2018年7月2日月曜日

正しさと正義の城下町

ジュネーブに来た。
ちょうど今週でここに越してから1ヶ月になる。
どう考えても特殊すぎるこの街に私はまだ慣れてない。
出勤初日。仮住まいのAirBnBからバスに乗った。乗ってくるひとは人種も様々、たくさんの言語が飛び交っている。でもどこを見回してもつけているのは国連マークのついたIDストラップだ。朝の混み合ったバスでひしめき合う人々のほとんどが国際公務員だという自体に目眩がしそうになる。バス停の名前は「ITU(国際電機連合)」、「Nations(国際連合本部前)」、「ILO(国際労働機関)」、「WHO(国際保健機関)」と並ぶ。

国連前のBroken Chair
ジュネーブの人口は19万人。大体東京台東区と同じくらい。そのうちなんと9500人が国連職員だ。なんとこの都市の5%が国連で働いている。これを各国の代表部で働く外交官も含めると7%にも登る。(さらに国連以外も含めると43の組織が拠点を構え、2700人が国際NGOで働いている)ここは世界のあらゆる都市で最も国連職員が多い場所らしい。

ここは正論とPCPolitical Correctness)で動く場所だ。人を見かけや出自で判断することはほぼ不可能に近いし、それはタブーである。物件の内見に行くと、迎えてくれたのはトゥブを着た恰幅のいいムスリムの女性だった。彼女はスーダンから着た国連職員でジュネーブでの5年の勤務を終え、ハルツームに帰るそうだ。スイス人のオーナーとも仲良く、「本当にいいオーナーよ」と私にその部屋を進めてくれた。飲食店やスーパーにいっても接客は丁寧だ。レジに並んでる人、街でバギーを押す誰がどこの外交官、どこの機関の要人かわからない。つい昨日もバスでヨレヨレのTシャツと短パンを履いてるおじさんが仕事帰りにジムにいったとおぼしきUNHCR(難民高等弁務官)の人だった。むしろ、「外国人」に見える人ほど、その確率は高いといえる。

Genèveのランドマーク、レマン湖の噴水。
お天気がいいと虹がかかって見える
新居に移るまで1ヶ月はAirBnBで居候をしていた。最初の2週間泊まった家はニカラグア人一家。週末なにやら広げ始めたと思ったら、市内のニカラグア人たちと数十人で集まって国連前でデモをすると言っていた。ニカラグアはいま反体制デモが本国で加熱し、すでに200人近くの死傷者がでて、国は1ヶ月以上機能停止している。
次に泊まったのは引退したてのバンカーだった。日本の大和証券にも勤めていたことがあるという彼は5ベッドルーム、トイレ3つ、バスルーム2つの大豪邸にすんでいて、色々な人を迎えるのが好きだからとジュネーブを見渡しても最低価格に近い値段でこの大豪邸を貸していた。帰宅すると私を捕まえては日本の企業文化がいかに素晴らしいか私に熱弁していた。

湖をまたぐ橋には週替わりで違う国連機関の旗がかけられる。
気のせいかもしれない。でも、PCが張り詰めたように意識されているきがする。多分ジュネボワ(ジュネーブ人)からすればそれは当たり前なんだろうと思う。空港を降りた瞬間、難民への支援を訴えるポスターが窓一面に貼られ、職場のトイレにはいると”Everybody wants to change the world but nobody wants to change the toilet paper”(世界を変えたいって皆いうけど、トイレットペーパーを変える人少ないよね[ロールを使い終わったら、変えよう])などと書いてある。市バスは、難民デー、女性デーなどがあるたびにそのキャンペーンフラッグを乗せパタパタとなびかせてる。

Do the right thing(きちんとしよう?正義は貫くよね?)ということが前提のように敷かれた場所だ。当たり前だ、国連という一大産業の城下町なのだもの。造船業が盛んなところで港が発達するのと同じようなことなのだと思う。でも、この違和感に似た何かは忘れずに居たくないなと思ってる。

「ポリコレ棒で殴る」という表現を最近よく聞く。私はいつも自分はそれを振りかざす危険がある側だと思ってきた。でもここにきて、ポリコレ棒と呼ばれるものが言わんとするある種の窮屈さみたいなものが、触れるか触れないかの距離で肌にスススっと通り過ぎていくのを感じることがある。
この感覚、この城下町で働いていると言うことをついためらってしまうような、この感覚は、摩耗させたくないなと思っている。

初めに滞在していたAirBnBの窓から。最近やっと自分のアパートに越しました。

街の中心地でもこんな感じ。
そのイメージに比べて実は随分のどかな街、ジュネーブ

2018年3月15日木曜日

オープンイノベーション式に死者を祀る

メキシコの死者の日に参加してきた。
テレビの世界には世界各国の祭りをルポする番組が溢れているが、私自身は祭旅とでもいおうか、祭り事のために海を越えてある地を目指すことは初めてだった。

知る人は知るこの祭、死者の日はドクロメイクで人々が街を練り歩く光景が有名だ。11月の頭に休みが取れるとわかったとき、この奇異な祭り事を自分の目でみて、そのルーツや精神性をその空気からなんとか嗅ぎとれないかと思い、1人かの地に向かうことにした。

死者の日は、ガイコツモチーフのインパクトと、それが彷彿とさせるホラーイメージ、また同じ10月末に祝われることから、ハロウィンの亜種だと思われがちだ。ケルト系の収穫祭をルーツとし、アメリカを主たる発信源として、いまや日本も含め世界中で消費されるポップカルチャーとなったハロウィン。古典的にはガイコツや魔女などおどろおどろしい格好に仮装し、それが徐々に仮装文化とし独立し、参加者はおもいおもいの衣装に身を包むようになった、いわば街をあげた仮装祭である。モチーフとしてはジャコランタン、黒魔術、血、ガイコツなど恐怖を煽る超自然的なイメージをかたどったものが典型的だ。

死者の日は同じドクロをかたどったものではあるものの、そのコンセプトはハロウィンとは大きく異なる。実は、死者の日はお盆なのだ。死者の日と呼ばれる所以はそこにある。10/31からの4日間、いまは亡き人々はその近親者を訪ねて地上に降り立つとされ、その死者のつかの間の訪問を全力で歓迎するのが死者の日の祀りごとなのである。ドクロは死者を盛大に歓迎するための縁起物だ。これだけで、おもしろすぎはしないか?私の興味に一気にポッと火がついた。





美しさとおどろおどろしさが相まって鳥肌がたつ
国境を超えたお隣アメリカでは収穫の時期に悪霊を追い払うために用いられたガイコツモチーフは、お隣メキシコでは死者を歓迎する幸運の象徴である。だから、メキシコをこの4日間練り歩くガイコツたちは大層愉快だ。指笛をぴゅーぴゅーと鳴らし、踊り狂い、死の象徴をかたどりながら、生を謳歌している。

私が訪れたオアハカ州はメキシコ国内でも、特に死者の日が盛大に祝われることで有名だ。10月30日の開会の儀を皮切りに11月4日までぶっ通しで、連日連夜ガイコツちゃんたちの大宴会が街を挙げて開催される。この機会を単なる聴衆で終わらせてはつまらない。祭は参加してこそ、そのエスプリに触れられる気がして、さっそく私も街で一時間かけてガイコツメイクを道端でお店を広げるメイクさんに施してもらい、カトリーナに扮してパレードに参加した。

これがなんとも不思議な経験であった。
まず、パレードは一つではなかった。

街のランドマークであるサント・ドミンゴ教会のすぐ脇を通るメインストリートを中心として、そこから縦横に伸びる細い道に、大小さまざまな集団がそれぞれ驚くほど異なる装いで街を練り歩いていた。ドクロだらけの巨大なダンスフロアを想像して行った私はそこで、この祭りを世界に知らしめたドクロアイコンでさえ、死者の日のほんの一部であることを知る。

ドクロ集団はもちろんいる。サンブレロ(メキシコのつばの広い帽子)にフリルのついたシャツ、派手なメイクで着飾った男女がブラスバンド隊の音楽にあわせて、街頭で踊り狂っていた。これに参加していたのは、比較的若いメキシコ人と観光客。


ひだのおおきな円形スカートをクルクルとまわしながら踊る女性たち
そんなパーティー集団が前を過ぎていったかとおもえば、すぐ後ろに厳かな面持ちで、マリア像と十字をかかえて、神父とともに白装束でゆっくり教会に向かう集団がいる。


神父を先頭にマリア像を掲げて聖堂に向かうカトリック信者

かと思えば、一本道をまがると、男性は上半身裸、女性も裸足の先住民の集団が頭には鳥の羽をつけ、お香をたきながら煙のなかで、激しいドラムのビートで回転しながら、なにかの儀式を行っている。


息が切れようともステップを踏み、旋回し続ける先住民のグループ。今にもトリップしそうな独特な雰囲気

先住民の集団は羽をふんだんに使った衣装が華やか

さらに曲がってみると、今度は母親に手を引かれたこどもたちが、バットマンやプリンセスの仮装をして、完全にハロウィンのノリで、私の前に走ってきては"Trick or Treat!"とかわいらしく叫ぶ。


魔女っ子コーデで揃えたハロウィン・ノリのティーネージャー
驚くほどに多様なスパイスが放り込まれた坩堝のような怪しげで奇々怪々なその光景に私は面をくらった。

その愉快で奇怪な雰囲気はなかなか筆舌に尽くしがたいのだが、
例えるならば、阿波踊りを観にきてみたら、実際はそれに加えて、サンバとブレイクダンスとソーラン節を踊る集団が、全部隣り合わせで、目の前に広がっていた、みたいな感覚である。

何に最も驚いたかといえば、踊っている誰もそのごった煮状態を疎ましく感じていないようであったことである。外からきた我々からすれば、思わず視線を止めてしまうその不思議な光景も、参加者にとっては、この祀りの所与として、滑らかに流れるように眼前をすぎていっているようだった。

目に飛び込む鳥の羽、肌で感じるドラムの鼓動、遠くで鳴るブラスバンドを聴きながら、ようやく腹落ちした。

そう、メキシコの死者の日は、オープンイノベーションなのである。
オープンイノベーションとは近年、特にテック系分野で一種のモードとされる開発手法である。語義が示すことそのままに、イノベーションの過程を組織内に留めず、その生成過程を自ら露わにし、組織外のアクターを積極的に巻き込んでいく手法である。一つの集団のある程度均質化が進んだ組織の中にアイディアを閉じていくのではなく、積極的に外に、外に開いていくことで、よりクリエイティブにしていこうとするのが、その理念の根幹にある。

死者の日は歴史とともに塗り足されていく異なる文化や伝統、目的をすべてその懐に擁して、お互いを排除することなく、また祭の解釈を大きく変えることをしないままに、新しい機能を次々と乗せていった祭りなのである。

ホブスボームが「作られた伝統」について書いたように、どこの文化や伝統も実は変化の中で形作られている。伝統と思っていたものが、じつは新しかった、というのはよくある話だ。しかし、それでも死者の日の特異性は強調せざるを得ない。

想像してみてほしい。日本の灯篭流しで川に灯を浮かべる人たちの横に大音量のストリートダンサーが来たら、それは許容できるだろうか。もっと言えば、その共存を一過性のものではなく、慣習として根付かせることができるだろうか。日本に限らず、「厳かな雰囲気を害する」という一言でそれを許さない文化のほうがむしろ容易に想像がつく。しかし、メキシコではそれが十字架の行進と屋外ハロウィンパーティーをしにきている若者の状況はまさにそのようなアナロジーそのものだった。

死者の日は元々冒頭に述べた通り、マヤの時代までさかのぼる土着の宗教の中で育まれてきた祭りだ。死者への信仰は、古くは2500-3000年も前のにその起源を辿るとさえ言われる。
その後、15-16世紀、アステカ文明が栄えた時代、
黄泉の女王であり、死の婦人の愛称で親しまれる「ミクトランシワトル」への信仰が、この祭の原形になったのだそうだ。
古来から受け継がれるその信仰では、一年のうちこの4日間だけ、死者はその家族、友人、親しい者に逢うために、地上に降りたつと信じられている。
そのため、11月1日、死者の日が開宴される晩に、人々は家族で墓地に訪れ、マリーゴールドを備えて、今年もよく帰ってきてくれた、と死者を華やかに迎える。
死者の日の間、墓地に訪れると、目下は一面鮮やかな黄色でうめつくされ、献花の甘い香りがほのかに鼻に触れる。


死者の日期間中の墓地は見渡すかぎり花でいっぱい

墓石を洗う女性たち
一年に一度、やっと会える親しき人を迎えるのだ、もちろん訪れる人々は皆華やかに着飾っていく。
夜の暗闇のなかでもキラキラと光をとらえるスパンコールに、目元を彩るメイク、幼い子たちはドレスや小さなスーツを着ていたりする。

メキシコの死への考え方は少し仏教にも似たところがある。
死者は幾度も次の命へと生を繰り返すと信じられている、輪廻と通じる考え方だ。
ただし、輪廻と異なるのは、メキシコでは甦った先の生がつねにひとつ前よりも良くなる、と信じられていることだ。
なんてポジティブな考え方だろう。
陽の光をいっぱいに浴びて、太陽を信仰するメキシコの人々らしい考え方だ。
そう。つまり、死は新たなより良い生への転生を意味する。
だから、メキシコにおいて、ガイコツのモチーフは縁起が良い。
「人生昇格おめでとう!」そんな心持ちを感じさせるめでたさがある。

16世紀になると、コロンブスが大航海の末、アメリカ大陸という歴史的な「発見」をすると、
欧州列強による侵攻がはじまる。
メキシコには1519年にエルナン・コルテスが上陸し、わずか2年後にはアステカ帝国はスペイン軍のもとに陥落する。
その後、長いスペイン統治とともに、この国に入ってきたのがカトリックの信仰だ。
そのカトリックにおいて、11月1日は諸聖人の日(Toussaint, All-Saint's Day)だった。
聖母マリア、すべての聖人と殉教者に祈りがささげられる日である。
偶然とは思えない数奇なめぐりあわせである。
そのため、カトリック信仰がメキシコで広まるとともに、11月最初の日にはこの諸聖人の日を祝う習慣も徐々に伝わっていった。
そう、キリスト教の伝来とともに、メキシコはこの諸聖人もろともこの祭にとりいれてしまった。
この諸聖人を祝っていたのが、私が道で聖母像とともにゆっくりと列を成していた一群だ。
一方、羽飾りをつけて、太鼓の鼓動とともに舞っていたのは、先住民文化を祝祭するために訪れていた人々である。

1912年になると、Jose Possadaという風刺画家が一世を風靡する。
このころになると、メキシコはその植民地化の影響もあり、かなりの階層社会と化していた。
当時の貴族階級はヨーロッパへの憧れと羨望から、
その一部になりたいと、必死でヨーロッパ文化をとりいれ、マネようとした。
その装いから、食生活から、生活スタイルまで。
Possadaはそんな貴族階級の必死な姿を嘲笑し、
ツバの大きな帽子に、花を挿し、派手なドレスで着飾った女のガイコツとして描いた。
彼はこれをカトリーナと名付け、本当の文化に肉付けされていない彼・彼女らを表面的でからっぽな骨ばかりな姿に風刺した。
このカトリーナのアイコンは、その後メキシコ現代美術の巨匠ディエゴ・リベラの「アラメダ公園の日曜の午後の夢(Sueno de una Tarde Dominical en la Alameda Central)」という壁画作品に引用されたことで一躍世にしられるようになる。


PosadaのCatrina(Posada Art Foundation より)


ディエゴ・リベラの「アラメダ公園の日曜の午後の夢」
(Sueno de una Tarde Dominical en la Alameda Centralより)
瞬く間にこのアイコンはその愛らしさ、皮肉を帯びた滑稽さから、
人々に愛されるようになり、「ガイコツ」という共通項からさっそく死者の日の新たなモチーフとして取り入れられるようになる。今も街中にあふれるガイコツモチーフはこのカトリーナをかたどっている。特に各家庭に祀られる裁断や、花びらで象ったモザイク画はこのカトリーナをおしゃれに模したにものが多い。
その後、メキシコが移民の流れ、貿易を通じて加速度的に経済的にも社会的にも米国との距離を縮めていくにつれ、ハロウィン文化が徐々に同国に浸透していった。祭の時期が近しかったこと、さらにはガイコツがハロウィンにおいても一般的なモチーフであったことが偶然にも重なったことで、この米国の風習も当初からそこにあったかのように、いつの間にかこの祭の一部となり、変装とTrick-or-Treatは死者の日の新たな習慣としてその吸収されていった。



過去一年、愛する者を亡くした家族がつくる花びらのモザイク絵
私を驚かせた街頭での異様なカオス、うねるようなエネルギーを発していたあの光景は、まさにその混交と進化が生み出したスペクタクルだったのだ。オープンイノベーションのごとく、その文化的な進化を様々な力にゆだね、驚くほどの寛容さで受け入れてきた死者の日は、様々な信仰や慣習、シンボリズムを、自らの血潮としてその身を巡らせている。人はそれを文化の侵略や帝国主義と呼ぶかもしれない。しかし、変化や再解釈を恐れず、それを侵略どころか、自らのものとしてしまうメキシコには憧れるほどのしなやかさがある。
さて、今ではすっかりメキシコの風物詩となったカトリーナのフェイスペイント、自らもそれを施して街頭に向かうことに決めた私は、その起源がどこまで辿られるか聞いてみた。
「カトリーナメイクかい?あんなもの俺が若かったことは誰もしてなかったよ、せいぜいお面くらいじゃなかったかな」30代半ばのタクシー運転手は幼少期を振り返りながら言った。
「2015年に公開された『007スペクター』があるだろ?あの冒頭のパレードシーンで、死者の日は一気に有名になったんだけどさ。あの映画の演出でたまたまエキストラにはみんなドクロメイクをしてたわけ。その次の年からだよ、みんな一気にカトリーナメイクをしだしたのは」

あまりにも驚いて、一瞬まともに反応が返せなかった。
私をはじめ、多くの観光客が追ってきた死者の日の圧倒的代名詞と思われたドクロの行進、これこそも、自らを映したフィクションを逆輸入してしまったこの祭りの最新のイノベーションだったのである。嘘からでた真、とはこのことなのだろう。
メキシコのオープンイノベーションは常に私たちの想像の先を行く。


今ではすっかり祭りの代名詞になったカトリーナメイク

女友達で衣装をお揃いにしている子も多い

そういえば、今年公開となるピクサーの最新作、『Coco(リメンバー・ミー)』はこの死者の日を題材としたストーリーだ。きっと来年からの死者の日には、ギター少年のミゲルくんや、ガイコツのヘクターが街のかしこに現れるのだろう。

風物詩の大きな祭壇も来年はリメンバー・ミーのモチーフが紛れ込んだりするかもしれない


2017年11月16日木曜日

Anastasia

11月のブロードウェイはちょうどシーズンの入れ替わりで、昨シーズンの作品が終わったばかりだけども、それと交代する新作はまだ準備中かプレビュー中という、ミューオタを悩ませる時期である。


まず細かいことを語る前にこれだけ言わせてほしい。


ラミンが見れなかったーーーーーーーーーー。ラミーーーーーーーーーーン


※ラミンとはお顔、身体、声と三点そろったイラン系カナダ人のスーパースターです

※史上最も人気のある怪人の一人で、クラシックからロックまで何でも歌える超人なのでとりあえず彼をいれておけば、ショーの質があがる感があります。

11月をもって、降板することが決まっていたラミンを観れる貴重なチャンスに滑りこだと思ったんですが、その日はunderstudyが代打しており、イランの誇る美声が聴けなかったのは大変口惜しかった。でも、切り替えます。12月には日本コンサートにくるので。もちろんチケットぽちってるので。


もう一度だけ、言います。


ラミーーーーーーーーーーーーン


はい。気が済んだしたので、通常レビューに戻ります。


Anastasiaは97年に上映されたアニメ作品を原作としている。今回なぜこのショーを観に行くことにしたかといえば、理由は極めてシンプルで、小学生の私はこのアニメ作品の大大大ファンだったのである。バスで1時間以上かけて通学していた私は、当時から音楽ジャンキーで、一番好きなテープ(そう、当時はカセットテープです)がAnastasiaでした。好きすぎて、いまでも持っているくらいです。





そんな腹の底から好きなスコアなので、もちろん音楽はとてもよかった。多少順番や歌詞を変えていたけれど、それも違和感がなかったし、元の音楽コンテンツはうまく料理されていた。物申すとすれば、新しく足された曲目が少し完成度として霞んでしまったように思う。その点、同じくアニメ原作のアラジンなどは、元の作曲家(名匠アラン・メンケン氏)がついたことで、新曲も含め、全体をプロデュースが成功したのだが、Anastasia はどうしても継ぎ足した部分の完成度のムラが否めないかなというきがした。電車シーンの"Traveling Sequence"や、パリの"Land of Yesterday"などはうまくはまっていたように思う。あと、エンディングの名曲At the Beginning が完全カットされてたのが残念。カーテンコールでもいいからかけてくれればいいのに!

キャストの歌唱力も素晴らしかった。特に今回発掘された新人さん、アナスタシア役の Christy Altomareは、とても伸びある声でありながら、イノセントな印象も残しており、ハマり役だった。今後も純粋な少女役に期待できる。


あとは満足度が高かったのがアンサンブル。本作、キャスト人数は決して多くなく、ロマノフ一家から、人民、軍部まですべて10人ほどでこなしていたのだが、コーラスが10人とは思えないほどの厚さであった。特にロシア風の曲のときには、このコーラスの重さがしっかりでていたことでまとまりが出ていた。


さて、音楽と歌唱面からレビューを始めましたが、この作品は「小規模予算の舞台作品がどう試行錯誤するか」という観点で見たときにとても面白かったように思う。去年Dear Evan Hansenというオフブロードウェイあがりの低予算作品がシアター界を席巻したことからもみられるように、ミュージカルは最近ますます「お金をかければ良い」という世界ではなくなってきている。そんな作品がどんな戦略を打って万年戦国時代のブロードウェイを勝とうとするかはとても興味深い


残念ながら制作費をネット検索からは突き止めることはできなかったが、Anastasiaも使っている劇場、プロデューサー陣、キャスト陣などからして、そんな小規模予算の作品の一つであることは察しがつく。そんな作品の難しさは予算を均等に分配できないことにある。潤沢にない予算をどこに重めにふるか、そんなセンスと手腕に問われるのだ。そのため、凸凹感がある、それが低予算作品の特徴である。


Anastasiaにおいてはキャストや衣装はきちんとコストがかけられている部分であった。キャストは幸い(?)男女の主演が若いという設定だったので、イキがいいけれども、まだまだ売り出し中の(言ってしまえばコスパが高い)2人を中心に、ベテラン勢も粒ぞろいであった。おそらくキャスティング料が圧倒的な高いラミンを筆頭に、助演クラスが手堅く、Vlad 役のJohn BoltonとLily役の Caroline O’Connor のおじさまおばさまが際立ってよかった。なによりコメディシーンの質がたかい。コメディは実は高級感を出すのが一番難しいというのが、私の持論であり、下手するとすぐ「安っぽさ」が、でてしまう。その点若い2人はまだそこの経験が足りず、いくつかダイコンモーメントがあったのだが、このベテラン2人がいることで、作品としての安定感は一気に増していた。曲もこの2人がはいっていると、まとまりが全くちがった。Vivaベテランパワーである。


逆にここは予算薄いな、とかんじたのは振り付け。本作どの役職をとってもプロデュース側にもビッグネームはいないのだが、それにしても振り付けはもう少しどうにかなったのではないかと思う。冒頭に帝政ロシアのロマノフ家の晩餐シーンがあるのだが、そこの舞踏シーンが安すぎてちょっと、はじまっていきなりのダイコンモーメントにどうしようかと思った。ダンスルームシーンをやるのならば舞台版シンデレラくらいの本気が欲しい。あっちは完全なるフィクションであれだけ揃えてきてるのである、歴史物であるはずのAnastasia で帝室シーンにボロがでると、一気に作品がbelievable ではなくなってしまう。総じて、振り付けなしの曲が自然だったしいいかんじでした。ちなみに先に述べたDear Evan Hansenもほとんど振り付けがありません。低予算の場合はむしろそういう潔さもあってもいいのかなと思う。





低予算舞台における近年みられるもう一つの特徴として、テクノロジーによる制約克服がある。舞台世界にもイノベーションの波はきている。資金面の制約を技術で乗り越える試みが最近よくみられるようになり、面白い時代になってきていると思う。Anastasia はなんといってもCGとプロジェクションなしには語れない。最近ミュージカル界(特に韓国系)で人気のプロジェクションの活用だか、本作は今まででみたことないほどにデジタル映像の活用が多かった。どのくらい多かったかというと物理的にでてきたセットが、机、イス、などの家具と、鉄道の車両内セットくらいである。特に屋外シーンは全てが背景スクリーンといっても過言ではない。
なんというかもはやメディアミックスに近いというくらい装置が映像で代替されていた。サンクトペテルブルクの大聖堂や、パリのエッフェル塔、鉄道で逃げるシーンで窓の外を走る景色、これら全て映像で表現されていた。

これまで観てきたプロジェクション映像はそのシーンにプロジェクションを使うこと自体に意味をもたせていたが、Anastasia において、はじめてプロジェクションであること自体の意味は透明な映像活用手法をみた。


おそらく好みが出るとおもう。特にオールドスクールな古典好みな人たちは、ディズニーランドのショーみたい、なんていうだろう。でも、ブロードウェイで同時にライオンキング、アラジン、ノートルダム、アナ雪、を公開しようとしているような市場環境の中で、むしろミュージカルがどこまでエンタメショーと本当に違うんだという気もする。私はセットを作る莫大な予算を持たずしても作品を世に出せるようになった、技術革新は歓迎したいなと思う。見てるときの違和感でいえば、アバターのときは超賛否両論だった3Dももはや、まったくもって「普通」になったじゃない?多分制作側の使い方の慣れと、観てる方の慣れの問題です。


今回は少し興行的な観点から作品を語ってみました。Anastasia は総じて大劇場のスター作品にはないような凸凹を楽しむ作品である。「ここがこんなに卓越しているのに、ここなんでこんなになっちゃったんだ?」なんてシーンも含めて満喫するのが乙。とりあえずミューオタにとって最も大事な楽曲が鉄板なのでそれを安心感に、スタートアップ・ミュージカルともいうべきこの作品はトライしてほしい。結局は引っかかる所のないまん丸の「優等生ちゃん」な作品よりも、こういう作品の方が案外クセになってしまうのが舞台のおもしろさだと私は思う。


プレスコール動画(ラミン含)。キャストの伸びやかな声がとてもよい


2017年10月15日日曜日

流浪と隔絶に生きる豊かさ、逞しさ —インド・カッチ地方のお針子さんたちを訪ねて

Kutchというお針子の街がある。
パキスタンの国境近く、インドのグジャラート州にある地域だ。
まさに辺境というにふさわしく、グジャラート第2の都市Vadadoraから鈍行列車に7時間も揺られてやっと辿り着くそこの、その周縁の、周縁であるが故の魅力の虜になった。
カッチの手芸は本当に手の込んだその繊細さ、独特なデザインが美しく、
一度目にすると、arts & craft が好きな人なら誰でも一瞬にしてそこに心惹かれる。
しかし、世界中に点在する手芸自慢の地域の中でもカッチが特別に思えるのは、
それが、一つの手芸品を名産とするのではなく、
地域の中で肩を寄せ合うように、多種多様な手工芸をつくる村が密集しているところだからだ。
蚕がとれるから絹織物が、質の高いチークがあるから木製家具、といったその風土を吸い込んだ一つの手工芸を冠しているのではない。
銅細工から、染め物、木工品から、刺繍まで、
ありとあらゆる手工芸が隣合う村々の中で、それぞれ特化され、華めく。
手先自慢の職人さんやお針子さんたちが、なぜか方々から集まり、
創る生きたアトリエ。
カッチはそんな不思議で奇特な魅力に溢れる地域だ。



まだ、観光客もすくないこの地域を、
リキシャを半日、車を一日貸し切って、村から村へと一つ一つ行脚した。
土ぼこりが少し舞う中、自分の足で踏みしめて、
村々をあるくと、改めてその不思議な魅力に取り憑かれる。
いずれの村も、商売上手な商人やバザールなどはなく、
お家の一角にある作業場で創られた手工芸が、そのすぐ脇で、
またはその職人集団を取りまとめるリーダーのお宅で手売りされている。
特に刺繍などに関していえば、元々は売り物ではなく、
お家で使うものとして受け継がれてきたものなのだなということがよくわかる。
私たちがドアをノックすると、みんな「まぁチャイでも飲むといい」と
お茶をまずは出してきて、
「まぁま、まずは見ていけばいいよ “Watch and Learn” と言わんばかりに、
黙々と作業に戻っていく。
本当にここは職人さんの集まりなんだなと言うことがよくわかる。
大体の工房には英語を話すおじさまが一人おられて、
その手工芸の制作の課程や由来等を丁寧に説明してくれる。
決して押し売りするような素振りはなく、
その伝統や風土をまずは知ってほしいという姿勢がとても素敵で、
ああ、なるほど私は職人とアーティストの村にきたのだなということをひしと感じさせる。


Ajrakのブロックプリンティング、繊維産業の工業化の第一ステップとも言われる。
模様を象った判子を寸分のズレもなく組み合わせて押していく

そして、やはり不思議に思わずにいられないのは、
その小さな地理の中に、多種多様な工芸が密集しているカッチの特性である。
わずか1日半の間に巡った村々では、
織物、染め物、木細工、ひまし油の布描画、銅細工、刺繍がそれぞれの村の職人集団に創られており、
まるで、手工芸のワンダーランドに迷い込んだような、
幻想的な空気を吸い込むかのような感覚になる。

なぜ、この人たちはそれぞれ異なる特性や技術を携えて、
この限られた範囲の中に集まったのか。
それを辿ることが、カッチ刺繍の他の地域とは見違えない独特さを見いだすことにもなるのではないかと思った。
その少しばかりのヒントが旅中に見聞した話と、
その後に少し追いかけた話から拾えた。

Bhujodi 村の織物
ゾミア、という言葉を知っているだろうか。
人類学の学術用語として世に現れたこの言葉は、
James Scottという東南アジアをフィールドにした学者によってその名を広く知られるようになる。
Scott の専門は政治学やサバルタン・スタディーズと呼ばれる分野で、
人類学的手法をとりながら、権力構造から "疎外された” 農村社会による抵抗を専門としている。
彼は自らの研究対象である東南アジアの山岳地帯に住む人々について、 "自発的に近代的統治から逃れた人々である” と評した。
つまり、地理的に国家の中心から "隔絶され"、それ故に "取り残された人々” かのような描写に、スコットは異を唱え、
「そうではない、彼等はむしろそんな統治を自ら拒絶し、自主的に支配の円の外に逃げることを好んだ人々である」ということを述べた(参考:The Art of Not Being Governed - James Scott)
彼の元々の研究対象である東南アジアの山岳地帯を指すゾミアという言葉は以来、そんな統治から逃避する周縁の人々、を指す言葉となった。

インドのカッチ地方の手工芸の豊かさと多様性はまさに、そのゾミア性を養分として育まれた文化のように思える。


ニローナ村の銅細工
現在ちょうどインドの西端、パキスタンとの国境際に位置するカッチの村々の人は、その起源を様々な場所に辿る。インド国内では、マトゥラー(UP州)、ジャイサルメール(ラジャスタン州)、お隣パキスタンからは、シンド州やバロチスタン州を出身とする人々が、そして、遠くはイラン(ペルシャ)から渡ってきた人々もいる。

インド、パキスタンどちらにも長らく道路網がなく、
広大な塩性の湿地帯によって、物理的に中心から隔絶されてきたカッチ。
そこにはインド、パキスタンどちらの支配の及ばない、周縁に逃げ込むひとたちが多く移り住んだのだろう。彼らはスコットがいうように、隔絶により、周縁に追いやられた、「取り残された人々」ではなく、まさに、その支配の円からするりと抜け出した人々なのである。
村を案内してくれる女性
ニローナ村のRogan Art (ひまし油の布描画)オバマが来印したときにも贈られた逸品

加えてこれらの村々から一番の近隣にある都市Bhuj とMandivi港は18世紀ごろまさにインドを西に開く貿易の玄関口の一つといわれたそうだ。現在のBhujで、ほこりの舞う道路をてくてくと歩いているとまさに、そこはインドの田舎といったところで、この地は交易で栄えたことなど想像もつかないが、その頃、当地を訪れたオランダ東インド会社の手記によれば、このころからこの場所はインドネシア人、アラブ人、エチオピア人、パシュトゥーン人の商人が港を行き交う交易の街でもあったという。

カラフルな木工
地元に住まう人同じほどに、旅の商人が絶えず来てはさっていく土地であったカッチはその交易の流れの人々の流動性の中で育まれて来た場所なのである。この土地において、"ここの人"と"よそ者"の区分は限りなく曖昧で、ゆるやかな人の流れがかつてよりあった場所だと想像される。欧州、南アジア、中東、アフリカの間の交易を結ぶハブとして、シルク、染め物、織物など様々なアートとクラフトが持ち込まれたカッチは当時より、そんな手仕事の品で栄えてきた里だった。

そんな色々な人々が身を寄せる豊かな周縁カッチにおいて、多様にある手工芸の中でも刺繍は特にアイデンティティーと密接に結びついてる。元々、刺繍は売り物ではなく、それぞれの村、民族の中の伝統として受け継がれてきた。
特に、多くのカッチの村において、鮮やかな刺繍は女性の嫁入り支度として準備され、彼女達は十分な刺繍の品を準備ができて、はじめて婚姻の儀礼ができたという。
女性が結納金がわりに金品や家畜等をもって嫁ぐ文化は他の文化圏でもみられるが、カッチの場合は、
その金銭的な価値と同時に、女性の技術、そして一族の伝統をきちんと継承していること示すことが刺繍に求められていた。
私が村々をまわったときも、ある小さな村ではまだ刺繍が商品化されておらず、刺繍をみせてほしいというと、女性たちが自分たちの洋服をもってきて、その場で縫い付ける姿をみせてくれた。

自宅で刺繍を実演してくれた女性
このように婚礼を通じて受け継がれていた流浪の民のアイデンティティーの礎が、手工芸として、家の外、カッチの外に知られるようになったのは、奇しくも大きな天災がきっかけだった。
2001年1月、カッチは大地震に襲われ、全住民の10%にあたる13,000人が命を落とした。
復興のため、政府機関やNGOが積極的にこの地域に入り、支配の円の外にいたはずのカッチは突然 drasticな介入を受ける。その中で、主にNGOにより、彼等の復興の術として見いだされたのが刺繍だった。
元々隔絶された土地であるカッチが、震災の被害から立ち直るのは容易ではない。
それまで関心や規範から逃避していた彼等は、自らのアイデンティティーの象徴である刺繍をグローバルマーケットの日の目に出すことで、復興の手綱を引き寄せたのであった。
「インドの少数民族が創る秘められていた刺繍」、そんなオリエンタリズムにくるまれて、隔絶を好んだ人々が自らの姻族の象徴を商業化することは、少なくなからずの躊躇や抵抗があったのであろうと想像する。
それでも、そんなグローバルマーケットに利用されるどころか、自分たち側こそグローバルマーケットをうまくつかってやろうという気概が地元に密着したNGOからはかんじられ、逞しかった。

パッチワークを仕上げる女性
カッチにいつまでもそのゾミア性をもとめ、隔絶された地でいてほしいと願うのは、それこそ一つのオリエンタリズムであり、感慨に浸った憧憬である。私自身、グローバルマーケットに放たれたそのブランドに惹かれ、この地に降り立ったのだ。
カッチの地は、絶えず移り行く状況や土地の変化の中に身を委ねその流動性の中で育まれてきた。未曾有の天災に見回れ、周囲との関わり方、手工芸の機能やあり方を、見直していったそのしなやかさにこそ、カッチの本質はあるように思う。


刺繍やブロックプリンティングの美しい生地でつくった衣装を身にまとう女性たち
村巡りをしていて訪ねた最後の村で、日も暮れたころ、
美しいミラーワーク(鏡面を縫い込んだ刺繍)を施した女性の衣装にであった。
ミラーワークはカッチ刺繍の特徴的な技法の一つであるのだが、それまでいくつ村を訪ねても商品化されたミラーワークに出会えずにいた。
これはどうしても布地を手に入れたいと考え、聞いてみるも、
これは商品ではあるが、この刺繍が施されたものは服しかないのだと、返される。
先の花嫁支度の話を思い出しながら、なるほど、いまも刺繍の心臓は衣服に生きているのかもしれない、そんなことが頭をよぎった。
服を買ってもどう考えたって着る術も場所もなく、購入はとても迷ったが、
私を最初にこの地に引きつけたその刺繍が手放せず、
日本にもって帰ったのだった。
帰国してから仲良くしているデザイナーさんに相談し、この布地を一つのクラッチバックに仕立て直してもらった。



カッチで自らの身をたて、土地を守ってきたお針子さんたちのしなやかな強さが糸に縫いこまれた作品を、こうして日本のお針子さんにお預けし、できたクラッチを手に乗せながら、
自分自身もその流浪性、周縁であるが故の逞しさにほんの少しだけ息吹を絡ませることが出来た気がして、単純にうれしかった。

そんなクラッチを脇にかかえ、私はこれから友人の婚礼の儀に向かいます。

2017年9月27日水曜日

Finding Neverland -創造力の帆を広げ、現実をすすむ舵を切る-

2015年のトニー賞以来、ずっと気になっていた作品がある。
Finding Neverlandだ。

(このポスターデザインもとても好き。このためだけにパンフレットを買いかけた)

この年あたりから(まだほんの二年前)、来日公演に飽きたらず、現地公演情報を熱心に収集するようになり、観に行けない作品も限られた情報を湛然に調べ上げるようになった。そんなタイミングでテレビ越しに見たミュージカルの祭典であるトニー賞は私にとって新作を総浚いするまたとない機会だった。一年に一度開催されるこのイベントは、いわばミュージカルの競りのようで、その時、そのタイミングで一番 "活きのいい" 作品が次々と並べられ、我こそはと最高値(トニー賞)のために競う。

この年の話題作はあるレズビアン女性の自叙伝、Fun Home、リバイバル公演で王様役を渡辺謙が日本人として39年ぶりにノミネートされた King and I であった。

しかし、数あるパフォーマンスの中で、私が目を引かれたのは、ノミネートさえされていなかった、作品だった。それがFinding Neverlandである。

(Tony賞のパフォーマンス。Matthew Morrisonが歌う Stronger)

この作品がそのブロードウェイでの常演作品としての寿命を終え、来日するというので、万難を排して観に行ってきた。

Finding Neverlandでなんといっても特筆すべきは、その個性的で洗練された振り付けと、巧緻を極めた演出だろう。本作は2004年、ジョニー・デップが主演した同名の映画を原作としている。ロンドンの劇作家ジェイムズ・バリーが、「ピーターパン」を書き上げるまでの課程、その創作の源泉となった家族との交流についての実話を描いた作品だ。彼の生の生活、その手がける創作、その狭間を揺らめく想像が、切り分けられないほどに密に交錯する様を、視覚的に描出する振り付けと演出がすばらしかった。

ピーターパンを書いていたときのバリーの実生活は、作家が描くファンタジーとはかけ離れた気鬱に帯びていた。興行収入ばかりにとらわれた劇場オーナーに駆り立てられ、社交界での見栄に気を払う妻に素行を咎められる中で、彼にとって現実こそが茶番に満ちたフィクションだった。舞台上では、舞台関係者との打ち合わせや、自宅での晩餐こそ、チープなコーラスと、子供じみたジェスチャーで表現される。

Circus of My Mind や We Own the Night のカラクリ仕掛けのような振り付けではこれが特に際立つ。

(冒頭、We Own the Night、28分ころからCircus of Your Mind. ブロードウェイのオリジナルキャストより)

それに対して、バリーの創作の世界は、眉をしかめるような悲痛な表情で、でも愛おしさの溢れる必死さで、マイナーコードのバラードで空間いっぱいに広がる。

そのコントラストが本当にとても巧みであり、哀惜と憂いに満ちながらも、夢を語るバリーの世界がとても真摯に表現されていた。
特に、父を失い、病に倒れる母をみて、無理矢理に「大人」のように冷めてしまった少年ピーターと、
現実の世界に帰る場所を見出せない「子どもでいたい」バリーの歌う世代を超えたmale duet、
When your Feet Touch the Groundは胸に響く悲痛で愛おしい曲だ。

[Barrie]
When did life become so complicated?
Years of too much thought and time I wasted
And in each line upon my face
Is a proof I fought and lived another day
When did life become this place of madness?
Drifting on an empty sea of waves of sadness
I make believe I'm in control
And dream it wasn't all my fault
When your feet don't touch the ground
When your world's turned upside down
Here it's safeIn this place
Above the clouds
.....
[Peter]
Everyday just feels a little longer
Why am I the only one not getting stronger?
Running 'round pretending life's a play
It doesn't make the darkness go away
I may be young but I can still remember
Feeling full of joy, crying tears of laughter
Now all my tears are all cried out
Make believe, but count me out
'Cause my feet are on the ground
And the inner voice I found
Tells the truth
And there's no use
If your head's in the clouds

[Barrie]

I was once like you
Life was a maze
I couldn't find my way out
But what I say is true
You'll be amazed
Make believe and you will find out that it's true


(When Your Feet Don't Touch the Ground - Matthew Morrison)

また、バリーの内なる葛藤を描いたstronger、
シルビアとバリーのキャンドルライトのダンスシーン、
シルビアの最後の旅立ちのシーンは、
影や、風など、いわば「手に取れない」効果を使った実験的な演出が多く、
この意味でも自身が劇作家であったバリーの創作世界を「ワクワクさせる」ような魅せ方で表現することにこだわられた作品であったと思う。

これほどまでに精緻に細かやかを追求した作品も珍しいと思ったが、それだけに日本ツアーをしていたカンパニーがその目指した完成度に達していなかったのは少し残念でもあった。バリー役、シルビア役の哀愁ある演技、アンサンブルのダンス、子役の演技、いずれも、ブロードウェイでやっていた時のオリジナルキャストには到底及ばず、その完成の形を知っていると、口惜しい気持ちにならざるを得ない。特に先に述べた、「あえての」チープさや、悲痛さを秘めた愛おしさ、などの表現はその複雑さがカギであり、そこが徹底されないと、コントラストや、作品メッセージの本質がなかなか伝わらない。自宅に帰って掘り出したオリジナル講演の動画、思わずあぁーー、と声をもらしてしまう。

裏を返せば、それはオリジナルキャストの凄さに尽きるともいえよう。私が元々のトニー賞でみたバリー役のマシューモリソンは特に圧倒的な表現の完成度であったが、彼はもはや1人の演者というよりも製作陣と共に本作を作り上げたのであり、作り手として演じた彼の表現力はやはり他の追随を許さない。

単に想像に逃避をもとめるのではなく、想像と現実のアンビバレントで不安定なバランスを描いた Finding Neverland は、ピーターパンの放つ曇り一つなきファンタジーのイメージに反し、とても人間臭く、それがとても響く作品だ。バリーが自分と子どもを救いたい一心で描くファンタジーや、それを劇中劇として表現する本作の創意工夫ある演出は想像力が掻き立てられる以上に、クリエイティビティーを刺激される。観るものにその場限りの癒しを与えるのではなく、その後自ら自分の世界を創作する少しばかりの思い切りと、不安はそのまま抱えてよいのだよ、といわんばりの安心感をくれる作品だ。

2017年4月3日月曜日

自分を育て、自分が育てた言葉について ー「台湾生まれ、日本語育ち」を読んでー

台湾で生まれたのちに、3歳からずっと日本に住む作者がことばとゆっくり刻んできた関係を丁寧に丁寧に綴ったエッセイ。自分が人生の大半を過ごしてきた国の言葉と「母国語」という関係が結べないこと、自分の母国である台湾の國語、中国語が思うように操れず、どこか切り離された母と子のようにかんじること、大陸から「南方の言葉」と呼ばれながら、國語と不可分に肌に浸透している台湾語、彼女を育てた3つの言葉との揺らぎながら親密な関係、そこから馳せる、国、国籍、越境への思い、すべてが愛おしくなる切実さで記されている。

私は母国語、母語を聞かれた時に迷いなく日本語と答えるだろう。私は両親も親戚も皆日本人だし、国籍も日本だ。一方私は日本語と同じように英語にも育てられてきた。バンコクのインターナショナル・スクールに通っていた私は温さんがちょうど日本語を「国語」として学びはじめたのとほとんど同じタイミングで、ある日突然全てが英語の世界におかれることになった。
幸か不幸か英語は「グローバル言語」としての地位をすでに我が物にしており、そして私がそれを学んだのがタイという第三国だったということもあり、私はその時点で国語や国籍について心を悩ますことは、作者の温さんほどにはなかったように思う。
でも、自分の中に生きている複数の言葉がその地位を変え、その中で自分が育っていく感覚に私はとても強く共感した。
一言も英語が話せなかった7歳の私は、気づけば1年半ですでにまわりのいわゆる「ネイティブ」の子どもたちと新しく自分の中にやってきたその言葉を遜色なく扱うことができるようになっていた。そのタイミングから、日本語は私の中で「お家で話す言葉」になっていく。物事をどんどん吸収していく時期、その知識を運んできてくれるのは英語であり、私の中で広がっていく世界はほとんど英語によって構成されるようになっていった。

小学校5年生後半に日本に帰国した私は100点満点の漢字のテストで8点しかとれなかった。
学校の子たちにはそれからしばらく「8点」と呼ばれ、からかわれたことをいまでも覚えている。
帰国したときは、自分の自我を構成するあまりにも多くが英語、そしてタイに根ざしていて、東京のマンションのダイニングテーブルで私は大声をあげて泣いたことを覚えている。

一方で、日本語はわたしと日本を最も強くつなぎとめていたものだったようにも思う。
アジアのはずれのタイに居た自分にとって、東京や日本は「憧れ」だった。同時にそれは私の「母語」でもあった。日本語は私を父や母と結ぶ言葉であり、従妹や祖父母と結ぶことばである。温さんが、言葉の境界を軽々しく飛び越えてはいかないように感じていた、とつづっているように、私も家では日本語で話すもの、と誰から言われることもなく強く思っていた。英語でしか言葉が浮かばないときに私はそれを恥じたし、どうしても英単語を混ぜなくてはいけないとき、私のあたまの中で探し出せなかったその日本語の単語を母に探してもらい、必ず置き換えてもらっていた。

その後、私は中学校を日本ですごし、失われかけていた母国語の地位を日本語は驚くほどの速さで取り戻していった。
高校になると私はオーストラリアに引っ越す。父の赴任の話をきいたとき、私はタイから日本に帰国した時点での日本語と英語の地位がもう完全に逆転していることに気づいた。私の精神世界は日本語がそのほとんどを占めていて、かつて主だった英語は隅に追いやられていた。家庭の言語も日本語だったわたしにとっては、自分が拾い上げてあげなければ、その灯火はいつか消えてしまうように感じられた。そして、今度は自分の失われた「国語」を再び取り戻すために私はシドニーに行きたい、と両親に伝えた。その時の感覚が中国語を学ぶときの温さんの感覚にとても似ている。

かつて自分の中で絶対的な中心を占めていた英語が気づけば小学生のレベルで足踏みをしていた。私が飛び込んだのは高校である。発音ばかりいいものの、言語的な世界は様変わりしていた。九九をおぼえたり、物語文を読んでいたはずのかつての英語世界はそこにはなく、シェイクスピアと物理・化学が待ち受けていた。しかも、英語に対してタイが第三国であったのに対して、オーストラリアは英語を「所有」していた。私は、圧倒的なよそ者として、自分の稚拙な英語をひっさげていくことになる。そこからの三年間はまさに温さんが中国語を取り戻していったように、自分の「失われた国語」を取り戻すような時間だった。英語が下手にできるからこそ、私はとても英語に神経質になった。なぜならそれは「間違えてもいい外国語」だと割り切れないから。私を育て、自分のコトバだと思ってきた言語に対して、稚拙さを露呈することは許されなかった。英語を自分の言葉のように操ることが私を私たるものにし、私の流浪性を可視化させ、日本と日本語に対する揺らぐ関係を説明するものだったから。「英語がうまいね」といわれることは褒め言葉ではなく、自分の自尊心を羞恥で燃やし、失意に落とす一言だった。完璧であることしか、自分に対して許さない英語とわたしの関係はこのころから少し緊張感のあるものだったように思う。

その後、私は再び大学で日本に帰る。グローバル化が叫ばれる今だ。よく聞かれる「なんでそのまま海外の大学に行かなかったの?」。しかし、私の中で日本に帰ることはあまり迷う余地がなかった気がする。それはこのまま大学教育も英語で受けていたなら、今度は私の日本語が自分の精神世界で中学生のままに置き去りにされてしまうことをわかっていたから。英語という「国語」を一生懸命取り戻していた間、私の日本語はまたすべり落ちるぎりぎりのところに居たように思う。

英語がそうであったように、日本語についても私は完璧でなければ自分自身が肯定できないとおもってきた。どちらの言語も不自由なく操れることで私ははじめて認められる存在であると。日本語ができることで、私の英語がときに滑らかさに欠くことは説明されるし、私が英語ができることで私の日本語が時折不自然なことは正当化される。常にそう感じてきた。そうでなければ、自分はどこにいてもただの半人前だと。

随分前から、私は単一の言語では完全に自分の精神世界を表現できなくなっている。温さんのママ語がそうであるように、温さんのなかで「わたし」という一人称が既に「日本語のわたし」であるように。完全には鏡映しにはならない二つの言語を使う中で、どちらかに自分の言語を限定しなければいけないことは、それだけで制約であった。でも、高校で日本語は決して英語のなかに織り交ぜてはいけないものであったし、日本語の中に英語を混ぜなければいけない自体は恥ずべきことだった。幸い、大学以降そんな複数の言葉がうずまく世界を共有する仲間をみつけ、また書いて自己表現するということを覚え、一つの言語で自分をすべからく表現しなくてはいけない、という呪縛からは解放された。
日本語も英語も完璧でなくてはいけないという、自分で自分に課した足枷からも少しずつ解かれつつあるように思う。

言葉は誰のものでもない。言葉が所有されていると思うからこそ、その境界を飛び越えることは何かを侵しているような気持ちにさせられる。赤子のころからその耳から注ぎ込まれる音に自分自身が育てられるように、自分と外を繋ぐために紡ぐ言葉は自分が拾い、育てあげてきたものである。本来それを括り、縛り上げる必要などないはずであり、しかし、それを実感し、気づけるまでに、多言語の中に暮らす当の本人たちが一番葛藤を抱え、時間を要する気がする。作者の温さんが、台湾語・中国語・日本語を混ぜて話す母の言葉は何語でもなく、ママ語である、と言うように、
複数の言語が一つの旋律として奏でられるそのこと自体を豊かである、
それをゆっくりかみ締めることを思い出させてくれたエッセイでした。

2017年3月11日土曜日

La La Land

89回アカデミー賞であらゆる意味で話題をさらった本作品。ここまで前評判で話題になってしまったこと、また「ミュージカル映画」という謳い文句を背負っていたことで、(ミュージカルファンとしては)妙に構えたスタンスで観に行ってしまったことは否めない。シンプルに観後感を表現するとすれば、映画としては、工夫に凝らされたチャーミングな作品、ミュージカルとしては・・・、いやミュージカルとしては評価できない、と思った。




まず映画としての話をしたい。私は同監督の出世作『セッション』は観ていないのだが、ララランドはなんといっても、デミアン・チャゼルの抑えきれないほどの音楽への愛がこもった作品だ。ジャズをそれこそ「恋人のように」愛する主人公セブの眼差しや、鍵盤に転がる指から溢れる想い、物語の随所で流れ始める音楽、弾ける笑顔で踊るミア。2人が視線でかわす感情の網を縫うように流れるメロディー。「そんなことだからジャズは死にかけている」と言うセブの必死さは、音楽が好きで好きでたまらない監督の切な想いをまさに表現していて、その人間くささがとてもよかったとおもう。「説明なんてできないんだ、とりあえず聴いてくれ」という音楽バカらしさが滲み出ていた。

同時に、ララランドは技巧に凝らされた作品でもあると思う。最も顕著なのはライトワークである。ここまでざっと目にした批評のなかではほとんど触れられていないことが不思議なくらいララランドは照明にこだわりがある。音楽に注目が行きがちだが、この作品のdramatic effect、これを「舞台」たらしめているのはむしろ光の使い方だとおもう。リアルをそのままに映しているかに思われたシーンに急にスポットライトが落とされ、主人公の浴びる光以外、真っ暗になる、その誇張されたdramatic effectこそ、この映画がリアルと戯曲を行ったりきたりする効果を生んでいる。本当だけど、どこか嘘、なこの作品の印象はそんなところから来ている。このライトワークとうまく相乗効果をもたらしているのが、衣装。現実だとしたら、バカバカしくみえるほどに鮮やかでradiantな衣装が舞う様は画に華を添え、ライトワークをより鮮明にしている。エマ・ストーンの演技の素晴らしさも相まって、色鮮やかな衣装で次々と画面を舞う彼女をみるためだけに観にきてもいいなと思ってしまうところさえある。

さて、ではミュージカルとしては、どうか。はっきりいって、これはミュージカル・ファンにとってはミュージカルではないのだ。良いか、悪いかとかではなくて評価するのが難しい。なぜか。シンプルにいえば、この作品が戯曲として表現されていないからだ。これはあくまで「戯曲風」なのである。

どういうことか。
ミュージカルは突然歌ったり、踊ったりすることにその特徴、もしくは違和感があると良くいわれる。前者は全く持ってその通りだと思う。しかし、違和感を覚えるかというと、見始めると意外と毎度毎度突っ込みたくなる類の妙なかんじはない。サッカーを見はじめてから「どうして手を使わないだろう」と気にならないのと同じで、一度そういうルールのものだとして観はじめるとそこは不問となる。

しかし、ララランドは違和感だらけだ。踊りはじめるたびに、なんで「この子たちは急に踊り始めたんだ!」と思うし、主人公が歌いはじめる瞬間、照明がおち、スポットライトが当たると、毎度「なんだ、リアルを描いていたのではないのか」、と感じる。ルールが一貫していないのだ。つまりバットを持っていたと思った次のシーンで足でボールを蹴りはじめているような感覚を覚える。現代ミュージカルのなかには、いわゆる「日常っぽさ」にシームレスに馴染むものも手法もたくさんあるのだが、この映画が引用し、用いているのは、50〜70代のいわゆる古典作品。これ見よがしな演出が多い作品ばかりを使っていることもこの唐突さを強調する。

ララランドはこれを全て「あえて」やっている。これは最後のシーンに顕著に表れる。オルタナティブな筋書きを寸劇風に流す最後のシーンでこの作品が示しているのは、

「人生って戯曲、でも戯曲ほどうまくいかない、それが人生でもある」

というメッセージではないか。そんな日常の危うさ、戯曲以上に時にドラマチックで、でも戯曲よりも残酷で陳腐なこともある人生をあえて違和感もまじえながら銀幕に映すのがこのララランドという作品だ。そう、その陳腐さがまさに映画としてスクリーンに映されているところもポイントだ。ララランドはその踊りと歌が一見示しているかのような底抜けなハッピーさは持っていない。むしろ、セブが弾くピアノの旋律のように、胸にひっかかる、拗らせた不協和音が全体を通してながれている。でも、だからこそ、この映画は踊るし、歌う。そして、その行為をさりげなく、自然にしようとはしない。泣きたくなるような悲痛さをあえて戯曲かのように示していることも含めて魅せた映画だとおもう。

だから、この映画について、「ミュージカルってやっぱり微妙」とか、「ミュージカルも案外いい」と言われるとなんとなく複雑だ。これは、ミュージカルのように戯曲を戯曲としてみるものではないし、それがゴリゴリと放つ違和感を泣き笑いしながら見て欲しい、音楽バカな監督がそう願う作品なのではないかとおもう。