2021年8月23日月曜日

彼女が心痛めるその貧困はどこに

先日ジュネ友たちと例によって仕事終わりにグダグダとご飯を食べながら、あれやこれやを話していた時だ。話は旅行をしばらくできていないみたいな話題に及び、私は友人たちに好きな旅行先、または恋しくなる旅行先はあるかと聞かれた。私はこの質問を聞かれたときにいつもそう答える通りに、「それはやっぱりイランだなぁ」と答えた。もちろん大好きな旅行先はいくつもあるけれど、イランに魅了された2度の旅行以来、私は過小評価されすぎなイランの名前を必ず出すことにしている。


かつて「世界の半分」とも言われたイランの古都エスファハーン

もちろん友人たちには何故イランがいいのかと聞かれた。私は過去の投稿でも話している通り、それはイランの人が国をあげて旅行者としてのわたしたちを歓迎してくれたからだ、と答えた。外の人がめったにこない数十人の村で受けるような歓待を、他人に対する無関心が染みついていてよいはずの大都市に行っても受ける。それがあまりにも特異だと話した。そしてそれは、外の人が目にするイランについてのハイポリティクスのイメージ(その多くは反米的な政権、核開発、経済制裁の話だ)からはあまりにかけ離れていて、私はそのイメージを気持ちよく覆される場所としてもイランは素敵な旅行先だ、と自信をもっていった。


それに対して、友人の一人は言った。「でもどんなに人は親切で、ハイポリティクスと市民生活は関係ないと言っても、抑圧を目の前で目にして心が痛まないの?」
一瞬私はなにを聞かれているのかわからなかった。あきらかに困惑した顔をしていたであろう私の顔をまっすぐ見ながら彼女は続けた。「だって、イランにいったら女性はみんなブルカでしょ?それを見てこの国で受けている抑圧に心が痛むでしょ。」
まず、初めにことわっておくとイランでよく目にするのはブルカではない。ブルカは顔まですべて覆っている衣服で、主にアフガニスタンなどで着られることが多い。私の限られた知識と理解では、イランで最も皮膚を出さない衣服として多く着られているのは顔の正面だけを出している、ニカーブやチャドルだ。
彼女がブルカとすぐに言ったことにも驚いたが、そのことはとりあえず置いておいて私は返した。
「でもイランではスカーフを巻くのが法律できまっているからね。もちろん女性はみんなスカーフを巻いてるけど、体すべてを覆っている人が多いどころか、本来一番隠さなきゃいけない髪もガンガン出ている人がむしろ多くて抑圧で胸が痛くなるっていう光景ではないよ」


「でも、インドで貧困にあえぐ人をみたら、胸が痛むでしょ。それと同じよハイポリティクスに関係あるもの、目の前の女性の抑圧は。」


何度かこのやり取りを繰り返したが、堂々めぐりで議論は熱を帯びるばかりだったので、私は早々にこの話を切り上げた。


アフガニスタンとの国境の街でお邪魔したサフラン商人の家。イラン人のお宅はどこもびっくりするほどめっちゃめめちゃきれいである


でも、はっきり言ってショックだった。この街で同志と思ってきた人のソーシャルバブルではめったに聞くとのなかった暴力的な他者化と想像力の放棄を久しぶりに突き付けられた。彼女の指す「インドで貧困であえぐ人」とは誰の事なのだろうか。


世の中ではもちろん9%、6億人以上が絶対的貧困の中で暮らしている。インドで絶対的貧困下で暮らす人は約3億の人にも上る。私は自分がその貧困が課す苦しみに無関心だと言いたいわけではない。例えば、私が心を痛める貧困を映す光景として彼女の言葉を聞いて瞬時に思い浮かべたのは、あまりにも有名なケビン・カーターの「ハゲワシと少女」の写真だ。あれこそ貧困にあえぎ、食料が得られないばかりか今にも食糧になり果てようとしている子供の辛いシーンを切り取っている。また、イエメンで支援が十分に届かず、栄養失調の子どもの姿だ。あれも圧倒的な貧困を映した画だし、心が痛む。しかし、旅行先で訪れたインドで私たちが人々が貧困にあえぐ姿を目にすることは果たしてあるだろうか。私は大学在学時に開発経済の先生にくっついてスラムにホームステイさせてもらったことがある。私の同窓である読者たちにとってはあまりになじみ深く定番すぎる引用でいささか恥ずかしいくらいだが。彼らは某東南アジアの国で間違いなく最も多面的な貧困に苦しんでいるコミュニティの一つだった。しかし、私が彼らをみて心を痛めるかといわれると自分の前に広がっているのは与えられた状況で何とかやっている人たちなのである。私が最も滞在中にハッとさせられたのは、ハエのたかる生肉を切った肉切り包丁でそのままチューペットの口を切り、幼児にそのまま渡した瞬間だった。そのときみた衛生観念の欠落と、それがもたらす脆弱性、情報(広くは教育)がいかに人をレジリエントにするかを生で感じた。しかし、それは目の前の苦しい状況に心を痛め涙を流す状況とは明らかに違う。たとえ国に3億人絶対的貧困人口がいても、今にも人が死にそうで苦しむ姿を見ることは容易ではない。今にも人が死にそうな状況というのはある極限状態であるか(戦地のイエメンのように)、日常のある瞬間的な危機状況を切り取った瞬間(ハゲタカと少女のように)だ。例えば、上記の不衛生なチューペットをしゃぶった幼児がその直後下痢でなくなったら私はひどくショックだったろうし、かなりつらかったと思う。しかし、旅行で行った先で、戦地を縦断をかいくぐりながら歩くことや、今にも死にそうな子を目にすることはどれだけあるだろう・・・。



インドで貧困にあえぐ人、と言った彼女は、インドには行ったことがない。イランにも行ったことがない。行ったことのないインドで歩きながら横でバタバタ人が倒れていることを想像しているか(切り取ったような危機が常態化している)、またはただただその日を送っていかなきゃいけない人たちの日常に対して自分の定義する健康で理想的な生活を重ね、その乖離に自己中心的な涙を流している(自分の尺度で相手の辛さを判断している)、のではないだろうか。


地元の茶屋でシーシャをくゆらせるひとたち

話をイランに戻すとことはより鮮明に映る。イランではもちろんスカーフを被ることが法律で決まっているし、それは女性に対する権利の制約が政権の考え方を反映している。しかし、それで横にいる私たちは胸を痛め涙を流すだろうか。それは程度問題でどこだって、制約はある。日本のジェンダー不平等は世界でなかなか類をみないぐらい酷いし、労働倫理もなかなかに劣悪な状態だ。じゃあ、彼女は日本にきてヒールを履く女性をみて「女性性に対する抑圧の象徴だ」といって胸を痛め、過剰サービスなコンビニ店員をみて「低賃金の過重労働だ」と辛さにコンビニアイスを握りしめるのだろうか。私はもちろんイランで女性が裁判で不当な判決をうけたとして平等や公正を求めていたらそれには連帯したいし、インドで下痢でなくなる子が減るように上下水道を整備する案があったらそれには賛同を示したい。


ムスリムの女性も実は不自由を望んでいる、あれは男性による加護の印であり、彼女らは満足している!とか、それを抑圧と決めつけるのは西洋の横暴だ!、とかそんな稚拙なことを言うつもりはない。どこにだっていろんなものを好む人はいるし、それはインドだって、日本だって、イランだってそうだが、そんなこと当たり前で議論の余地もない。私が聞く限りイランでも多くの女性はスカーフの法律をうざいと思ってるし、かったるいと思っている。政権めんどくさいなぁ、変わらないかなぁとも思っている。でも、人がただ送る日常を一気に客体化して、横で勝手に「あなたをみて辛いわぁ」というのはあまりにも暴力的だし、横暴で、その人にとってはそれが最も失礼な行為だと思う。


なぜかナスだけを売ってるナスおじさん

私も日本のジェンダーギャップにはイラついているし、労働倫理もクソだと思っているが、私の結婚後の新姓をみて、「あなたも改姓させられたのね、なんて抑圧!かわいそう!」と目の前でハンカチをぬらされたら、え、ちょっと私いま可哀そう?って言われてる?勝手に可哀そうな人にされた?と困惑するし、なんなら結構腹が立つと思う。もし冒頭のジュネ友がイランを路上のかしこで人が鞭打ちにされているような惨状だと想像していないのだとしたら、そのただただそこにある制約の下暮らしている人に対して自分の価値で哀れみを表明するのは私には暴力だと感じられた。


もちろん、より構造的な問題として、自由の抑圧化が制度化されていたり、そのような抑圧がいちいち「苦しい」と感じないほどに常態化しているイランの状況は気がかりだ。衣服を制限されるのだって十分イライラするが、それにとどまることなくあらゆる面で女性たちが、市民が「日常」として自由の制約に耐えなければいけないのは個人の生活や人生の選択肢を奪うどころか、フィードバックメカニズムの欠如はより大きな悲劇をもたらす危険性を常に抱えている。その困難を打破するための市民のレジスタンスには私は連帯を示したいし、外部がサポートを差し伸べたり、共感することは暴力どころかむしろ重要なことであるとも思う。


大事なのは共感は、「共に」「感じて」いるから共感ということだ。至極当たり前なことだが、当事者の心が動いているタイミングでそれを想像し寄り添うからこそ、共感になるのであり、いつでもいいからと当事者の状態もみずに、勝手に何かを感じて表明をすることは共感ではない。いつ示すかによって同じ感情も共感になったり、独善的なステートメントになったりする。だから旅行先で道行く人などというほとんどコンテキストが与えられていない人に対して示せる共感なんて「今日はみんな暑くて大変だよね」くらいだと思う。文化に優劣はない、ある文化の基準でその他の文化を判断することはすべきではない、というオリエンタリズムのレッドラインは多文化の中で生きるにはイロハ中のイロハだ。自分のサバイバルのためにも意識を張っている人は多い。しかし、共感を示したつもりが独善的なステートメントになるリスクは寄り添おうとした故起きる齟齬であるためなかなかその暴力性に気が付くのが難しいのかもしれない。連帯したいと思っている相手を一気に客体におしやり他者化してしまうという、とても不幸な暴力を自分自身が起こさないためにも、問うてほしい。「あなたが心を痛めるその不幸はどこに」。


バーベキューした先で一緒にお花摘みをしたおばちゃま。原っぱでお花を探してルンルンしてて最高にかわいかった