2018年9月18日火曜日

ケアの断片が編み込まれた職場

3ヶ月もすぎ、仕事でもただ不安や心配があるというだけじゃなくて、
仕事ならどこでもあるようなアップダウン、うまくいく日、いかない日を経験するようになってきました。
まぁどこだって、ちょっとありえないなという上司や同僚とかっているもので、
それはこの新しい環境でも例外ではないわけです。

私はスポ根の対局のような人間なので、「苦労は買ってでもしろ」みたいなのは強い言葉を使えば、クソくらえと思っています。不要な苦労や、不要な苦痛はいらないと思っている。
どんな経験からも観察や知見を得ることができる、という言葉には間違いはないとおもうけど、その方法で学ぶ必要はあるのか、ということは常に考えるべきだと思うのです。
火を使うときに気をつけるべき、というのは熱い鍋にずっと指をおしつけていなくても学べるわけで、その学びから、「いやいや、みんな耐えてきたからその熱さに耐えようよ」というのはナンセンスだとおもっている。

こんなに反骨精神がつよく、なんかプロレタリアートの火を目に燃やすような人でもなかったのだけど、
5年も社会人をやっていると気づけばこんな感じに条件づけされていた。
「これいまおかしいこと言われてるんじゃ?」と、レーダーでキャッチすると、すぐピリっとするし、その瞬間からとてもdefensiveになるので、職場の私が感じのよい人ではないことは心得ている。
だから、前回の投稿にもあるように、前職の私はASAHIのごとくスーパードライだった。
決して正義感がつよいからもの申すタイプではない。
自分が個人としての人格としてそんな人だと判断されたくなかったからかなといま考えてみれば思う。
「この人仕事だからこうしてるんだな」と思われようとしてたのかもしれない。

例によって、そんなこんなで同僚の一人とぶつかることがあった。
その詳細についてはここでは重要じゃないので、割愛する。
一言でいえば、仕事に予算上、スケジュール上、モラル上の影響が出そうになっている状況だった。
そして、儒教文化からでてきたばかりの私は、ここでは目上の人に対しての異議申し立ては日本よりはしやすいんじゃないかなと思っていた。
でも、来てみて儒教とはまた別の構造的な問題があることに気づく。
先にも書いたように、国際機関における雇用期間の不安定性と短さである。

特にプロジェクト上で雇われている人の場合、マネージャーとの関係は数ヶ月後自分が仕事にありつけるかに影響する。失業のリスクをおかしてまで、マネージメントに異議を唱えることは非常にむずかしい。それはある意味キャラ問題でどうにかなる(場合もある)儒教文化よりも、さらに抗いがたい社会保障上の構造ともいえる。

さてさて、そんなモラルハザードが蔓延している状況で、同僚と衝突した私は悔しさで涙を溜めて、「もう今日は帰宅しようかな」くらいに考えていた。

数人でシェアしているオフィスの中部屋で満身創痍になっている私を前に、一番姉御肌の同僚が「あんたは完全に正しいこと言ったよ、えらかった。よく言ったとおもう」とパソコンから顔をあげていってくれた。それに対して私が「ありがとう、もう懲り懲りで、こんなの」というと、明らかにミーティングをしてた姉さまもう一人が「(ミーティング相手にむかって)ちょっと一瞬いい、ごめんね?Saki、いい?この組織は「もう懲り懲り」とおもってからが一人前よ、これであなたも一人前!(ミーティング相手に向き直り)はい、失礼、続けて」

そこからも、なんとなーく断続的に別の同僚が自分の地元にある日本人街について急に話を振ってくれたり、また別の同僚が「日本の英語の教科書にある、やばい例文」の話を持ち出して一笑いしてくれたり。

なんというか、顔面で地面を打ちそうになっている人を前に、瞬時の判断で安全マットをすばやくそこに敷く態勢がすごかったのである。

鷲田清一(はい、マイブームです)は自著『語りきれないこと 危機と傷みの哲学』の中で「ケアの現場は、ケアの”小さなかけら”が編み込まれたものだ」と書いている。「いろんなところで小さなケアが、それも意図していないケアも含めて、なんとなく起こっている。そういうケアのかけらがうまく自然に編み込まれている空間が一番いいケア施設だといわれている」と。

今の自分の職場はまさにそんな場所だと感じた。

誰一人、なにが問題か尋ねたり、それを解決しようか?とは言わなかったけど、「あ、この人はいまやばいな」と察してほとんど脊髄反射のように対応してくれたように感じた。
私はそのことにとてもびっくりしてしまい、悔しさのボルテージでエネルギー切れになったことすら忘れて、なんだかあっけらかんとその日をすごした。

その後も衝突の発端となった業務を一緒にやっている同僚が「お昼に外に行く?」とそれぞれ別々に声をかけにきてくれたり、
極めつけはその内の一人が「今日は一緒に帰ろう」と言って、バスでの帰路ずっと「Saki、あなたはうちのチームに本当に大切な財産よ。だからこれで気を落としたり、私はいらないんじゃないかって思わないでほしいの。あなたは私たちの宝物よ。それだけはわかってほしい」。ジュネーブの都心に向かう夕方のバスに揺られながら、語りかけた彼女の言葉を聞きながら思った。なるほど、そうか。私は今日”顔面から地面に落下しそうになったところ、同僚にぐっと袖をひかれて助けられたな”と思っていた。けれど、実際は20m高度からすでに顔面先にフリーフォールしていたのだときづいた。その落下中の私を視覚の角で捉えた同僚たちがとっさにブラインドで投げた安全セーフティーネットにすぽーんとキャッチされた私は、その動力のままに網につつまれながら、ぽわんぽわん上下に揺られていたことに1日を終えて初めてハッと気づいたのである。

仕事の場にはなるべくだったら感情を持ち込まないほうが私もプロとして望ましいと思う。けれども、こうして感情の波に足元からすくわれそうになったときに、眉ひとつうごかさずに安全網を投げてくれるような場は、それだけで安心できるなと思ったのでした。

You are a treasure

そんなことを言われたのは、小学校3年生の担任のステイシー先生以来。

あなたはトレジャー、洋画タイトルの下手くそな邦題みたい、なんて思いながら、バスを降りるころにはその日の夕飯の献立を考えてた。



先日弟を訪ねて行った、オランダのGiethorn


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