2017年2月26日日曜日

日本舞踊を観に行ったら ラーマヤーナとPerfumeを感じたこと

先週、知り合いのツテで日本舞踊のお教室の発表会にお邪魔してきた。
舞台芸術が好きと公言しながら、私は恥ずかしいことに日本の古典はまだ疎く、とても少しずつ観賞の幅を広げているところ。
日本舞踊をみるのも初めてでした。

これを読んでいる方は日本舞踊に対してどのようなイメージをお持ちだろうか。
私は、舞踊というその呼称のまま、それは「ダンス」であると理解していた。
例えばそれはタップダンスや、ブレイクダンス、ジャズダンス、ベリーダンスのようなものと同じ円の中に私の頭の中に区分されていた。
ダンスの定義自体はむずかしいところだけど、
私は舞台芸術の中でも、記号が多様される、抽象性が高いジャンルという風に理解している。

あえてややこしい言い方をしたけれど、
言いたいことは、ダンスは多くの場合、まずVerbal(言語をもちいた)コミュニケーションを用いない。
「花びらが舞う」ことを伝えたいとして、
それを身体的に表現するのがダンスである。
これは伝え方の話。

加えてそもそも伝えたいコトも抽象的であることが多いと思う。
例えば、「人魚として生まれた女の子が、父親に反対されるも、地上の世界に憧れ、海をでて地上の生活を謳歌することを夢見る」(人魚姫)
ではなくて、
「いま解き放たれる自由な私」(という感覚)を言葉を使わず身体性だけで表現する世界である、
筋、といういうより、核たるメッセージを伝える世界だとというのが私のダンスに対する捕らえ方である。

だから、日舞をみる前も
「春はあたたかで気持ちがいいですね」っていう気分の高揚を
身体で表現するのが日本舞踊の属する世界であるとおもっていた。

しかし、2演目くらい終わった時点で、予想だにしなかったものと日本舞踊が酷似しているとかんじた。

Perfumeだ。

そう、あのテクノ系ポップユニットのPerfumeである。
Perfumeを少しでも知っている人なら彼女たちの振り付けが、
とてもユニークであるのを知っているかもしれない。
リオの閉会式をプロデュースしたことでもしられるmikikoが手がける振り付けは、
手話なのではないかと思うほど、歌詞を具体的に表現する。
「時」といえば、カチカチ回る時計の針を表現し、
「前をみて歩く」といえば、横をむいていた首をぐっと前に回し、目を指して、足を踏む。


観ていると、日本舞踊もまさに驚くほどの具体性をもった振り付けだった。
波の間から出ずる月といえば、水平線を手でスッと引き、月にみたてた扇をゆっくりあげていく。
駆けていた娘が転ぶと歌うと、実際に倒れこむようにして、膝をつく。

非言語的な「感覚」を非言語のまま表現するというよりも、
言語的な内容を、なるべく、その言語を想起させる形で具体的な身体表現に転換して示す芸術であることがとても新鮮であった。
Perfumeとおなじく、歌詞世界をなるべく忠実に表現することを目指しているように感じられた。


さらに見続けると、もう一つ気に留まる点があった。
それは、日本舞踊の演目に筋がある、ということである。

昨年私は遅まきながらはじめて歌舞伎を鑑賞したのだが、
そのときは、その表現方法が芝居というよりも、舞踊に近いと感じた。
バレエにも「この動きは小鳥のような軽やかさを表現している」みたいないわゆる型があると聞くが、
歌舞伎も動きや所作がが記号化されていて、お唄の言葉を聞き取るだけで理解することは難しく、
その型の意味もあわせて、初めてwholisticな理解が得られるという印象であった。

その意味では、今回みた日本舞踊は想像以上に記号が多く、誌的であったので、
「では日本舞踊と歌舞伎の違いとはなんなんだろう」とはたと考えた。
舞踊と演劇、としてカテゴライズされてはいるものの、むしろ互いにもう一方の特徴に近い部分が見られ、
両者はとても似ているように感じられた。

後日、日本舞踊のお家の友人に尋ねると、
そもそも、表象方法という意味において両者に本質的な違いはないという。
元々は、日本舞踊とは歌舞伎をみていた裕福なご婦人方が、
自分自身もやってみたくなったことを契機としてできたお稽古事として発展してきたそうである。
つまり、歌舞伎と日本舞踊は単にちかいだけではない
歌舞伎から、日本舞踊が派生しているのだ。

目から鱗だ。

それこそ、私は歌舞伎の舞の部分を構成しているのが、日本舞踊、だと考えていた。
(私はそれこそ舞台をみる際いつも、ミュージカルを基礎としてしまうのだが)
歌舞伎という舞台中に、雅楽、長唄、日本舞踊、という芸術の構成要素があり、
それらを全部パッケージにした総合芸術であると捕らえていた。
ミュージカルに、ジャズ音楽とタップダンスとゴスペルが詰め込まれていることがあるように。
しかし、友人の話によれば、むしろ歌舞伎をよりシンプルにし、広く色々な人に開いたのが日本舞踊であると。
それは、両者は似るわけだ。
語弊を恐れずにいえば、日本舞踊はいわば長編小説に対する短編集、短歌に対する川柳のようなもので、
両者に本質的な違いはない。

日本舞踊はストーリーをもっているナラティブを詩的に紡いでいくものと知って、
それはラーマヤーナのようだとはたと思った。
ラーマヤーナは古代インドの長編叙情詩だ。
ヒンドゥー教の神話を起源としているが、現在にいたり、東南アジア、特にタイやインドネシアでも語り継がれ、敬称されてきた。
タイは熱心な仏教国だが、仏教の寺院にいくとながーい壁に
ラーマヤーナの物語が屏風絵のように描かれている。
各シーンが線でくぎられることなく、流れるように、
同じ人物と見受けられる人が少しの距離をおきながら登場し、
時空が緩やかに進んでいくその詩的世界は神秘的だ。

そんな叙情詩を表象する舞踊が、
タイやインドネシアにある。
ラーマヤーナ・バレエと、西洋式に呼ばれたりする。
言葉はつかわないものの、日本舞踊のように、
その詩的世界をナラティブとして紡いでいく世界がそこにはある。

横浜の、さかを上がった先にある能楽堂で、
くるりと翻るセンス、揺れる着物の裾、響くすり足の音を効きながら、
ドクっ、ドクっとビート音とおもに刻まれるPerfumeのダンスや
少し汗ばむ夜風の中、野外舞台でみたラーマヤーナに思いを馳せ、
繋がるその表象の世界に、その広さと緊密性に少しわくわくとしたのでした。

《日本舞踊・藤間流『長唄 -傾城』》
※03:18あたりから


《Perfume『Dream Figher』》

《ラーマヤーナ舞踊ーインドネシア・プランバナーン宮殿にて》

2017年2月13日月曜日

チャートから見えるミュージカルファンの拡大可能性

ご承知の通り、私は自他共に認めるミューオタ(ミュージカルオタク)なわけですが、兼ねてから思っていたわけです。海の向こうではポップカルチャーとして普通に楽しまれてるミュージカルがなぜ日本においてももっと親しまれないのか。オタクとて観劇人口はできれば増えてほしいわけです。共有できる人増えるし、なんたって役者も作品も市場が拡大すればクオリティーがあがる。

あの手この手で愛を語ってきたわけですが、ふと思ったわけです。
人との共通理解のツールって感性だけやないじゃん、
私ってコンサルじゃん、シンクタンク勤めじゃん。
ってなわけで、ミュージカルをロジカルにチャートプロットしてみました





結論からいいます(Conclusion first ですコンサルなんで)
日本におけるミュージカル人口の少なさは、
それが【エンタメ性を追求した外形的なパフォーマンスを楽しむもの】という限定された理解で認識されていることに起因します。
世間のミュージカル・イメージは同芸術のほんの一部しか代表していない、と私は主張したい。
以下のチャートからはそのイメージが広い広いミュージカルのライナップにおける非常に限られた一部であり、かつ局所に偏ったものであることがわかります。

このチャートは二軸で構成されてます

●縦軸
縦軸はストーリー軸
これは
高エンタメ性⇄内省的/厨二
の極をとります。

●横軸は表現軸
これは
ものがたり重視⇄演芸/パフォーマンス重視
の極をとります。
 *このときパフォーマンスとは外形的な表現方法と定義する

こうしたとき、日本におけるミュージカル理解は右上の「大衆ウケ」セグメントに限定されていることが非常に多い。これが先に【エンタメ性を追求した外形的なパフォーマンスを楽しむもの】と表現したイメージがもたれている所以です。Lion King, Cats等がその代表的な例でしょう。
また日本で「ミュージカルが好き」というと大抵「劇団四季?」と聞かれますが、同劇団の作品の大半もこの一角に属しています。

つまり,日本ではミュージカルに対するイメージがその一部に偏っていることによって,根本的な誤解があるのではないかと課題提起いたします。


さらにこうしてプロットすると、Wicked、 レミゼラブル、Hamiltonあたりのメガヒットミュージカルは先の「大衆ウケ」セグメントではなく、むしろ両軸でちょうど真ん中らへんに位置するものが多く、両軸においてバランスがとれているものこそ、訴求対象が広いことがわかります。

言いたいこととしてはミュージカルが表現ジャンルの1つであって、内容ジャンルではないということ。

「ミュージカル」とは「本」と同じです。
本の中には、絵本もあれば推理小説も自伝もあるように、ミュージカルも一つの表現形態であってその中に多様性を持っているということを伝えたい!

むしろ玄人ウケというグルーピングで囲った作品などは、
内容的には踊りの一つも入らない、ものがたり重視で(そうです、踊らないミュージカルもたくさんあります)
中2病的なこじらせ方をしたストーリー展開だったりします。
いわゆる右角に位置する皆ハッピーキラキラ☆万歳の作風とは対極に位置します。

日本におけるミュージカル人気の拡大可能性は
このミュージカルに対するイメージのマーケティング次第で大きく広がるとおもうのです。
大衆ウケのポップスは確かに導入しやすい作風なのかもしれない。
でも本だってみんなが伊坂幸太郎のベストセラーを好むわけではないし、
音楽だって誰しもがいきものがかりやジャニーズを聞きたいわけではない。
「誰に対してもお勧めできるミュージカルがある」と私はよく言うのですが、
その言葉は割りと本気で言っていて、ミュージカルという表現形態(歌う舞台)というものが本質的に嫌いではないかぎり、
そのスペクトラムの中には色々な人の趣向にマッチする作品があると思う。


さらに、玄人的な楽しみ方としては、この左上に示したカラーチャートの文化圏別ミュージカルの傾向をみていくというという楽しみ方もあったり。





ブロードウェイはもはや、全方位、すべての象限をカバーするほど作品の層が厚いので、特定のエリアを色分けはできないのですが、その他の文化圏はそれぞれの特徴がでていることがわかります。

【ロンドン・ミュージカル】
まず、ロンドンミュージカルはやはり両軸で中心に近く位置する作品が多く、ブロードウェイまではいかなくとも、Andew Llyod Weberなどの巨匠やレミゼラブルなどの大作を生み出してきたその伝統と、バランス感覚がみてとれます。あえていえば、少しものがたり重視が好まれる傾向。このあたり同じアングロサクソンでもイギリス人的な趣向が出ている気もします。

【フランス語ミュージカル】
意外と思われるかもしれませんが、フランスは実は中身が薄いエンタメ性が高い作品が多いんです。ロミオとジュリエットや、三銃士など、いわゆる名作の古典文学等を題材としており、一見お堅くみえるのですが、実は話の筋は対して関係なく、パフォーマンスに徹底していることが多いのがフランス語ミュージカルです。これはおそらくフランスがオペラやバレエなどの古典芸術につよいからで、それとの棲み分けの結果ミュージカルは徹底してポップな芸術として仕上がっているのがフランス

【ドイツ語ミュージカル】
オタク以外にはあまり知られていませんが、音楽の都ウィーンはブロードウェイとロンドンと並べられるほどにミュージカルが盛んな場所です。非英語圏ミュージカルを支えるドイツ語ミュージカルはものがたり重視×中2病なミュージカルがメイン。死に異常な憧れがあったり、自意識を完全にこじらせていたり、ジメジメした人の鬱っぽいところをあえてドラマティックに展開しちゃうところにドイツ語ミュージカルの醍醐味が。前述のいわゆる「ミュージカル!」なイメージの対極にあり、ミュージカルの作品の幅の広さを感じさせてくれるのがドイミュ

【韓国語ミュージカル】
最近勢いが強いのがミュージカル界の東端のライジング・スター、韓国です。韓国はK-POP等のイメージがつよく、それこそポップなエンタメ!が得意そうかと思いきや。韓国は中2のオンパレードです。それもドイミュのようにものがたり重視の舞台色が強い作品でなく、歌って踊る中2病までとにかく、ありとあらゆる中2病感を味わえるのが韓ミュ。「俺曲かけないー」とか「引き裂かれる俺の思いー」とか「俺」圧倒的「俺」「私」感を楽しめるのが韓ミュです。まだオリジナル作品は他ほど多くないので現状、趣向が近いドイミュからの借り物がやや多め。

もちろんこれらはあくまでこれらの文化圏"発"の作品の特徴であり、もちろん人気作品は各国語に訳されて世界中を流通します。各作品がどこ由来かを知っていたりすると、チャート上幅広いジャンルの作品をカバーする糸口になったりします。

ミュージカルはハッピーなキラキラな、歌い踊らずにはいられないピーポーのお祭り騒ぎだけではない!
ということが十分に伝達されていないことが、ミュージカルのファン層を狭めており、逆にここに積極的に介入することによってミュージカルの愛好者はまだまだその人口を大幅に拡大する可能性を秘めていると思えるのです。
この表現形態の地平の果てしない広がりの一片でも伝わればと思い、プレゼンさせていただきました。
ミュージカル界にはプロボノでもなんでもするので、
是非この点について本気でご検討いただきたい。

これを読んでいる方もこれをきっかけに自分の好きな作品ジャンル
を探し出して、一度でも旅行先、または東京でも劇場で足を運んでほしい。
なんなら、いつでも喜び勇んでコンセルジュいたしますので、いつでもお声がけを。