2014年8月29日金曜日

ゴービトゥイーンズ展

終業後に駆け込んできた。
22:00まで空いている森美術館は素晴らしい


Go-Betweens
19世紀アメリカの移民二世を指して写真家Jacob Riisがもちいた表現だ。

ここでもなく、あそこでもない、そのはざま。揺らぎの中に生きるいろいろ。

子どもは一つの媒介にすぎないと思った。国、社会、人間関係、ジェンダー、様々なゆらぎの中の不安定さ、そのリアリティー、それを当たり前に描いていることに好感をもった。

混沌の中を走り回って、立ち止まる、その無秩序を一生懸命に吸い込む。子供の感性の素直さが根底を流れていることで展示全体がとても明るくポジティブな雰囲気をもっていた。

危うさを持ちつつも、健全さをつねに失わない展示。

どこでもない間にいることはいつしも、不安定な曖昧さをもつ。閉鎖的な尖った感性、普通からの逸脱、"誰にもわからない"という孤独を描くこともできる。これをポケットの裏を返すように明るい色にくるりと返したことにこの展示の良さがあると思う。

はざまを指す語にin-between-ness という言葉もある。”狭間”だ。間に挟まれて、狭く、窮屈でどこにも属さない物悲しさがこの語にはある。

この展示は"Go-betweens"!境界ではなく越境。どちらでもないそのスキマの妙で不思議な空間に、飛び込んでいく勢いと明るさを持っている。その未来に対するエネルギーにとても元気をもらいました。

2014年8月22日金曜日

ベトナムを食す

ベトナムといえば、タイと並んで東南アジアの美食の聖地。
とにかく何を口にしても美味しいし、味のバリエーションが多い(←これ大事。美味しくてもワンパターンだとどうしても飽きちゃう)、そしてヘルシー。

ベトナム料理と言ったときに、まず位の一番に紹介したいのが、
その野菜の多さ。
ベトナム人は本当によく緑を食べる。
どこの店で何をたべても大抵こんもりと葉菜がもられ、
そのよこにさらにお代わり用がザル一山 分ついてくる。
それが、もはや野菜というか、”葉っぱ”なのである。
ルッコラというレベルではない。あれが枝葉を成しているのが何種類も雑多にもられて来る。



しかし、これが美味しいのだ。
自分が何を食べてるのかよくわからない。
口いっぱいに葉っぱむしゃむしゃと食べているとキリンのような気分になってくるのだが、
それでも、期待は心地よく裏切られる。
”葉っぱ”ってこんなに食べやすいものなのか。
ベトナム料理を食べていると、日本は食用葉菜の選び取り方において、保守的なのではないかと思えてくる。

ちなみにこの得体のしれない葉っぱのザル盛り、今回聞いたところ、
ドクダミとバナナの花が入ってることは突き止められた。
その他コリアンダー、ミントは識別できたのだけど、それでもその他6種ほどは毎回チームに入ってる。帰国後調べたら、ベトナムでよく食されるハーブのまとめも発見。

ベトナム香草辞典


その多さに改めて驚く。
今度庭のドクダミもダメもとで食べてみようかな。

香草の種類の多さはいわずもがなだが、ベトナムは全体として食文化がとても豊かだ。

使っている具材がとても多彩で、調理法も様々。生野菜もよく食べるので、バラエティーが豊富だ。
ここで滞在中の食事の一部を紹介


バインミー。フランスから伝来したバゲットにひき肉とレバーでつくったパテと葉っぱを挟んだサンド。
中身はミートボールだったり、瓜だったりバラエティがある。
これはホームステイ先の友人のお姉さんがパテから自家製でつくってくれた。
これにハマりすぎて、朝ご飯はもっぱらバインミーだった。



定番の春巻き。これも友人宅で手作り。
ひき肉に香草人参などなど。
本場式は皮がとてもうすい。油も中華鍋にヒタヒタではなくて、フライパンにごく薄くひいて揚げる。


お姉さんをお手伝いしながらつくった、おうちご飯。
手前の薄出汁にゆでたビーフンを各々が食べる素麺式(次の写真参照)
右手は空芯菜。タイでたべるパックブン・ファイデーンとちがって油はすくなめで辛くない。
中央に見えるミョウガみたいなのがバナナの花





Lau ca keo
串焼き魚鍋。南の名物らしい。

シシャモみたいな串焼き魚がたくさんでてきて、
これを香草と鍋に通してたべる。これにもセルフ・ビーフンを加える。
焼いてから鍋にいれるっていうのが、新しいと思ったけど、
きりたんぽみたいな感覚なのかな。
魚と香草なので、とってもヘルシーで美味しい。


ベトナムのデザートといえば、これ。
チェー。ベトナム風ぜんざい。
ココナッツミルクと餡に浸した、緑豆や寒天が大好き。
東南アジアはデザートより生もフルーツの方がおいしいと思うことが多いけれど、これは大好物。


定番。生春巻き。
本場は皮がクタクタになってなくて、結構固めだった。
乾きものを戻すのではなく、生で作っているからかな。
この店は、生春巻き巻き放題店みたいなところで、私たちはサイドメニューのうどんをたべていたのだけど、横では皿いっぱいにもられた皮と具材をせっせと巻くご家族がたくさんいた。
手巻き寿司やサムギョプサルのよう。

生春巻きはとても南らしい料理らしい。
北出身の友人は、巻き放題のこの店も、「なんでも巻きたがる南の人らしい」と言っていた。


ホイアンで立ち寄った屋台。
とても個人的な見解だが、ベトナムは屋台の安心度が高いと思う。
一番の理由は生野菜文化があるので、水の処理がきちんとしていること。
濁った怪しげな水をおいたバケツや、やや不透明な氷がないし、
あと気候のせいなのか、ハエがたかっているということもあまりないし、
とても清潔感のある屋台が多い。
これは、手前が米麺炒め(おそらくタイ料理のパッタイみたいな味)、左が空芯菜。


ベトナムは地方色が豊かなのもよい。
これは、ホイアン名物 Kau lau。汁無しラーメンみたいなのだけど、
麺が一度軽く焼いてあるのか、歯ごたえがあっておいしい。


フエ名物のBun Bo Hue。地方の名物だけど、全国その他の場所でも食べれるほど定番。
辛めのスープとたっぷり入った香草がおいしい。


そして、大本命のフォー。
地元では朝ご飯に食べる人も多いらしい(タイのおかゆみたいな感覚か)
私も友人に連れられ、朝から食べに出かける。

私の北の友人たちは出かける前から口をそろえて「南のフォーはフォーじゃないから。絶対に北のを食べて」というので、フォーはハノイまでとっておいた。
ベトナムは南北で文化の違いを語ることが多いとは先の投稿ですでに書いたが、
食文化も例に漏れない。
南は甘い味付けが多いらしく、北の人からすると、「あんな甘い汁は別物だ」ということらしい。
四国の餡子をいれるお雑煮に「え?!」と驚く感覚と似ているのかな。
(ちなみに日本のベトナム料理屋は南が多いらしい)

私は今まで南風のフォーしか食べたことがなかったけど、
なるほど、確かにこっちのほうがすっきり飲みやすい気がする。



ハノイ名物 Bun cha。
北の人なら誰に聞いてもこれを食べてこいという。
これはベトナム風つけ麺で、
香草、ビーフン、ミートボールをつけ汁につけて食べる。
つけ汁は左端手前の澄んだ汁。
日本のつけ麺から想像するコッテリ系ではなく、甘くてうすーい酢だしみたいなもの。
付け合せはやっぱり春巻き。
このお店は1960年ごろからやっているらしく、ハノイ一だそう。





ベトナムの食文化で、はじめて訪れたときにもう一点とてもびっくりしたのは、
コーヒーが大衆文化としてなじんでいるということ。
フランス文化から継承されたコーヒー/カフェ文化は根強く、道に出るとどの時間もこんな具合に
屋台式でコーヒーを飲んでいる人がいる。
これは、他の東南アジアに比べてとても特異な光景だと思う。
タイやフィリピンやインドネシアでは道端でコーラを飲んでいる人はいても、エスプレッソをすすっている人はまずいない。
友達とすこし話にでかけたいなというときも「コーヒー飲みに行こう!」っという言い方をするらしく、
これも、On va faire un café? というフランス的な言い回し。

旅行から帰ると大抵、いつもより重い食事ばかりで、
胃もたれ気味なのだけど、
香草もたくさん食べて、汗もたくさんかいたベトナム旅行はなんだかデトックスされた気分です。


2014年8月20日水曜日

古都の風にふかれーホイアン・フエー

南の商都ホーチミン、北の政都ハノイ以外に今回どうしても訪れたかったのが、
中部にある二つの古都、ホイアンとフエ

ホイアンは鮮やかな提灯が彩る夜景が有名な古都。
海のシルクロードとも呼ばれる中国のベトナムの海路を支えた街。
日本との交易をはじめ、中国との通商も盛んだったことから、海洋貿易の要所として栄えた。
日本の鎖国により、往来が途絶える前、15〜16世紀には日本人町が形成されていた。
最盛期だった秀吉の時代には1000人ほどの日本人が住んでいたそう。
今では、ホイアンはランタンの町として有名。
赤・黄、様々な色の紙の提灯が町中にかかっていて、夜のホイアンの街を彩る。
一説には、2011年のディズニー映画、ラプンツェルのランタン祭りのモデルの一つとも言われている(他にもタイのロイカトン[灯籠流し]などもモデルと言われる)






昼しか滞在できなかったけど、きっとよるはとても幻想的なんだろうな

その後、19世紀後半からは海運がその勢いを失うとともに、商都としては停滞してしまったそうだが、そのことを理由に急激な都市化が訪れなかったためか、古い町並みがいまでも奇麗に残っている。
今は、ほとんどが土産屋かレストランとして経営されている元・民家は壁が黄色く塗られたものが多い。あとから調べてみたところ、中国人も多かったこの地域では、黄色が高貴な色として好まれたようである。何でも、中国(当時は清)では皇帝しか黄色を使うことは許されなかったため、ベトナムにきた華僑たちは、この制約がなくなり、ここぞとばかりに自分の家を黄色くしたようだ。今でも、ホイアンはその景観を守るために、建物を黄色くすることを条例で定めている。






先に触れたように、日本人街が形成されていたホイアン、街のアイコンの一つの来遠橋は通称「日本橋」と呼ばれている。
一見、デザインが日本的なのかと思わせるこの名前(そして欧米人はおそらくその認識のまま観光を続ける人が多いのだろうけど)。でも実際に、現物をみると日本庭園からイメージされるような弧をいくつも描く橋というより、装飾も含め中国的な影響が強い(屋根あるし)
この橋が日本橋と呼ばれるのは、これが日本町エリアへの入り口だったから。
実際、橋の中には日本語が書かれていたりする。


元・日本人街として知られているものの、実際ホイアンの町並みは中国人街そのもの。
儒教のお寺や元集会所などが街のみどころ。
(実際、ホイアンに限らず、ベトナムは中華文化がとても色濃くのこっている)



そして、もう一つ訪れた中部の街はフエ。
王朝の栄華を残す古都。
2008年はじめてベトナムを訪れたときから、どうしても行きたかった場所。
1802年から1945年まで143年の間続いたベトナム最後の王朝があった都
1883年のフランスによる占領以降も、傀儡政権ではあるものの王朝を連綿とつづけてきた。
今も遺跡として残る王宮の建設には11年以上かかったそうで、その間建設のために国では3割の増税がおこなわれていた(ピラミッドといい、どこも同じですね)
中国、ベトナム、フランスの様式を取り入れた建築が特異といわれている。
フエの王宮がなんといっても美しいのは、荘厳でありながらも、石造りのシンプルなたたずまい。そして、その王宮を囲うお堀の蓮。
この風情がすばらしく、気温の高い中部は40℃近かったけれど、
蓮と遺跡の組み合わせは暑さも忘れる優雅な趣だった。



フエにはホイアンほどの華やかさはない。
でも、私はフエがとても好きだった。
例えるならば、ホイアンは京都で、フエは奈良のよう。
ホイアンは街全体が世界遺産とあり、見た目に鮮やかで賑やか。
ある意味、街が観光なれしていて、店もほとんどが観光客向け。
短パン、タンクトップのバックパッカーで溢れている様は修学旅行生を思わせる。
一方、フエはもっと素朴だ。王宮を一歩でると、おじさんがちりんちりんと鳴らす自転車の音が風に乗ってくる、そんな街だ。
たまたま、バスで乗り合わせたおじさんが買ってくれたヤシジュースを袋の角から吸いながら、水面にゆれる蓮を城壁の陰で眺める、そんなゆとりのある街。




2014年8月16日土曜日

北・南

ベトナムは戦争がまだ近い。
日本にとって直接参戦した最後の戦争の経験は第二次世界大戦。
昨日は終戦記念日だったが、それをきっかけに思うこと、考えることはあってこそ、
祖父母が青年の頃の戦争の話はどこかリアリティがない。

一方、ベトナム戦争の終結は1975年である。
街中では手足を失った人の姿をみかける。
私が居候していた友人もお父さんが地雷で片足がないのだと教えてくれた。
ほんの一世代前まで、ベトナムは南北に分断され戦火の中にあった。
博物館でみる写真はカラーだ。
戦争を描いた絵画の画風は”モダンアート”だ。
戦争の影はすぐ後ろにある。

先日、日本は憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使容認をした。
戦争へ参加するということが、そんな事を意味することを果たしてどれだけの人が肌で理解しているのか。蜷川実花が撮る写真が、村上隆の画が戦争に染まった社会を私たちは想像できているのだろうか。

ベトナム戦争の傷はアメリカ社会も深くエグったことは先のMiss Saigonレビューでも書いた(ロシアでどう捉えられるのかも気になる)しかし、ベトナムでは驚くほど現代において反米意識は希薄だ。日本での祖父母世代のアメリカに対する感覚と似ている。失礼を承知でベトナム人の友人達に滞在中聞いてみたけれど、なんというか、アレはアレ、今は今と割り切っている。ベトナム人の友人によれば、アメリカ人と結婚したいといえば、きっと祝福してくれるだろうし、よく「アメリカに留学はしないの」とも聞かれるという。わたしも祖父母世代もきっと私に同じことをいうだろう。しかし、ベトナムの現政権は社会主義なのだし、陸上戦もあったのだ。その感覚には少なからず驚いた。これは、やはりアメリカのConsumerist cultureとそれのもつソフトパワーの成せる技なのか。(屋台コーヒーが根強いベトナムでさえ今はスターバックスがある。あれだけ反米感情がつよい中東でだってコーラはある。)いくら政治的にはアメリカの理不尽さと対立したとして、その消費者文化はやはり抗いがたい魅力があるのだろう。

一方、私が同時に驚かされたのはベトナムにおける反中感情。
今年ベトナムでは5月ごろ、反中デモが全土に広がった。
きっかけは中国がベトナムのEEZ(排他的経済水域)内での中国による海底資源の採掘活動とその前後の船舶拿捕に端を発するもの。しかし、これは根底を流れる反中感情が起爆されたことによる部分が大きい。
1979年、ベトナム戦争を終結からほどなくして、中越戦争という戦争があったそうだ。
私は恥ずかしながらこの戦争についてしらなかった。カンボジアのポルポト政権、反政権派をそれぞれ支持した二国の間の戦争だった。交戦期間こそ短かったものの、その後も両国の関係は改善せず、今回のような、領土紛争などが断続的に発生。もともとベトナムには、中国支配をうけていたという反感もある。ベトナムにおける中国への不信感は強く、私の友人たちは”中国人と結婚するなら勘当だ”と言われているらしい。理由をきくと、”中国製品のずさんさ”、”環境に対する無思慮な態度”が不誠実だという答えが返ってくるそうだ(このあたりの意見も日本で聞かれるものと共通する)。私はとても無知なので、同じ政治趣向の2カ国はむしろ近しい仲なのではないかと思っていたほどだ。

南北ベトナムに話を戻す。
政治的な分断で一度は南北に別れたベトナムだが、その頃の影響か、元からなのか、
ベトナムではよく”北は◯◯、南は××”という言い方がされる。
そのコントラストがおもしろかったので、ここで少しまとめてみる。

*ちなみに私の主たる情報源である3人の友人はいずれも中部出身。
なかでも、ホームステイさせてもらったコは中部出身→ハノイ(北)で大学進学→ホーチミン(南)で就職しているので、割とバランスがとれている視点だと思う

【北ベトナム】
ケチ/倹約家
家食が好き
堅実
友人形成は徐々に、他人に対して少し壁がある
サービス精神が低い(これはやはり共産文化か?)

【南ベトナム】
金遣いがあらい/太っ腹
外食好き
社交的、おしゃべり
人懐っこい

こうして見るとなんとなく、関東↔︎関西の対比に近いものがあるような気もする。
北在住者に曰く、こんなジョークもあるそうだ。
”彼にもし、100万ドン(5000円)をもらったら、彼女は何に使うか。
南の彼女は全部ショッピングにつかいます
北の彼女は半分貯金して、半分は彼のためにプレゼントを買う

友人たちいわく、これは北が「農民気質」で南が「商人気質」だからなのだそうで、
これにそれを助長するような、資本主義と共産主義の趣向も加わったのだと想像する。
ちなみに、北と南の話がもっとも出るのは、料理についてで、
これは別の投稿で詳しく。
友人の一人は自分の地元は気質は人懐っこい南ベトナムで料理は北部風でいいとこどりで最高と言っていた笑

南北の間の亀裂は今はほとんどないそうで、
ただ、南はそのまま資本主義を突き進んでいれば、
自分たちは今頃もっと発展していたのに、という苦々しさは少し残っているらしい。
真偽のほどはたしかではないが、南ベトナム時代のサイゴン(=ホーチミン)はその頃バンコクよりも経済発展していたとか。
このあたり、統一後の東西ドイツの住民感情も対比としてとても気になる。




南の伝統芸能、水上人形劇




市内のなんでもないポスターがやたら共産色なのが面白かった

今回、ベトナムはホーチミンから北上5都市の旅だったのだが、
一国内における地域性の違いが垣間見れるのが、周遊の旅の醍醐味。
最後の投稿はそんな地域それぞれの食を紹介します。

2014年8月11日月曜日

Saigon calling

最近旅の記録を残そうと思うも、家に帰るとバタバタして時間がすぎてしまうことが多いので、
今回は旅先から少しずつ。

さて、今回の目的地はベトナム!
ベトナムは父が赴任していた時にホーチミンとニャチャンに来て以来7年ぶり。
新しい場所好きなわたしがどうしてベトナムを再訪することにしたかというと、
まず一番に前回の旅行で行きそびれたところがいくつもあること(あの時は父の駐在がもっと長いと思っていた)。それから、ベトナム人の友人を訪ねるため。
なんだかんだ久しぶりの一人旅。

     ベンタイン市場側朝から晩まで活気がある

7年ぶりのホーチミンは記憶の中よりもずっと整然として、さらに勢いがある街になっていた。
前回訪ねたときは電線がぶらーんと垂れていたり、ぼっこぼこの道路に雨水が溜まっていたりする場所がおおくて、建物ももっと低くて、全体的に少し地味だと思った記憶がある。
でも、今回友人の飛ばすバイクの後ろにのって、走り回ったホーチミンは10年前に住んでいたバンコクにとてもよく似ているとおもった。もちろん、社会主義なので格差は小さい。タイのように財閥率いる高層ビル群などはない。でも、都市部の成長はたかが7年でも実感できた。
さすがBRICSの次、VISTAを担うアジアの新星。

私の友人をみていても、今まさに経済発展の只中にいることが肌で感じられる。
根拠のある数字をもとに言っているわけではないのだけど、
おそらく今ベトナムは新世代が親世代のころの生活や所得の水準を急速に引き離しているのではないか。
私の友人も家などの固定資産はまだ質素なかんじである。
マンションとはいえ、最上階でキッチン兼シャワールームはトタン屋根の半屋外だし、エアコンも温水もない。部屋は収納がほとんどないため、全て物が積み上がっていて雑然としている。



  友人のワンルーム

  キッチン兼シャワースペース。家というよりベランダで、囲っているのは金網、屋根はトタン

一方、友人はVaioのパソコン、iPad mini、blutoothのスピーカーを完備している。
おしゃれする時はL'occitanの香水を使っているし、この春は海外旅行にでかけたそうだ(約10万の韓国ツアー)
所得水準は同程度の日本の職と比べてざっと半分程度だろうか。
景気がよいアジアの新興国の多くはそうだと聞くが、高度人材はキャリアに対する期待も高い。
ただ所得がいいだけでは満足しない。”自分が成長できる”場を提供できなければ企業は彼らには選ばれない。女性の独立もすすんでおり、彼氏と同程度の給料をもらっている私の友人は、家に入る気などサラサラなく、今は地方都市に住む彼氏について”私は田舎に行く気がないし、結婚を考えるのならまずホーチミンに移ってきてもらわないとなぁ”と言う。
これが経済成長というやつか。バブルの弾けた不景気・ニッポンしか知らない自分には新鮮。

観光っぽいことでは、
メコン川クルーズにでかけたり、
水上人形劇をみにいったりしました。
インドネシアといい、エストニアといい最近旅先で舞台芸術を鑑賞するのがマイブーム
言葉がわからなくても五感で楽しめる。)


水上人形劇(北部の伝統)実はあんまり期待値高くなかったんだけど、かなり見応えがあった。
すごい繊細なうごきで伝統音楽との組み合わせも含め人形浄瑠璃みたい。

  My Tho (ミトー)のメコン川クルーズ。2時間のバス往復に島の案内と昼食もついて、
700円ちょいという、ベトナム人もびっくりな異常な安さだった。

どれも地元民は逆にあんまり行ったことない”というやつらしく、
友人家族もみんな一緒に楽しめたのでなにより。

でも、やっぱりホーチミンで一番楽しかったのはプチ・ホームステイ体験。
5年あわないうちにすっかり日本語がうまくなたマイちゃん、
毎週末、2時間かけてマイちゃんに会いに来る彼氏。
旦那さんの浮気発覚(!)で、マイちゃんの家で冷戦中(只今2ヶ月目)のお姉さんとその息子の4人で過ごすホーチミン式の週末。
朝は市場で本気のグアバ選びをして、昼は春巻きづくり
昼寝のあとはベンタイン市場でぶらぶらして、夜はバイクを飛ばしてサイゴン川で橋飲み(パリジャンみたい)。ベトナム式”耳をすませば”はHONDAの二人乗り。














2014年7月27日日曜日

Miss Saigon

ミスサイゴンをみてきた。
レミゼラブルの黄金タグ、キャメロン・マッキントッシュとクロード=ミシェル・シェーンブルグのプロデュースとあって、音楽がすこぶる良い。

この作品、メインキャストが少ないこともあり、印象としては6割は主人公キムが歌っているのではないかと思うほど。だから、キムの配役で作品の印象が全然ちがう。

私は去年のレミゼのエポニーヌ役が気に入った昆夏美の回に。エポニーヌ→キムを同じ女優がやるのはよくある流れなだけあって、期待を裏切らないクオリティ。昆ちゃんの、芯がある声と、それに似つかわぬ華奢な身体、まっすぐな眼が純真で信念をもったキムぴったりだった。

あえて言うならば、男性キャストの高音が少し危うく、声がややインパクトに欠けたかな?とはいえ、合唱部分はやはり一級。レミぜに同じくやはり闘う男性のアンサンブルは太鼓の音のようにお腹にグッと落ちる感じが好き。

初めての鑑賞だったので、ストーリーについても少し。
ミスサイゴンはベトナム話ではない、と私は思う。あれをベトナムの話としてみると、端々に表れるステレオタイプが気になる(実際初演時はニューヨークのアジア人から抗議運動までおきたらしい)。ちがう、この作品はアメリカの話なのだ。そのベトナム・ベテランの無思慮なベトナム観も含め、描いているのだ。

ベトナム戦争はアメリカの自意識を破綻に追い込んだ戦争だった。アメリカであそこまで大規模な反戦運動が起きたのはベトナム戦争がはじめてだった。その後反戦運動自体はより常習的になったといえど、イラク戦争への反対運動でさえあそこまでの規模にはならなかったのではないかと思う。それまでアメリカは"正義の番人"として君臨して、その神話をNation-buildingの一つの柱としてきた。それは大敗を期したベトナム戦争で大きく揺るがされる。

兵士が大きな犠牲を払い、自分たちの手でモラルが侵され、大義も果たしえなかったベトナム戦争、その膿を描いたのがミスサイゴンだ。ベトナム戦争遺児を支援する基金を高らかに掲げながら、夜は悪夢にうなされ、それでも"あのときは他にどうしようもなかったんだ"と泣き崩れる、そんな人の矛盾と葛藤、そして自己満足な罪滅ぼしを描いている。

だから、最後にキムは救われない。"色々厳しいこともあったけど、この子を引き取って、彼は僕たちとアメリカで新しい人生を送って行く!"という自己満足の完結をこの劇は許さない。最後にキムは自死を選び、ベトナム戦争の膿は一層皮膚を深くえぐる。

そして、その膿を膿のままで残した点がこの作品に深みをもたせているところだと思う。これが、万事うまくいってしまう話ではあまりに不誠実なフィクションだ。

そんなミスサイゴンの初演が生んだスターLea SalongaのSun and Moon




お盆休みはベトナムに決まりました。今から楽しみ。

2014年7月21日月曜日

ジェンダー後進国

私たちはジェンダー後進国に住んでいる。OECDのジェンダー平等ランキングで日本は今年も105位だった。

この水準にいる先進国が皆無なことは言わずもがな、その他社会指標では日本に劣る途上国でさえ、多くは日本を引き離す。世界最貧国の一つレソトは16位(その他14カ国のサブサハラアフリカが日本より上位)男尊女卑のイメージが強いムスリムが最も多いインドネシアだって、95位と日本を上回る。105位はカンボジアに一つ後ろ、ナイジェリアの一つ上だ。

最近このジェンダー問題の膠着化が想像以上に重症だとかんじる。ひと昔前より、日本でもようやくそのジェンダー格差の後進性が認識されるようにはなってきたと思う。1986年にやっと男女均等雇用が確立された国だ。そこから考えれば都議会ヤジがありえない、と猛批判を浴びるようにまでなったことは社会認識が随分進展したことともいえる。

一方で、認識からアクションまでがまだとてつもなくエネルギーと時間を要することに気持ちが重くなるこがある。

ここ最近、男女がほぼ等しくいるホームパーティーが複数あった。どちらも参加者はジェンダー不平等性に理解がある集団だったと思える。しかし、そこでもやはりキッチンにたったのは全て女性だった。現状に問題を認識することと、そこから個人のアクションに至ることはさらにハードルが高い。

思うに日本のジェンダー状況の膠着化には根深い問題が二つあって、一つは母親像に対するRomanticismである。家庭や家族というものに強く母の姿が重ねられている。そして、そんな献身的で頑張る女性の像には懐かしさと温かみが強く象徴されている。亭主関白な日本男児像は私たちの世代になってくるとかなり薄くなっているとかんじる。でも、この母と家庭がどうにも手強い。偶然のことか、最近出てきたCMで複数この母親Romanticismを押し出したものがある。

[味の素 "日本のお母さん"]




ボンカレー "働くママへの応援歌"



前者について、一部では"これシングルマザーの画かとおもった"という声があったが、そう思わされるほどに父の影が感じられない。(その点本だしのCMが最近男性なのは良い兆候だと思う)二つ目は最後父がカレーをつくるが、お母さんに必要以上のプレッシャーがかかっているという点では変わらない。
家庭というのは母があくせく働かなければ温かみがないのか。そうではないはず。いつまで私たちは女性の社会"進出"の話をしているんだろう。世のキャリアウーマンは仕事をこなすのに苦労しているんじゃない、ダンナさんに一緒に家庭を支えてほしいのだ。"あったかい家庭のお母さん""なんでもこなすお母さん"が憧憬される以上この呪縛から逃れることは難しい。

二つ目は承認欲求。
誰だって認められたい。女性側だってどんなに現状に不服でも日常においては自分個人は認められたい。そこで否応にも女性はその"女子力"と合わせて評価される。女性ばかりが家庭と結びつけられるのに納得しているわけじゃない。でも個人としては認められたい。女性としての測りに乗せられてしまうかぎり、それを振り切ることは勇気がいる。そうすると、"料理、洗濯、子育て。生活力がなければ!"というプレッシャーからその技術をより向上させるのは女性となり、効率の問題から(できる人がやったほうが早い)その不均衡は悪化するばかりだ。

やはり、あれだ。
"料理する男ってかっこいい"
"結婚したいのは育児してくれる男性"

これをヒソヒソ口コミで広めるしかない。草の根活動に励まんとす。



[閑話]
アメリカの生理用品のCMがとても素敵だった。
特に女の子が
"What do you think it means to run like a girl?"
と聞かれて
"To run as fast as I can"

という、その真っ直ぐな目がぐっとくる。

[Like a girl]

2014年6月22日日曜日

Laurence Anyways



図らずして二度目の鑑賞をした。
一度目はあまりにその世界観に圧倒されてしまい、鑑賞後もその感想を同伴した友人とうまくシェアできなかった。その一回目の感想がこれ


----------【一回目レビュー】--------------
見終わった直後、なんだか腑に落ちない映画だと思った。監督自身もLGBT当事者であるこの映画、このようなジャンルは対外「特殊」だと思われがちな彼・彼女たちの集団をいかに「平凡」に描くか、その他社会に共鳴してもらうかに注力しているものが多いように思う。だが、この作品は違う。ところどころに出てくる主人公の妄想世界・情緒の具現化、非凡でビビットな色使いに衣装。そのどれもがあえて観客を遠ざけている気がした。突き抜けた感性・価値観をあえて強調する、あの共感を寄せ付けない感覚は独特だった。映画の原点はやはり共感メディアだと思うから。

中盤からは、映像美として楽しむのが自分にとっての正しい見方だとかんじながらみていた。

監督はまだ若い。ケベックの片田舎出身だし、決して今まで自分のアイデンティティーを背負っていくのは楽ではなかったのかもしれない。彼の尖った感性が研ぎ澄まされた作品だった。それに圧倒されてしまったのかもしれない。
------------------------------------------------


二度目の観賞後の感想は、
"これは映画であるというより文学だ"。
やや、雑な言い方だがこれに尽きる。

一度目の鑑賞のとき、私は上記の通り、監督の表現方法ゆえに、この映画に突き放されるような印象をうけた。
"私たちはあなたたちとは違うんだ!"と叫ぶような。

二度目に映画をみて、エキセントリックに映った映画の中の視覚世界は、現実というよりも心象風景という要素が強いのだと理解した。ストーリーを知っているゆえに、一度目よりもスクリーンに映る造形や色彩に視点が集中した。

文学に擬えたのはこのこと。文学作品でイコンやメタファーを拾って行くように観ると監督の意図したことがよりキャッチできるきがした。

一番目を引いたのは色。
冒頭車内でロランスとフレッドがイチャイチャしながら"楽しみを半減するものリスト"をつくっているとき。彼女たちは色の意味を確認していく。

赤は怒り、情熱
黄色はエゴ
茶色は性やエロチシズムの対局
ピンクとベビーブルーは健康に反する色
ダークチョコレートは自己破壊への一歩

その色への意味づけが二度目の鑑賞でとても気になって、頭のすみに置きながら残りは鑑賞した。
そうすると、鮮やかに彩られた画面がロランスとフレッドの心情の揺れ、その機微がをいっぱいに描きなぐったキャンバスであることに気がついた。

若くて、ナイーブで矛盾に満ちた二人の感情は言葉や表情じゃとても映しきれない。その混沌、激しさ、非合理性、surrealでナマなかんじが色のぶつかり合いとして表現されていた。

ロランスの受賞お祝いディナーの黄色い背景
フレッドの最初は赤く、最後には茶色い髪
常に黒い服をきたロランスの母とフレッドの妹ステッフ
インタビューでピンクとベビーブルーのスーツを着たロランスは、"不健康上等、ゲテモノでなにか不満でも?" と言うがごとく、marginalityをまとって歩くプライドを放っていた。

特に黒は社会規範やconventionalityを強く推し示す色だった。"ダークチョコレートは自己破壊への一歩"。溢れる自我を丸め込む箱。

混乱していたフレッドがむかったダンスホールは暗い部屋に真っ黒なスーツの人が溢れる。仮面のようなメイクをした群衆の中にフレッドは視線を浴びながら入っていくも、その中にもまれ、呑まれていく

数年後に見る所帯持ちのフレッドは、かつて、大嫌いだった"自己破壊へのはじまり"たるダークチョコをかじっていた。

衣装のディレクションまで監督自身が担当していることには意味がある。


黒がそんな色だから、2人の憧れの場所が"île au noire-黒の島"というのとても象徴的。彼女たちは自分たちでありつづけながらも、"社会"に受け入れられたいと願った。カミングアウトしたロランスはîle au noireに行きたいと言う。彼女はそのままの自分として学校という規範の鏡のような場にいつづけたいとねがった。しかし、結局Marginalityにおしやられ、夢と描いた2人の島行きもなくなってしまう。

再会した2人はそんな"真っ黒な島"に色の雨を降らせる。背景もセットもどんよりグレーが続く中、抱き合う2人に色とりどりのランドリーが降り注ぐ様は画一的な世界に一気に感性が注がれるかのよう。それは、まだ"ただの男女"だった頃、2人が路地の真っ黒な洗濯物の前で抱き合うシーンとの対でもある。

はじめて観たときこの映画を私は現実世界として受け取ろうとし、消化不良を起こした。でも、二度目の鑑賞を経て、これは文学であり、叙情詩だときづいた。実体や言動よりも、その中の渦巻く感情が核であり、画面はその具現化である。言って見ればこれはロランスとフレッドの感情が全てであり、その心象風景である作品だ。マージナルな2人がバケツいっぱいのエモーションをお互いに、モノクロ世界にぶちまけあったはなしなのだ。

  -Non sire, ceci n'est pas une révolte, c'est une révolution

 -いいえ、陛下これは反乱ではありません、革命なのです



おまけ
各国版のポスターのちがいがとてもおもしろい



カナダver
   

アメリカver

   

スペインver



イギリスver



ドイツver



香港ver

2014年6月13日金曜日

Act of Killing



これは政治犯罪についてのドキュメンタリーである以上に人間の心理を描いたノンフィクションだと感じた。いままで、戦争モノ、ジェノサイドモノはそれなりに観てきたが、一番ガツンと殴られた作品だったかもしれない。

一番驚くべきことはこれが"スクープ"じゃないこと。加害者は世に知らせたいと願って映画の被写体となったし、"残忍さ"を正確に描写することにこだわった。

でも、観つづけるに従って、それは彼らにとって精神を崩壊の手前で支えるのつっぱり棒であるとわかった。自己肯定を何度も何度も塗り重ねることで、ふと襲う罪の悪寒を飲み込んで飲み込んで。
しかし、シーンが変わる度に言うことが変わる彼らのSanityはすでに縺れきっていた。

後悔と賞賛、嘔吐と歓声を往き来する彼らに精神の崩壊をみた。

2014年6月3日火曜日

チョコレートドーナツ/any day now


私はこの映画を親子の愛ではなく、gay rights の映画として観た。だから前評判が謳うように、溢れる涙を拭う映画ではなかった。なぜなら、闘った彼らは結局求めたものを得られず、あの映画の後も闘い続けなくてはいけないから。その苦しさや不条理を思うと手放しに感動はできない。

でも、感涙しなくてもこの映画はとてもいい映画だとおもった。親権という題材を使って、同性愛者が晒される偏見と不条理をとても強いメッセージ性をもって描いている。ゲイ、ドラッグ、身体障害、などキワモノになりかねない要素ばかり取り入れてるのに、観客をとり残さず、きっちり話に気持ちを乗せていく。

それはやはり、マルコ役のIsaacはじめ役者陣の演技がすばらしいから。演技を演技と感じさせず、しかも個性の強い要素をうまく"日常"としてbelievableにしてるのはすごい。セクマイの権利という多くの人が当事者ではない(マジョリティーである)話をしているのに多くの人を泣かせられる映画というのはそれだけで評価に値すると思う。

ps 原題より邦題の方が良いと思ったのは久しぶり。