2016年5月11日水曜日

メコンの向こう岸までパンを買いに -越境からみるラオス-

旅行においては国境の形骸化を感じることのほうが多い。特にそれが地続きであるとき、地図にみえるその線は、広く広がる地平にたてられた人為的な柵の様にさえ感じる。イランのイラク国境にあるクルディスタンにいって、フランスのドイツ国境の町、アルザスにいって、国境の意味を感じるよりも、それがいかに後付けであるかを感じることが常であった。

しかし、タイからラオスに渡って感じたのは象徴を超えた国境だった。
メコン川は二つの国を分かつ流れる境だ。
私たちが出発地としたノンカーイはタイのラオス国境にある小さな町である。この町が位置するイサーン(タイ東北地方)はタイの中でも最も貧しいことで知られており、バンコクで働く家政婦など、出稼ぎ労働者はこの地方出身であることが多い。現に私たちがバンコクの長距離バスターミナルに向かうとき、乗ったタクシー運転手もイサーン出身のタイーラオ・ハーフだった。たった今、ノンカーイは小さな町だと書いたが、実をいうと、「小さな町である」というのが、私のこの町に対する「イメージ」であった、というほうが正確だ。バンコクから10時間バスに揺られながら、私は水牛がのそのそと歩き、太陽のひかりで水田の水面が光る、そんな田園風景を思い浮かべていた。実際のノンカーイは、高層ビルこそ立っていないものの、水田は見当たらず、それどころか、賑やかな商店街に、いくつもの宿泊施設が立ち並ぶ大都会だった。バンコクと比べて一番目についた違いいえば、メインストリートを滑走していくのが、タクシーではなく、三輪バイク(トゥクトゥク)であること。それだって、私が住んでいた10数年前は、バンコクでも見慣れた風景だった。

ノンカーイ市内のカフェ。青山にあると言っても驚かないおしゃれさである。
拍子抜けしたというのが正しい表現なきがする。
アジアの田舎の原風景を見に来たつもりが、なんだか、たどり着いたのは、中堅地方都市だった。そんな感覚だ。 泊まっていたのはタイ好きが高じてノンカーイに移り住んだ欧米人が経営するヴィラだった。メコン川沿いに座って足をぷらーんぷらーんさせていると、向こう岸からラオス側の音が聞こえる。ラオスの鶏の鳴く声、ラオスのバイクを吹かす音、それが背後のタイの屋台の音と重なり、ストンと耳に落ちていく。

長い長い滑り台を伝ってラオス行きのボートに乗せられていく貨物
ノンカーイとヴィエンチャンを結ぶのは、オーストラリアの援助で建てられた「タイ・ラオ友好橋」。出入国の手続きで時間が多少とられるけれど、越境バスにものの数十分も揺られれば、ラオスの首都にたどり着ける。聞けば聞くほど、ラオスとタイの違いはなんなのかよくわからなくなってきた。直前にみた映画「ブンミおじさんの森」(2010年カンヌ映画祭・パルムドール受賞)においても、ラオ人の雇われ人に対して登場人物が、「あいつはイサーン訛りが強いな」「彼はラオスからきてるんだ」なんてシーンがあったりする。ラオ語のアルファベットも少しヘニョヘニョしたタイ語のようで、一見区別がつかない。

脱力感のあるタイ語にみえるラオ文字。仏領だったラオスではラオ語の次にくるのはフランス語なことも少なくない
私たちが滞在していたヴィラで、一番良い入国方法をオーナーに聞いてみると、「やはりバスがいいと思うよ。」と答えたあと、すぐに彼はこう付け足した。
「でもね、はっきり言って一日ラオスで過ごすくらいだったら、ノンカーイ近郊で行けるところの方が断然充実していると思うよ」

 私「でも、どうしてもヴィエンチェンに行きたいんだよね。見所はなにかな?」 
欧米人オーナー「まー、例えば凱旋門(インドシナ戦争終結記念)があるでしょ。でもはっきり言ってコンクリの固まりにしかみえないから」(関係ないが、このオーナーはややフェミニンで、いわゆる毒舌オネエ風だった)
「あとは、タート・ルアンっていう通称”黄金の塔”があるんだけどね。はっきり言って、黄金っていうか、チープなオレンジ色してるから!まぁ、きっと途中でやっすいペンキで塗り替えたのね。まじでオレンジだから」 
「あとは、ほらヴィエンチェンに珍しいものと言えば、フランス料理かな?めっちゃ、シャレたフレンチ食べにいくのはいいかもね。でも、はっきり言って、”そんなに払うの?"ってかんじだよ。高いね。」
 「悪いこと言わないから、ノンカーイ郊外にしておけばいいじゃない?」

とにかく猛烈にまくしたてられて、私たちも「ぽかーん」としてしまった。 (まぁ、その理由の一つには日本人以外の多くの欧米人は入国税だけで、30ドル以上かかる、ということもある。それがますます「コスパ」を悪くしているらしい)

さて、オーナーがこんな具合で大した情報もくれなかったので、何を期待して良いのかもわからず、私たちはとりあえずバスに乗ってラオスに向かった。国境は街の中心からすぐだ。とても簡易な出入国を終えて、いざラオス入りをする。バスが入国審査を終えた乗客を再び乗せたバスが走り出すと、さっきまでなかった土ぼこりが舞った。ラオ側では道路が舗装されていない。「まぁ、ここは国境際だから」と思ったが、窓の外を見つめていると、気づけば土ぼこりを通してみる景色はすでにビエンチェンだった。
バスターミナルに降り立ち、市内に出ると、その次に目についたのは、旗だった。至る所に国旗がかかっている。国旗が多いのは、王への忠誠心が強いタイでも珍しいことではない。しかし、ラオスではほぼ必ずと言っていいほど、その隣には、黄色い「鎌と槌」を据えた真っ赤な旗がなびいていた。共産主義の赤旗である。

街中にはためく国旗、写真ではよくみえないが、だいたい赤旗がセットになっている
はっきり言って、昨今、王道の赤旗を観ることは多くない。
私は中国にはいったことがないが、例えばヴェトナムではかつてのプロパガンダポスターの絵の中や博物館などの展示品であの旗をみることはあっても、ハノイの中心街にそれがバサバサとなびいている様をみることはない。ロシアも軍事パレードなどでは赤旗をはためかせているのかもしれないが、TVで観る限りは街中でそういう光景は観た記憶はあまりない。 忘れていたが、ラオスは共産主義であった。いまもラオス人民革命党という、「いかにも」な名前の政党が一党支配体制を築いている。しかし、ヴィエンチェンの街を歩いて感じられるのは、国の権威や革命的士気とは違った。

ヴェトナムにあるような先にも触れたプロパガンダポスターや、キューバで見かける闘争心溢れる革命スローガンでもない。それよりも原始共産主義に近い。シンプルにいえば、牧歌的なのだ。首都に来ているというよりも、田園地帯の真ん中にできた市場にきたような感覚に近かった。
単純に驚いた。
タイで最も田舎と言われる地方よりも、一国の首都の方が田舎だったことに。
川一本で隔てられている「あちら側」と「そちら側」がこんなにも違うことに。



例えば、バスターミナルのすぐ横にあるタラートサオ。
越境バスまでででているのだから、東京で言えば、新宿バスターミナル、くらい位置づけか。そこに広がる市場は、歩道のど真ん中、地べたにお店を広げている人が多い。そんなの、途上国ではよく観る光景だろう、と言われるかもしれない。しかし、そんなことはない。私が驚いたのは、この市場の大半がその日かぎりの仮設であったということである。風呂敷一枚でお店を広げている。こんな光景、バンコクにはもちろんなければ、その他多くの国でだって、首都の交通の要所ど真ん中でみることはそうそうない。あったとしても、せめて簡易机を出した日用品の露天だ(露天街は野外であるというだけで、簡易に折り畳める常設であることが多い)。私がこういう光景を目にしたのは、例えばフィリピンの山岳地方やボリビアの首都から数時間離れた田舎である。
帰国後少し調べてみると、インドネシアのフローレスの山間の人々、インド東北、ミャンマー山地帯の村の生活との類似性も指摘されているよう。

そう、ヴィエンチェンは山岳地方の商空間にとても似ていた。



タラートサオで、おばちゃんたちがイス一つ、風呂敷一つでお店をひろげる
 その印象はあながち間違っていなかったようだ。ラオスの風土に特徴的なのは、その人口分布にあるという。山がちなラオスは人口の集中する地域がない。隣国のベトナム、カンボジア、タイではそれぞれ大河(紅河、メコン、チャオプラヤ)沿いのデルタが栄え、それが、政治と経済の中心を成している。しかし、ラオスの場合は山間を縫うようにして集落ができており、人口密度も1㎢なんと24人である。(ちなみにベトナムは256人、タイは132人、最も近いミャンマーでも74人とラオスの3倍以上ある)。森林面積は70%弱と、マレーシアと並んでASEANで最も広い。それぞれの村が離れており、それらの集落は市場などの商空間を通じて交わりを持ってきたのが伝統的なラオス社会である。村で農業を営み、それを山間に持っておりて、少し売買して、また村にかえっていく。そんな姿が思い浮かぶ。

想像するに現在のヴィエンチェンの市場もいまでもそのように、機能しているのではないか。机を出してる簡易商店は市内に住む人がだしているのだろうが、風呂敷のおばちゃんたちは、それこそバスにでも乗って市街から、たまに来てるのではないか。週一くらい市場に売るための野菜をえっちらおっちら持ってきていて、普段は自分の畑のそばに住んでいる。これが、本当にそうだとしたら、まさに山岳地域の生活だ。

そんな市場の常設パートのほうに目を向けると、フランスパンが山積みになっているのが目に入る。そう、ラオスは旧仏領でもある。タイ人に「ラオスらしさってなんだと思う?」「ラオスのタイと違うところは?」と聞くと大抵「フランスの影響があるところ」と答える。タイはインドシナで唯一「植民地化されなかった」プライドやメコン流域でいち早く経済発展を遂げたこともあり、ラオスを自分の田舎バージョンだとおもっている節がある。冒頭の完全に親泰化したアメリカ人も「ラオスでいいものはフランス料理くらい」とか言っていたことからも、その対ラオイメージの一片を感じられる。

私と友人はそこでバゲットサンドを注文した。そのときの言語はタイ語だ。
私たちとラオ人の共通語はタイ語なのだ。
私のタイ語が十数年前からの残像で、片言なのはさておき、なるほどこの地域において、「タイ性」とは一種の権力性をもっているのか、と気づいた。はじめ、バスでラオス入りしたとき、乗車していたのはほとんどがタイ人だったのだが、ドアが空いた瞬間、降りるタイ人をラオス人の客引きがドッと囲んでおり、「そうかラオスではタイ人は田舎出身でも都からきた金持ちなのか」と驚いた。私たちがわたってきた、タイーラオ友好橋の完成はヴィエンチェンを一気に外に開いたという。タイ人のみならず、タイを経由する私たちのような外国人が急に増えたからだ。ラオスにとってタイは大海への窓を提供する都なのかもしれない。

山積みのバゲット。もちろん自家製
そう、ラオスは常に覇権の中でその身をたてようとしてきた国なのだ、とそこで気づく。メコンの盟主タイの周縁として扱われ、フランスの植民地となり、共産圏のはしくれとして、中国、ソ連、ベトナム、どれにも付きすぎず、離れすぎずの距離を持ちながら、そのアイデンティティーを狭間の中で形成してきた。街中に赤旗が溢れていたのも、それが理由かもしれない。ラオスの共産主義は経済政策的というよりも、外交政策といわれる。実体として、社会主義が完成していくよりも、それを「標榜」することがとてもラオスにとって大事なのだ。街中に赤旗をはためかせ、対外的に自らの共産アイデンティティーを顕示し、その「一味」として認めてもらうことこそ、ラオスの共産主義の大意義なのだろう。
地元のこどもたち。文化会館で踊りの発表をしていたらしく、メイクをした顔が、嬉しかったり、恥ずかしかったり。
 帰り、暗くもなってきたころ帰りのバス乗り込む。再び、メコンを越えながら、窓の外をみると、河の向こう岸にあるタイの河岸が、街頭や建物の灯りに照らされるのに対して、振り返ると見えるラオスの河岸はとても静かで灯りも少なかった。

ヴィエンチェンにコンクリートのださい門とフレンチしかないなんて、嘘だ。
このほんの数キロにある両岸の違い、それは踏みしめて越えなければわからない境界だった。
メコンの川の音ききながら、頬張るバゲットサンドはどの岸でたべても美味しかった。

メコン川をはさんで向こう側にみえるのはラオス