2020年5月5日火曜日

居心地良さとソーシャルバブル

一昨年転職したときに、私は自分の比較優位が強い場所よりも居心地を求めていまの職場にきたとかいた。

語学ができる!「国際感覚」なる(なにかわかるようでわからないもの)がある!そんなことを武器にしていたコンサル時代から、身の回りに全員がそれを常識として働く国連にきた。

この一年半、私はそれはそれは心地よく働いてきた。自己弁護したり、それはちがう!と偏見と戦う闘士を無理やりやるようなことは激減した。それは私の日常の中で、仕事の本質以外でのストレス負荷を大きく減らした。

しかし、同時にいま私は新たなジレンマに直面している。感覚の近い人の多い集団を求めていくと、自分を取り巻くのはどんどん均質的になっていく。すると、その小さなソーシャルバブルが自分の社会生活のほとんどを占めてしまい、その外の感覚からはどんどん隔絶していく。
自分自身の心地よさと似たもの同士の中で隔絶されることの間のジレンマにいる。

例えば、私はいまジェンダーはニュートラルに扱われるのが普通だよね、という集団にいることが日常になった。すると、男女の分断が激しい集団や、家父長的な価値観に生に触れることは本当に少なくなってしまった。「これはこの集団が特殊なのだから」と意識できていることはまだよくとも、きっと私が深く内面化してしまい、勝手に「普通」だと思っている感覚は多くあるのではないかと思う。膠着したジェンダーバランスにある環境を指して、さもそれが簡単なことのように「そんなのさっさと女性を上にあげればいいのにね」なんてお花畑のようなことを言いかねない。

去年一年で私が一番ショックをうけた瞬間の一つは「あなたみたいな人がいるからトランプが当選する」と言われた時だった。
その言葉は自分のclose kinから出てきた言葉で、それがさらに私を鋭く刺した。

相手が(少なくとも私が理解するかぎりにおいて)示したかったのは、私のように自分のソーシャルバブル外で起こっていることから隔絶されていると、establishedな社会層が自分の「普通」が社会全体に共有されてるんだろうと盲目的に信じ、アメリカ大統領選の時のように社会の流れを読み誤る、ということだった。

ここで、トランプ政権に対する評価や、価値判断を語ることはしないが、私が自分に近しい人たちの殻にこもった結果、過激な思想をパワーにのし上げてしうるという指摘はとても打撃が大きく、ショックだった。

トランプの当選、BREXITの国民投票についての論考はしばしば社会の分断、establishedな社会層の感覚のズレ、という観点から語られた。
「私たち」が「普通の感覚」、「みんなの感覚」として信じてきたものは、そうではなかったし、
マイノリティーでさえあった。それは「そうだそうだ」と声を揃える集団の中へ、中へと多くの人が閉じこもり、それが世間の全てだと誤解したからだった。

しかし、このソーシャルバブルを破ろうとする努力は個人の日々の幸せを追い求めることとは時に逆行する。
決して心地よい作業ではない。
例えば、昨今のCOVID-19危機をうけて、ネット上にはいつも以上に心のひだに爪を立てるような言葉が飛び交うようになったと感じる。
日本における中国に対するスティグマ、ヨーロッパにおけるアジア人へのスティグマ、
様々な事情によって個人の安全と福祉のために日本に帰ってくる在外日本人に浴びせられる批判の矢、
公僕として働く人たちに対して、その背景とリソースをみずに、むやみやたら叩く言葉

それはみていて自分の中が掻き毟られるように痛痒いし、見ていて心地よくない。
はっきり言って不快である。
自分のまわりでも、ソーシャルメディアで特定の語彙をスクリーンアウトして見えなくする設定にする人も出てきた。
頭の中のノイズは減るし、心理的なストレスも軽減される。
その方が心の安寧のためには良いと私も感じる。

でも、そのノイズ切るスイッチがなかなか押せない。
というより、押してはいけない、と自分の指を止める声が頭の中で響く。
それは、冒頭にのべた言葉が脳内にジンジンと蘇るからだ。

このままヒリヒリとするような言葉をミュートしてしまったら、
私は一層ソーシャルバブルの殻の中に身を閉ざしてしまうのだろう。
その危機感がある。

ましてや、私はすでに自分の日々の環境という点では、日々のヒリヒリやストレスが嫌で、そこを振り解いてきてしまった。
私は自分の日々の居心地の良さと引き換えに、自分と異とする価値観に触れ合う環境を後にした。
多様性をもとめてこの環境にきた、と私は繰り返し呪文のように唱えてきたが、
立ち止まってみると、私は一つの多様性のために、別の多様性を後にしたという方が正確なのかもしれない。

先週実は某職のための就活の面接を受けたのだが、1時間かけて行われた面接の中で面接官が聞いた質問は
「多様性をあなたの言葉で定義してください。その上でinclusion(包含)とは何かあなたの考えをのべてください」
だった。それはもっといえば、「多様性をみとめない」という価値観をどう多様性として受け入れるか、という本質的な問いにもつながる。

私の職場では、ダイバーシティを尊ぶことは踏み絵だ。

候補者がこの質問に対して「多様性なんてものはいらないし、インクルージョンなんて労働効率をさげる」なんて言おうものなら、その瞬間に選考から一発アウトを喰らうことをこの業界の全員が知っている。

人の選抜からこのような基準を設けている。私の周りは国籍も宗教もジェンダーも様々だけれども、全員が口を揃えて「社会的属性に基づく差別はいけない」「基本的人権はいかなる状況でも与えられるべきものだ」と息をするように述べる。規律教育のたまものではなく、それを全員が信じているというある意味異様な空間だ。
多様性や人権についての考え方についてグラデーションのほとんどない、とても均質的な集団である。
私の今ついている国連という職業の一つのミッションは世の中にある偏見や差別を取り払うことである。
しかし、その中にいるほとんどの人は、そのような偏見や差別に日常的に浸かり、その摩擦と心をすり減らすという日常からは遠ざかっている。
ある意味、それは見えないなにかを掴む作業である。

人は「だから国際機関は」と均質性に染まった私たちを指差すかもしれない。
もちろんその批判は組織としては甘んじて受け入れるべきだ。
しかし、それぞれの構成員の幸せを考えた時に、差しかけた指は止まる。
なぜなら、彼らの多くもただただ自分の日々のストレスやノイズを取り払いたくてそこにいるからである。
自分が心地よい場を追求するのはその人個人の自由である。
あらゆる人にそう願うように、彼・彼女たちにもなるべく心安らかに日々を過ごして欲しいと願うし、
自分の日常もなるべくであったらそうであってほしい。

この投稿に残念ながら結論はない。
自らの幸せで安らかな日常を求めたいという基本的で実にシンプルな欲求と
均質的なソーシャルバブルの殻の中でその外の流れに盲目に自分になるまいとすることは、
本質的に相反する営みであり、ジレンマをうむ
そのジレンマに自覚し、葛藤することこそが外に目を開くことそのものなのかもしれない。



ヨーロッパでは日が長くなってきました。先日気晴らしにお弁当をつめて湖畔(近所)で夕飯ピクニックをしました。


人はこれだけ非常事態でも、花は黙っていつも通り咲く。季節はもうすぐ初夏