国際機関への入り方はについてよく聞かれる。
2021年5月6日木曜日
国際機関就活と臆病でマッチョになりたいわたし
2021年2月8日月曜日
おじさんが嫌いだ
おじさんが嫌いだ
ほとんど嫌悪しているといってもいい。
働きやすさ働きやすさとこんなにいわれるようになったのに、日本の労働環境の変化はあまりに遅い。こんなに遅くては私たちは待ってる間に老いて死んでしまう。
別の友人はハラスメントや超過労働があまりに見過ごされる職場を見かねて仕事だけでもいっぱいいっぱいなのに自分からこの環境を変えようと気持ちを奮い立たせ労働組合にはいった。彼女は組合としての交渉で会社に伝えた「せめて法令遵守に基づいた措置はしてほしい。労働法の侵害や社則、社内規約に反することが行われた場合は罰則を設けてほしい」。至極真っ当な訴えだ。何が許容され、何が許容されないか白黒つけるのは難しい。でも少なくとも、社会が、またはその会社自身がきめたラインを踏み越えたらそれは罰則を課されるべきではないか。むしろかなり相手に寄り添った主張だ。会社はこう返した。「罰則や処分はできない。管理職のモチベーションが下がるから」
言葉を失った。ショックすぎて、その言葉を冷静な口調の友人から聞いたとき鼓動がはやくなるのがこめかみから聞こえた。モチベーションが下がる?その通りである。やるべきでないことをした人のモチベーションを下げるための措置だ。
モチベーションをさげないようにそのやるべきでない行為を抑制するためのアクションだ。
そのおじさんが言い放った言葉がしめしていることは明白だ。「僕らの会社はチームメンバーの心身の健康よりも、おじさんのモチベーションを重視します」。それをハラスメントや超過労働を理由に休職していた人を前に言い放つ。友人が直面したその場面のあまりの暴力性に辛くなった。この言葉の暴力性が気付かれもせず普通に発せられているうちはこの状況は変わらない。
おじさんというときに私は男性ジェンダーの話をしていない。年齢の話もしていない。おじさんは私の中では概念だ。日本の職場には女性でも若手でもおじさんはいる。
そうだ。
私もそこは自覚している。正しさをもった概念では全くない。それは権力のあまりの傲慢と暴力に晒されてきたことへの抵抗なのだと思う。
そう、おじさんを産むのは権力とそれに対する甘さだと私は思っている。
日本の労働市場で質的にも量的にも最も強い権力性をもっているのは年長の男性である。おじさんは圧倒的に権力をもっている。上記の発言を若手や女性がすることも珍しくはないとは言ったが、それが発されるのは圧倒的に中年以上の男性であることが多い。
新入社員の女性が自分の上司に「やっぱり薄毛ってどんどんモテなくなりますか?」と聞く姿は想像するのがなかなか難しい。
上記で書き連ねたおじさん的な発言も基本的には相手が開示したくないかもしれないプライバシーを無理矢理こじ開ける質問だ。そのセンシティビティに対して愚鈍であることを許しているのは権力である。
その発言をしても目下のものなら自分に不利益はない。居心地の悪さを感じるのは自分ではなく相手だから関係ない。
日本の労働市場では年長の男性が圧倒的に権力性を持った結果、その検閲を全く経ずしてでてくる言動は家父長的で男性シスジェンダーの固定観念に帯びていることが多くなってしまった。だから、権力がかざす暴力におじさんを感じてしまう。その暴力を防具も持たずに腹にグッとちからを入れて耐えてきた私や私以上にずっとずっと辛い思いをしている友人達をみて、私もついグローブをはめて殴りたいと思ってしまったのだとおもう。その一発のカウンターがおじさんという言葉だ。
でも私がいた最初の職場のかしまし部屋や、プライベートでも仲のいい友人たちを思い返すとそんなことは全くない。むしろ女子校をしばしば想起させる私の職場は日本にいた頃よりずっとおおっぴらで自由に話していたとかんじる。
じゃあ何をいったいどうしてるのかと言われれば、みんな仲良くなりたい時の踏み込みは自己開示から始めるということである。
それこそ自由だった私の職場ではウェディングドレスの採寸の話から、生理用品の話から、プロポーズやこどもの話までかなり踏み込んだ話はたくさんされていたが、基本的には誰かの独り言からはじまる。「いまめっちゃ気になってる生理用品があってさー」。それを聞いて話したいと思ってかつ暇な人だけが会話に乗っかる。
一方自分から相手に投げかける質問にはかなり神経を使う。例えば各国出身者がいると当然出てくる国籍や出身についての質問や疑問もタイミングをかなり選ばなければ聞きにくいと私は感じる。自分がさも国籍で人を判断しようとしている、と相手に受け取られることを恐れるからだ。
日本の労働市場でおじさんがあまり自由で横暴なのは権力が何をしてもいいという甘さがあると述べた。だから、この嫌悪感を胸に、次に恐るべきは自分がおじさんになることだ。いくら自分に向けられる権力による暴力を嫌悪していても、人は自分の権力には盲目になることはあまりにも多い。それは強い強い自戒の念を込めていっている。自分は女性というマイノリティーなんだから発言だって権力性をもつわけがないというignorance。パートナーや家族、その人との特別な関係に甘んじて発揮されてしまう権力性。先進国市民、健常者、社会層、など自分が普段不可視化してしまっているレイヤーでの暴力的な視点。そんなことが肌に潜むように自分の中で息をするようにならないと私だっていつだっておじさんになる。そして、間違いなくすでにおじさんとしてたくさんの場面でその手で人を殴っている。
私はおじさんを強く嫌悪している。
それはフィードバックが機能しないことで鉛のように重く愚鈍になった権力とその無思慮を象徴しているからだ。
でも強い思いを下支えしているのは、自分自身もおじさんになるかもしれないという蓋然性を、強い嫌悪感で抑え込みたいという恐れに近い感情なのかもしれない。
去年の今頃行ったケニアにて。真っ直ぐに背を正した立ち姿が美しい
2020年8月20日木曜日
Szégyen a futás, de hasznos
はっきり言って今はかなり疲弊しているし、この数ヶ月、経験したことのないようなストレスで心身ともにギリギリだった。今までも、前職や、短期出張先で、上司があわない、労働環境がきつい、などが理由で結構なストレス負荷の中で仕事をしたことがあったが、個人を標的とされて、数ヶ月にわたる心理負荷をかけられたことは初めてで、自分にはちょっと耐え難かった。
この数ヶ月で色々「ああすればよかった」「こうできたかもしれない」とか今も後悔や迷いを感じることはあるが、なにか正しい選択をしたとすればそれはその耐えがたい心理的負荷から逃げたことである。逃げた自分は全力で褒めたい。
さて、ここでもTwitterなどでも今まで転職がうまくいった人の典型みたいな余裕と満足感を放っていたとと思う。急にそれがこんな展開を迎えて驚かれるかたもいるとおもう。
この数ヶ月で気づいたことは、私がこの2年間ラッキーだったということだ。2年の間、私はそれはそれは良い大ボスの下で、白すぎて蛍光色かとおもうくらいのホワイトな労働環境で働くことができており、どこかそれを組織の性質と同一視していた。しかし、離職をめぐる数ヶ月でわかったことは、うちの大ボスのようなマネージメントを組織的に担保する仕組みはないということだ。長期出張では限りなく対局を体験したし、組織の戦略系の役務についていたこともあり、組織的な課題も理解してるつもりだったが、あまりに日常が健やかそのものだったので、どこかで楽観視しているところがあったのだと思う。
私が経験したことはかなり特異であるとはいえど、ある程度は国際機関に共通する構造的な問題である。国際機関の特徴の一つに短期の有期契約をつなげていく、流動的な雇用形態がある。一年以上のフルの福利厚生がついた契約をもってる専門職(P-staff、ローカル職員のことはG-Staffという)は国連では半分以下。4-5年の契約なんてみつけようものなら、「長期」契約をもってる特権階級だなんて揶揄われたりするものだ。
このような有期契約なので、全ての契約は部署と特定のタスクに紐づいている。言い換えれば人事異動はないし、その組織全体としてその人を抱えたという意識は希薄である。よく言えば、古き良き会社であるところの「会社が従業員を所有してる」みたいな感覚もない。
そんなわけなので国際機関は採用は9割部署・現場権限で行う。その部署やオフィスが予算獲得して、ニーズがあるので、といって募集をかけ、その採用者の上司にあたる人や管理職で採用チームを組み人を選ぶ。結果、人事の権限が非常に弱くなる。考えてみてほしい、人事異動も採用も行わない人事だ。一体何をしてるんだろうと日本の終身雇用の会社からは思われてもおかしくない。
もちろん人事規則の番人としての機能は有しているのだが、「わたしが採用したわたしの仕事をする部下なのだから、私のチームはこうする!」というマネージャーに対して、それに対抗する術をもたない。
結果、私の機関では特に顕著だったが、「上司ガチャ」で誰を引くかでかなり明暗がわかれた。なぜなら、どうしようもない上司を引いてしまったときに、それを自浄するガバナンス機能を有していないからだ。
国際機関には組織内のガバナンスを担保する様々な仕組みは役職としては用意されている。Ethics & Conduct(倫理課)、Ombudsperson(仲裁制度)、労働組合、産業医。ただ、実質的にハラスメントにあったときにその上司と対等に掛け合い、場合によってはそこに指導や処分をするに十分な仕組みはなかった。労働組合や仲裁制度は結局量的に訴状が積み上がらないと動けず、産業医はあくまで自分自身の心身の健康をサポートしてくれるエキスパートである。一番所轄範囲に近いと思われる倫理課は、結局匿名で訴えを出しても、その内容からその過程で誰かは明白になり、散々ネガキャンをくらって、あとのキャリアに響くというのがうち組織でも他機関でも聞かれることだ。結局短期契約の世界では次がつながらないと組織生命はおわる。「ま、私のこと訴えてもいいけど、次雇わないよ、あんたのこと」という態度をとるマネージャーを防ぐことは難しい。
加えて、開発(Development、平時の支援)と緊急人道支援(Humanitarian/emergency assistance、戦時や災害などでの支援)のうち、後者を所轄範囲として有している機関はこの「上司が絶対」カルチャーはかなり強まる。一言でいえば、命に関わる危険な環境だからだ。前に長期出張先での話を書いたときにも言及したが、緊急人道の世界はかなり、体育会系だ。自分たちもリスクの高い場所にいるし、裨益者もタイミングを誤れば命を落とす。そんな環境では軍隊型の組織運営は是とされる。合理的だ。「はやくしないと人死ぬよ!」ってときに「じゃあみんなの意見をまずは順番に聞こう」とかやってる余裕はないのだ。緊急人道においては縦型の指揮系統がちゃっちゃと成果を出す傾向にある。
そのため、緊急人道をやっている組織は、このような上司に強い権限を与えるようなマネージメントを是認するような人事規則や規範の中で運営されている。厳しくしすぎると、体育会運営が必要な場所でそうできなくなるから。
私は夏に上司がこのような体育会バリバリの人に変わった。コロナ下で本当にさまざまな「想定外」が起こる中で、かなり多くのことは「部署や現場判断にまかせます」というのが組織見解となった。そのため同じ課題に直面しても人によって対応はバラバラだった。私は自分に降りかかった課題について、自分の古巣で多くの人がとっている対応をお願いしたいと新ボスに願いでたがそれはことごとく叩きつぶされた。私としては理性的に話を詰めたかった。別に納得ができる理由があるなら良いと思った。しかし、そのようなキャッチボールはできず、新ボスは「私があなたのボスだから。いいからやれ」という態度を崩さなかった。
これを人事部に相談してしまったところから、状況はさらに転がり落ちていく。運の悪いことに人事部の管理職も同じく緊急人道の叩き上げ、戦火からかえってきたような人だった。私の話を聞くや否や「あんたが問題だということがわかってるか?」と電話で詰められた。上司に楯突くというジェスチャー自体がショッキングというような反応だった。最終的には48時間以内に離職するか上司の指示を飲むか決めろと迫られた。すでにこちらのメンタルをギリギリと削ってくるようなコミュニケーションに精神が衰弱してる中、この連絡をうけて、人のウェルネスも含めてマネージしてるはずの人事がこのようなことをいう場所に私はこれ以上いられないとおもい、組織を去ることに決めた。
古巣や大ボス、同僚たちからは怒りやショックの声が寄せられた。「意味がわからない」「ひどすぎる」。
でも私も含めそのときに全員が痛感したのはそう思うカルチャーは私たちの部署のそれだったということ。組織が全体として浸透させようという意思をもってはいなかったということだ。
こんな話はっきり言って、日本の会社ではよく聞く。ましてや「社員を所有してる」と考えてる会社ではそんなこと息を吸うように行われてる。つい最近も日本の友人と話していたら、明確に「こういう働き方は家族の都合上無理です」と人事面談で告げた社員に、まさに行くのは難しいと伝えたその部署を移動させたという話をきいて驚愕したばかりだ。だから、私が心底苦しかったのは青い芝に囲まれていたからかもしれない。私の古巣のES(従業員満足度)を重んずるカルチャーを横目でみながら、脳天をおしつけられて地面にぐいぐいと埋められていくのはキツい。それはガラス瓶の中にいれられて、最初はたっぷりあった酸素が徐々に抜かれていくような気持ちだった。苦しい。どんどん苦しくなる。ガラス瓶の外はあんなに楽に息が吸えたのに、と手をガラスの壁に伝わせながら外を見る。
苦しくて、酸素がなくて耳鳴りがガンガン、あたまはぐるぐるで、まともにせいかつできなくなりそうだった。だから私はガラス瓶を割って出た。割ったその手は血だらけになって刺さった破片が今もとれないけれど、でも瓶の外には逃げた。
逃げる以外の選択肢はあの時点ではなかったと思ってる。
逃げるは恥だが役に立つというのは実はハンガリーの諺だ。私のジュネーブの2年間、そして離職プロセスを通して支えてくれた友人の1人はハンガリー出身の娘だった。
「日本ではハンガリーの逃げるは恥だが役に立つって諺が有名なんだよ。自分の納得できない嫌な状況を打開する女の子のドラマで有名になったから」
「なにそれおもしろい。でもなんかその使い方はちょっと違うかも」
「そうなの?」
「この諺はね、捕食されそうなとき、敵から逃げる動物のことをいうのよね。迫り来る脅威からは逃げよう、みたいな意味」
「あ、そうだったんだ」
私は少し考えてからメッセージアプリに指を走らせた。
「じゃあ、私の今の状況だったら使えたりするのかな?脅威から逃げてきたきがしてるんだけど」
すぐ既読になったメッセージに沢山の泣き笑いの絵文字がつく
「たしかに!それ最高ね。間違いない、あなたは正しく脅威を振り払って逃げてきたのよ。大丈夫。役に立ったから」
大丈夫。役に立ったから。
Szégyen a futás, de hasznos
ヨーロッパ最高峰のマッターホルン
スイスに来るなら夏の登山が本当におすすめ
2020年7月16日木曜日
人生は舞台みたいだけれど、やっぱり舞台ではなくて
ミューオタはミューオタなりに今のフラストレーションを乗り越えねばと思い、— こっぺ (@attachmisfits) May 28, 2020
「ムカつく事があったときに聴きたいミュージカル曲」プレイリスト
を作ってみました。オタクもそうでない人もムカつく事があった日に是非どうぞhttps://t.co/h4mJs1zXuo
2020年5月5日火曜日
居心地良さとソーシャルバブル
2020年2月10日月曜日
Matildaと労働
転職して2年も経ったので、closetの中でなくても話せると感じはじめたが、私は前職時代本当に苦しんだ。どんな場所に旅行しても壊したことない胃腸が自慢だったのに、入社半年で逆流性食道炎になり、同じ年の秋には突然の腹痛で病院でそのまま5時間点滴につながれたりした。腹痛の原因は不明と言われた。「理由はわからないが、胃がものすごい炎症をおこしている」と。
食道炎の時と点滴の時のちょうど間くらいだっただろうか、初めての出張をした。その出張が入社以来の私のストレスと辛さを集約したような3日間だった。行き先はインド。ずっと行ってみたかった場所だったはずだった。でもインドについて私が触れることができたのは、ホテルにいたインド人従業員と、2泊で食べたインドカレーくらいだったことに嘆いた。夜、ホテルでベッドに倒れこんでふとYoutubeにあがってきた、Matildaのトニー賞受賞時のパフォーマンスをみた。見た瞬間、仕事着とメイクもそのままにボロボロ泣いた。机の上に上がり、顔を真っ赤にして叫び、ホッケースティックを振りかざし、怒る子どもたちがものすごくかっこよくみえたのだ。
だから、そのちょうど一年後にロンドンでMatildaをみたとき、私は文字通り号泣した。目の前のこどもたちが、私がいえないこと、抑圧されて私の中で窮屈にしている自我を代弁してくれるように感じた。それはある種のカタルシス体験だった。
例えば、School Song、子どもたちが新学期初めて小学校に登校した新一年生たちに対して
上級生が歌う曲なのだが、この曲に込められた皮肉は強烈だ。
So you think you're A-ble
To survive this mess by B-ing a prince or a princess,
you will soon C (see),
There's no escaping trage-D .
And E-ven If you put in heaps of F-ort (effort),
You're just wasting ener-G (energy),
'Cause your life as you know it is H-ent (ancient) history.
I have suffered in this J-ail .
I've been trapped inside this K-ge (cage) for ages,
This living h-L(hell),
え、おすまし顔してこのカオスを生き延びられるとでも思ってる?
すぐにわかるよ、この悲劇から逃れる方法なんてないってことを。
どんなに努力したって、それは労力が浪費されているだけ
だって、昨日までの君の人生なんてもう太古の歴史だから。
僕らもこの監獄で苦しんできたんだ
この檻の中にずっととらわれてる
この生き地獄
Like you I was Q-rious (Curious),
So innocent I R-sked (ask) a thousand questions,
But, unl-S you want to suffer,
Listen up and I will T-ch you a thing or two.
U, listen here, my dear,
You'll be punished so se-V-rely if you step out of line,
And if you cry it will be W should stay out of trouble,
And remember to be X-tremely careful.
私だって君達みたいに興味津々だった
無垢な目でいろんな質問したさ
でも苦しみたくなかったら、疑問はなげかけないほうがいい。
だから、一つここはアドバイスをあげるよ、だからよく聞いて
ここでは線を踏み外したら、厳格に罰せられるんだから
泣こうものなら、さらにきつく当たられるよ
問題は起こさないほうがいいよ
だから気を付けて
これは、私が感じてることそのものだった。
入社するまえのワクワク、緊張、自立したことへの誇り、
それを思い出しては、縛られたような窮屈と踏み外してはいけない規律については、
話してはいけないとおもった。
だって、「問題はおこさないほうがいい」から。
だから、舞台でこの曲が歌われているときに、声を潜めて話さなければならないような秘め事を大きな声で堂々と宣言されているような清々しさと感謝を覚えた。
それをほんの7-8歳の子たちが歌っているというアイロニーもすごい。
子どもは学校を楽しんで、行けることに感謝しなければならない、という無言の前提を一気にかき消すような全力の声がそこにはある。
内在した圧力を吹き飛ばすパワフルさがあるのだ。
(余談だが、このSchool Songの歌詞がA-Zの順になってるかっこよさも本当に痺れる)
私の周りをみると、日本人、日本で働いている人に特にMatildaのファンは多いように感じる。上記の私もそうだが、他にも何十も作品をみている舞台ファンがお気に入りの作品にあげたりしている。今回一緒にみにいった私のパートナーも、数か月前に初めてみたMatildaに衝撃をうけ、今回半年足らずで二人で再訪することにした。
日本はいまだ体育会型の厳格な規律が社会を駆動していると感じる。とくに労働において。第二次世界大戦を振り返ったときに、日本は権力が仕組みのなかに埋め込まれており、ドイツやイタリアのような個人のドグマを象徴として敷かれるヒエラルキーや、政治的カリスマに牽引される英米とはことなり、軍、という仕組みそのものが権力となっていたことが、その後の戦犯を裁く際もことを複雑にした、という声もある。(天皇制の理解の仕方にもよるので、あくまで解釈の一つではあるが)その後、日本は製造業を主軸産業とし、高度成長をとげた。一定の品質で生産を大規模化、効率化させていく製造業の性質もこの強い規律に駆動される労働規範に非常に合致していたのだと思われる。
いまや日本のGDPの7割はサービス業が担っている。しかし、日本はその就労文化はいまだ、軍国主義の時代、そしてそこからの大量生産の工場労働を維持しているように思える。
例えば私の前職であるコンサルを例にとってみたいと思う。
本来サービス業は提供するサービスの価値に対して対価が払われるべきだ。しかし、日本ではそうではないことが多い。日本は本当に暮らしやすい国だが、それは消費者としては、払っている金額に対してサービスが不均衡に過多であることが大きいと思っている。
コンサルも、本来であれば我々が提供してる価値、分析の質、得てきた情報の質、提案が与える示唆に対して払われるべきであると思う。しかし、現状そうとはなっていないところが多い。コンサルと一言にいっても細かく分けるとビジネスモデルは異なるかもしれないが、例えば私の前職では私の一時間の労働の対して単価がつけられ(これが私の給料になるわけではない)、何時間分の労働、またはそれに相当する成果をあげたかでコンサルタンシーフィーを顧客からもらう仕組みであった。(私の記憶が正しければ大手の弁護士ファームもそういったところが多かったように思う)。私のアウトプットの値がついているのではない。私の身に値がついているのである。もちろんその背景には時間を費やせば費やすほど良いものができるという推論があるわけだ。しかし、それは同時にコンサルティング会社が利益を出すためには常に長時間の労働をささげる以外にない、ということでもある。中には民間企業をお客さんにした場合に、アウトプットで評価してフィーを払ってくれる場合もある。しかし、その仕事で多くのお客さんが「量」で仕事を評価していたのを思い出す。
例えば新規事業立ち上げのためになるような参考事例を調べてほしい、といったとき、本来であればその新規事業に最も参考になるような良例をいかにだすか、ということが大事だとおもう。しかし、こういった事例を調べるときにも、「何十例だしてほしい」みたいなことを言われたりする。それは、その何十分の一であることが正当性を高めるからなのだが、別にその例は調査の際に3つ目にでてきているかもしれないし、絶対的な価値があるかもしれない、のにだ。
コンサルを目指す学生やその業界外から「高い専門性」で付加価値を提供しているというイメージをもたれている、なかにはコンサル自身もそのように勘違いしていることさえある。しかし、ほとんどの場合、クライアントに自社にはない時間と労力をお金で買ってもらう、というのがコンサルビジネスだ。コンサルの中で、自分がクライアントより優れているから、自分の仕事をできると思っている人がいるとしたら、それは思い上がりだと思ったほうがいい。クライアントにないのは時間と人手である、彼らは毎日の通常業務で忙しい。普段の仕事に加えて、言ったこともない途上国のビジネスチャンスを調べる時間なんてない、自社が未開拓の事業分野について参入可能性を分析する時間なんてない、マーケットの市場分析をExcelでカチカチやる若手がいない。だから、私たちコンサルを時間で買う。
コンサルというと激務がつきものだが、本質的にはそれは逃れようがないとおもっている。当たり前だ。だって、私たちが何時間働くか、でお金が入っているんだもの。労働が短くなれば得られるフィーは少なくなり、儲けは減るのである。
少し脱線したが、こうした労働集約的ビジネスの場合、強い規律は非常に大事だ。いかに長い間人を労働に従事させ、生産性をおとさずにを稼働させるかが大事だからだ。行動規範は厳格に、一糸乱れず前進することがマネジメントのコストをさげ、効率を高める。上記は私が知っているコンサルの例だが、サービス業がGDPの7割を占めるようになった今も日本の多くの業種は労働集約的な工場労働に近いのかもしれない。厳しい規律のもとに、自分の時間をささげることで価値を生むような生産活動をしながら、私たちは自分たちをマチルダのこどもたちに重ねるのであろう。先のSchool Song を初めて聞いたとき、私は新人研修の時に言われたことを思い出した。
その研修講師は私たちの前に立つと言った、この研修の中では3つのルールがある、と。
最初の二つはもはや覚えていない。互いに協力しましょう、みたいなことだった気がする。最後に彼はいった「そして、3つ目のルールは、ルールを守ること」。
ぞわっと寒気がした。中身がないルール。
なにがルールであれ、それを守ることを約束させられる。全体主義だとおもった。
大げさかもしれない。なにをいってるんだ、たかが研修だろう、その数時間の研修会社が内容をこなすためのだけの道具だ、と。でも、私はいまだ忘れられない。それは問うことを殺すような一言だった。ただ規律に従うことを「研修」で教えている。この講師は前職の職員ではなかった。しかし、むしろ様々な会社が彼にこの「ルールを守る」研修をたのむことで彼は仕事をしていたともいえる。だから、「疑問はなげかけないほうがいい」し、「線は踏み外しちゃいけない」。その研修講師の前に起立して並ぶ私たちはまさにTrunchbullの前に顔を強張らせMatildaたちだった
Matildaはよくキッズミュージカル、と形容される。しかし、この作品をキッズミュージカルと呼ぶのはあまりに過小評価だと思う。キッズが出演者の大半を占める、という意味ではキッズが出てるミュージカルではある。しかし、それは学校という誰もが経験する規律教育を通じて、圧倒的な皮肉とともに「線を踏み外しちゃいけない」大人たちに送る応援歌なのである。
2020年2月3日月曜日
あなたが嫌いな日本の会社っぽさは、日本の外ではあなたの強みかもしれないー国連にみる一見日本的な企業文化ー
例えば、日本の古臭い企業文化、非効率の助長している要因としてしばしば挙げられるものは
国連の中でも散見されるものが多い。
日本でしかなさそうなのに海外でも普通にあること— こっぺ (@attachmisfits) November 21, 2019
-根回し
-会議のための会議
-喫煙所の社内政治
-社内会議の議事録
-体育会文化
-判子もらうために走り回る(こちらではサイン)
-職階をとびこえて話を通してはならないという規範
-縦割り/たこつぼ化
加盟国はお客様、となりの機関は競合他社ーコンサルモデルとしてみる国連ー
国連で働いていると、普段の私たちは各国に対して指導的立場でかかわり、超国家的な権力で秩序を築いているという印象を与えていることが多いらしい。それは、おそらく本や、授業、世界史や時事で出てくる国連が人道的介入のような形で行動している事例が多いからなのではないかと思う。 ...
役人というと霞が関の官庁を想像されそうだが、官庁から市役所くらいの幅を想像してほしい。さて、官僚組織の中で特異にみられる現象の一つとして、会議のための会議というものがある。会議を開いて各部署から関係者を呼び、議題に沿ってみんな好き勝手話すけど、特にそこで意思決定がされるわけではない。国連ではこれをよくcoordination とかconsultationと呼ぶ。これらの会議がある意義は、二つ。
‐意見の代表性を担保すること
ある取り組みを進めるにあたって、テンプレ的な意見は「この取り組みは関係者全員の同意をとっているのか」。特に公共セクターにおいては、「全員」が強調されることが多い。Selective ではなく、Inclusiveな意思決定文化である。公共の利益を実現しようとしている故の文化だ。組織の幹部に説明するにあたっても、お金をだしてるドナーに説明するにあたっても、このピースが欠けることは許されない。すると、意見を聞きましたね!という場を設けることがとても重要になる。大した意見もでない、というのはむしろいいサインの場合もある。「特に是正するべきところはないので、そのままどうぞ!Keep Going」ということなので。大した意見が出ない会議を経ると、晴れてこの取り組みは「Consultした結果、全員のコンセンサスを得られました」と表立っていえることができる。
(緊急人道と開発の社風の違いについてはここでは割愛するが、詳細はこちらを参照)
「初めての緊急人道支援」体験記
ご飯がとてつもなく安くておいしくて、空色屋根のエレガントな教会建築が綺麗な素敵な場所でした。
こんなに寒くなくて、私がロシア語を話せたらぜひ住んでみたい街だった

