2017年10月15日日曜日

流浪と隔絶に生きる豊かさ、逞しさ —インド・カッチ地方のお針子さんたちを訪ねて

Kutchというお針子の街がある。
パキスタンの国境近く、インドのグジャラート州にある地域だ。
まさに辺境というにふさわしく、グジャラート第2の都市Vadadoraから鈍行列車に7時間も揺られてやっと辿り着くそこの、その周縁の、周縁であるが故の魅力の虜になった。
カッチの手芸は本当に手の込んだその繊細さ、独特なデザインが美しく、
一度目にすると、arts & craft が好きな人なら誰でも一瞬にしてそこに心惹かれる。
しかし、世界中に点在する手芸自慢の地域の中でもカッチが特別に思えるのは、
それが、一つの手芸品を名産とするのではなく、
地域の中で肩を寄せ合うように、多種多様な手工芸をつくる村が密集しているところだからだ。
蚕がとれるから絹織物が、質の高いチークがあるから木製家具、といったその風土を吸い込んだ一つの手工芸を冠しているのではない。
銅細工から、染め物、木工品から、刺繍まで、
ありとあらゆる手工芸が隣合う村々の中で、それぞれ特化され、華めく。
手先自慢の職人さんやお針子さんたちが、なぜか方々から集まり、
創る生きたアトリエ。
カッチはそんな不思議で奇特な魅力に溢れる地域だ。



まだ、観光客もすくないこの地域を、
リキシャを半日、車を一日貸し切って、村から村へと一つ一つ行脚した。
土ぼこりが少し舞う中、自分の足で踏みしめて、
村々をあるくと、改めてその不思議な魅力に取り憑かれる。
いずれの村も、商売上手な商人やバザールなどはなく、
お家の一角にある作業場で創られた手工芸が、そのすぐ脇で、
またはその職人集団を取りまとめるリーダーのお宅で手売りされている。
特に刺繍などに関していえば、元々は売り物ではなく、
お家で使うものとして受け継がれてきたものなのだなということがよくわかる。
私たちがドアをノックすると、みんな「まぁチャイでも飲むといい」と
お茶をまずは出してきて、
「まぁま、まずは見ていけばいいよ “Watch and Learn” と言わんばかりに、
黙々と作業に戻っていく。
本当にここは職人さんの集まりなんだなと言うことがよくわかる。
大体の工房には英語を話すおじさまが一人おられて、
その手工芸の制作の課程や由来等を丁寧に説明してくれる。
決して押し売りするような素振りはなく、
その伝統や風土をまずは知ってほしいという姿勢がとても素敵で、
ああ、なるほど私は職人とアーティストの村にきたのだなということをひしと感じさせる。


Ajrakのブロックプリンティング、繊維産業の工業化の第一ステップとも言われる。
模様を象った判子を寸分のズレもなく組み合わせて押していく

そして、やはり不思議に思わずにいられないのは、
その小さな地理の中に、多種多様な工芸が密集しているカッチの特性である。
わずか1日半の間に巡った村々では、
織物、染め物、木細工、ひまし油の布描画、銅細工、刺繍がそれぞれの村の職人集団に創られており、
まるで、手工芸のワンダーランドに迷い込んだような、
幻想的な空気を吸い込むかのような感覚になる。

なぜ、この人たちはそれぞれ異なる特性や技術を携えて、
この限られた範囲の中に集まったのか。
それを辿ることが、カッチ刺繍の他の地域とは見違えない独特さを見いだすことにもなるのではないかと思った。
その少しばかりのヒントが旅中に見聞した話と、
その後に少し追いかけた話から拾えた。

Bhujodi 村の織物
ゾミア、という言葉を知っているだろうか。
人類学の学術用語として世に現れたこの言葉は、
James Scottという東南アジアをフィールドにした学者によってその名を広く知られるようになる。
Scott の専門は政治学やサバルタン・スタディーズと呼ばれる分野で、
人類学的手法をとりながら、権力構造から "疎外された” 農村社会による抵抗を専門としている。
彼は自らの研究対象である東南アジアの山岳地帯に住む人々について、 "自発的に近代的統治から逃れた人々である” と評した。
つまり、地理的に国家の中心から "隔絶され"、それ故に "取り残された人々” かのような描写に、スコットは異を唱え、
「そうではない、彼等はむしろそんな統治を自ら拒絶し、自主的に支配の円の外に逃げることを好んだ人々である」ということを述べた(参考:The Art of Not Being Governed - James Scott)
彼の元々の研究対象である東南アジアの山岳地帯を指すゾミアという言葉は以来、そんな統治から逃避する周縁の人々、を指す言葉となった。

インドのカッチ地方の手工芸の豊かさと多様性はまさに、そのゾミア性を養分として育まれた文化のように思える。


ニローナ村の銅細工
現在ちょうどインドの西端、パキスタンとの国境際に位置するカッチの村々の人は、その起源を様々な場所に辿る。インド国内では、マトゥラー(UP州)、ジャイサルメール(ラジャスタン州)、お隣パキスタンからは、シンド州やバロチスタン州を出身とする人々が、そして、遠くはイラン(ペルシャ)から渡ってきた人々もいる。

インド、パキスタンどちらにも長らく道路網がなく、
広大な塩性の湿地帯によって、物理的に中心から隔絶されてきたカッチ。
そこにはインド、パキスタンどちらの支配の及ばない、周縁に逃げ込むひとたちが多く移り住んだのだろう。彼らはスコットがいうように、隔絶により、周縁に追いやられた、「取り残された人々」ではなく、まさに、その支配の円からするりと抜け出した人々なのである。
村を案内してくれる女性
ニローナ村のRogan Art (ひまし油の布描画)オバマが来印したときにも贈られた逸品

加えてこれらの村々から一番の近隣にある都市Bhuj とMandivi港は18世紀ごろまさにインドを西に開く貿易の玄関口の一つといわれたそうだ。現在のBhujで、ほこりの舞う道路をてくてくと歩いているとまさに、そこはインドの田舎といったところで、この地は交易で栄えたことなど想像もつかないが、その頃、当地を訪れたオランダ東インド会社の手記によれば、このころからこの場所はインドネシア人、アラブ人、エチオピア人、パシュトゥーン人の商人が港を行き交う交易の街でもあったという。

カラフルな木工
地元に住まう人同じほどに、旅の商人が絶えず来てはさっていく土地であったカッチはその交易の流れの人々の流動性の中で育まれて来た場所なのである。この土地において、"ここの人"と"よそ者"の区分は限りなく曖昧で、ゆるやかな人の流れがかつてよりあった場所だと想像される。欧州、南アジア、中東、アフリカの間の交易を結ぶハブとして、シルク、染め物、織物など様々なアートとクラフトが持ち込まれたカッチは当時より、そんな手仕事の品で栄えてきた里だった。

そんな色々な人々が身を寄せる豊かな周縁カッチにおいて、多様にある手工芸の中でも刺繍は特にアイデンティティーと密接に結びついてる。元々、刺繍は売り物ではなく、それぞれの村、民族の中の伝統として受け継がれてきた。
特に、多くのカッチの村において、鮮やかな刺繍は女性の嫁入り支度として準備され、彼女達は十分な刺繍の品を準備ができて、はじめて婚姻の儀礼ができたという。
女性が結納金がわりに金品や家畜等をもって嫁ぐ文化は他の文化圏でもみられるが、カッチの場合は、
その金銭的な価値と同時に、女性の技術、そして一族の伝統をきちんと継承していること示すことが刺繍に求められていた。
私が村々をまわったときも、ある小さな村ではまだ刺繍が商品化されておらず、刺繍をみせてほしいというと、女性たちが自分たちの洋服をもってきて、その場で縫い付ける姿をみせてくれた。

自宅で刺繍を実演してくれた女性
このように婚礼を通じて受け継がれていた流浪の民のアイデンティティーの礎が、手工芸として、家の外、カッチの外に知られるようになったのは、奇しくも大きな天災がきっかけだった。
2001年1月、カッチは大地震に襲われ、全住民の10%にあたる13,000人が命を落とした。
復興のため、政府機関やNGOが積極的にこの地域に入り、支配の円の外にいたはずのカッチは突然 drasticな介入を受ける。その中で、主にNGOにより、彼等の復興の術として見いだされたのが刺繍だった。
元々隔絶された土地であるカッチが、震災の被害から立ち直るのは容易ではない。
それまで関心や規範から逃避していた彼等は、自らのアイデンティティーの象徴である刺繍をグローバルマーケットの日の目に出すことで、復興の手綱を引き寄せたのであった。
「インドの少数民族が創る秘められていた刺繍」、そんなオリエンタリズムにくるまれて、隔絶を好んだ人々が自らの姻族の象徴を商業化することは、少なくなからずの躊躇や抵抗があったのであろうと想像する。
それでも、そんなグローバルマーケットに利用されるどころか、自分たち側こそグローバルマーケットをうまくつかってやろうという気概が地元に密着したNGOからはかんじられ、逞しかった。

パッチワークを仕上げる女性
カッチにいつまでもそのゾミア性をもとめ、隔絶された地でいてほしいと願うのは、それこそ一つのオリエンタリズムであり、感慨に浸った憧憬である。私自身、グローバルマーケットに放たれたそのブランドに惹かれ、この地に降り立ったのだ。
カッチの地は、絶えず移り行く状況や土地の変化の中に身を委ねその流動性の中で育まれてきた。未曾有の天災に見回れ、周囲との関わり方、手工芸の機能やあり方を、見直していったそのしなやかさにこそ、カッチの本質はあるように思う。


刺繍やブロックプリンティングの美しい生地でつくった衣装を身にまとう女性たち
村巡りをしていて訪ねた最後の村で、日も暮れたころ、
美しいミラーワーク(鏡面を縫い込んだ刺繍)を施した女性の衣装にであった。
ミラーワークはカッチ刺繍の特徴的な技法の一つであるのだが、それまでいくつ村を訪ねても商品化されたミラーワークに出会えずにいた。
これはどうしても布地を手に入れたいと考え、聞いてみるも、
これは商品ではあるが、この刺繍が施されたものは服しかないのだと、返される。
先の花嫁支度の話を思い出しながら、なるほど、いまも刺繍の心臓は衣服に生きているのかもしれない、そんなことが頭をよぎった。
服を買ってもどう考えたって着る術も場所もなく、購入はとても迷ったが、
私を最初にこの地に引きつけたその刺繍が手放せず、
日本にもって帰ったのだった。
帰国してから仲良くしているデザイナーさんに相談し、この布地を一つのクラッチバックに仕立て直してもらった。



カッチで自らの身をたて、土地を守ってきたお針子さんたちのしなやかな強さが糸に縫いこまれた作品を、こうして日本のお針子さんにお預けし、できたクラッチを手に乗せながら、
自分自身もその流浪性、周縁であるが故の逞しさにほんの少しだけ息吹を絡ませることが出来た気がして、単純にうれしかった。

そんなクラッチを脇にかかえ、私はこれから友人の婚礼の儀に向かいます。