて、国際政治を勉強してきた自分にとって、国連で働くというのは自分の中での一つの答えだ。
夢というほど恋焦がれたわけではない。
でも、10年前の自分、ただの学生だった青二才の自分はとても喜ぶと思う。
きっと10年後に手が届くものと思っていなかっただろうし、そんな自分の中に住んでいる小さな自分をproudにさせてあげたい。そんな自分本位でしかない理由がある。
自分というストーリーを「語り直せるか」(鷲田清一)ということとも言えるのかもしれない。

変化の中、または全くの無変化の中で目眩がしたり、息苦しくなった時に、
自分というストーリーが一貫して繋がれていることに私たちは安心を覚える。
私にとっての国連転職はバラバラに思える自分の中のピースを回収していく作業でもあったように思える。

国連という転職について、そのミッションから話すことは難しくないし、
その公明な理念への共感に寄せて書くことだってできる。
でも、私自身に関していえば、ある意味「優等生すぎる」その理念は、いわば地球市民の模範解答であり、
私だけじゃなくて世界の大多数が求めていることだった。
もちろん、国際政治に、移民に関わる仕事はしたい。
でも、それだけじゃ、この不安定で、特殊でしかない仕事に「私が」飛び込む理由にはならなかった。

国連に飛び込むには世界の良心を背負う懐の広さと、絶えることのない情熱の炎が必要なのかと言われれば私の場合は決してそうではなかった。
むしろ、そのリスクをとって選びたかった最終的な理由は極めて個人的である。
私は、自分の居心地を求めて、また10年前の自分に誇れるストーリーを語り直せる、ということが魅力でここにきた。
これを言葉にする方が、どうかすると「世界平和のために」というより、よほどこっぱずかしい。
でもそれが本当のことだから仕方がない。

これらはどちらも国連が私に与えてくれるものだ。
だから、この場所に来たいま、その与えてもらった価値に対して、全力で自分のできることを還元したい、それを初心として、いま私はここジュネーブで仕事をしています。


そんな私の、とても大きな世界の前にして、とっても小さな自己完結をする、国連への転職の話。

2018年7月2日月曜日

正しさと正義の城下町

ジュネーブに来た。
ちょうど今週でここに越してから1ヶ月になる。
どう考えても特殊すぎるこの街に私はまだ慣れてない。
出勤初日。仮住まいのAirBnBからバスに乗った。乗ってくるひとは人種も様々、たくさんの言語が飛び交っている。でもどこを見回してもつけているのは国連マークのついたIDストラップだ。朝の混み合ったバスでひしめき合う人々のほとんどが国際公務員だという自体に目眩がしそうになる。バス停の名前は「ITU(国際電機連合)」、「Nations(国際連合本部前)」、「ILO(国際労働機関)」、「WHO(国際保健機関)」と並ぶ。

国連前のBroken Chair
ジュネーブの人口は19万人。大体東京台東区と同じくらい。そのうちなんと9500人が国連職員だ。なんとこの都市の5%が国連で働いている。これを各国の代表部で働く外交官も含めると7%にも登る。(さらに国連以外も含めると43の組織が拠点を構え、2700人が国際NGOで働いている)ここは世界のあらゆる都市で最も国連職員が多い場所らしい。

ここは正論とPCPolitical Correctness)で動く場所だ。人を見かけや出自で判断することはほぼ不可能に近いし、それはタブーである。物件の内見に行くと、迎えてくれたのはトゥブを着た恰幅のいいムスリムの女性だった。彼女はスーダンから着た国連職員でジュネーブでの5年の勤務を終え、ハルツームに帰るそうだ。スイス人のオーナーとも仲良く、「本当にいいオーナーよ」と私にその部屋を進めてくれた。飲食店やスーパーにいっても接客は丁寧だ。レジに並んでる人、街でバギーを押す誰がどこの外交官、どこの機関の要人かわからない。つい昨日もバスでヨレヨレのTシャツと短パンを履いてるおじさんが仕事帰りにジムにいったとおぼしきUNHCR(難民高等弁務官)の人だった。むしろ、「外国人」に見える人ほど、その確率は高いといえる。

Genèveのランドマーク、レマン湖の噴水。
お天気がいいと虹がかかって見える
新居に移るまで1ヶ月はAirBnBで居候をしていた。最初の2週間泊まった家はニカラグア人一家。週末なにやら広げ始めたと思ったら、市内のニカラグア人たちと数十人で集まって国連前でデモをすると言っていた。ニカラグアはいま反体制デモが本国で加熱し、すでに200人近くの死傷者がでて、国は1ヶ月以上機能停止している。
次に泊まったのは引退したてのバンカーだった。日本の大和証券にも勤めていたことがあるという彼は5ベッドルーム、トイレ3つ、バスルーム2つの大豪邸にすんでいて、色々な人を迎えるのが好きだからとジュネーブを見渡しても最低価格に近い値段でこの大豪邸を貸していた。帰宅すると私を捕まえては日本の企業文化がいかに素晴らしいか私に熱弁していた。

湖をまたぐ橋には週替わりで違う国連機関の旗がかけられる。
気のせいかもしれない。でも、PCが張り詰めたように意識されているきがする。多分ジュネボワ(ジュネーブ人)からすればそれは当たり前なんだろうと思う。空港を降りた瞬間、難民への支援を訴えるポスターが窓一面に貼られ、職場のトイレにはいると”Everybody wants to change the world but nobody wants to change the toilet paper”(世界を変えたいって皆いうけど、トイレットペーパーを変える人少ないよね[ロールを使い終わったら、変えよう])などと書いてある。市バスは、難民デー、女性デーなどがあるたびにそのキャンペーンフラッグを乗せパタパタとなびかせてる。

Do the right thing(きちんとしよう?正義は貫くよね?)ということが前提のように敷かれた場所だ。当たり前だ、国連という一大産業の城下町なのだもの。造船業が盛んなところで港が発達するのと同じようなことなのだと思う。でも、この違和感に似た何かは忘れずに居たくないなと思ってる。

「ポリコレ棒で殴る」という表現を最近よく聞く。私はいつも自分はそれを振りかざす危険がある側だと思ってきた。でもここにきて、ポリコレ棒と呼ばれるものが言わんとするある種の窮屈さみたいなものが、触れるか触れないかの距離で肌にスススっと通り過ぎていくのを感じることがある。
この感覚、この城下町で働いていると言うことをついためらってしまうような、この感覚は、摩耗させたくないなと思っている。

初めに滞在していたAirBnBの窓から。最近やっと自分のアパートに越しました。

街の中心地でもこんな感じ。
そのイメージに比べて実は随分のどかな街、ジュネーブ

2018年3月15日木曜日

オープンイノベーション式に死者を祀る

メキシコの死者の日に参加してきた。
テレビの世界には世界各国の祭りをルポする番組が溢れているが、私自身は祭旅とでもいおうか、祭り事のために海を越えてある地を目指すことは初めてだった。

知る人は知るこの祭、死者の日はドクロメイクで人々が街を練り歩く光景が有名だ。11月の頭に休みが取れるとわかったとき、この奇異な祭り事を自分の目でみて、そのルーツや精神性をその空気からなんとか嗅ぎとれないかと思い、1人かの地に向かうことにした。

死者の日は、ガイコツモチーフのインパクトと、それが彷彿とさせるホラーイメージ、また同じ10月末に祝われることから、ハロウィンの亜種だと思われがちだ。ケルト系の収穫祭をルーツとし、アメリカを主たる発信源として、いまや日本も含め世界中で消費されるポップカルチャーとなったハロウィン。古典的にはガイコツや魔女などおどろおどろしい格好に仮装し、それが徐々に仮装文化とし独立し、参加者はおもいおもいの衣装に身を包むようになった、いわば街をあげた仮装祭である。モチーフとしてはジャコランタン、黒魔術、血、ガイコツなど恐怖を煽る超自然的なイメージをかたどったものが典型的だ。

死者の日は同じドクロをかたどったものではあるものの、そのコンセプトはハロウィンとは大きく異なる。実は、死者の日はお盆なのだ。死者の日と呼ばれる所以はそこにある。10/31からの4日間、いまは亡き人々はその近親者を訪ねて地上に降り立つとされ、その死者のつかの間の訪問を全力で歓迎するのが死者の日の祀りごとなのである。ドクロは死者を盛大に歓迎するための縁起物だ。これだけで、おもしろすぎはしないか?私の興味に一気にポッと火がついた。





美しさとおどろおどろしさが相まって鳥肌がたつ
国境を超えたお隣アメリカでは収穫の時期に悪霊を追い払うために用いられたガイコツモチーフは、お隣メキシコでは死者を歓迎する幸運の象徴である。だから、メキシコをこの4日間練り歩くガイコツたちは大層愉快だ。指笛をぴゅーぴゅーと鳴らし、踊り狂い、死の象徴をかたどりながら、生を謳歌している。

私が訪れたオアハカ州はメキシコ国内でも、特に死者の日が盛大に祝われることで有名だ。10月30日の開会の儀を皮切りに11月4日までぶっ通しで、連日連夜ガイコツちゃんたちの大宴会が街を挙げて開催される。この機会を単なる聴衆で終わらせてはつまらない。祭は参加してこそ、そのエスプリに触れられる気がして、さっそく私も街で一時間かけてガイコツメイクを道端でお店を広げるメイクさんに施してもらい、カトリーナに扮してパレードに参加した。

これがなんとも不思議な経験であった。
まず、パレードは一つではなかった。

街のランドマークであるサント・ドミンゴ教会のすぐ脇を通るメインストリートを中心として、そこから縦横に伸びる細い道に、大小さまざまな集団がそれぞれ驚くほど異なる装いで街を練り歩いていた。ドクロだらけの巨大なダンスフロアを想像して行った私はそこで、この祭りを世界に知らしめたドクロアイコンでさえ、死者の日のほんの一部であることを知る。

ドクロ集団はもちろんいる。サンブレロ(メキシコのつばの広い帽子)にフリルのついたシャツ、派手なメイクで着飾った男女がブラスバンド隊の音楽にあわせて、街頭で踊り狂っていた。これに参加していたのは、比較的若いメキシコ人と観光客。


ひだのおおきな円形スカートをクルクルとまわしながら踊る女性たち
そんなパーティー集団が前を過ぎていったかとおもえば、すぐ後ろに厳かな面持ちで、マリア像と十字をかかえて、神父とともに白装束でゆっくり教会に向かう集団がいる。


神父を先頭にマリア像を掲げて聖堂に向かうカトリック信者

かと思えば、一本道をまがると、男性は上半身裸、女性も裸足の先住民の集団が頭には鳥の羽をつけ、お香をたきながら煙のなかで、激しいドラムのビートで回転しながら、なにかの儀式を行っている。


息が切れようともステップを踏み、旋回し続ける先住民のグループ。今にもトリップしそうな独特な雰囲気

先住民の集団は羽をふんだんに使った衣装が華やか

さらに曲がってみると、今度は母親に手を引かれたこどもたちが、バットマンやプリンセスの仮装をして、完全にハロウィンのノリで、私の前に走ってきては"Trick or Treat!"とかわいらしく叫ぶ。


魔女っ子コーデで揃えたハロウィン・ノリのティーネージャー
驚くほどに多様なスパイスが放り込まれた坩堝のような怪しげで奇々怪々なその光景に私は面をくらった。

その愉快で奇怪な雰囲気はなかなか筆舌に尽くしがたいのだが、
例えるならば、阿波踊りを観にきてみたら、実際はそれに加えて、サンバとブレイクダンスとソーラン節を踊る集団が、全部隣り合わせで、目の前に広がっていた、みたいな感覚である。

何に最も驚いたかといえば、踊っている誰もそのごった煮状態を疎ましく感じていないようであったことである。外からきた我々からすれば、思わず視線を止めてしまうその不思議な光景も、参加者にとっては、この祀りの所与として、滑らかに流れるように眼前をすぎていっているようだった。

目に飛び込む鳥の羽、肌で感じるドラムの鼓動、遠くで鳴るブラスバンドを聴きながら、ようやく腹落ちした。

そう、メキシコの死者の日は、オープンイノベーションなのである。
オープンイノベーションとは近年、特にテック系分野で一種のモードとされる開発手法である。語義が示すことそのままに、イノベーションの過程を組織内に留めず、その生成過程を自ら露わにし、組織外のアクターを積極的に巻き込んでいく手法である。一つの集団のある程度均質化が進んだ組織の中にアイディアを閉じていくのではなく、積極的に外に、外に開いていくことで、よりクリエイティブにしていこうとするのが、その理念の根幹にある。

死者の日は歴史とともに塗り足されていく異なる文化や伝統、目的をすべてその懐に擁して、お互いを排除することなく、また祭の解釈を大きく変えることをしないままに、新しい機能を次々と乗せていった祭りなのである。

ホブスボームが「作られた伝統」について書いたように、どこの文化や伝統も実は変化の中で形作られている。伝統と思っていたものが、じつは新しかった、というのはよくある話だ。しかし、それでも死者の日の特異性は強調せざるを得ない。

想像してみてほしい。日本の灯篭流しで川に灯を浮かべる人たちの横に大音量のストリートダンサーが来たら、それは許容できるだろうか。もっと言えば、その共存を一過性のものではなく、慣習として根付かせることができるだろうか。日本に限らず、「厳かな雰囲気を害する」という一言でそれを許さない文化のほうがむしろ容易に想像がつく。しかし、メキシコではそれが十字架の行進と屋外ハロウィンパーティーをしにきている若者の状況はまさにそのようなアナロジーそのものだった。

死者の日は元々冒頭に述べた通り、マヤの時代までさかのぼる土着の宗教の中で育まれてきた祭りだ。死者への信仰は、古くは2500-3000年も前のにその起源を辿るとさえ言われる。
その後、15-16世紀、アステカ文明が栄えた時代、
黄泉の女王であり、死の婦人の愛称で親しまれる「ミクトランシワトル」への信仰が、この祭の原形になったのだそうだ。
古来から受け継がれるその信仰では、一年のうちこの4日間だけ、死者はその家族、友人、親しい者に逢うために、地上に降りたつと信じられている。
そのため、11月1日、死者の日が開宴される晩に、人々は家族で墓地に訪れ、マリーゴールドを備えて、今年もよく帰ってきてくれた、と死者を華やかに迎える。
死者の日の間、墓地に訪れると、目下は一面鮮やかな黄色でうめつくされ、献花の甘い香りがほのかに鼻に触れる。


死者の日期間中の墓地は見渡すかぎり花でいっぱい

墓石を洗う女性たち
一年に一度、やっと会える親しき人を迎えるのだ、もちろん訪れる人々は皆華やかに着飾っていく。
夜の暗闇のなかでもキラキラと光をとらえるスパンコールに、目元を彩るメイク、幼い子たちはドレスや小さなスーツを着ていたりする。

メキシコの死への考え方は少し仏教にも似たところがある。
死者は幾度も次の命へと生を繰り返すと信じられている、輪廻と通じる考え方だ。
ただし、輪廻と異なるのは、メキシコでは甦った先の生がつねにひとつ前よりも良くなる、と信じられていることだ。
なんてポジティブな考え方だろう。
陽の光をいっぱいに浴びて、太陽を信仰するメキシコの人々らしい考え方だ。
そう。つまり、死は新たなより良い生への転生を意味する。
だから、メキシコにおいて、ガイコツのモチーフは縁起が良い。
「人生昇格おめでとう!」そんな心持ちを感じさせるめでたさがある。

16世紀になると、コロンブスが大航海の末、アメリカ大陸という歴史的な「発見」をすると、
欧州列強による侵攻がはじまる。
メキシコには1519年にエルナン・コルテスが上陸し、わずか2年後にはアステカ帝国はスペイン軍のもとに陥落する。
その後、長いスペイン統治とともに、この国に入ってきたのがカトリックの信仰だ。
そのカトリックにおいて、11月1日は諸聖人の日(Toussaint, All-Saint's Day)だった。
聖母マリア、すべての聖人と殉教者に祈りがささげられる日である。
偶然とは思えない数奇なめぐりあわせである。
そのため、カトリック信仰がメキシコで広まるとともに、11月最初の日にはこの諸聖人の日を祝う習慣も徐々に伝わっていった。
そう、キリスト教の伝来とともに、メキシコはこの諸聖人もろともこの祭にとりいれてしまった。
この諸聖人を祝っていたのが、私が道で聖母像とともにゆっくりと列を成していた一群だ。
一方、羽飾りをつけて、太鼓の鼓動とともに舞っていたのは、先住民文化を祝祭するために訪れていた人々である。

1912年になると、Jose Possadaという風刺画家が一世を風靡する。
このころになると、メキシコはその植民地化の影響もあり、かなりの階層社会と化していた。
当時の貴族階級はヨーロッパへの憧れと羨望から、
その一部になりたいと、必死でヨーロッパ文化をとりいれ、マネようとした。
その装いから、食生活から、生活スタイルまで。
Possadaはそんな貴族階級の必死な姿を嘲笑し、
ツバの大きな帽子に、花を挿し、派手なドレスで着飾った女のガイコツとして描いた。
彼はこれをカトリーナと名付け、本当の文化に肉付けされていない彼・彼女らを表面的でからっぽな骨ばかりな姿に風刺した。
このカトリーナのアイコンは、その後メキシコ現代美術の巨匠ディエゴ・リベラの「アラメダ公園の日曜の午後の夢(Sueno de una Tarde Dominical en la Alameda Central)」という壁画作品に引用されたことで一躍世にしられるようになる。


PosadaのCatrina(Posada Art Foundation より)


ディエゴ・リベラの「アラメダ公園の日曜の午後の夢」
(Sueno de una Tarde Dominical en la Alameda Centralより)
瞬く間にこのアイコンはその愛らしさ、皮肉を帯びた滑稽さから、
人々に愛されるようになり、「ガイコツ」という共通項からさっそく死者の日の新たなモチーフとして取り入れられるようになる。今も街中にあふれるガイコツモチーフはこのカトリーナをかたどっている。特に各家庭に祀られる裁断や、花びらで象ったモザイク画はこのカトリーナをおしゃれに模したにものが多い。
その後、メキシコが移民の流れ、貿易を通じて加速度的に経済的にも社会的にも米国との距離を縮めていくにつれ、ハロウィン文化が徐々に同国に浸透していった。祭の時期が近しかったこと、さらにはガイコツがハロウィンにおいても一般的なモチーフであったことが偶然にも重なったことで、この米国の風習も当初からそこにあったかのように、いつの間にかこの祭の一部となり、変装とTrick-or-Treatは死者の日の新たな習慣としてその吸収されていった。



過去一年、愛する者を亡くした家族がつくる花びらのモザイク絵
私を驚かせた街頭での異様なカオス、うねるようなエネルギーを発していたあの光景は、まさにその混交と進化が生み出したスペクタクルだったのだ。オープンイノベーションのごとく、その文化的な進化を様々な力にゆだね、驚くほどの寛容さで受け入れてきた死者の日は、様々な信仰や慣習、シンボリズムを、自らの血潮としてその身を巡らせている。人はそれを文化の侵略や帝国主義と呼ぶかもしれない。しかし、変化や再解釈を恐れず、それを侵略どころか、自らのものとしてしまうメキシコには憧れるほどのしなやかさがある。
さて、今ではすっかりメキシコの風物詩となったカトリーナのフェイスペイント、自らもそれを施して街頭に向かうことに決めた私は、その起源がどこまで辿られるか聞いてみた。
「カトリーナメイクかい?あんなもの俺が若かったことは誰もしてなかったよ、せいぜいお面くらいじゃなかったかな」30代半ばのタクシー運転手は幼少期を振り返りながら言った。
「2015年に公開された『007スペクター』があるだろ?あの冒頭のパレードシーンで、死者の日は一気に有名になったんだけどさ。あの映画の演出でたまたまエキストラにはみんなドクロメイクをしてたわけ。その次の年からだよ、みんな一気にカトリーナメイクをしだしたのは」

あまりにも驚いて、一瞬まともに反応が返せなかった。
私をはじめ、多くの観光客が追ってきた死者の日の圧倒的代名詞と思われたドクロの行進、これこそも、自らを映したフィクションを逆輸入してしまったこの祭りの最新のイノベーションだったのである。嘘からでた真、とはこのことなのだろう。
メキシコのオープンイノベーションは常に私たちの想像の先を行く。


今ではすっかり祭りの代名詞になったカトリーナメイク

女友達で衣装をお揃いにしている子も多い

そういえば、今年公開となるピクサーの最新作、『Coco(リメンバー・ミー)』はこの死者の日を題材としたストーリーだ。きっと来年からの死者の日には、ギター少年のミゲルくんや、ガイコツのヘクターが街のかしこに現れるのだろう。

風物詩の大きな祭壇も来年はリメンバー・ミーのモチーフが紛れ込んだりするかもしれない


2017年11月16日木曜日

Anastasia

11月のブロードウェイはちょうどシーズンの入れ替わりで、昨シーズンの作品が終わったばかりだけども、それと交代する新作はまだ準備中かプレビュー中という、ミューオタを悩ませる時期である。


まず細かいことを語る前にこれだけ言わせてほしい。


ラミンが見れなかったーーーーーーーーーー。ラミーーーーーーーーーーン


※ラミンとはお顔、身体、声と三点そろったイラン系カナダ人のスーパースターです

※史上最も人気のある怪人の一人で、クラシックからロックまで何でも歌える超人なのでとりあえず彼をいれておけば、ショーの質があがる感があります。

11月をもって、降板することが決まっていたラミンを観れる貴重なチャンスに滑りこだと思ったんですが、その日はunderstudyが代打しており、イランの誇る美声が聴けなかったのは大変口惜しかった。でも、切り替えます。12月には日本コンサートにくるので。もちろんチケットぽちってるので。


もう一度だけ、言います。


ラミーーーーーーーーーーーーン


はい。気が済んだしたので、通常レビューに戻ります。


Anastasiaは97年に上映されたアニメ作品を原作としている。今回なぜこのショーを観に行くことにしたかといえば、理由は極めてシンプルで、小学生の私はこのアニメ作品の大大大ファンだったのである。バスで1時間以上かけて通学していた私は、当時から音楽ジャンキーで、一番好きなテープ(そう、当時はカセットテープです)がAnastasiaでした。好きすぎて、いまでも持っているくらいです。





そんな腹の底から好きなスコアなので、もちろん音楽はとてもよかった。多少順番や歌詞を変えていたけれど、それも違和感がなかったし、元の音楽コンテンツはうまく料理されていた。物申すとすれば、新しく足された曲目が少し完成度として霞んでしまったように思う。その点、同じくアニメ原作のアラジンなどは、元の作曲家(名匠アラン・メンケン氏)がついたことで、新曲も含め、全体をプロデュースが成功したのだが、Anastasia はどうしても継ぎ足した部分の完成度のムラが否めないかなというきがした。電車シーンの"Traveling Sequence"や、パリの"Land of Yesterday"などはうまくはまっていたように思う。あと、エンディングの名曲At the Beginning が完全カットされてたのが残念。カーテンコールでもいいからかけてくれればいいのに!

キャストの歌唱力も素晴らしかった。特に今回発掘された新人さん、アナスタシア役の Christy Altomareは、とても伸びある声でありながら、イノセントな印象も残しており、ハマり役だった。今後も純粋な少女役に期待できる。


あとは満足度が高かったのがアンサンブル。本作、キャスト人数は決して多くなく、ロマノフ一家から、人民、軍部まですべて10人ほどでこなしていたのだが、コーラスが10人とは思えないほどの厚さであった。特にロシア風の曲のときには、このコーラスの重さがしっかりでていたことでまとまりが出ていた。


さて、音楽と歌唱面からレビューを始めましたが、この作品は「小規模予算の舞台作品がどう試行錯誤するか」という観点で見たときにとても面白かったように思う。去年Dear Evan Hansenというオフブロードウェイあがりの低予算作品がシアター界を席巻したことからもみられるように、ミュージカルは最近ますます「お金をかければ良い」という世界ではなくなってきている。そんな作品がどんな戦略を打って万年戦国時代のブロードウェイを勝とうとするかはとても興味深い


残念ながら制作費をネット検索からは突き止めることはできなかったが、Anastasiaも使っている劇場、プロデューサー陣、キャスト陣などからして、そんな小規模予算の作品の一つであることは察しがつく。そんな作品の難しさは予算を均等に分配できないことにある。潤沢にない予算をどこに重めにふるか、そんなセンスと手腕に問われるのだ。そのため、凸凹感がある、それが低予算作品の特徴である。


Anastasiaにおいてはキャストや衣装はきちんとコストがかけられている部分であった。キャストは幸い(?)男女の主演が若いという設定だったので、イキがいいけれども、まだまだ売り出し中の(言ってしまえばコスパが高い)2人を中心に、ベテラン勢も粒ぞろいであった。おそらくキャスティング料が圧倒的な高いラミンを筆頭に、助演クラスが手堅く、Vlad 役のJohn BoltonとLily役の Caroline O’Connor のおじさまおばさまが際立ってよかった。なによりコメディシーンの質がたかい。コメディは実は高級感を出すのが一番難しいというのが、私の持論であり、下手するとすぐ「安っぽさ」が、でてしまう。その点若い2人はまだそこの経験が足りず、いくつかダイコンモーメントがあったのだが、このベテラン2人がいることで、作品としての安定感は一気に増していた。曲もこの2人がはいっていると、まとまりが全くちがった。Vivaベテランパワーである。


逆にここは予算薄いな、とかんじたのは振り付け。本作どの役職をとってもプロデュース側にもビッグネームはいないのだが、それにしても振り付けはもう少しどうにかなったのではないかと思う。冒頭に帝政ロシアのロマノフ家の晩餐シーンがあるのだが、そこの舞踏シーンが安すぎてちょっと、はじまっていきなりのダイコンモーメントにどうしようかと思った。ダンスルームシーンをやるのならば舞台版シンデレラくらいの本気が欲しい。あっちは完全なるフィクションであれだけ揃えてきてるのである、歴史物であるはずのAnastasia で帝室シーンにボロがでると、一気に作品がbelievable ではなくなってしまう。総じて、振り付けなしの曲が自然だったしいいかんじでした。ちなみに先に述べたDear Evan Hansenもほとんど振り付けがありません。低予算の場合はむしろそういう潔さもあってもいいのかなと思う。





低予算舞台における近年みられるもう一つの特徴として、テクノロジーによる制約克服がある。舞台世界にもイノベーションの波はきている。資金面の制約を技術で乗り越える試みが最近よくみられるようになり、面白い時代になってきていると思う。Anastasia はなんといってもCGとプロジェクションなしには語れない。最近ミュージカル界(特に韓国系)で人気のプロジェクションの活用だか、本作は今まででみたことないほどにデジタル映像の活用が多かった。どのくらい多かったかというと物理的にでてきたセットが、机、イス、などの家具と、鉄道の車両内セットくらいである。特に屋外シーンは全てが背景スクリーンといっても過言ではない。
なんというかもはやメディアミックスに近いというくらい装置が映像で代替されていた。サンクトペテルブルクの大聖堂や、パリのエッフェル塔、鉄道で逃げるシーンで窓の外を走る景色、これら全て映像で表現されていた。

これまで観てきたプロジェクション映像はそのシーンにプロジェクションを使うこと自体に意味をもたせていたが、Anastasia において、はじめてプロジェクションであること自体の意味は透明な映像活用手法をみた。


おそらく好みが出るとおもう。特にオールドスクールな古典好みな人たちは、ディズニーランドのショーみたい、なんていうだろう。でも、ブロードウェイで同時にライオンキング、アラジン、ノートルダム、アナ雪、を公開しようとしているような市場環境の中で、むしろミュージカルがどこまでエンタメショーと本当に違うんだという気もする。私はセットを作る莫大な予算を持たずしても作品を世に出せるようになった、技術革新は歓迎したいなと思う。見てるときの違和感でいえば、アバターのときは超賛否両論だった3Dももはや、まったくもって「普通」になったじゃない?多分制作側の使い方の慣れと、観てる方の慣れの問題です。


今回は少し興行的な観点から作品を語ってみました。Anastasia は総じて大劇場のスター作品にはないような凸凹を楽しむ作品である。「ここがこんなに卓越しているのに、ここなんでこんなになっちゃったんだ?」なんてシーンも含めて満喫するのが乙。とりあえずミューオタにとって最も大事な楽曲が鉄板なのでそれを安心感に、スタートアップ・ミュージカルともいうべきこの作品はトライしてほしい。結局は引っかかる所のないまん丸の「優等生ちゃん」な作品よりも、こういう作品の方が案外クセになってしまうのが舞台のおもしろさだと私は思う。


プレスコール動画(ラミン含)。キャストの伸びやかな声がとてもよい