2018年3月15日木曜日

オープンイノベーション式に死者を祀る

メキシコの死者の日に参加してきた。
テレビの世界には世界各国の祭りをルポする番組が溢れているが、私自身は祭旅とでもいおうか、祭り事のために海を越えてある地を目指すことは初めてだった。

知る人は知るこの祭、死者の日はドクロメイクで人々が街を練り歩く光景が有名だ。11月の頭に休みが取れるとわかったとき、この奇異な祭り事を自分の目でみて、そのルーツや精神性をその空気からなんとか嗅ぎとれないかと思い、1人かの地に向かうことにした。

死者の日は、ガイコツモチーフのインパクトと、それが彷彿とさせるホラーイメージ、また同じ10月末に祝われることから、ハロウィンの亜種だと思われがちだ。ケルト系の収穫祭をルーツとし、アメリカを主たる発信源として、いまや日本も含め世界中で消費されるポップカルチャーとなったハロウィン。古典的にはガイコツや魔女などおどろおどろしい格好に仮装し、それが徐々に仮装文化とし独立し、参加者はおもいおもいの衣装に身を包むようになった、いわば街をあげた仮装祭である。モチーフとしてはジャコランタン、黒魔術、血、ガイコツなど恐怖を煽る超自然的なイメージをかたどったものが典型的だ。

死者の日は同じドクロをかたどったものではあるものの、そのコンセプトはハロウィンとは大きく異なる。実は、死者の日はお盆なのだ。死者の日と呼ばれる所以はそこにある。10/31からの4日間、いまは亡き人々はその近親者を訪ねて地上に降り立つとされ、その死者のつかの間の訪問を全力で歓迎するのが死者の日の祀りごとなのである。ドクロは死者を盛大に歓迎するための縁起物だ。これだけで、おもしろすぎはしないか?私の興味に一気にポッと火がついた。





美しさとおどろおどろしさが相まって鳥肌がたつ
国境を超えたお隣アメリカでは収穫の時期に悪霊を追い払うために用いられたガイコツモチーフは、お隣メキシコでは死者を歓迎する幸運の象徴である。だから、メキシコをこの4日間練り歩くガイコツたちは大層愉快だ。指笛をぴゅーぴゅーと鳴らし、踊り狂い、死の象徴をかたどりながら、生を謳歌している。

私が訪れたオアハカ州はメキシコ国内でも、特に死者の日が盛大に祝われることで有名だ。10月30日の開会の儀を皮切りに11月4日までぶっ通しで、連日連夜ガイコツちゃんたちの大宴会が街を挙げて開催される。この機会を単なる聴衆で終わらせてはつまらない。祭は参加してこそ、そのエスプリに触れられる気がして、さっそく私も街で一時間かけてガイコツメイクを道端でお店を広げるメイクさんに施してもらい、カトリーナに扮してパレードに参加した。

これがなんとも不思議な経験であった。
まず、パレードは一つではなかった。

街のランドマークであるサント・ドミンゴ教会のすぐ脇を通るメインストリートを中心として、そこから縦横に伸びる細い道に、大小さまざまな集団がそれぞれ驚くほど異なる装いで街を練り歩いていた。ドクロだらけの巨大なダンスフロアを想像して行った私はそこで、この祭りを世界に知らしめたドクロアイコンでさえ、死者の日のほんの一部であることを知る。

ドクロ集団はもちろんいる。サンブレロ(メキシコのつばの広い帽子)にフリルのついたシャツ、派手なメイクで着飾った男女がブラスバンド隊の音楽にあわせて、街頭で踊り狂っていた。これに参加していたのは、比較的若いメキシコ人と観光客。


ひだのおおきな円形スカートをクルクルとまわしながら踊る女性たち
そんなパーティー集団が前を過ぎていったかとおもえば、すぐ後ろに厳かな面持ちで、マリア像と十字をかかえて、神父とともに白装束でゆっくり教会に向かう集団がいる。


神父を先頭にマリア像を掲げて聖堂に向かうカトリック信者

かと思えば、一本道をまがると、男性は上半身裸、女性も裸足の先住民の集団が頭には鳥の羽をつけ、お香をたきながら煙のなかで、激しいドラムのビートで回転しながら、なにかの儀式を行っている。


息が切れようともステップを踏み、旋回し続ける先住民のグループ。今にもトリップしそうな独特な雰囲気

先住民の集団は羽をふんだんに使った衣装が華やか

さらに曲がってみると、今度は母親に手を引かれたこどもたちが、バットマンやプリンセスの仮装をして、完全にハロウィンのノリで、私の前に走ってきては"Trick or Treat!"とかわいらしく叫ぶ。


魔女っ子コーデで揃えたハロウィン・ノリのティーネージャー
驚くほどに多様なスパイスが放り込まれた坩堝のような怪しげで奇々怪々なその光景に私は面をくらった。

その愉快で奇怪な雰囲気はなかなか筆舌に尽くしがたいのだが、
例えるならば、阿波踊りを観にきてみたら、実際はそれに加えて、サンバとブレイクダンスとソーラン節を踊る集団が、全部隣り合わせで、目の前に広がっていた、みたいな感覚である。

何に最も驚いたかといえば、踊っている誰もそのごった煮状態を疎ましく感じていないようであったことである。外からきた我々からすれば、思わず視線を止めてしまうその不思議な光景も、参加者にとっては、この祀りの所与として、滑らかに流れるように眼前をすぎていっているようだった。

目に飛び込む鳥の羽、肌で感じるドラムの鼓動、遠くで鳴るブラスバンドを聴きながら、ようやく腹落ちした。

そう、メキシコの死者の日は、オープンイノベーションなのである。
オープンイノベーションとは近年、特にテック系分野で一種のモードとされる開発手法である。語義が示すことそのままに、イノベーションの過程を組織内に留めず、その生成過程を自ら露わにし、組織外のアクターを積極的に巻き込んでいく手法である。一つの集団のある程度均質化が進んだ組織の中にアイディアを閉じていくのではなく、積極的に外に、外に開いていくことで、よりクリエイティブにしていこうとするのが、その理念の根幹にある。

死者の日は歴史とともに塗り足されていく異なる文化や伝統、目的をすべてその懐に擁して、お互いを排除することなく、また祭の解釈を大きく変えることをしないままに、新しい機能を次々と乗せていった祭りなのである。

ホブスボームが「作られた伝統」について書いたように、どこの文化や伝統も実は変化の中で形作られている。伝統と思っていたものが、じつは新しかった、というのはよくある話だ。しかし、それでも死者の日の特異性は強調せざるを得ない。

想像してみてほしい。日本の灯篭流しで川に灯を浮かべる人たちの横に大音量のストリートダンサーが来たら、それは許容できるだろうか。もっと言えば、その共存を一過性のものではなく、慣習として根付かせることができるだろうか。日本に限らず、「厳かな雰囲気を害する」という一言でそれを許さない文化のほうがむしろ容易に想像がつく。しかし、メキシコではそれが十字架の行進と屋外ハロウィンパーティーをしにきている若者の状況はまさにそのようなアナロジーそのものだった。

死者の日は元々冒頭に述べた通り、マヤの時代までさかのぼる土着の宗教の中で育まれてきた祭りだ。死者への信仰は、古くは2500-3000年も前のにその起源を辿るとさえ言われる。
その後、15-16世紀、アステカ文明が栄えた時代、
黄泉の女王であり、死の婦人の愛称で親しまれる「ミクトランシワトル」への信仰が、この祭の原形になったのだそうだ。
古来から受け継がれるその信仰では、一年のうちこの4日間だけ、死者はその家族、友人、親しい者に逢うために、地上に降りたつと信じられている。
そのため、11月1日、死者の日が開宴される晩に、人々は家族で墓地に訪れ、マリーゴールドを備えて、今年もよく帰ってきてくれた、と死者を華やかに迎える。
死者の日の間、墓地に訪れると、目下は一面鮮やかな黄色でうめつくされ、献花の甘い香りがほのかに鼻に触れる。


死者の日期間中の墓地は見渡すかぎり花でいっぱい

墓石を洗う女性たち
一年に一度、やっと会える親しき人を迎えるのだ、もちろん訪れる人々は皆華やかに着飾っていく。
夜の暗闇のなかでもキラキラと光をとらえるスパンコールに、目元を彩るメイク、幼い子たちはドレスや小さなスーツを着ていたりする。

メキシコの死への考え方は少し仏教にも似たところがある。
死者は幾度も次の命へと生を繰り返すと信じられている、輪廻と通じる考え方だ。
ただし、輪廻と異なるのは、メキシコでは甦った先の生がつねにひとつ前よりも良くなる、と信じられていることだ。
なんてポジティブな考え方だろう。
陽の光をいっぱいに浴びて、太陽を信仰するメキシコの人々らしい考え方だ。
そう。つまり、死は新たなより良い生への転生を意味する。
だから、メキシコにおいて、ガイコツのモチーフは縁起が良い。
「人生昇格おめでとう!」そんな心持ちを感じさせるめでたさがある。

16世紀になると、コロンブスが大航海の末、アメリカ大陸という歴史的な「発見」をすると、
欧州列強による侵攻がはじまる。
メキシコには1519年にエルナン・コルテスが上陸し、わずか2年後にはアステカ帝国はスペイン軍のもとに陥落する。
その後、長いスペイン統治とともに、この国に入ってきたのがカトリックの信仰だ。
そのカトリックにおいて、11月1日は諸聖人の日(Toussaint, All-Saint's Day)だった。
聖母マリア、すべての聖人と殉教者に祈りがささげられる日である。
偶然とは思えない数奇なめぐりあわせである。
そのため、カトリック信仰がメキシコで広まるとともに、11月最初の日にはこの諸聖人の日を祝う習慣も徐々に伝わっていった。
そう、キリスト教の伝来とともに、メキシコはこの諸聖人もろともこの祭にとりいれてしまった。
この諸聖人を祝っていたのが、私が道で聖母像とともにゆっくりと列を成していた一群だ。
一方、羽飾りをつけて、太鼓の鼓動とともに舞っていたのは、先住民文化を祝祭するために訪れていた人々である。

1912年になると、Jose Possadaという風刺画家が一世を風靡する。
このころになると、メキシコはその植民地化の影響もあり、かなりの階層社会と化していた。
当時の貴族階級はヨーロッパへの憧れと羨望から、
その一部になりたいと、必死でヨーロッパ文化をとりいれ、マネようとした。
その装いから、食生活から、生活スタイルまで。
Possadaはそんな貴族階級の必死な姿を嘲笑し、
ツバの大きな帽子に、花を挿し、派手なドレスで着飾った女のガイコツとして描いた。
彼はこれをカトリーナと名付け、本当の文化に肉付けされていない彼・彼女らを表面的でからっぽな骨ばかりな姿に風刺した。
このカトリーナのアイコンは、その後メキシコ現代美術の巨匠ディエゴ・リベラの「アラメダ公園の日曜の午後の夢(Sueno de una Tarde Dominical en la Alameda Central)」という壁画作品に引用されたことで一躍世にしられるようになる。


PosadaのCatrina(Posada Art Foundation より)


ディエゴ・リベラの「アラメダ公園の日曜の午後の夢」
(Sueno de una Tarde Dominical en la Alameda Centralより)
瞬く間にこのアイコンはその愛らしさ、皮肉を帯びた滑稽さから、
人々に愛されるようになり、「ガイコツ」という共通項からさっそく死者の日の新たなモチーフとして取り入れられるようになる。今も街中にあふれるガイコツモチーフはこのカトリーナをかたどっている。特に各家庭に祀られる裁断や、花びらで象ったモザイク画はこのカトリーナをおしゃれに模したにものが多い。
その後、メキシコが移民の流れ、貿易を通じて加速度的に経済的にも社会的にも米国との距離を縮めていくにつれ、ハロウィン文化が徐々に同国に浸透していった。祭の時期が近しかったこと、さらにはガイコツがハロウィンにおいても一般的なモチーフであったことが偶然にも重なったことで、この米国の風習も当初からそこにあったかのように、いつの間にかこの祭の一部となり、変装とTrick-or-Treatは死者の日の新たな習慣としてその吸収されていった。



過去一年、愛する者を亡くした家族がつくる花びらのモザイク絵
私を驚かせた街頭での異様なカオス、うねるようなエネルギーを発していたあの光景は、まさにその混交と進化が生み出したスペクタクルだったのだ。オープンイノベーションのごとく、その文化的な進化を様々な力にゆだね、驚くほどの寛容さで受け入れてきた死者の日は、様々な信仰や慣習、シンボリズムを、自らの血潮としてその身を巡らせている。人はそれを文化の侵略や帝国主義と呼ぶかもしれない。しかし、変化や再解釈を恐れず、それを侵略どころか、自らのものとしてしまうメキシコには憧れるほどのしなやかさがある。
さて、今ではすっかりメキシコの風物詩となったカトリーナのフェイスペイント、自らもそれを施して街頭に向かうことに決めた私は、その起源がどこまで辿られるか聞いてみた。
「カトリーナメイクかい?あんなもの俺が若かったことは誰もしてなかったよ、せいぜいお面くらいじゃなかったかな」30代半ばのタクシー運転手は幼少期を振り返りながら言った。
「2015年に公開された『007スペクター』があるだろ?あの冒頭のパレードシーンで、死者の日は一気に有名になったんだけどさ。あの映画の演出でたまたまエキストラにはみんなドクロメイクをしてたわけ。その次の年からだよ、みんな一気にカトリーナメイクをしだしたのは」

あまりにも驚いて、一瞬まともに反応が返せなかった。
私をはじめ、多くの観光客が追ってきた死者の日の圧倒的代名詞と思われたドクロの行進、これこそも、自らを映したフィクションを逆輸入してしまったこの祭りの最新のイノベーションだったのである。嘘からでた真、とはこのことなのだろう。
メキシコのオープンイノベーションは常に私たちの想像の先を行く。


今ではすっかり祭りの代名詞になったカトリーナメイク

女友達で衣装をお揃いにしている子も多い

そういえば、今年公開となるピクサーの最新作、『Coco(リメンバー・ミー)』はこの死者の日を題材としたストーリーだ。きっと来年からの死者の日には、ギター少年のミゲルくんや、ガイコツのヘクターが街のかしこに現れるのだろう。

風物詩の大きな祭壇も来年はリメンバー・ミーのモチーフが紛れ込んだりするかもしれない