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2018年3月15日木曜日

オープンイノベーション式に死者を祀る

メキシコの死者の日に参加してきた。
テレビの世界には世界各国の祭りをルポする番組が溢れているが、私自身は祭旅とでもいおうか、祭り事のために海を越えてある地を目指すことは初めてだった。

知る人は知るこの祭、死者の日はドクロメイクで人々が街を練り歩く光景が有名だ。11月の頭に休みが取れるとわかったとき、この奇異な祭り事を自分の目でみて、そのルーツや精神性をその空気からなんとか嗅ぎとれないかと思い、1人かの地に向かうことにした。

死者の日は、ガイコツモチーフのインパクトと、それが彷彿とさせるホラーイメージ、また同じ10月末に祝われることから、ハロウィンの亜種だと思われがちだ。ケルト系の収穫祭をルーツとし、アメリカを主たる発信源として、いまや日本も含め世界中で消費されるポップカルチャーとなったハロウィン。古典的にはガイコツや魔女などおどろおどろしい格好に仮装し、それが徐々に仮装文化とし独立し、参加者はおもいおもいの衣装に身を包むようになった、いわば街をあげた仮装祭である。モチーフとしてはジャコランタン、黒魔術、血、ガイコツなど恐怖を煽る超自然的なイメージをかたどったものが典型的だ。

死者の日は同じドクロをかたどったものではあるものの、そのコンセプトはハロウィンとは大きく異なる。実は、死者の日はお盆なのだ。死者の日と呼ばれる所以はそこにある。10/31からの4日間、いまは亡き人々はその近親者を訪ねて地上に降り立つとされ、その死者のつかの間の訪問を全力で歓迎するのが死者の日の祀りごとなのである。ドクロは死者を盛大に歓迎するための縁起物だ。これだけで、おもしろすぎはしないか?私の興味に一気にポッと火がついた。





美しさとおどろおどろしさが相まって鳥肌がたつ
国境を超えたお隣アメリカでは収穫の時期に悪霊を追い払うために用いられたガイコツモチーフは、お隣メキシコでは死者を歓迎する幸運の象徴である。だから、メキシコをこの4日間練り歩くガイコツたちは大層愉快だ。指笛をぴゅーぴゅーと鳴らし、踊り狂い、死の象徴をかたどりながら、生を謳歌している。

私が訪れたオアハカ州はメキシコ国内でも、特に死者の日が盛大に祝われることで有名だ。10月30日の開会の儀を皮切りに11月4日までぶっ通しで、連日連夜ガイコツちゃんたちの大宴会が街を挙げて開催される。この機会を単なる聴衆で終わらせてはつまらない。祭は参加してこそ、そのエスプリに触れられる気がして、さっそく私も街で一時間かけてガイコツメイクを道端でお店を広げるメイクさんに施してもらい、カトリーナに扮してパレードに参加した。

これがなんとも不思議な経験であった。
まず、パレードは一つではなかった。

街のランドマークであるサント・ドミンゴ教会のすぐ脇を通るメインストリートを中心として、そこから縦横に伸びる細い道に、大小さまざまな集団がそれぞれ驚くほど異なる装いで街を練り歩いていた。ドクロだらけの巨大なダンスフロアを想像して行った私はそこで、この祭りを世界に知らしめたドクロアイコンでさえ、死者の日のほんの一部であることを知る。

ドクロ集団はもちろんいる。サンブレロ(メキシコのつばの広い帽子)にフリルのついたシャツ、派手なメイクで着飾った男女がブラスバンド隊の音楽にあわせて、街頭で踊り狂っていた。これに参加していたのは、比較的若いメキシコ人と観光客。


ひだのおおきな円形スカートをクルクルとまわしながら踊る女性たち
そんなパーティー集団が前を過ぎていったかとおもえば、すぐ後ろに厳かな面持ちで、マリア像と十字をかかえて、神父とともに白装束でゆっくり教会に向かう集団がいる。


神父を先頭にマリア像を掲げて聖堂に向かうカトリック信者

かと思えば、一本道をまがると、男性は上半身裸、女性も裸足の先住民の集団が頭には鳥の羽をつけ、お香をたきながら煙のなかで、激しいドラムのビートで回転しながら、なにかの儀式を行っている。


息が切れようともステップを踏み、旋回し続ける先住民のグループ。今にもトリップしそうな独特な雰囲気

先住民の集団は羽をふんだんに使った衣装が華やか

さらに曲がってみると、今度は母親に手を引かれたこどもたちが、バットマンやプリンセスの仮装をして、完全にハロウィンのノリで、私の前に走ってきては"Trick or Treat!"とかわいらしく叫ぶ。


魔女っ子コーデで揃えたハロウィン・ノリのティーネージャー
驚くほどに多様なスパイスが放り込まれた坩堝のような怪しげで奇々怪々なその光景に私は面をくらった。

その愉快で奇怪な雰囲気はなかなか筆舌に尽くしがたいのだが、
例えるならば、阿波踊りを観にきてみたら、実際はそれに加えて、サンバとブレイクダンスとソーラン節を踊る集団が、全部隣り合わせで、目の前に広がっていた、みたいな感覚である。

何に最も驚いたかといえば、踊っている誰もそのごった煮状態を疎ましく感じていないようであったことである。外からきた我々からすれば、思わず視線を止めてしまうその不思議な光景も、参加者にとっては、この祀りの所与として、滑らかに流れるように眼前をすぎていっているようだった。

目に飛び込む鳥の羽、肌で感じるドラムの鼓動、遠くで鳴るブラスバンドを聴きながら、ようやく腹落ちした。

そう、メキシコの死者の日は、オープンイノベーションなのである。
オープンイノベーションとは近年、特にテック系分野で一種のモードとされる開発手法である。語義が示すことそのままに、イノベーションの過程を組織内に留めず、その生成過程を自ら露わにし、組織外のアクターを積極的に巻き込んでいく手法である。一つの集団のある程度均質化が進んだ組織の中にアイディアを閉じていくのではなく、積極的に外に、外に開いていくことで、よりクリエイティブにしていこうとするのが、その理念の根幹にある。

死者の日は歴史とともに塗り足されていく異なる文化や伝統、目的をすべてその懐に擁して、お互いを排除することなく、また祭の解釈を大きく変えることをしないままに、新しい機能を次々と乗せていった祭りなのである。

ホブスボームが「作られた伝統」について書いたように、どこの文化や伝統も実は変化の中で形作られている。伝統と思っていたものが、じつは新しかった、というのはよくある話だ。しかし、それでも死者の日の特異性は強調せざるを得ない。

想像してみてほしい。日本の灯篭流しで川に灯を浮かべる人たちの横に大音量のストリートダンサーが来たら、それは許容できるだろうか。もっと言えば、その共存を一過性のものではなく、慣習として根付かせることができるだろうか。日本に限らず、「厳かな雰囲気を害する」という一言でそれを許さない文化のほうがむしろ容易に想像がつく。しかし、メキシコではそれが十字架の行進と屋外ハロウィンパーティーをしにきている若者の状況はまさにそのようなアナロジーそのものだった。

死者の日は元々冒頭に述べた通り、マヤの時代までさかのぼる土着の宗教の中で育まれてきた祭りだ。死者への信仰は、古くは2500-3000年も前のにその起源を辿るとさえ言われる。
その後、15-16世紀、アステカ文明が栄えた時代、
黄泉の女王であり、死の婦人の愛称で親しまれる「ミクトランシワトル」への信仰が、この祭の原形になったのだそうだ。
古来から受け継がれるその信仰では、一年のうちこの4日間だけ、死者はその家族、友人、親しい者に逢うために、地上に降りたつと信じられている。
そのため、11月1日、死者の日が開宴される晩に、人々は家族で墓地に訪れ、マリーゴールドを備えて、今年もよく帰ってきてくれた、と死者を華やかに迎える。
死者の日の間、墓地に訪れると、目下は一面鮮やかな黄色でうめつくされ、献花の甘い香りがほのかに鼻に触れる。


死者の日期間中の墓地は見渡すかぎり花でいっぱい

墓石を洗う女性たち
一年に一度、やっと会える親しき人を迎えるのだ、もちろん訪れる人々は皆華やかに着飾っていく。
夜の暗闇のなかでもキラキラと光をとらえるスパンコールに、目元を彩るメイク、幼い子たちはドレスや小さなスーツを着ていたりする。

メキシコの死への考え方は少し仏教にも似たところがある。
死者は幾度も次の命へと生を繰り返すと信じられている、輪廻と通じる考え方だ。
ただし、輪廻と異なるのは、メキシコでは甦った先の生がつねにひとつ前よりも良くなる、と信じられていることだ。
なんてポジティブな考え方だろう。
陽の光をいっぱいに浴びて、太陽を信仰するメキシコの人々らしい考え方だ。
そう。つまり、死は新たなより良い生への転生を意味する。
だから、メキシコにおいて、ガイコツのモチーフは縁起が良い。
「人生昇格おめでとう!」そんな心持ちを感じさせるめでたさがある。

16世紀になると、コロンブスが大航海の末、アメリカ大陸という歴史的な「発見」をすると、
欧州列強による侵攻がはじまる。
メキシコには1519年にエルナン・コルテスが上陸し、わずか2年後にはアステカ帝国はスペイン軍のもとに陥落する。
その後、長いスペイン統治とともに、この国に入ってきたのがカトリックの信仰だ。
そのカトリックにおいて、11月1日は諸聖人の日(Toussaint, All-Saint's Day)だった。
聖母マリア、すべての聖人と殉教者に祈りがささげられる日である。
偶然とは思えない数奇なめぐりあわせである。
そのため、カトリック信仰がメキシコで広まるとともに、11月最初の日にはこの諸聖人の日を祝う習慣も徐々に伝わっていった。
そう、キリスト教の伝来とともに、メキシコはこの諸聖人もろともこの祭にとりいれてしまった。
この諸聖人を祝っていたのが、私が道で聖母像とともにゆっくりと列を成していた一群だ。
一方、羽飾りをつけて、太鼓の鼓動とともに舞っていたのは、先住民文化を祝祭するために訪れていた人々である。

1912年になると、Jose Possadaという風刺画家が一世を風靡する。
このころになると、メキシコはその植民地化の影響もあり、かなりの階層社会と化していた。
当時の貴族階級はヨーロッパへの憧れと羨望から、
その一部になりたいと、必死でヨーロッパ文化をとりいれ、マネようとした。
その装いから、食生活から、生活スタイルまで。
Possadaはそんな貴族階級の必死な姿を嘲笑し、
ツバの大きな帽子に、花を挿し、派手なドレスで着飾った女のガイコツとして描いた。
彼はこれをカトリーナと名付け、本当の文化に肉付けされていない彼・彼女らを表面的でからっぽな骨ばかりな姿に風刺した。
このカトリーナのアイコンは、その後メキシコ現代美術の巨匠ディエゴ・リベラの「アラメダ公園の日曜の午後の夢(Sueno de una Tarde Dominical en la Alameda Central)」という壁画作品に引用されたことで一躍世にしられるようになる。


PosadaのCatrina(Posada Art Foundation より)


ディエゴ・リベラの「アラメダ公園の日曜の午後の夢」
(Sueno de una Tarde Dominical en la Alameda Centralより)
瞬く間にこのアイコンはその愛らしさ、皮肉を帯びた滑稽さから、
人々に愛されるようになり、「ガイコツ」という共通項からさっそく死者の日の新たなモチーフとして取り入れられるようになる。今も街中にあふれるガイコツモチーフはこのカトリーナをかたどっている。特に各家庭に祀られる裁断や、花びらで象ったモザイク画はこのカトリーナをおしゃれに模したにものが多い。
その後、メキシコが移民の流れ、貿易を通じて加速度的に経済的にも社会的にも米国との距離を縮めていくにつれ、ハロウィン文化が徐々に同国に浸透していった。祭の時期が近しかったこと、さらにはガイコツがハロウィンにおいても一般的なモチーフであったことが偶然にも重なったことで、この米国の風習も当初からそこにあったかのように、いつの間にかこの祭の一部となり、変装とTrick-or-Treatは死者の日の新たな習慣としてその吸収されていった。



過去一年、愛する者を亡くした家族がつくる花びらのモザイク絵
私を驚かせた街頭での異様なカオス、うねるようなエネルギーを発していたあの光景は、まさにその混交と進化が生み出したスペクタクルだったのだ。オープンイノベーションのごとく、その文化的な進化を様々な力にゆだね、驚くほどの寛容さで受け入れてきた死者の日は、様々な信仰や慣習、シンボリズムを、自らの血潮としてその身を巡らせている。人はそれを文化の侵略や帝国主義と呼ぶかもしれない。しかし、変化や再解釈を恐れず、それを侵略どころか、自らのものとしてしまうメキシコには憧れるほどのしなやかさがある。
さて、今ではすっかりメキシコの風物詩となったカトリーナのフェイスペイント、自らもそれを施して街頭に向かうことに決めた私は、その起源がどこまで辿られるか聞いてみた。
「カトリーナメイクかい?あんなもの俺が若かったことは誰もしてなかったよ、せいぜいお面くらいじゃなかったかな」30代半ばのタクシー運転手は幼少期を振り返りながら言った。
「2015年に公開された『007スペクター』があるだろ?あの冒頭のパレードシーンで、死者の日は一気に有名になったんだけどさ。あの映画の演出でたまたまエキストラにはみんなドクロメイクをしてたわけ。その次の年からだよ、みんな一気にカトリーナメイクをしだしたのは」

あまりにも驚いて、一瞬まともに反応が返せなかった。
私をはじめ、多くの観光客が追ってきた死者の日の圧倒的代名詞と思われたドクロの行進、これこそも、自らを映したフィクションを逆輸入してしまったこの祭りの最新のイノベーションだったのである。嘘からでた真、とはこのことなのだろう。
メキシコのオープンイノベーションは常に私たちの想像の先を行く。


今ではすっかり祭りの代名詞になったカトリーナメイク

女友達で衣装をお揃いにしている子も多い

そういえば、今年公開となるピクサーの最新作、『Coco(リメンバー・ミー)』はこの死者の日を題材としたストーリーだ。きっと来年からの死者の日には、ギター少年のミゲルくんや、ガイコツのヘクターが街のかしこに現れるのだろう。

風物詩の大きな祭壇も来年はリメンバー・ミーのモチーフが紛れ込んだりするかもしれない


2016年5月11日水曜日

メコンの向こう岸までパンを買いに -越境からみるラオス-

旅行においては国境の形骸化を感じることのほうが多い。特にそれが地続きであるとき、地図にみえるその線は、広く広がる地平にたてられた人為的な柵の様にさえ感じる。イランのイラク国境にあるクルディスタンにいって、フランスのドイツ国境の町、アルザスにいって、国境の意味を感じるよりも、それがいかに後付けであるかを感じることが常であった。

しかし、タイからラオスに渡って感じたのは象徴を超えた国境だった。
メコン川は二つの国を分かつ流れる境だ。
私たちが出発地としたノンカーイはタイのラオス国境にある小さな町である。この町が位置するイサーン(タイ東北地方)はタイの中でも最も貧しいことで知られており、バンコクで働く家政婦など、出稼ぎ労働者はこの地方出身であることが多い。現に私たちがバンコクの長距離バスターミナルに向かうとき、乗ったタクシー運転手もイサーン出身のタイーラオ・ハーフだった。たった今、ノンカーイは小さな町だと書いたが、実をいうと、「小さな町である」というのが、私のこの町に対する「イメージ」であった、というほうが正確だ。バンコクから10時間バスに揺られながら、私は水牛がのそのそと歩き、太陽のひかりで水田の水面が光る、そんな田園風景を思い浮かべていた。実際のノンカーイは、高層ビルこそ立っていないものの、水田は見当たらず、それどころか、賑やかな商店街に、いくつもの宿泊施設が立ち並ぶ大都会だった。バンコクと比べて一番目についた違いいえば、メインストリートを滑走していくのが、タクシーではなく、三輪バイク(トゥクトゥク)であること。それだって、私が住んでいた10数年前は、バンコクでも見慣れた風景だった。

ノンカーイ市内のカフェ。青山にあると言っても驚かないおしゃれさである。
拍子抜けしたというのが正しい表現なきがする。
アジアの田舎の原風景を見に来たつもりが、なんだか、たどり着いたのは、中堅地方都市だった。そんな感覚だ。 泊まっていたのはタイ好きが高じてノンカーイに移り住んだ欧米人が経営するヴィラだった。メコン川沿いに座って足をぷらーんぷらーんさせていると、向こう岸からラオス側の音が聞こえる。ラオスの鶏の鳴く声、ラオスのバイクを吹かす音、それが背後のタイの屋台の音と重なり、ストンと耳に落ちていく。

長い長い滑り台を伝ってラオス行きのボートに乗せられていく貨物
ノンカーイとヴィエンチャンを結ぶのは、オーストラリアの援助で建てられた「タイ・ラオ友好橋」。出入国の手続きで時間が多少とられるけれど、越境バスにものの数十分も揺られれば、ラオスの首都にたどり着ける。聞けば聞くほど、ラオスとタイの違いはなんなのかよくわからなくなってきた。直前にみた映画「ブンミおじさんの森」(2010年カンヌ映画祭・パルムドール受賞)においても、ラオ人の雇われ人に対して登場人物が、「あいつはイサーン訛りが強いな」「彼はラオスからきてるんだ」なんてシーンがあったりする。ラオ語のアルファベットも少しヘニョヘニョしたタイ語のようで、一見区別がつかない。

脱力感のあるタイ語にみえるラオ文字。仏領だったラオスではラオ語の次にくるのはフランス語なことも少なくない
私たちが滞在していたヴィラで、一番良い入国方法をオーナーに聞いてみると、「やはりバスがいいと思うよ。」と答えたあと、すぐに彼はこう付け足した。
「でもね、はっきり言って一日ラオスで過ごすくらいだったら、ノンカーイ近郊で行けるところの方が断然充実していると思うよ」

 私「でも、どうしてもヴィエンチェンに行きたいんだよね。見所はなにかな?」 
欧米人オーナー「まー、例えば凱旋門(インドシナ戦争終結記念)があるでしょ。でもはっきり言ってコンクリの固まりにしかみえないから」(関係ないが、このオーナーはややフェミニンで、いわゆる毒舌オネエ風だった)
「あとは、タート・ルアンっていう通称”黄金の塔”があるんだけどね。はっきり言って、黄金っていうか、チープなオレンジ色してるから!まぁ、きっと途中でやっすいペンキで塗り替えたのね。まじでオレンジだから」 
「あとは、ほらヴィエンチェンに珍しいものと言えば、フランス料理かな?めっちゃ、シャレたフレンチ食べにいくのはいいかもね。でも、はっきり言って、”そんなに払うの?"ってかんじだよ。高いね。」
 「悪いこと言わないから、ノンカーイ郊外にしておけばいいじゃない?」

とにかく猛烈にまくしたてられて、私たちも「ぽかーん」としてしまった。 (まぁ、その理由の一つには日本人以外の多くの欧米人は入国税だけで、30ドル以上かかる、ということもある。それがますます「コスパ」を悪くしているらしい)

さて、オーナーがこんな具合で大した情報もくれなかったので、何を期待して良いのかもわからず、私たちはとりあえずバスに乗ってラオスに向かった。国境は街の中心からすぐだ。とても簡易な出入国を終えて、いざラオス入りをする。バスが入国審査を終えた乗客を再び乗せたバスが走り出すと、さっきまでなかった土ぼこりが舞った。ラオ側では道路が舗装されていない。「まぁ、ここは国境際だから」と思ったが、窓の外を見つめていると、気づけば土ぼこりを通してみる景色はすでにビエンチェンだった。
バスターミナルに降り立ち、市内に出ると、その次に目についたのは、旗だった。至る所に国旗がかかっている。国旗が多いのは、王への忠誠心が強いタイでも珍しいことではない。しかし、ラオスではほぼ必ずと言っていいほど、その隣には、黄色い「鎌と槌」を据えた真っ赤な旗がなびいていた。共産主義の赤旗である。

街中にはためく国旗、写真ではよくみえないが、だいたい赤旗がセットになっている
はっきり言って、昨今、王道の赤旗を観ることは多くない。
私は中国にはいったことがないが、例えばヴェトナムではかつてのプロパガンダポスターの絵の中や博物館などの展示品であの旗をみることはあっても、ハノイの中心街にそれがバサバサとなびいている様をみることはない。ロシアも軍事パレードなどでは赤旗をはためかせているのかもしれないが、TVで観る限りは街中でそういう光景は観た記憶はあまりない。 忘れていたが、ラオスは共産主義であった。いまもラオス人民革命党という、「いかにも」な名前の政党が一党支配体制を築いている。しかし、ヴィエンチェンの街を歩いて感じられるのは、国の権威や革命的士気とは違った。

ヴェトナムにあるような先にも触れたプロパガンダポスターや、キューバで見かける闘争心溢れる革命スローガンでもない。それよりも原始共産主義に近い。シンプルにいえば、牧歌的なのだ。首都に来ているというよりも、田園地帯の真ん中にできた市場にきたような感覚に近かった。
単純に驚いた。
タイで最も田舎と言われる地方よりも、一国の首都の方が田舎だったことに。
川一本で隔てられている「あちら側」と「そちら側」がこんなにも違うことに。



例えば、バスターミナルのすぐ横にあるタラートサオ。
越境バスまでででているのだから、東京で言えば、新宿バスターミナル、くらい位置づけか。そこに広がる市場は、歩道のど真ん中、地べたにお店を広げている人が多い。そんなの、途上国ではよく観る光景だろう、と言われるかもしれない。しかし、そんなことはない。私が驚いたのは、この市場の大半がその日かぎりの仮設であったということである。風呂敷一枚でお店を広げている。こんな光景、バンコクにはもちろんなければ、その他多くの国でだって、首都の交通の要所ど真ん中でみることはそうそうない。あったとしても、せめて簡易机を出した日用品の露天だ(露天街は野外であるというだけで、簡易に折り畳める常設であることが多い)。私がこういう光景を目にしたのは、例えばフィリピンの山岳地方やボリビアの首都から数時間離れた田舎である。
帰国後少し調べてみると、インドネシアのフローレスの山間の人々、インド東北、ミャンマー山地帯の村の生活との類似性も指摘されているよう。

そう、ヴィエンチェンは山岳地方の商空間にとても似ていた。



タラートサオで、おばちゃんたちがイス一つ、風呂敷一つでお店をひろげる
 その印象はあながち間違っていなかったようだ。ラオスの風土に特徴的なのは、その人口分布にあるという。山がちなラオスは人口の集中する地域がない。隣国のベトナム、カンボジア、タイではそれぞれ大河(紅河、メコン、チャオプラヤ)沿いのデルタが栄え、それが、政治と経済の中心を成している。しかし、ラオスの場合は山間を縫うようにして集落ができており、人口密度も1㎢なんと24人である。(ちなみにベトナムは256人、タイは132人、最も近いミャンマーでも74人とラオスの3倍以上ある)。森林面積は70%弱と、マレーシアと並んでASEANで最も広い。それぞれの村が離れており、それらの集落は市場などの商空間を通じて交わりを持ってきたのが伝統的なラオス社会である。村で農業を営み、それを山間に持っておりて、少し売買して、また村にかえっていく。そんな姿が思い浮かぶ。

想像するに現在のヴィエンチェンの市場もいまでもそのように、機能しているのではないか。机を出してる簡易商店は市内に住む人がだしているのだろうが、風呂敷のおばちゃんたちは、それこそバスにでも乗って市街から、たまに来てるのではないか。週一くらい市場に売るための野菜をえっちらおっちら持ってきていて、普段は自分の畑のそばに住んでいる。これが、本当にそうだとしたら、まさに山岳地域の生活だ。

そんな市場の常設パートのほうに目を向けると、フランスパンが山積みになっているのが目に入る。そう、ラオスは旧仏領でもある。タイ人に「ラオスらしさってなんだと思う?」「ラオスのタイと違うところは?」と聞くと大抵「フランスの影響があるところ」と答える。タイはインドシナで唯一「植民地化されなかった」プライドやメコン流域でいち早く経済発展を遂げたこともあり、ラオスを自分の田舎バージョンだとおもっている節がある。冒頭の完全に親泰化したアメリカ人も「ラオスでいいものはフランス料理くらい」とか言っていたことからも、その対ラオイメージの一片を感じられる。

私と友人はそこでバゲットサンドを注文した。そのときの言語はタイ語だ。
私たちとラオ人の共通語はタイ語なのだ。
私のタイ語が十数年前からの残像で、片言なのはさておき、なるほどこの地域において、「タイ性」とは一種の権力性をもっているのか、と気づいた。はじめ、バスでラオス入りしたとき、乗車していたのはほとんどがタイ人だったのだが、ドアが空いた瞬間、降りるタイ人をラオス人の客引きがドッと囲んでおり、「そうかラオスではタイ人は田舎出身でも都からきた金持ちなのか」と驚いた。私たちがわたってきた、タイーラオ友好橋の完成はヴィエンチェンを一気に外に開いたという。タイ人のみならず、タイを経由する私たちのような外国人が急に増えたからだ。ラオスにとってタイは大海への窓を提供する都なのかもしれない。

山積みのバゲット。もちろん自家製
そう、ラオスは常に覇権の中でその身をたてようとしてきた国なのだ、とそこで気づく。メコンの盟主タイの周縁として扱われ、フランスの植民地となり、共産圏のはしくれとして、中国、ソ連、ベトナム、どれにも付きすぎず、離れすぎずの距離を持ちながら、そのアイデンティティーを狭間の中で形成してきた。街中に赤旗が溢れていたのも、それが理由かもしれない。ラオスの共産主義は経済政策的というよりも、外交政策といわれる。実体として、社会主義が完成していくよりも、それを「標榜」することがとてもラオスにとって大事なのだ。街中に赤旗をはためかせ、対外的に自らの共産アイデンティティーを顕示し、その「一味」として認めてもらうことこそ、ラオスの共産主義の大意義なのだろう。
地元のこどもたち。文化会館で踊りの発表をしていたらしく、メイクをした顔が、嬉しかったり、恥ずかしかったり。
 帰り、暗くもなってきたころ帰りのバス乗り込む。再び、メコンを越えながら、窓の外をみると、河の向こう岸にあるタイの河岸が、街頭や建物の灯りに照らされるのに対して、振り返ると見えるラオスの河岸はとても静かで灯りも少なかった。

ヴィエンチェンにコンクリートのださい門とフレンチしかないなんて、嘘だ。
このほんの数キロにある両岸の違い、それは踏みしめて越えなければわからない境界だった。
メコンの川の音ききながら、頬張るバゲットサンドはどの岸でたべても美味しかった。

メコン川をはさんで向こう側にみえるのはラオス

2015年5月31日日曜日

モザイク模様のアイデンティティー

イランは国内の地域色が豊かな国だ。
国境をイラク、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタンと接しており、多様な文化圏との繋がりをもっている。

今回私が旅をしたのはこんなルート


A:Teheran→B:Marivan (Kurdistan)→C:Hamadan→D:Esfahan→E:Shiraz→F:Yazd→G:Teheran

どの都市も筆舌に尽くしがたいほど、素敵な場所だったのだが、独特の魅力をもっているなと思った都市について少し書いておきたい。

一つは、Marivan。私がテヘランの次に向かった街。
Marivanはイラク国境際のクルディスタンにある村。クルディスタンとは、「世界最大の国家を持たない民族」とも呼ばれるクルド人が住んでいる地域である。その居住地域は、トルコ、イラク、イランにまたぎ、それが一つの国となればフランス国土に匹敵する広さとも言われる。特にトルコでは厳しい弾圧と迫害にあっており、分離運動がたびたびトルコ軍と衝突を繰り替えてしている。他方イラクでは自治権を有しており、イランでは自治権はないものの、コルディスタン州という行政単位として認識されており、トルコほどの差別はないが、独自の文化圏として認識されている。

私がクルドについて、はじめてきちんと学んだのは大学一年生のとき、中東研究者の先生のテーマ講義であった。そのとき、先生が語っていた人情に溢れるクルドの村での思い出はとても印象的で、私もいつかこの地に足を運べないかと頭の隅で思っていた。

クルディスタンには、ガイドブックを色鮮やかに飾るような建築物やランドマークはない。でも、訪ねる者を全力で歓迎してくれる人がそこにはいる。


日本に比べてとても乾燥しているイランだが、クルディスタンはとても青々としている。
小高い丘に上るとそこには、原っぱに湖、花畑が広がる。





村を歩いている私たちはすぐに村の人の目を引いた。イラン人/クルド人は本当にいろんな顔立ちの人がいるので、欧米人であれば歩いているだけでは目立たないのだが、なんせアジア人顔はほとんどいない。小さな小さな子供でさえ、はじめて見た、顔が平たく、目が細いわたしの顔に驚いている。気づけばあっと言う間にあちこちの家から人がでてきて、「どこから来たの??」の嵐。子供たちはペルシャ語もクルド語もはなせない私と友人に駆け寄り、一生懸命なにかを話しかけてくれる。気づけば手を引かれ、村中を案内されていた。

子供たちとはしゃいでる姿をみて、一層警戒心が解けたのか、そこからは通る道、曲がる角ごとにお茶に誘われた。
何軒かのお家にはお言葉に甘えてお邪魔したのだが、なかでも、特に印象にのこったのが、ある7歳の男の子。村のほとんどの人がペルシャ語とクルド語しかはなせない中、彼は学校で習っている英語を総動員して、家族と私たちの間をつなぎながら一生懸命私たちと会話をしてくれた。Marivanの印象をきかれ、「とても素敵な街だね」と答える私たちの言葉にKianooshという名の彼は顔をほころばせ、「Yes! Marivan is very very very clean!!!」と満面の笑みで何度も言っていた。彼のいうとおり、Marivanは街中もお家の中もとても整然としていた。お邪魔したお家はどこも、床の上に無駄なものがほとんどなく、部屋の空間をとても広く使っている。店が並ぶ道路脇もごちゃごちゃしておらず、店先でおじさんたちが日向ぼっこしているようなピースフルな場所だ。


暖かいチャイとほっぺの内側がキーンとなるほど甘いスイカをいただいていると、お母さんがクルド衣装まで出してきてくれて、色鮮やかなクルドのドレスをわたしに着せてくれた。お家を去るときには、これを日本にもってかえってほしい。とまで言ってくれて、さすがに受け取れないと断ったが、「また、クルディスタンに来るのよ」と手を握りながら何度も言っていた彼女が忘れられない。




イランは本当に東西の間に位置するのだなと思うほど、色々な顔立ちをした人がいる。気のせいかもしれないが、クルドは特にその多様性が多いと感じた。金髪、黒髪、栗色の髪から、目の色も緑、茶、青まで本当に一瞬どこにいるのだかわからなくなる。
国境を越えて広がるクルディスタンは通商ルートとしても重要である。先の投稿で、テヘランガールズの飲酒事情について書いたが、多くのお酒は私が訪ねたイラク国境を越えて入ってきているようだ。イラク側では自治権が与えられていることもあり、イラン−イラクのクルディスタンは治外法権とまではいかなくとも国家の境界に妨げられないボーダーレスな関係が構築されているようだ。私たちが訪ねた二つ目の村では、町内会の方のお宅でネギ焼きをごちそうになったのだが、ここのお父さんも毎日イランーイラク間の運搬業に携わっているそうで、そこに「国」の感覚はあまりない。



クルド人のトレードマークのクルド・パンツ。股上が深いダボダボパンツ。
サルエルパンツ人気はここに端を発したと私は信じている。
もう一つ、印象的だった街がヤズドだ。先のクルディスタンとは打って変わり、乾燥地帯と岩砂漠に囲まれている街。
ここはゾロアスター教の聖地として有名な街である。
普段聞き慣れない宗教だが、有名どころだとバンド・Queenのボーカルのフレディ・マーキュリーがゾロアスター信者だった。


ゾロアスター教の歴史はイスラムよりも古く、紀元前6世紀、アケメネス朝のペルシャに遡る。一説にはユダヤ・キリスト・イスラムのアブラハム系宗教にも強く影響したともされる。教義は二元論を基礎とするもので、光と闇、善と悪が拮抗する世界を描く。ゾロアスター教は拝火教とも呼ばれるが、これは彼らが光に神聖な意味をもたせ、礼拝の時に必ず火をともすからである(そのため、性格には「火」を拝んでいるのではない、とゾロアスター教徒には念押しされた)

またアニミズム的な性格も強く、自然を大地、空、などの要素によって捉えている。ゾロアスターについてもう一つのイメージが鳥葬であるが、遺体を鳥がついばむがままに任せる、この行為は霊魂が文字通り天に昇華されるための慣習である(鳥葬自体は200年前ほどに廃れ、1930年には正式に宗教権威が禁止を言い渡した)


鳥葬場は「沈黙の塔」と呼ばれる。(上)はヤズドの沈黙の塔。(下)は頂上の遺体を据えていた場所。
ゾロアスター教徒は現在世界で15万人ほどいると言われており、そのうち10万ほどはインドに住んでいる。残りの5万のうち3万ほどがイランに住んでおり、そのほとんどがヤズド近辺に住んでいると言われる。7世紀にイランがイスラーム化されてから、それまで国教であったゾロアスター教は一変してマイノリティの宗教となる。


ヤズドの見所の一つ。カルナック。何と4000年前から20年ほど前まで人が暮らしていた小さな村。
街の建造物すべてが土レンガでできており、砂漠気候のヤズドで夏は涼しく、冬は暖かくなるようにできている。
(下)は案内してくれたゾロアスター教徒のドライバー兼ガイドさん

断絶を挟みながらも国教が長らくイスラムであるイラン/ペルシャにおいて、ゾロアスター教徒の立場はつねに危うかったが、その習慣や教義は多くのイラン人に愛されていると感じた。例えば、イランが年間もっとも盛り上がる行事の一つに、ペルシャ正月であるヌールーズがあるが、これは元々ゾロアスターの習慣である。クルド人にも広まったことで、いまは彼らを媒介して、クルド文化としてトルコやイラクのクルド人でも祝われている。また、ゾロアスター教のシンボル、プラヴァシは少し気に留めるとあちこちで見かける。私が泊まらせてもらったテヘランっ娘のお宅の冷蔵庫にもプラヴァシのマグネットが貼ってあった。そして、誰に聞いてもこのシンボルの意味やゾロアスター教の教義の基本をよく知っている。「ゾロアスター教徒」という人の数は減れど、その考え方や習慣は一種の道徳として人々に享受されている。そんなところが、日本における神道や中韓における道教にとても近い、という印象を受けた。


ゾロアスター教のシンボル、プラヴァシ


事実、私たちを案内してくれたゾロアスター教のお兄さんは「ゾロアスター教はとても柔軟だし、排他性をもたないんだ」と言っていた。「ゾロアスター教には教典があるけれど、別にそれは硬直的なものではなく、教義の解釈は頻繁に行われ、柔軟にかわっていくんだ」と。彼いわく、ゾロアスター教では、現代にはいってから、輪廻の考え方も否定しないとの立場を明らかにするようになったといい、これは当初の教典の教えの中で明示されていないことらしい。加えて、イスラム教以外の宗教とは両立を認めているらしく、他の宗教の信徒として入信したとしても、その人はゾロアスターであり続けてよいのであるとか。お兄さんも11年前に仏教徒になったのだと言っていた。毎日瞑想はかかさずおこなっており、「仏教の自分と向き合うことで自らを高めるという内省的な面に惹かれた」そうで、自分の外ではなく、自らの内面に思いを照らすそのピースフルな考え方はゾロアスターの教えとなんら反発しあうものではない、とのことだ。


ゾロアスターの聖地の一つ、チャックチャック。その昔王女が逃げ込んだ場所と言われ、礼拝所に滴り落ちる雫のチャックチャック(=ポタポタ)という音が王女の涙になぞらえられる。6月には世界中から信徒が集まるそう。(上)火を灯す礼拝台、(下)乾燥したヤズドでこの場所は不思議とわき水が絶えず流れており、その雫の音、湿った空気は確かに神秘的。
イランはイスラーム革命を期に、アイデンティティーを宗教で形成するようになり、物理的な境界をもつナショナル・アイデンティティーは陰を潜めてきた。現に革命とともに、ゾロアスターの教義を教える宗教学校もすべて取り潰しになり、その教えの伝承は一般家庭に人を集めて細々と行うよりほかなかった。また、政府からは実質的にその存在を否定され、制度的にも抑圧されてきた。
信徒に特定の行いを義務づけることがイスラームにくらべ少ないゾロアスター教では、飲酒も許されている。私たちを案内してくれたガイドさんは、一年前ビール一杯飲んでいるところを、風紀警察に見つかり、地裁で「むち打ち150回の判決」を受け、鞭にうたれた腫れで数ヶ月、普通の姿勢で眠れなかったそうである。ヤズドという地域にたいして、イスラーム体制がどのような姿勢をむけてきたは定かではないが、テヘランの子がお酒7リットルをもっていて、一晩留置所で過ごしておわりだったことを考えると、彼の出自が関係したのではと思わずにはいられなかった。また、他の都市の自由な気風をみていると、鞭打ちや石打ちなんか本当にあるのか⁈、等と思っていたが、自己体験としてこんなエピソードが本人の口からひょうひょうと語られるのを聞くと、そのリアリティーにハッとする。イラン国内に存在する果てしないギャップに、キンキンと耳が奥から響いた。




乾燥地帯のヤズドでは、熱い夏、冷気を入れるための煙突(バードギール)がたくさんある。(上)(下)は野菜などを貯蔵していた製氷庫
しかし、近年、イスラーム体制に対する信頼の低下をうけ、イランでも、ペルシャ・ナショナリズムが復興しつつある。イラン人はペルシャの誇りを強く持っている人々であるが、その中でも、アケメネス朝をはじめとする、ペルシャ帝国の栄華はその華を飾っている。その時代から連綿とつづくゾロアスター文化を大事にする傾向は以前にもまして高まっているようだ。



ヤズドとクルディスタンはどちらも、目の覚める様なモスクや、華やかな広場がある場所ではない。でもこの地域にわたしはペルシャの奥深さとモザイクの様に鮮やかで、しかし一筋縄にはいかない多様性の一片をみたきがした