2021年2月8日月曜日

おじさんが嫌いだ

おじさんが嫌いだ

ほとんど嫌悪しているといってもいい。
働きやすさ働きやすさとこんなにいわれるようになったのに、日本の労働環境の変化はあまりに遅い。こんなに遅くては私たちは待ってる間に老いて死んでしまう。

先日久しぶりに会った友人はもうすぐ育休明けだ。最近復帰に当たって人事面談を上司とした。異動が少なくない会社である。彼女は明確に伝えた「異動自体は構わない。でも小さい子供を2人抱えているので働く時間や長さ、休みやすさの自由度がないチームは難しい。例えばAチームでの勤務はかなり困難だ」。数日後上司は「異動がOKだと言ってたからAチームにいってもらうよ」

話を聞いていたのか?Aだけは無理だと彼女は述べた。何のための人事面談なんだろう。
それは上司が「部下の話をきいた」と証拠をつくるための面談だ。彼女の要望はきかれない。なぜなら彼女の毎日の健やかな暮らしよりも、おじさんが別の異動対象者をみつける手間を減らすことが大切だからだ。毎日子供2人と格闘し、家でも必死になって疲弊するのは彼女だ。その責任をおじさんはとってくれない。

別の友人はハラスメントや超過労働があまりに見過ごされる職場を見かねて仕事だけでもいっぱいいっぱいなのに自分からこの環境を変えようと気持ちを奮い立たせ労働組合にはいった。彼女は組合としての交渉で会社に伝えた「せめて法令遵守に基づいた措置はしてほしい。労働法の侵害や社則、社内規約に反することが行われた場合は罰則を設けてほしい」。至極真っ当な訴えだ。何が許容され、何が許容されないか白黒つけるのは難しい。でも少なくとも、社会が、またはその会社自身がきめたラインを踏み越えたらそれは罰則を課されるべきではないか。むしろかなり相手に寄り添った主張だ。会社はこう返した。「罰則や処分はできない。管理職のモチベーションが下がるから」

言葉を失った。ショックすぎて、その言葉を冷静な口調の友人から聞いたとき鼓動がはやくなるのがこめかみから聞こえた。モチベーションが下がる?その通りである。やるべきでないことをした人のモチベーションを下げるための措置だ。
モチベーションをさげないようにそのやるべきでない行為を抑制するためのアクションだ。

そのおじさんが言い放った言葉がしめしていることは明白だ。「僕らの会社はチームメンバーの心身の健康よりも、おじさんのモチベーションを重視します」。それをハラスメントや超過労働を理由に休職していた人を前に言い放つ。友人が直面したその場面のあまりの暴力性に辛くなった。この言葉の暴力性が気付かれもせず普通に発せられているうちはこの状況は変わらない。

おじさんというときに私は男性ジェンダーの話をしていない。年齢の話もしていない。おじさんは私の中では概念だ。日本の職場には女性でも若手でもおじさんはいる。

「海外にずっといたからやっぱりは彼氏は外国人がいいの?」
「そんなんじゃモテないぞ!」
「今日も愛妻弁当?」
「まだ子どもつくらないの?」

挨拶がてらなんの抵抗もなく軽々とこれらの言葉が投げられるとき、女性だろうが若手であろうがこの人もおじさんなんだなと私は思う。
それこそ差別だ、ラベリングだ。君だって特定ジェンダーと年齢を想起させる乱暴な言葉で人を括ってるじゃないか。

そうだ。

私もそこは自覚している。正しさをもった概念では全くない。それは権力のあまりの傲慢と暴力に晒されてきたことへの抵抗なのだと思う。

そう、おじさんを産むのは権力とそれに対する甘さだと私は思っている。

日本の労働市場で質的にも量的にも最も強い権力性をもっているのは年長の男性である。おじさんは圧倒的に権力をもっている。上記の発言を若手や女性がすることも珍しくはないとは言ったが、それが発されるのは圧倒的に中年以上の男性であることが多い。

新入社員の女性が自分の上司に「やっぱり薄毛ってどんどんモテなくなりますか?」と聞く姿は想像するのがなかなか難しい。

上記で書き連ねたおじさん的な発言も基本的には相手が開示したくないかもしれないプライバシーを無理矢理こじ開ける質問だ。そのセンシティビティに対して愚鈍であることを許しているのは権力である。

その発言をしても目下のものなら自分に不利益はない。居心地の悪さを感じるのは自分ではなく相手だから関係ない。

日本の労働市場では年長の男性が圧倒的に権力性を持った結果、その検閲を全く経ずしてでてくる言動は家父長的で男性シスジェンダーの固定観念に帯びていることが多くなってしまった。だから、権力がかざす暴力におじさんを感じてしまう。その暴力を防具も持たずに腹にグッとちからを入れて耐えてきた私や私以上にずっとずっと辛い思いをしている友人達をみて、私もついグローブをはめて殴りたいと思ってしまったのだとおもう。その一発のカウンターがおじさんという言葉だ。

私はここ2年国際機関で働いている。ある意味ひどく潔癖症で国文脈を脱したこの職場ではおじさんに会うことは激減した。
それを話すとこう言われることがある。「でもそんなプライバシーとか暴力とか言われたら仲良くなれないじゃん。ビクビクしてお話もできない」
でも私がいた最初の職場のかしまし部屋や、プライベートでも仲のいい友人たちを思い返すとそんなことは全くない。むしろ女子校をしばしば想起させる私の職場は日本にいた頃よりずっとおおっぴらで自由に話していたとかんじる。
じゃあ何をいったいどうしてるのかと言われれば、みんな仲良くなりたい時の踏み込みは自己開示から始めるということである。

それこそ自由だった私の職場ではウェディングドレスの採寸の話から、生理用品の話から、プロポーズやこどもの話までかなり踏み込んだ話はたくさんされていたが、基本的には誰かの独り言からはじまる。「いまめっちゃ気になってる生理用品があってさー」。それを聞いて話したいと思ってかつ暇な人だけが会話に乗っかる。
一方自分から相手に投げかける質問にはかなり神経を使う。例えば各国出身者がいると当然出てくる国籍や出身についての質問や疑問もタイミングをかなり選ばなければ聞きにくいと私は感じる。自分がさも国籍で人を判断しようとしている、と相手に受け取られることを恐れるからだ。

プライベートな会話を避けるべきというのが本質ではない。権力性を前提にして相手のしたくないことをさせてしまうかとしれない、ということに敏感であるということが前提だ。
日本の労働市場でおじさんがあまり自由で横暴なのは権力が何をしてもいいという甘さがあると述べた。だから、この嫌悪感を胸に、次に恐るべきは自分がおじさんになることだ。いくら自分に向けられる権力による暴力を嫌悪していても、人は自分の権力には盲目になることはあまりにも多い。それは強い強い自戒の念を込めていっている。自分は女性というマイノリティーなんだから発言だって権力性をもつわけがないというignorance。パートナーや家族、その人との特別な関係に甘んじて発揮されてしまう権力性。先進国市民、健常者、社会層、など自分が普段不可視化してしまっているレイヤーでの暴力的な視点。そんなことが肌に潜むように自分の中で息をするようにならないと私だっていつだっておじさんになる。そして、間違いなくすでにおじさんとしてたくさんの場面でその手で人を殴っている。

私はおじさんを強く嫌悪している。

それはフィードバックが機能しないことで鉛のように重く愚鈍になった権力とその無思慮を象徴しているからだ。
でも強い思いを下支えしているのは、自分自身もおじさんになるかもしれないという蓋然性を、強い嫌悪感で抑え込みたいという恐れに近い感情なのかもしれない。


去年の今頃行ったケニアにて。真っ直ぐに背を正した立ち姿が美しい