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2022年6月15日水曜日

平成最後のぶち上げ全部盛りの宴 -Moulin Rouge!を観て-

演芸、もしくは芸術を目の前にして、その凄さを前に思わず笑てしまう、という経験はあるだろうか。 Dear Evan Hansen をみて息を呑むような瞬間を体験したり、マチルダで反逆的な解放感を味わったことは今も色濃く記憶に残っているが、実はなかなか思わず「笑てしまう」経験はなかった気がする。 ムーランルージュは一曲目のWelcome to the Moulin Rouge! から呆気に取られて声にだしてケラケラと笑ってしまった。隣を見るとパートナーも「うわぁ…な、なんやこれ」という顔をして口を開けて笑みをこぼしている。 昨今のミュージカルは引き算の巧さを競うように出してきた作品が多いように思う。10人満たないキャストで演じ通すDear Evan Hansen, ハモリの美しさを前面にだしてピアノとギターの中心にしたミニマルな演奏のWaitress、時代を代表する傑作と言われるハミルトンもたとえばセットや衣装はモノトーンでとてもシンプルだ。派手な印象が強い芸術、ミュージカルだが、近年は闇雲な派手さよりも、引くところをグッと引く演出こそが巧みである、という共通見解があったような気がする。

そんな時代にMoulin Rouge! は突き抜けた足し算演出で殴り込んできている。ミュージカルを観たことある人も、ない人も、舞台エンタメ(コンサートなど含む)でおおよそ考えうる演出と効果は全て放り込まれている。 一曲目の曲末にはキラキラの紙吹雪、ド派手でラメだらけの衣装、それに続く舞台で爆発する花火、ワイヤーで天井からでてくるブランコ、紐で吊られるエアリアル、止まっている瞬間が一度もないほど激しく動く振り付け…. 目に飛び込んでくる光と色、アクションの鮮やかさにはエンタメの真髄が詰め込まれている。 驚かされるのは、ここまで「トッピング全部乗せ」なのにこれらが完全にピタリとハマり、整合がとれていることだ。 引き算の演出はその「引き算」の行為自体がテクニックだと思う。しかし足し算そのものはただの浅はかな欲張りだ。それを一流にするには、足し算以上の圧倒的な技術が必要である。 私たちがあんぐり口をあけて、Moulin Rouge! の前に完敗した気持になるのはもちろんのその華やかな舞台効果に五感を奪われるからではあるが、それ以上に、可能だとは想像しようもなかった完成度のバランスが目の前に展開しているしていることに他ならないからだ。 先述のとおり、ミュージカルには元来派手な印象がある。それはミュージカルはそれまでの古典芸術に比して、あらゆる演芸を呼び込んで組み合わせたことに一つの特徴があり、元来多角的に刺激が展開されるからだと思う。そのため、説明しようとすればするほど、「ミュージカルってそういうもんじゃないの?」という問いを受けそうなのだが、実はオタクとして冷静に頭をひねるとMoulin Rouge!と比較可能な作品は現代作品に多くない。そう、現代作品とわざわざ断りをいれたのはここがポイントなのだからである。ミュージカルの元来の派手なイメージを築いてきた古典作品たちは華美で豪勢なものが多くあげられる。Chorus LineFunny Girl Me and My Girl Cinderellaあたりをはじめ、もう少し現代に近くなると歴史的ロングランを続けているPhantom of the Opera等があげられるだろうか。このあたりの作風を現代につなぐ形で牽引してきたのがロジャース&ハマースタインやソンドハイム、今も現役のアンドリュー・ロイド・ウェバー卿などである。しかし、これらの作品が初演の幕を開けてからすでに半世紀近くがたっている。当時の「全部盛り」で使われていた舞台効果はすでに古典の域に入っている。レースやフリルでボリュームを出した華やかな衣装はハミルトンやエリザベート等の歴史ものなのなら当然の様に出てくるし、すごい音圧を放つ重厚なアンサンブルもレミゼやウェストサイドストーリーを見に行けば必ず保証されている。舞台の立体的な展開はオペラ座の怪人に行けば拝めるし、プロのダンサーたちによる圧倒されるようなエネルギーを放つ踊りはCatsChicagoでみることができる。上記は全て「生もの」の講義のステージでは当たり前になってしまった。それぞれの効果を取り上げればそれはむしろ引き算演出の作品でも見受けることができる。

London のPiccadilly Theatre前

しかし、時は50年たっている。圧倒的な「全部盛り」だって革新に革新が重ねられている。現代の本気の「派手派手演出」はそんなものではない。2022年の私たちの派手派手演出のベンチマークはスーパーボールのハーフタイムショーやアイドルのドームツアーだ。Satineの登場シーンの派手派手衣装はブリトニーなみに露出しながら、BeyoncéDangerously in Loveのジャケ写を彷彿とさせるキラキラビジューだらけ。照明はマイケルやマドンナのコンサートばりに強いカラー照明をバッキバキにあてる。オペラ座でろうそくが置かれた地下室をみてかっこいい、と思ってた私たちは舞台上で無遠慮にバッチバチに上がる花火をみながら、「あれ、何でいままでこれってやられていなかったんだっけ?」と思っていることに気づく。そう、引き算のかっこいい舞台がセンスよく、お行儀よくシアターに連なっている間に、「全部盛り舞台」は更新されてきていなかった。無意識の中で演出の限界を更新していなかった自分を一瞬にして自覚させられ、見たこともないようなお祭り騒ぎをみせてくれる、それがMoulin Rougeである。

もう一点、圧倒的に素晴らしかったのが、音楽である。

Moulin Rougeはジュークボックスミュージカルである。オタクの皆様にはおなじみだが、ジュークボックスとは既存の曲を用いて、あとからそれに筋を宛書するミュージカルのジャンルだ。圧倒的に有名なのはMamma Mia、他にはBeautiful Carol King曲)、Tina Tina Turner曲)、最新のものだとMJMichael Jackson曲)が代表的なものとしてあげられるだろう。正直に告白すると私はJukebox Musicalが苦手だ。そもそも過去観たことがあるのもMamma Miaだけだ。それはJukebox作品の音楽は全く有機的にストーリーとつながってないからだ。製作過程を考えれば当然のことだ。既存の曲から作るため、Jukeboxはシーンや感情、セリフが強く制約を受ける。Mamma Miaも結構突拍子もない話だが、他の作品の多くも、どうしてもシーンが歌と歌を無理やりダラダラと繋げる助走のようになりがちだ。しかし、Moulin RougeJukeboxとしてその他の作品と大きく違う点が一つある。ここまで読んで気が付くひともいるかもしれないが、ほとんどのJuke Boxは単一歌手/グループのものに縛って劇中歌を決めているものが多い。多くの場合はその歌手へのオマージュや経緯を込めているものなので当然と言っちゃ当然だ。一方Moulin Rougeはあらゆる有名歌手から曲を引用している。それはいわば「平成最強ポップメドレー」なのだ。Whitney HoustonMadonnaにはじまり、Green DayBritney SpearsAdeleGagaと連なるセットリストはまさに私が人生の大半を過ごした平成を彩る青春ぶち上げメドレーだった(もちろん70年代くらい曲もあるのだが誤差として許してほしい)。ソロデビューをしたビヨンセが腰と拳を振りながら「かっけー!」と思った中学時代、何度闇落ちしても這い上がってくるブリトニーのToxicGreen Dayをアホみたいにみんな聞いていた高校時代、エッジを極限まで極めたGaga様が登場を飾った大学時代が曲とともに全身を駆け巡る。最後総立ちで客席中がジャンプと歓声で揺れるカーテンコールはもう10年分くらいの紅白を生でライブ鑑賞してる気分になって、本当に高まった。30年分のあらゆるポップスの名曲を詰め込んだらそれこそ陳腐なxxx歌謡祭ノリにもなりかねないのだが、それをうまくまとめ、本当にシーンごとにぴったりの曲をキュレーションしている音楽チームは圧倒的な手腕を持っていると言わざるを得ない。

終演後総立ちのカーテンコールの興奮冷めやらぬ劇場内

そして最後にMR!をすがすがしい鑑後感を成しているのが、「強よ強よガールズパワー」なストーリーの再解釈である。Moulin Rouge!は言わずとも知れた2001年のヒット映画である。原作映画もまた色々な芸術作品からの引用をしているが、その一つにCyrano Bergereacというフランスの古典演劇が挙げられる。特にRoxanneという曲はそのまま同作のヒロインを引用している。このCyrano Bergereac自体も広義のロミジュリ・ジャンルを構成しているといわれ、これ自体がかなわぬ恋ストーリーの翻案(アダプテーション)とされている。つらつらと古典作の名を色々と挙げたが、通底しているのは女性が綺麗な飾りものとして、恋や人生の主体性がほぼ男性にしか与えられていないことが挙げられる。映画Moulin Rouge!の場合もキャバレーの専属女優のSatineはあくまで花魁のように小屋やパトロンに所有され、終始彼女が「誰のものか」という観点で話は進む。彼女はあくまでか弱く、華美で切ない客体である。ミュージカル版MR!も基本的には映画の大筋のストーリーを踏襲しているのだが、その解釈は大きく異なる。舞台版においては、女性が圧倒的に強く、彼女たちが自らの選択を握りしめ、抑圧の中でもそれを「クソくらえ」を蹴飛ばしていた。例えば、Satineの登場シーン。Diamonds are a girls best Friend での幕開けは映画と共通しているのだが、そこから続くのはBeyoncéSingle Ladies。「私が欲しいならさっさと指輪もってきなさいよ」と挑発するSatineとダンサーたちは、Black Pantherに扮した2016年のBeyoncé自身のSuperbowlのパフォーマンスさながらだった。

BeyoncéとBruno Mars による2016年のSuperbowl Halftime show

Satineを買おうとする男爵との食事シーンに流れるのも映画のRoxanneから打って変わり、Lady GagaBad RomanceやブリトニーのToxicに合わせて女性たちがバッチバチに息が切れるまで踊る。こんなの恋じゃねぇよ、毒みたいなクソ男と言わんばかりのパフォーマンスが描くSatineや女性たちはもはやただ売られるのを待つ花魁のようなショーガールではなかった。不満には声をあげ、自分の価値はこれよ、と相手の顔面に突き付け、理不尽を蹴飛ばしかねないようなエンパワメントされた女性像がそこにはあった。映画では華美な女性ばかりが舞うダンサーシーンも、すっけすけのストリッパー男性が男女ロール逆転した形で女性とペアを組んでいたり、Lady Marmaladeを歌うDiva 4人衆も豊満なブラック女性や、華やかなドラァグがその一角を成しており、身体性をとっても自らにオーナーシップを持った女性像があふれんばかりに表現されていた。

開演前からずっと踊ってくれている強よ強よダンサーお姉さま

Moulin Rouge!は今や古くなってしまったミュージカルという芸術形態を、そして陳腐な女性像一気に現代に更新してくれる作品だ。元祖「全部盛り」芸術としてのミュージカルの2020年代の姿を、「こういうことでしょ」とマントを翻すようにいとも鮮やかに演出している。そして、平成を生きた私たちの青春、これからを強よ強よに生きていく私たちの背中をドンと蹴飛ばして、リズムをガンガン刻むBeyoncéのように勇気とともに前に送り出してくれる作品だ。

 


2020年2月10日月曜日

Matildaと労働

先日久しぶりに舞台Matildaをみた。私にとっては思い出深い作品だ。初めてみたのは2014年。入社2年目のロンドン出張の時だった。舞台オタクなので、ロンドンやニューヨークに行くときは選択肢が多すぎて頭を悩ませるのだが、その時は迷うことなく、真っ先にMatildaを予約した。

転職して2年も経ったので、closetの中でなくても話せると感じはじめたが、私は前職時代本当に苦しんだ。どんな場所に旅行しても壊したことない胃腸が自慢だったのに、入社半年で逆流性食道炎になり、同じ年の秋には突然の腹痛で病院でそのまま5時間点滴につながれたりした。腹痛の原因は不明と言われた。「理由はわからないが、胃がものすごい炎症をおこしている」と。

食道炎の時と点滴の時のちょうど間くらいだっただろうか、初めての出張をした。その出張が入社以来の私のストレスと辛さを集約したような3日間だった。行き先はインド。ずっと行ってみたかった場所だったはずだった。でもインドについて私が触れることができたのは、ホテルにいたインド人従業員と、2泊で食べたインドカレーくらいだったことに嘆いた。夜、ホテルでベッドに倒れこんでふとYoutubeにあがってきた、Matildaのトニー賞受賞時のパフォーマンスをみた。見た瞬間、仕事着とメイクもそのままにボロボロ泣いた。机の上に上がり、顔を真っ赤にして叫び、ホッケースティックを振りかざし、怒る子どもたちがものすごくかっこよくみえたのだ。

だから、そのちょうど一年後にロンドンでMatildaをみたとき、私は文字通り号泣した。目の前のこどもたちが、私がいえないこと、抑圧されて私の中で窮屈にしている自我を代弁してくれるように感じた。それはある種のカタルシス体験だった。
例えば、School Song、子どもたちが新学期初めて小学校に登校した新一年生たちに対して

上級生が歌う曲なのだが、この曲に込められた皮肉は強烈だ。

So you think you're A-ble 
To survive this mess by B-ing a prince or a princess, 
you will soon C (see),
There's no escaping trage-D .
And E-ven If you put in heaps of F-ort (effort),
You're just wasting ener-G (energy),
'Cause your life as you know it is H-ent (ancient) history.
I have suffered in this J-ail .
I've been trapped inside this K-ge (cage) for ages,
This living h-L(hell),

え、おすまし顔してこのカオスを生き延びられるとでも思ってる?
すぐにわかるよ、この悲劇から逃れる方法なんてないってことを。
どんなに努力したって、それは労力が浪費されているだけ
だって、昨日までの君の人生なんてもう太古の歴史だから。
僕らもこの監獄で苦しんできたんだ
この檻の中にずっととらわれてる
この生き地獄

Like you I was Q-rious (Curious),
So innocent I R-sked (ask) a thousand questions,
But, unl-S you want to suffer,
Listen up and I will T-ch you a thing or two.
U, listen here, my dear,
You'll be punished so se-V-rely if you step out of line,
And if you cry it will be W should stay out of trouble,
And remember to be X-tremely careful.

私だって君達みたいに興味津々だった
無垢な目でいろんな質問したさ
でも苦しみたくなかったら、疑問はなげかけないほうがいい。
だから、一つここはアドバイスをあげるよ、だからよく聞いて
ここでは線を踏み外したら、厳格に罰せられるんだから
泣こうものなら、さらにきつく当たられるよ
問題は起こさないほうがいいよ
だから気を付けて


これは、私が感じてることそのものだった。
入社するまえのワクワク、緊張、自立したことへの誇り、
それを思い出しては、縛られたような窮屈と踏み外してはいけない規律については、
話してはいけないとおもった。
だって、「問題はおこさないほうがいい」から。
だから、舞台でこの曲が歌われているときに、声を潜めて話さなければならないような秘め事を大きな声で堂々と宣言されているような清々しさと感謝を覚えた。
それをほんの7-8歳の子たちが歌っているというアイロニーもすごい。
子どもは学校を楽しんで、行けることに感謝しなければならない、という無言の前提を一気にかき消すような全力の声がそこにはある。
内在した圧力を吹き飛ばすパワフルさがあるのだ。
(余談だが、このSchool Songの歌詞がA-Zの順になってるかっこよさも本当に痺れる)

私の周りをみると、日本人、日本で働いている人に特にMatildaのファンは多いように感じる。上記の私もそうだが、他にも何十も作品をみている舞台ファンがお気に入りの作品にあげたりしている。今回一緒にみにいった私のパートナーも、数か月前に初めてみたMatildaに衝撃をうけ、今回半年足らずで二人で再訪することにした。

日本はいまだ体育会型の厳格な規律が社会を駆動していると感じる。とくに労働において。第二次世界大戦を振り返ったときに、日本は権力が仕組みのなかに埋め込まれており、ドイツやイタリアのような個人のドグマを象徴として敷かれるヒエラルキーや、政治的カリスマに牽引される英米とはことなり、軍、という仕組みそのものが権力となっていたことが、その後の戦犯を裁く際もことを複雑にした、という声もある。(天皇制の理解の仕方にもよるので、あくまで解釈の一つではあるが)その後、日本は製造業を主軸産業とし、高度成長をとげた。一定の品質で生産を大規模化、効率化させていく製造業の性質もこの強い規律に駆動される労働規範に非常に合致していたのだと思われる。
いまや日本のGDPの7割はサービス業が担っている。しかし、日本はその就労文化はいまだ、軍国主義の時代、そしてそこからの大量生産の工場労働を維持しているように思える。

例えば私の前職であるコンサルを例にとってみたいと思う。
本来サービス業は提供するサービスの価値に対して対価が払われるべきだ。しかし、日本ではそうではないことが多い。日本は本当に暮らしやすい国だが、それは消費者としては、払っている金額に対してサービスが不均衡に過多であることが大きいと思っている。
コンサルも、本来であれば我々が提供してる価値、分析の質、得てきた情報の質、提案が与える示唆に対して払われるべきであると思う。しかし、現状そうとはなっていないところが多い。コンサルと一言にいっても細かく分けるとビジネスモデルは異なるかもしれないが、例えば私の前職では私の一時間の労働の対して単価がつけられ(これが私の給料になるわけではない)、何時間分の労働、またはそれに相当する成果をあげたかでコンサルタンシーフィーを顧客からもらう仕組みであった。(私の記憶が正しければ大手の弁護士ファームもそういったところが多かったように思う)。私のアウトプットの値がついているのではない。私の身に値がついているのである。もちろんその背景には時間を費やせば費やすほど良いものができるという推論があるわけだ。しかし、それは同時にコンサルティング会社が利益を出すためには常に長時間の労働をささげる以外にない、ということでもある。中には民間企業をお客さんにした場合に、アウトプットで評価してフィーを払ってくれる場合もある。しかし、その仕事で多くのお客さんが「量」で仕事を評価していたのを思い出す。

例えば新規事業立ち上げのためになるような参考事例を調べてほしい、といったとき、本来であればその新規事業に最も参考になるような良例をいかにだすか、ということが大事だとおもう。しかし、こういった事例を調べるときにも、「何十例だしてほしい」みたいなことを言われたりする。それは、その何十分の一であることが正当性を高めるからなのだが、別にその例は調査の際に3つ目にでてきているかもしれないし、絶対的な価値があるかもしれない、のにだ。

コンサルを目指す学生やその業界外から「高い専門性」で付加価値を提供しているというイメージをもたれている、なかにはコンサル自身もそのように勘違いしていることさえある。しかし、ほとんどの場合、クライアントに自社にはない時間と労力をお金で買ってもらう、というのがコンサルビジネスだ。コンサルの中で、自分がクライアントより優れているから、自分の仕事をできると思っている人がいるとしたら、それは思い上がりだと思ったほうがいい。クライアントにないのは時間と人手である、彼らは毎日の通常業務で忙しい。普段の仕事に加えて、言ったこともない途上国のビジネスチャンスを調べる時間なんてない、自社が未開拓の事業分野について参入可能性を分析する時間なんてない、マーケットの市場分析をExcelでカチカチやる若手がいない。だから、私たちコンサルを時間で買う。

コンサルというと激務がつきものだが、本質的にはそれは逃れようがないとおもっている。当たり前だ。だって、私たちが何時間働くか、でお金が入っているんだもの。労働が短くなれば得られるフィーは少なくなり、儲けは減るのである。

少し脱線したが、こうした労働集約的ビジネスの場合、強い規律は非常に大事だ。いかに長い間人を労働に従事させ、生産性をおとさずにを稼働させるかが大事だからだ。行動規範は厳格に、一糸乱れず前進することがマネジメントのコストをさげ、効率を高める。上記は私が知っているコンサルの例だが、サービス業がGDPの7割を占めるようになった今も日本の多くの業種は労働集約的な工場労働に近いのかもしれない。厳しい規律のもとに、自分の時間をささげることで価値を生むような生産活動をしながら、私たちは自分たちをマチルダのこどもたちに重ねるのであろう。先のSchool Song を初めて聞いたとき、私は新人研修の時に言われたことを思い出した。
その研修講師は私たちの前に立つと言った、この研修の中では3つのルールがある、と。
最初の二つはもはや覚えていない。互いに協力しましょう、みたいなことだった気がする。最後に彼はいった「そして、3つ目のルールは、ルールを守ること」。
ぞわっと寒気がした。中身がないルール。
なにがルールであれ、それを守ることを約束させられる。全体主義だとおもった。
大げさかもしれない。なにをいってるんだ、たかが研修だろう、その数時間の研修会社が内容をこなすためのだけの道具だ、と。でも、私はいまだ忘れられない。それは問うことを殺すような一言だった。ただ規律に従うことを「研修」で教えている。この講師は前職の職員ではなかった。しかし、むしろ様々な会社が彼にこの「ルールを守る」研修をたのむことで彼は仕事をしていたともいえる。だから、「疑問はなげかけないほうがいい」し、「線は踏み外しちゃいけない」。その研修講師の前に起立して並ぶ私たちはまさにTrunchbullの前に顔を強張らせMatildaたちだった

Matildaはよくキッズミュージカル、と形容される。しかし、この作品をキッズミュージカルと呼ぶのはあまりに過小評価だと思う。キッズが出演者の大半を占める、という意味ではキッズが出てるミュージカルではある。しかし、それは学校という誰もが経験する規律教育を通じて、圧倒的な皮肉とともに「線を踏み外しちゃいけない」大人たちに送る応援歌なのである。



2018年11月19日月曜日

Hamilton という完全犯罪

ハミルトンをみてきました。
もう一度いいます。ミュージカル ハミルトンをみてきました。

一階のちょうど真ん中くらい。WEの劇場はこじんまりなのがとても好き
私はご承知の通り、重度の舞台オタクなので、「いつものことか」と思うかもしれないのですが、いや、今度ばかりは(オオカミ少年ぽい)ちょっとレベルが違うことなんですよ。

ハミルトンとは社会現象です。
舞台とかそういうことじゃないんですよね。
3年前トニー賞で全部門ノミネートされ、そのうち3部門以外すべて受賞した作品です。

これは例えれば、オリンピックの競泳で、
自由形、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、全ての泳法のすべての競技に出場して、
ほとんどで金メダルをとる、みたいな離れ業です。
はっきり言って意味が分からない。

Victoria Palace Theatre ロゴを見るだけで胸が高鳴る(だって3年も待ったんだもの)
交通整理のテープまでブランディング
さて、そんなハミルトン、
3年近く、のどから手が出るほど観た過ぎて、のどが裂けるかとおもうほど(大袈裟)観たい舞台で、且つこんな評判を3年間聞き続けると、もう期待は驚くほど上がるわけです。
しかし、この舞台の鑑賞体験はそんな天井をうつほどに上がりきった期待値をやすやすと越えてきたんですよね。
どこがすごい、とかじゃないんですよね。
自由形、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎで他を圧倒した泳者をみておもうのは、「すごい生き物が水を泳いでる」という。
舞台に隙がない。一つ一つすべての動きや演出が意味をもっており、考えつくされている。
妥協がなく、舞台のすべての要素に全力が投じられており、ある意味息をつく暇をあたえない舞台だ。
観初めて、4曲目ほどで、ゆっくり息をはきながら、自分が開始からそこまで、息を止めるようにして、張り詰めた空気に吸い込まれいたことに気づいた。
そしてその完成度ゆえに、ハミルトンは素晴らしい舞台であることを、電流のように全身で感じながらも、同時に泣くのは難しい舞台だった。
それを振り返りながら、私は不思議に思った。なぜなら、私はハミルトンのパフォーマンスをトニー賞でみながら、一節目からテレビ越しに涙を流したからだった。
そこにある圧倒的な違い、それは、この舞台の仕掛人である舞台作家Lin Manuel Mirandaだったのだとおもう。Mirandaは今日の米舞台界の圧倒的なカリスマだ。彼は、エンタメ界におけるグランドスラム、EGATP(エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞、ピュリッツァー賞)に最も近い人、といわれ、事実エミー以外を総なめにしている。彼がつくってきた舞台は、どれも脚本、作曲に加えて、主演は彼本人が必ず務める。ハミルトンの場合、初演のアレクサンダー・ハミルトンはMirandaだ。

しかし、彼は決して歌がうまいわけではない。クリエーターとしては一流なのだが、彼はその歌声で人を惚れ惚れさせるわけではない。どちらかというとこもった声で、高温はかすれ、ラップ曲では歌っているというより、叫んでいるようになることも多い。

しかし、彼の粗削りのパフォーマンスが、この舞台を不完全に完成させている。ハミルトンはアメリカ建国の話だ。オバマ政権の最後、次期大統領選のキャンペーンの勢いの中で、排外主義が台頭し、言葉のトゲが柔な肌にぐさぐさと刺さる日々の中で、自身もラティーノであるLin Manuel Mirandaが建国期のアメリカの、ツギハギでボロボロながらも必死だったころに希望を込めて書いたのがこの舞台だ。

私は最初Hamiltonという舞台を聞いたことがあるか?という言葉で冒頭このレビューをはじめようかともおもったが、投げかけべき質問は、むしろ、アレクサンダー・ハミルトンという人物を聞いたことがあるか?ということかもしれない。
私は彼を知らなかった。10ドル札にかたどられた彼は、通称Founding Fathers(建国の父)の中でも最も知名度が低く、ドル札でしかみたことがないという人がアメリカでもほとんどだったという。
開演とともに流れる曲、Alexander Hamiltonで語られる彼の生い立ちで、私たちは、彼がカリブの島で生まれた私生児で、母を亡くしたあとに、アメリカにわたってきた移民であることを知る。
そんな彼が一代にして初代財務長官に上り詰めたことに驚きながら、キャストは「みてろ、また一人移民が上まで這い上がっていくから(Another immigrant coming up from the bottom)」とうたう。

Im just like my country Im young scrappy and hungry (俺ら、この国<アメリカ>みたいに、まだ若く、ツギハギで、ハングリーだからさ)【My Shot
と叫ぶように声を張り、額から汗をツーっと流すMirandaと今のアメリカを生きるキャストたちにその言葉の真価を私たちは見る。Hamiltonは史実としては白人の人物もすべてカラード(Colored)のキャストをあえて登用していることで話題になった、ブラックのワシントンやラファイエット、アジア系のエライザ、そしてラティーノのハミルトン。アーサー・ミラーが『The Crucible(坩堝)』のなかで魔女裁判を使って、赤狩りに克明に抗議したように、HamiltonはそんなMirandaと彼が率いるキャストたちが、その歌とパフォーマンスを通じてアメリカの今に語り掛け、歴史に身を重ねて身を奮い立たせる舞台だ。Essentials of Migration Management 2.0 - Home
こめかみが切れるほどの必死さと、肌が震えるのほど当事者性がこの舞台を泥臭く完成させる。
そんな、英米キャストで見ることの違い、初演キャストと、その後のキャストでみることのコントラストを非常に考えさせられた鑑賞体験でした。

Miranda率いるトニー賞パフォーマンス

実際のパフォーマンスというと、前述のとおり、むしろ米国初演キャストよりも完成度は磨きつくされているくらいで、ただただ最高峰をみているなという感想につきる。
冒頭で、オリンピックの水泳種目のすべてを総なめにしたような舞台だということを述べたが、本当に、それを肌身でかんじるというか、ただ話題になったから、全てをとったのではなかったことがわかる。照明から、舞台セット、振り付けまでどこにも隙がないほどに考え抜かれている。無理矢理に一言で述べるならば、特に印象にのこったのは、緩急の絶妙なコントラスト。
例えばアンジェリカのソロ【Helpless】で、アンサンブルがダンスをピタッととめて、回転式の床をつかうことで、時を振り返る演出、
その後、戦友となる仲間に初めて出会うAaron Burr Sirのシーンでは、オーケストラがいきなりスッと消え、拳で机をダンダンダンとたたく音だけで歌うアカペラ

衣装やセットも引き算の仕方が一流。
セットも実は木製の枠組みがほとんどで、それをぐるっと囲むように二階バルコニー部分がある。その他目立つセットは椅子と机くらい、
衣装も多くのシーンは、薄いベージュのピタッとした軍服ぽい衣装でアンサンブルはほとんどそろえている。身体のラインを見せる、スキニーな衣装はPippinを彷彿とさせるところがあった。
椅子は振り付けの中でもとてもうまく使われており(特に【Yorktown】等)、作品を通じて、「権力の座」「Ownership」のシンボリズムとしてストーリーと絶妙に共鳴していた。
衣装が実は色のトーンをそろえながらも、何回も着替えを挟んでいることや、
セットもここぞというところで、効果的につかっているところに、
考えに考えつくされた引き算の美学があり、その精緻な時計仕掛けのようなアートに始終圧倒されていた。

セットの様子。二階から吊られた階段がシーンによってはパタンと降りてくる。床は三重の回転式
最後に、家に帰ってから、買ってきたパンフレットをニマニマしながら眺めていたときのこと。背表紙にいろいろなキャラクターのシルエットが描いてあるんですが、ひとつずつ、「これはワシントン、これはラファイエット」と追っていったとき、ふと指がとまる。
それはどうみても、額と額をよせているハミルトンと妻エライザのシルエット。
となると、あのメインロゴの左手を掲げているのは・・・?
そこでふとハッとして思わず「えっ」と声をあげてしまった。
このシルエット・・・・Burrなのでは?
Hamiltonの名と星を土台に迷いなく指を天に掲げているのは、この作品の"ヒーロー"たる主人公だとなんの疑いもなく思ってきた。

よくよく、見るとその顔の形も長髪のハミルトンではなく、短く刈ったBurrに酷似している。
背筋をスッと伸ばし、星の元に身を翻すのは、建国父ハミルトンではなく、彼を殺した政敵Burrなのだ。

パンフレット裏面にはキャラクターのシルエットが







Who lives who dies who tells their story…History has Its Eyes on You】
まさにその節と完全に呼応したそのシンボリズムの強さに心底おどろいた。
このシルエット一つをもって、舞台の解釈の深みをまた一つ重ねるその巧さに、改めてハミルトンというこの舞台の精到に計算つくされた完全犯罪を確信したのでした。

2017年11月16日木曜日

Anastasia

11月のブロードウェイはちょうどシーズンの入れ替わりで、昨シーズンの作品が終わったばかりだけども、それと交代する新作はまだ準備中かプレビュー中という、ミューオタを悩ませる時期である。


まず細かいことを語る前にこれだけ言わせてほしい。


ラミンが見れなかったーーーーーーーーーー。ラミーーーーーーーーーーン


※ラミンとはお顔、身体、声と三点そろったイラン系カナダ人のスーパースターです

※史上最も人気のある怪人の一人で、クラシックからロックまで何でも歌える超人なのでとりあえず彼をいれておけば、ショーの質があがる感があります。

11月をもって、降板することが決まっていたラミンを観れる貴重なチャンスに滑りこだと思ったんですが、その日はunderstudyが代打しており、イランの誇る美声が聴けなかったのは大変口惜しかった。でも、切り替えます。12月には日本コンサートにくるので。もちろんチケットぽちってるので。


もう一度だけ、言います。


ラミーーーーーーーーーーーーン


はい。気が済んだしたので、通常レビューに戻ります。


Anastasiaは97年に上映されたアニメ作品を原作としている。今回なぜこのショーを観に行くことにしたかといえば、理由は極めてシンプルで、小学生の私はこのアニメ作品の大大大ファンだったのである。バスで1時間以上かけて通学していた私は、当時から音楽ジャンキーで、一番好きなテープ(そう、当時はカセットテープです)がAnastasiaでした。好きすぎて、いまでも持っているくらいです。





そんな腹の底から好きなスコアなので、もちろん音楽はとてもよかった。多少順番や歌詞を変えていたけれど、それも違和感がなかったし、元の音楽コンテンツはうまく料理されていた。物申すとすれば、新しく足された曲目が少し完成度として霞んでしまったように思う。その点、同じくアニメ原作のアラジンなどは、元の作曲家(名匠アラン・メンケン氏)がついたことで、新曲も含め、全体をプロデュースが成功したのだが、Anastasia はどうしても継ぎ足した部分の完成度のムラが否めないかなというきがした。電車シーンの"Traveling Sequence"や、パリの"Land of Yesterday"などはうまくはまっていたように思う。あと、エンディングの名曲At the Beginning が完全カットされてたのが残念。カーテンコールでもいいからかけてくれればいいのに!

キャストの歌唱力も素晴らしかった。特に今回発掘された新人さん、アナスタシア役の Christy Altomareは、とても伸びある声でありながら、イノセントな印象も残しており、ハマり役だった。今後も純粋な少女役に期待できる。


あとは満足度が高かったのがアンサンブル。本作、キャスト人数は決して多くなく、ロマノフ一家から、人民、軍部まですべて10人ほどでこなしていたのだが、コーラスが10人とは思えないほどの厚さであった。特にロシア風の曲のときには、このコーラスの重さがしっかりでていたことでまとまりが出ていた。


さて、音楽と歌唱面からレビューを始めましたが、この作品は「小規模予算の舞台作品がどう試行錯誤するか」という観点で見たときにとても面白かったように思う。去年Dear Evan Hansenというオフブロードウェイあがりの低予算作品がシアター界を席巻したことからもみられるように、ミュージカルは最近ますます「お金をかければ良い」という世界ではなくなってきている。そんな作品がどんな戦略を打って万年戦国時代のブロードウェイを勝とうとするかはとても興味深い


残念ながら制作費をネット検索からは突き止めることはできなかったが、Anastasiaも使っている劇場、プロデューサー陣、キャスト陣などからして、そんな小規模予算の作品の一つであることは察しがつく。そんな作品の難しさは予算を均等に分配できないことにある。潤沢にない予算をどこに重めにふるか、そんなセンスと手腕に問われるのだ。そのため、凸凹感がある、それが低予算作品の特徴である。


Anastasiaにおいてはキャストや衣装はきちんとコストがかけられている部分であった。キャストは幸い(?)男女の主演が若いという設定だったので、イキがいいけれども、まだまだ売り出し中の(言ってしまえばコスパが高い)2人を中心に、ベテラン勢も粒ぞろいであった。おそらくキャスティング料が圧倒的な高いラミンを筆頭に、助演クラスが手堅く、Vlad 役のJohn BoltonとLily役の Caroline O’Connor のおじさまおばさまが際立ってよかった。なによりコメディシーンの質がたかい。コメディは実は高級感を出すのが一番難しいというのが、私の持論であり、下手するとすぐ「安っぽさ」が、でてしまう。その点若い2人はまだそこの経験が足りず、いくつかダイコンモーメントがあったのだが、このベテラン2人がいることで、作品としての安定感は一気に増していた。曲もこの2人がはいっていると、まとまりが全くちがった。Vivaベテランパワーである。


逆にここは予算薄いな、とかんじたのは振り付け。本作どの役職をとってもプロデュース側にもビッグネームはいないのだが、それにしても振り付けはもう少しどうにかなったのではないかと思う。冒頭に帝政ロシアのロマノフ家の晩餐シーンがあるのだが、そこの舞踏シーンが安すぎてちょっと、はじまっていきなりのダイコンモーメントにどうしようかと思った。ダンスルームシーンをやるのならば舞台版シンデレラくらいの本気が欲しい。あっちは完全なるフィクションであれだけ揃えてきてるのである、歴史物であるはずのAnastasia で帝室シーンにボロがでると、一気に作品がbelievable ではなくなってしまう。総じて、振り付けなしの曲が自然だったしいいかんじでした。ちなみに先に述べたDear Evan Hansenもほとんど振り付けがありません。低予算の場合はむしろそういう潔さもあってもいいのかなと思う。





低予算舞台における近年みられるもう一つの特徴として、テクノロジーによる制約克服がある。舞台世界にもイノベーションの波はきている。資金面の制約を技術で乗り越える試みが最近よくみられるようになり、面白い時代になってきていると思う。Anastasia はなんといってもCGとプロジェクションなしには語れない。最近ミュージカル界(特に韓国系)で人気のプロジェクションの活用だか、本作は今まででみたことないほどにデジタル映像の活用が多かった。どのくらい多かったかというと物理的にでてきたセットが、机、イス、などの家具と、鉄道の車両内セットくらいである。特に屋外シーンは全てが背景スクリーンといっても過言ではない。
なんというかもはやメディアミックスに近いというくらい装置が映像で代替されていた。サンクトペテルブルクの大聖堂や、パリのエッフェル塔、鉄道で逃げるシーンで窓の外を走る景色、これら全て映像で表現されていた。

これまで観てきたプロジェクション映像はそのシーンにプロジェクションを使うこと自体に意味をもたせていたが、Anastasia において、はじめてプロジェクションであること自体の意味は透明な映像活用手法をみた。


おそらく好みが出るとおもう。特にオールドスクールな古典好みな人たちは、ディズニーランドのショーみたい、なんていうだろう。でも、ブロードウェイで同時にライオンキング、アラジン、ノートルダム、アナ雪、を公開しようとしているような市場環境の中で、むしろミュージカルがどこまでエンタメショーと本当に違うんだという気もする。私はセットを作る莫大な予算を持たずしても作品を世に出せるようになった、技術革新は歓迎したいなと思う。見てるときの違和感でいえば、アバターのときは超賛否両論だった3Dももはや、まったくもって「普通」になったじゃない?多分制作側の使い方の慣れと、観てる方の慣れの問題です。


今回は少し興行的な観点から作品を語ってみました。Anastasia は総じて大劇場のスター作品にはないような凸凹を楽しむ作品である。「ここがこんなに卓越しているのに、ここなんでこんなになっちゃったんだ?」なんてシーンも含めて満喫するのが乙。とりあえずミューオタにとって最も大事な楽曲が鉄板なのでそれを安心感に、スタートアップ・ミュージカルともいうべきこの作品はトライしてほしい。結局は引っかかる所のないまん丸の「優等生ちゃん」な作品よりも、こういう作品の方が案外クセになってしまうのが舞台のおもしろさだと私は思う。


プレスコール動画(ラミン含)。キャストの伸びやかな声がとてもよい


2017年9月27日水曜日

Finding Neverland -創造力の帆を広げ、現実をすすむ舵を切る-

2015年のトニー賞以来、ずっと気になっていた作品がある。
Finding Neverlandだ。

(このポスターデザインもとても好き。このためだけにパンフレットを買いかけた)

この年あたりから(まだほんの二年前)、来日公演に飽きたらず、現地公演情報を熱心に収集するようになり、観に行けない作品も限られた情報を湛然に調べ上げるようになった。そんなタイミングでテレビ越しに見たミュージカルの祭典であるトニー賞は私にとって新作を総浚いするまたとない機会だった。一年に一度開催されるこのイベントは、いわばミュージカルの競りのようで、その時、そのタイミングで一番 "活きのいい" 作品が次々と並べられ、我こそはと最高値(トニー賞)のために競う。

この年の話題作はあるレズビアン女性の自叙伝、Fun Home、リバイバル公演で王様役を渡辺謙が日本人として39年ぶりにノミネートされた King and I であった。

しかし、数あるパフォーマンスの中で、私が目を引かれたのは、ノミネートさえされていなかった、作品だった。それがFinding Neverlandである。

(Tony賞のパフォーマンス。Matthew Morrisonが歌う Stronger)

この作品がそのブロードウェイでの常演作品としての寿命を終え、来日するというので、万難を排して観に行ってきた。

Finding Neverlandでなんといっても特筆すべきは、その個性的で洗練された振り付けと、巧緻を極めた演出だろう。本作は2004年、ジョニー・デップが主演した同名の映画を原作としている。ロンドンの劇作家ジェイムズ・バリーが、「ピーターパン」を書き上げるまでの課程、その創作の源泉となった家族との交流についての実話を描いた作品だ。彼の生の生活、その手がける創作、その狭間を揺らめく想像が、切り分けられないほどに密に交錯する様を、視覚的に描出する振り付けと演出がすばらしかった。

ピーターパンを書いていたときのバリーの実生活は、作家が描くファンタジーとはかけ離れた気鬱に帯びていた。興行収入ばかりにとらわれた劇場オーナーに駆り立てられ、社交界での見栄に気を払う妻に素行を咎められる中で、彼にとって現実こそが茶番に満ちたフィクションだった。舞台上では、舞台関係者との打ち合わせや、自宅での晩餐こそ、チープなコーラスと、子供じみたジェスチャーで表現される。

Circus of My Mind や We Own the Night のカラクリ仕掛けのような振り付けではこれが特に際立つ。

(冒頭、We Own the Night、28分ころからCircus of Your Mind. ブロードウェイのオリジナルキャストより)

それに対して、バリーの創作の世界は、眉をしかめるような悲痛な表情で、でも愛おしさの溢れる必死さで、マイナーコードのバラードで空間いっぱいに広がる。

そのコントラストが本当にとても巧みであり、哀惜と憂いに満ちながらも、夢を語るバリーの世界がとても真摯に表現されていた。
特に、父を失い、病に倒れる母をみて、無理矢理に「大人」のように冷めてしまった少年ピーターと、
現実の世界に帰る場所を見出せない「子どもでいたい」バリーの歌う世代を超えたmale duet、
When your Feet Touch the Groundは胸に響く悲痛で愛おしい曲だ。

[Barrie]
When did life become so complicated?
Years of too much thought and time I wasted
And in each line upon my face
Is a proof I fought and lived another day
When did life become this place of madness?
Drifting on an empty sea of waves of sadness
I make believe I'm in control
And dream it wasn't all my fault
When your feet don't touch the ground
When your world's turned upside down
Here it's safeIn this place
Above the clouds
.....
[Peter]
Everyday just feels a little longer
Why am I the only one not getting stronger?
Running 'round pretending life's a play
It doesn't make the darkness go away
I may be young but I can still remember
Feeling full of joy, crying tears of laughter
Now all my tears are all cried out
Make believe, but count me out
'Cause my feet are on the ground
And the inner voice I found
Tells the truth
And there's no use
If your head's in the clouds

[Barrie]

I was once like you
Life was a maze
I couldn't find my way out
But what I say is true
You'll be amazed
Make believe and you will find out that it's true


(When Your Feet Don't Touch the Ground - Matthew Morrison)

また、バリーの内なる葛藤を描いたstronger、
シルビアとバリーのキャンドルライトのダンスシーン、
シルビアの最後の旅立ちのシーンは、
影や、風など、いわば「手に取れない」効果を使った実験的な演出が多く、
この意味でも自身が劇作家であったバリーの創作世界を「ワクワクさせる」ような魅せ方で表現することにこだわられた作品であったと思う。

これほどまでに精緻に細かやかを追求した作品も珍しいと思ったが、それだけに日本ツアーをしていたカンパニーがその目指した完成度に達していなかったのは少し残念でもあった。バリー役、シルビア役の哀愁ある演技、アンサンブルのダンス、子役の演技、いずれも、ブロードウェイでやっていた時のオリジナルキャストには到底及ばず、その完成の形を知っていると、口惜しい気持ちにならざるを得ない。特に先に述べた、「あえての」チープさや、悲痛さを秘めた愛おしさ、などの表現はその複雑さがカギであり、そこが徹底されないと、コントラストや、作品メッセージの本質がなかなか伝わらない。自宅に帰って掘り出したオリジナル講演の動画、思わずあぁーー、と声をもらしてしまう。

裏を返せば、それはオリジナルキャストの凄さに尽きるともいえよう。私が元々のトニー賞でみたバリー役のマシューモリソンは特に圧倒的な表現の完成度であったが、彼はもはや1人の演者というよりも製作陣と共に本作を作り上げたのであり、作り手として演じた彼の表現力はやはり他の追随を許さない。

単に想像に逃避をもとめるのではなく、想像と現実のアンビバレントで不安定なバランスを描いた Finding Neverland は、ピーターパンの放つ曇り一つなきファンタジーのイメージに反し、とても人間臭く、それがとても響く作品だ。バリーが自分と子どもを救いたい一心で描くファンタジーや、それを劇中劇として表現する本作の創意工夫ある演出は想像力が掻き立てられる以上に、クリエイティビティーを刺激される。観るものにその場限りの癒しを与えるのではなく、その後自ら自分の世界を創作する少しばかりの思い切りと、不安はそのまま抱えてよいのだよ、といわんばりの安心感をくれる作品だ。

2017年1月20日金曜日

Dear Evan Hansen -生きづらいと感じる君への手紙-

先日ゴールデングローブ賞で、La La Landが主要各賞を総なめにしたことが話題になった。まだ一般公開されていないこの作品は一躍今シーズン最も注目される映画となった。そんなla la landの作家/監督が書き下ろした舞台作品が実はシアター界では去年から評判になっている。Dear Evan Hansen だ。



最近のミュージカルは既存作品のリメイクや舞台化が多い。
Aladdin(アニメ)、Waitress(映画)、Color Purple(映画)、Kinky Boots(映画)、Anastasia(アニメ)、Fun Home(漫画)....
昨年のメガヒット、Hamiltonは大きな例外ではあるものの、近年の新作舞台の脚本・構想は、既にある素材をどのように舞台として仕上げていくか、という作業であることが多かったように思う。
そんな中、原作もなく、歴史モノでもないDear Evan Hansenはオフ・ブロードウェイから火がついたように人気を獲得し、一年足らずで華麗にブロードウェイデビューを果たした。
キャストも特にビッグネームがいるわけではない中、口コミが瞬く間に広がったこの作品がどうしても気になり、今回真っ先にチケットを入手した。


Dear Evan Hansenは観ていて苦しくなる舞台だ。
Kinky Boots のように手をあげて歓声をあげたり、Book of Mormon のようにお腹を抱えて笑う作品ではない。アラジンやライオンキングのように、目の前の華やかなパフォーマンスが目を奪う作品でもない。
観ていて苦しくなりながらも、舞台上のキャラクターを抱きしめたくなるほどの愛おしさを感じる作品だ。
生きづらさを一度でも感じたことある人なら、どうしたら「必要とされる存在」になれるか頭が擦り切れるほど考えたことがある人なら、舞台上に立つ主人公 Evan にかつての自分が透けてみえる。




Evan は自分の居場所が見つけられない高校生だ。セラピストは彼が社交不安障害(Social Anxiety Disorder)だという。しかし、症状に名前はついても、彼の日常の難しさが解決される訳ではない。診断は彼の困難を分類はしてはくれても、その原因や解を示してはくれないから。Evanの日常は惨めな訳ではない。彼は学校でイジメを受けたり、追い詰められたりされている訳ではない。違う。彼のいる世界は彼に対してあまりにも無関心だ、少なくとも彼はそう感じている。彼がいようが、いまいが、日常は等しくまわり、彼の存在はなんの重みも持っていない。

それはまるで1人ガラス窓の向こう側にいるようで、彼は外の全てが見えていても、行き交う人は彼に一瞥もくれない。そんな彼の気持ちを歌ったWaving through a Windowがこの舞台のメインテーマだ。舞台を観る前から、この曲を聴いた瞬間、その言葉が耳から離れず、「この舞台を観なきゃ」と思った。

ガラス窓の向こうでは浮遊するような不安定さの中で立ち続けるためのバランスを探さなくてはならない。かつてそれが自分の日常だった時のことを思い出した。私はそのことをガラス窓ではなく、「ドーナツの輪」と呼んでいた。ドーナツの中に入っているはずなのに、自分はドーナツの実態にはなれない。それが囲っている中身のない空洞に座っているだけのように感じていたからだ。それを訴えたり、相談することは躊躇われる。なぜなら、イジメのように主体的、能動的な悪意に苦しんでるわけではないからだ。誰も自分を傷つけようとしているわけではないし、何かをやめてほしいとも言えない。周りが自分自身に興味がないことについて、どれだけ彼らを責められるだろう。それはただただ自分に価値や魅力が足りないからのように感じられた。Evan のように中学や高校にいた頃の話だ。毎日通う小さな教室に自分の世界のほぼ全てがあったと思っていた頃。その頃の私も Social Anxietyや、対人恐怖があったのかもしれない。でも、そう言われていたとして、だから?としか思えなかったように思う。社交に対して不安しかないし、対人関係が怖い、それは分かっている。ただどうしていいかが分からなかった。

主演Ben PlattによるWaving Through a Window

そんなEvanはセラピストからの宿題で自分自身への手紙を書く。"Dear Evan Hansen..."から始まるその手紙に彼は自分の不安のほんの一片を綴る。しかし、運悪くEvanはそれをクラスメイトの1人に見られてしまう。同じくはみだし者のConnorだ。彼はEvanの手から手紙を奪うとポケットに押し込み、そのままどこかに行ってしまう。その日の午後、Connorは自ら命を絶つ。無くなった彼のポケットに入っていた手紙をみた両親はConnorが最期の遺志をEvanへの手紙に託したのだと思い込む。亡き息子の姿を手紙の中に必死に探すConnorの両親を見て、Evanはどうしても否定しきれず、その勘違いに乗ってそのまま嘘をつく。Connorと自分はお互いにとっての唯一のかけがえのない友達だった、と。そこからEvanは瞬く間に「自殺してしまったConnorを支えた友人」として学校、地域、ネットで時の人となる。一夜にして、「意味のある地位」を得たEvanは死んだ子の友人という地位を必死につなぎとめることで自分の居場所をつくろうとする。周りの人たちを少しずつ巻き込みながら。

この舞台はなんといっても主演のBen Plattの真摯な演技が観客をそのストーリーに引き込む。
人と話すときに会話の糸を掴もうと必死な様、
なにをしても「正解」じゃない気がして言葉1つ、動き1つもぎこちなくなる様、
人と関わるのが怖いのに、同時にどうしようもなく人に気づかれたいと願う思い、
それらの思いが全て溢れすぎて結局はうまく立ち回れず、そんな自分に失望する様、

彼の演じるEvan は手にとって「分かる」と思えるほど、そのリアリティーが繊細だ。またストーリーを通じて彼が大きくは変わらないのがとても好ましく思える。この手の青春の葛藤を描く物語は概して、それを通じた精神的成長が過度に強調される傾向にある。しかし、本作の場合どちらかと言えば変わるのは周りであり、Evanその中でただただ必死に泳ぎ続けようとするだけだ。
ストーリーが進んで行こうとも相変わらずぎこちないEvanが自己開示する様子は歌のシーンを通じて描かれる。それまで挙動不審な彼が音楽が流れ出すと、決意を感じさせる落ち着きで歌い出す。歌のシーンはいわばモノローグであり、彼が腹を決め、ゆっくり言葉紡ぎ出すときに使われている。Ben Plattの高音まで伸びやかで、まっすぐに開いていく声はそんな独白にぴったりだ。対人関係の中ではなかなか自分自身の思いを表現できないEvanが奏でる歌に手を引かれ私たちは彼の気持ちの深部に触れる。
正直に言って、ブロードウェイ作品としてはキャストの歌唱力が飛び抜けた舞台ではない。少人数舞台ならではのコーラスのまとまりは魅力の1つではあるのだが、いわゆる誰が口を開けても主役級の歌で圧倒する、というタイプの作品ではないことは確かだ。また、音楽もそのトーンは全体で一貫して、弦楽器を主としたシンプルな曲が多い。秦基博やJason Mrazを思わせるような曲調だ。ドラマチックな曲運びやトーンの違う曲を織り交ぜて客を飽きさせない、ウェバーの作品(オペラ座の怪人、キャッツなど)とは大きく異なる。この作品の曲の良さは半分以上が主演Ben Platt が成すものだと言っても過言ではない。


Dear Evan Hansen より、Waving Through A Window, Only Us, You Will Be Found

演出についても少しばかり。
Dear Evan Hansen をみて、「あ、2010年代の現代ミュージカルが出てきたんだな」と感じた。かつて、RENTはミュージカルをそれが上演された「今」の文脈にはめ込んだことで大きなインパクトを与えた。それは路地裏の猫や20世紀初頭のオペラ座の話ではなく、劇場のすぐ外を生きるニューヨーカーの話だったことが、ミュージカルの文化を変えたと言われている。その後、いわゆる現代劇のミュージカル作品は珍しくなくなった。しかし、Dear Evan Hansenをみて、それらの現代劇の描く「現代」は既に古いことに気づいた。本作の1つの焦点はソーシャルメディアだ。舞台上にはいくつもの縦長のスクリーンが並び、そこにはfacebookTwitterYoutubeの画面が読めないほどの速さでめまぐるしく映される。発言1つ1つは分からないし、それを発信している個人も可視化されない。しかし、Connorの死も、Evanの発言もいつのまにか、そのソーシャルメディアの渦の中で広がって彼らの知らぬところで得体の知れぬ動きになっていく。しかし、舞台のシーンとして目の前に広がるのは、ほとんどがEvanの部屋や家の中であり、その匿名のうねりたるソーシャルメディアとはどこか切り離されてる。ソーシャルメディアと社会関係について、ここまでアップデートした演出を用いた作品はメインストリーム作品としては初めてであるように思う。確かに私たちは、溜まり場のバーで店主のツケで飲み食いしながら夜な夜な話をしたり、社会に主張するために創作パフォーマンスを路上でやるRENTの人物たちとは少し違う時代にいる。しかし、それがこんな形で演出されるまで、それが古い「現代」ということに気づかなかった。現代的な文脈を演出を通じてうまく展開した点においてもこの舞台は新しかった。




ラストシーンが終わる頃、劇場ではあちこちからすすり泣きが聞こえた。私が足を運んだ時は、いわゆる「大人」の観客が大半だったが、Evan と同年代のティーネージャーにも観てほしい舞台だった。もし、Evan の中にいまの自分をみているように感じたら、この作品の1つが謳う通り、#Youwillbefound の言葉を持ち帰ってほしい。あなたはまだ見出されてないだけだから。いまいる教室は世界の全てではないと。席には自分がEvanだと感じて涙を拭う人がこんなにいる。君が1人ななわけはない。



また1つお気に入りの舞台ができました。