2019年11月8日金曜日

知の地平とその先に秘められた暴力と

31歳になりました。
ジュネーブに越してきてから1年4か月、
毎年のように思うことですが、今年は特にあっというまに過ぎていった一年のようなきがしています。
この一年と少し、あまりにもたくさんの変化があり、
驚くほどたくさんのことを経験し、それらを頭に浮かべ振り返るだけでも、その濃密さに頭がくらくらします。
文字通り酸いも甘いも経験したこの一年を経て得た学びの一つ、
それは、無知は人を傷つける、ということでした。

人はだれしも全知ではないし、私自身恥ずかしいほどに、自分の視界が捉えられる世界は狭いわけですが、
それはあくまで自分自身への制約であり、自分のケイパビリティ―の分界を示すものであるとなんとなくかんじていた。
受動的な形で自他に限界を強いてしまうことはあっても、能動的に人に作用するものではないと無自覚に感じていた。
しかし、無知は人を傷つける。
自分の知を超えた先に地平が広がっていることに無自覚であると、言葉や振る舞いは、あまりにも簡単に暴力になりうる。
「無知の知」とは、ソクラテスが説いた言葉として有名だ。
私はこれを、現状を常に不完全ととらえ、常に知を探求する志として理解していた。
さらなる知を追い求める野心とそれを駆動しつづけるバイタリティーといってもいいかもしれない。

しかし、いま改めてこの言葉を噛みしめながら、
この言葉が意味するところ、それは自分が広大な無知のなかに立ち尽くしていることに自覚的になることで、
自分の秘めた暴力を省みて、自制することの大切さでもあるのではないかと思っている。

誕生日に書く言葉としてはあまりに暗鬱に聞こえるかもしれないけれど、
これはこの一年で自分の視界に靄をかけていた思考のベールを一枚はぎとるような気づきをもたらしてくれた。
自分があまりにも心無い暴力や不条理を目の前にしたときに、
私はいつも大学で知の巨人たちに教わってきた、ものごとを構造化する思考に助けられてきた。
自分が今目の前にしている圧倒的な悪意や暴力に思えるものも、
それは構造的につくりあげているものではないか、という視点をもつと、
その悪はその個人のパーソナリティーではなく仕組みにあるのではないか、と理解することができる。
そうすると目の前にいる人の悪意という自分にはどうしようもなく、生で触れるのはどうにも辛いものに原因を帰することがなくなる。

無知の暴力はこの思考をさらに先にすすめてくれた気がする。
また、自分の知の地平の先にある広大な無知は暴力を秘めているという自覚は、自らの謙虚さと誠実さを常に思い出させてくれるように思う。

31歳にして、まだまだ自分がここまで大きく価値を揺さぶられることに驚きながらも、
なにより、そんなアップダウンを経ても支えてくれるパートナー、家族、友人に手放しの感謝を届けたい。
そういえばこの一年の一番大きな変化の一つは婚約したことでした。
一年前は想像もしなかった変化だけど、そんな無知と暴力にもかかわらず、自分を受け入れ、支え続けてくれる彼の寛容さに果てしなく驚き、感謝してます。
ダウンもたくさんあったけど、仕事はたのしいし、旅行も観劇もたくさんして、友人と家族に恵まれるという、こんなにも幸に恵まれる僥倖は自分の人生の中でも特筆すべき状況なので、
それを楽しみながら、去年に引き続き、たくさんの根を張り巡らせ、しなやかな幹をつくる年輪をまた重ねられる一年にできればと思います。



2019年10月10日木曜日

加盟国はお客様、となりの機関は競合他社ーコンサルモデルとしてみる国連ー

国連で働いていると、普段の私たちは各国に対して指導的立場でかかわり、超国家的な権力で秩序を築いているという印象を与えていることが多いらしい。それは、おそらく本や、授業、世界史や時事で出てくる国連が人道的介入のような形で行動している事例が多いからなのではないかと思う。
もしくは、一国の開発の話であっても、「xx国さん、もっとこうした方がいいよ、ほらここはやってあげるからさ」なんて言いながら介入している光景が想像されるからかもしれない。このイメージが完全間違っているかというと、そういうわけではないのだが、実際に働いていると、国連はもっとずっと小役人というか、平たく言えば下請け業なのである。私は前職は日本で省庁や公共団体の仕事を下請けするコンサルだったのだが、国連の仕事や立場というのは、私の前職の公共コンサルと酷似している。心機一転!といって転職したはずだったので、なんだが笑える話である。

この話、「国連業界」の業界人は当たり前のようにすぐ受け入れてしまう話なので、私もあまり疑問にも思っていなかったのだが、話すたびによく驚かれるので、今日は少し、国連というビジネスモデルについて話してみたいと思う。

国連は大きくわけて、財源を3つもっている。1つは、分担金。毎年、加盟国が定められた額を払うものである。もちろん額は国のステータスなどによっても違う。カードや学会の年会費、くらいにおもってくれればよい。2つ目は募金。これはレジ脇においてある募金箱のようなものから、法人がCSRのために行うようなより大きな額のものまで含み、要は国に紐付いていない出資。3つ目は、ある加盟国が特定の国でプロジェクトを実施するために国連に下請けとしてお金を出す場合である。

ほとんどの人がこのうち1つ目しかおそらく知らず、リマインドされて、あー、たしかに募金箱ある、となり、3つ目に関しては聞いたこともないと、というところだと思う。でも、実際ほとんどの国連機関では3つ目の財源が半分以上を占める。ユニセフなどは2つ目の募金が大の得意なので、その割合は機関によっては違うものの、大抵のところが多い順に下請けマネー→分担金→募金だろう。うちの機関にいたっては財源の9割がこの下請け業によるものだ。国連とは多くの国が拠出した資金が財源としてプールされ、特定の国に紐付かないことで、国際益を実現しているという印象が強いと思うが、それは国連ビジネスのほんの一部の話である。そのため、ほとんどの仕事は特定の国から発注され、そのドナーの目的を達成するために実施される。

構造としては、前述のとおり、コンサル(やその他の公共調達等)と一緒で、特定国から、プロジェクトの公募がでて(これは全世界の国民だれでも見れるように公開されていることが多い)、それをみて、国連側が企画書をだして、コンペの結果、そのプロジェクトを受注し、実施するのである。いや、そもそも公共調達の世界や、コンサルの世界がなじみがないので、そんなこと言われても、って感じかもしれない。
さらにざーっくりと捉えると、例えば会社で営業やプロマネをやった経験がある人ならば、相見積もりと企画書をだして、自分が案件をとってきたり、または自分が発注側として逆に外注先にだしてもらって、業者選定をしたりすることは多いのではないかと思う。
要は、国連もそんなことをして仕事をとっているということである。

意外だろうか?

出稼ぎにいくまでの8か月間、私は本部にいたので、
いわゆる、経営企画のようなことをしていたのだが(これについては詳細は過去の投稿を参照)出稼ぎで現場(いわゆる支店)みたいなところに行ってみて、もうこの下請け業の世界にどっぷりになり、途端に仕事の中身が前職に酷似するようになった。

さて、ここまで下請け業とか、コンペとか、ビジネスモデルと言った言葉を使ってきたが、あなた方、民業じゃないじゃない!競合いないじゃない!と思った方もいるだろう。そう思いますよね。国連は唯一無二だし、コンペといいつつ、随意契約じゃないか、一社一本釣りなんでしょ?と思われるかと。

いや、それがですね。
うちの業界ものすごい競合が多いんですよ。
しかも市場は飽和状態で、競争は熾烈。

国連にとっての、競合他社、それは国連です。
ん?と思うだろう。
私自身もいまだ全体像を把握していないのだが、国連には40近くの機関と、それを超える様々な下部組織がある。100はないだろうが、ざっくりみつもっても60-80は独立して活動する機関や組織がある。下記は、国連の簡略な組織図。全体を網羅していないが、まぁ、なんとなくその規模感や複雑さはつかめると思う。

(出典:https://www.un.org/en/pdfs/18-00159e_un_system_chart_17x11_4c_en_web.pdf 

ちなみに先日国連総会でグテレス事務総長が、国連が230億円の赤字であり、資金が底を尽きた、という声明をだし、日本のメディアでも話題になっているが、これは、国連本部の事務局の予算に関する話である。いまから詳しく話すとおり、上記の機関のほとんどは国連本部からの予算分配はうけない独立採算であるため、この赤字の影響は直接はうけていない。いわば、日本で各省庁がそれぞれ財源をもっていて(共通国庫から財務省が分配するのではなく)、そのうち内閣官房だけ深刻な赤字になった、みたいなイメージである。

さて、冒頭で国連の三つの財源について話したが、これ、少なくとも一つ目の分配金については、一つの公庫にあつめられて、予算配分されていると思われる方も多いかもしれない。しかし上記の話からも分かる通り,国連本体に紐づいてる委員会や部署以外、機関はそれぞれすべて独立採算制です。そういう意味では国連は一社ではなく、財閥といったほうが近い。しかも、財源も、その獲得手段もみんな同じときている。
そのため、ある国が「プロジェクトの発注を公示」すると、その瞬間、UNDP、ILO、UNICEF、UNHCRが一気にみんな手をあげて、そのプロジェクト受注をめぐってみんなで競争することになるのです。国連では特に現職の事務総長の下、One UNとして、いまよりも効率性や、連携を目指しているが、それでも、このビジネスモデルが変わらない限り、結構限界もあるのではないかと思うのが正直なところだ。

例えば、アメリカが「労働について、SDGsの推進に資するプロジェクトを1.2憶円で1年間発注する」と宣言したとして、

  • UNDPは同国の多面的な貧困に資するプロジェクト形成を目指し、特に労働に焦点をあて、キャパビルプロジェクトをする、といい
  • ILOは民間セクターと連携しながら、エシカル・リクルーティングの推進を実施し、労働搾取を軽減する、と提案し、
  • UNICEFは同国で広く観察される児童労働に着目し、これの根絶にむけて、意識情勢のキャンペーンをする、と企画し、
  • UNHCRは同国の難民が労働市場で強く差別されている現実に鑑みて、難民の地位向上のため、制度上の改革を目指し、同国政府と省庁間ワーキンググループを開催する、などとアピールする、

などということが起きる。
それぞれの機関は、自らの「労働」についての強みを示し、同国でのプレゼンスと自分の機関のキャパシティを示した上、
自らが最もその1.2憶の労働プロジェクトをやるにふさわしいと提案する。
そして、その結果そのドナーの意向に最も沿い、信頼を勝ち得た国連組織が、そのプロジェクトを下請けされるのだ。
もちろん、そのプロジェクトの実施にあたっては、随所にドナーの「ブランディング」がされる。
これについては要求が年々厳しくなってきており、そのプロジェクトで作成される対外向けの資料、ウェブサイトなどはすべて「日本」「EU」、「アメリカ」等と大きくロゴとともに示され、中には、そのドナーの広報を行うためにTシャツ、ノートなどキャンペーングッズなどを作成するための特定の予算が確保されていることもある(私が派遣された某国オフィスにも日本の国旗が一面についたIDストラップやシールが大量に平積みされていた)。

国連は財閥全体としても、各機関の中でも不整合や重複が多いといわれるが、ビジネスモデルをみるとそれはなんら不思議なことではない。
国際益として最大公約数を実施できる部分はほんのわずかである。
ほとんどはある特定の一国ドナーの手足としてプロジェクトを実施しており、その無数の下請けプロジェクトの集合が国連をかたちづくっているので、
全体としての統合することは非常に困難なのだ。







さて、上記では自らの強みを示し、下請けされるにふさわしいと示すことができた機関こそが活動できるという話をしたが、個人のレベルとしてみても、コンサルがそうであるように、「仕事をとってこれる人」というのはこの手の下請け業の一つの「できる人」の定義だ。(ないがしろにされるのが“マネジメント”であるのもまた同じだが、この話はひとまずここではおいておく)

上述のようにドナーによってプロジェクトの発注をする場合、
まずはコンペが実施されることが公示され、同時にコンペのための応募要項と応募用紙が大使館や本省からまわってきて、それをにらみながら、せっせとドナー国の戦略や彼らにとっての優先分野、刺さる言葉などを使いながら、「この案件、うちに下請けだしてくれれば、こんなことできますよ」っとまさにコンペ資料を書くのである。
私の周りを見回すと、まだまだ民間から直接国連に来る人は少ないが、このコンペで仕事をとってくる型の職種にいた人は非常に国連の現場では重宝されるとおもう。
特に、官公庁との事業や補助金などに慣れていればなおさら(もちろん、公務員として審査する側もやっていた人も)私は、いわゆる人が想像するような「国際協力の現場の仕事」や「草の根支援」はしたことがない、東京のオフィスワーク歴4年半でこの業界に入ったくちだ。分野に固有の知識(e.g.途上国における若者雇用支援、人身取引被害者に対する直接支援などなど)はほとんど持っていないし、ハンズオンとよばれるようなオペレーションの知識もない。しかし、それでも「応援出張」という枠組みで現場にあえて派遣され、重宝されたのは、私が公的機関に対するプロポーザルを書きなれていたからだった。
どんなに難民支援がしたくとも、若者に活力を与えたくとも、資金がとってこれなくてはなにもできない。

二つの大戦が生んだ超国家的組織、世界の政府、というイメージが強い国連だが、
安保理の拒否権問題などを持ち出すまでもなく、
そのビジネスモデルをみるだけでも、国連がむしろ加盟国につよく従属しており、その国益実現の下請け先になっていることはよくわかる。
国連を巨大な財閥でありとして捉え、中にいるのは、全て同じ顧客をもった競合他社、と解釈すると、また見えてくるイメージや、ニュースから読める行間もかわってくるかもしれない。

2019年4月26日金曜日

空色のペンキが売れすぎる街

こちらにきて、現地の人との接触がなかなかない、という話は前回の投稿にもかいた。
そんな私が最も“ローカル”に近いコンタクトが得られるのは、ドライバーさんたちを通じてである。
ドライバーさんというと、「国連職員やっぱり特権階級だなやれやれ」と思われる方もいそうだが、
私のいまの長期出張先に関して言えば、治安や政情が不安定すぎるため、全ての移動は公用車に制限されている。
ドライバーさんたちいなくしては、私はアパートからも一歩もでれず、水さえ買いにいけないので、私たちは文字通り彼らに生活の根底を支えられている。

今年の年始から国連の語学研修センター主催のアラビア語講座に通っていることもあり、
なけなしのアラビア語(本当に誇張なしにHi, how are you くらいしかまだ言えない)で話してみると、ドライバーさんたちは皆とても喜んでくれる。
「”家に帰りたいです”ってなんていうの?」(この会話はフランス語で行われる)っていってみたりして、
5分程度の短い帰路の間、ともにアラビア語を復唱しながら帰るのが、楽しみだったりする。
私が改めて、言うまでもないことだが、言語というのは本当に他文化圏の生活になじんでいく過程で大事である。
なにか内容を伝える手段ということではなくて、
相手の言葉を話すこと自体が、歩み寄りを示しており、それだけで関係性や自分が背負う印象というのは変わる。例えば、私がある日車にのると、ドライバーさんがアラビア語方言とおもわしき言葉で話していた。切ったタイミングで「ごめんね、ちょっと姉から電話がきて」と言っていたので、「أخت كبيرة (big sister)だね!」というと、顔がパッと明かりをともしたように明るくなり、「ねぇね、ユースフはハゲっていって」などと同僚ドライバーをディスるアラビア語を覚えさせようとしてきた。
フランス語で仕事をするここのオフィスにも、現地語はおろかフランス語も話さない同僚はいるが、こんなじゃれあいはやはり、英仏で話しているだけではなかなか生まれない。
アラビア語で、「姉」と言えたからといって、なにが捗るわけでもないが、
その二語を知っているだけで、ドライバーさんとの距離はぐっと縮まるのである。

私が小柄で童顔なこともあり、(おそらくドライバーさんの中には年下もいるのだが)
ドライバーさんたちはそんなわけで私をとてもかわいがってくれて、風邪だといえば、食べきれないほどの物資をかってきてくれたり、水のボトルが重いと一緒にアパートの5階まで運んでくれたりする。

この派遣先に来る前は、周りから、
「フィールドはとにかく現地の職員にうまく仕事をしてもらうのが大変」「西アフリカは特に開発水準が低いから、人材の質がおもわしくない」などと聞いていたが、少なくとも、うちのオフィスでは上記を感じることは幸いなことにあまりない。特にドライバーさんたちは、現地職員の中でも、肉体労働者としてある種、末端に位置するわけだが、彼らの優秀さはローカルスタッフのなかでも目を見張るものがある。

例えば、先日R&R 帰り。
R&Rとは、Rest and Recuperate(休んで回復!)の略で、国連システムのなかに準備された危険地の保険休暇。これは前回の投稿にかいたような、危険地赴任にともなう極度のストレスを緩和するために与えられる休暇である(期間はきつさによるけど、同地は8週間に一度だった)その帰国便で、私と同じ乗換えをした乗客の荷物が全員ロストバゲージされてしまった。もともと、出張として同地にきてたため、スーツケースひとつ分の荷物がなくなるのは割と不便で、なんせ、1週間に10便しか飛ばしてないような、大変僻地の空港なので、そもそもロスバゲされた荷物が返ってくるかどうかが不安だった。

すると、迎えにきてくれたドライバー氏がすぐに私をインフォメーションデスクと思わしき場所に案内し、慣れた様子ですべて荷物を届け出るための手続きをしてくれた。
今どのような状況で(荷物は乗換え空港で積み込まれないまま取り残されてしまったよう)、いつ届く予定か(次飛行機が飛ぶ金曜日)、連絡手段(電話)、交換手段
を正確に現地語で聞き出し、教えてくれた。
なお、先方に指定する連絡先にはドライバー氏の電話番号を書き、「現地語でわからないかもしれないから、まずは自分に連絡がくるようにして、その後君に連絡する」といってくれた。翌日は私のデスクまでくると「念押しをするために、インフォメーションデスクまで自分でもう一度電話して、まだ荷物はきてないか、いつくるのか、と聞いたほうがいいよ」と言いに来た。確かに、荷物が取り残された、って話事体が適当かもしれない。
それを金曜まで毎日リマインドしてくれた後、
金曜になると、「空港から電話がきたよ。荷物ついたって。とりにいくといいよ」と私まで連絡をくれた。しかし、空港に入るのにはパスポートが必要。この時私はビザ更新中で、パスポートが手元になかった。
「どうすればいい?」と電話口できくと、
「それなら、社内のxxをつかまえれば彼は空港といつも仕事しててツーカーだから、一緒につれていくといい」
といってくれた。
その通りに社内の担当者を捕まえ、空港のセキュリティーをすり抜け、私の下に荷物は返ってきた。

なぜこんなエピソードを長々と話したかといえば、
私はいたく感動したからだ。
これは、報連相、危機対応として本当に完璧だった。文句の付け所がない。
そして気づいたのだ。彼はおそらくドライバーよりもずっといい職につける人なのだ、と。そういえば、違うドライバーさんは前職が銀行員だといっていた。
開発を仕事にしていると、「途上国の政府・公的機関のキャパシティが低い」ということがしばしば課題や制約として挙げられる。
でも、この日思ったのだった。もしかしたら、公務員人材、現地の大事なコア人材を横から手を伸ばして横取りしているのは、国連なのではないか。
この時のドライバー氏をみているかぎり、「あれこんな人がこの国の地方政府にもいたら、キャパ不足からくるフラストレーションはずいぶん減るのでは」と思えたのだ。
国連は彼らにいいお給料を払っている。同地のような文字通り世界最貧国で、現地で得られる一番いい職はまちがいなく、国連で働くことだ。
残念ながら、この国の「発展と開発」を願い、その推進を名目にはいっている、私たち国連はその国の一番の人材を搾取し、自分たちのために使ってしまっている。
ドライバーさんたちだって、国連がいなかったら、国家公務員や市職員になっていたかもしれない。
そこにハッとして、スーツケースを転がしながら私はとても複雑なきもちになった。
この国には、車をはしらせればすぐに空色の建物が目に入る。
どれも、国連機関や国連と組みながらはたらくNGOの建物だ。
この国では残念ながら、国連は一大産業なのである。

国連はいわゆる「不幸産業」だと思うことが、皮肉な気分なときにはしばしばある。
私たちは、不幸がないところにはいないし、不幸が大きいところでどんどんプレゼンスが大きくなる。
困難が大きい私がいる同地でも、国連の存在は不可欠だ。やるべきことは溢れるほどにある。
しかし同時にこの国において、国連という産業があまりにも不可欠な市場になってしまったことによる社会の軋みもかんじた。
国連が撤退していくことは本来的にはその国にとってよいことだ。
不幸産業が食っていくための不幸が減っているということなのだから。
でも、この地ではいま国連が撤退していくことを労働市場は求めないだろう。
国内で得られる最もよい仕事の一つを提供しているのは国連なのだから。

スーツケースをかかえて水色のロゴをペイントをされた4FWにのって空港からオフィスに帰る道。
車窓からに流れる建物はやはり空色が多い。
ドライバーさんが愛想がいいけど、少しというか結構適当で、
外装屋さんで、空色ペンキが少し売れ残る、私たちがこの地で求めていくべきなのは、そんな日なのかもしれない

2019年3月10日日曜日

「初めての緊急人道支援」体験記

フィールドオフィスに来てから3週間目になりました。
3か月現地にべったり張り付ける機会はとても貴重である。
もちろん、国連で働くとなると過半数の人はフィールドに行く(私の機関にいたっては9割を超える)。ただ、ジュネーブに在籍しながら長期のミッションに出してもらえる機会はそう多くない。ましてや、仕事をぬきにしたって本拠地を移すことなく、見知らぬ場所にどっぷり潜りこむなんてなかなかあることではない。
自分が2019年の1/4も過ごそうとしている場所について、少しでも書いて残しておこう、との思いを胸に、最初はこの国に降り立った。

しかし、3週間目にはいり、わかったのは、私はおそらく帰国までこの国についてほとんど書けないだろう、ということだった。

筆がのらなかったのか?それとも、思ったほどこの場所に興味をもてなかったのか?
そういうわけではない。
私がこの場所について書けるほどに「知る」のがとても難しい、ということがわかったのである。

だから、この投稿は私の「xx国」見聞録ではない。
これはしがない国際公務員のはしくれの緊急人道支援体験記である。

まずはこの場所について到底かけるわけがないとおもったその理由自体を書きたいと思う。

これは緊急人道支援体験記であると述べた。
緊急人道支援とはなにかご存じだろうか。多くの人にはそんなの当たり前かもしれない。なぜ聞くのかといえば、いま振り返ると私自身があまり正しい認識をもっていなかったからである。
少し業界の話になるが、いま援助業界・国連まわりではHumanitarian-Development Nexusが話題だ。緊急人道支援と開発の連携強化を謳うとても大きな国際的援助潮流である。
ここで、援助を少しでもかじったことある人でも日本人ならおもうのではないだろうか。「え、そもそも人道支援も開発援助の一部なんじゃないの?そこは並列概念?」
「並列概念だったとしても、どちらもODAをつかって、外務省・JICAがやってるんでしょ。連携ってどういうこと?」
私はすくなくともそう思って不思議だった。
しかし、実際に落ち着いて整理してみると、緊急人道支援と開発は、目的、活動、カルチャー時には実施主体も大きく異なる。一個人の単位でみると普段の生活まで大きく異なる。
国際協力という双方を内包する括りの中でキャリアを考えている人はなにが自分にむいてるか考えるために一つの軸として頭においてもいいかもしれない。

緊急人道支援とは、一言でいえば、Life-saving activites、文字通り人命救助活動である。実施する活動として筆頭にあがるのは、物品とサービスの提供だ。食糧、水、毛布、仮設住宅、怪我・病気・メンタルヘルスへのインパクトに即対応できる医療サービス、命の危険にある人の保護。

一方開発は、長期的な国・地域の経済・社会的発展を目指して実施される、構造的な介入といえる。技術を育てるための職能訓練、感染症予防のためのワークショップ、物流効率を上げるための橋梁建設など。

じゃあこのような活動内容がどのような業務の違いを生むのか。
上記を読むと気づくかもしれないが、緊急人道は圧倒的にロジスティクスの占める部分が大きい。確実に、安全、迅速な物流を掌握し、展開することが一番といっていいほどに大事である。サービスの場合も、質の高さよりも、とりあえず何もよりも先に人命を救助するためにただただ、基礎サービスでもいいから迅速に提供することの方が大切だ。
難民キャンプのマネジメントなど長期的な支援の展開ともなると、一つの村を運営する、みたいな話になるので、コトは複雑化するのだが、包摂的(inclusive)な介入は大事であるという前提は保持されつつも、基本的には与える、ということに重点が置かれ、語弊を恐れず言えば、自主自立は二の次である。

活動地は、前者は「人道的危機」状態にある地域。
筆頭にあがるのは紛争地、(シリア、イエメン等)。その他国内の政情不安と社会不安が蔓延して、生活事体がままならなくなっている場所(リビア、ベネズエラ、中央アフリカ共和国)、自然災害が甚大な被害を及ぼしている場所(インドネシア・スラウェシ島地震等)
後者は、ざっくりいえば上記の定義以外のすべての開発途上国(先進国での活動もあるのだが、ここでは話が複雑になるので割愛する)。いわゆる長期的発展に取り組む余裕がある場所だ。
業界にはtransition という概念もあるくらいで、緊急人道状態を脱した場所で初めてできるのが、開発行為だという理解がある(活動地事体がこんなにくっきりわかれているということも私はあまり知らなかった)
蛇足ついでにもう一点付言すると、これはより「貧しい」「開発が遅れている」場所が緊急人道を受けるわけではない。シリアは紛争前は中東でも堅調な発展をみせていた国だったし、ベネズエラも南米屈指の産油国だ。
確かに一人当たりGDPが低いところは危機国に転落しやすいが、それはその国の脆弱性からくるものであり、「貧しさ」から緊急人道支援をしているわけではない。

こんな具合に活動の内容も、活動地域の状況も大きく違うので、
いわゆる人のキャラ、事務所のカルチャーも違う。
緊急人道は圧倒的に体育会系だ。
私の中では商社と物流を掛け合わせたようなひとたち、と整理されている。
危険地で迅速なロジスティクスを求められている人たちである。モノが届かなければ人が死ぬ。自分自身が生活の拠点をそのような危険地に移そうという覚悟がある人だ、アドレナリンが走っているのが好きな、ジャンキータイプも多い。
「つべこべ言わず」の世界があり、「考える前に手を動かせ」といわれるけれど、でも考えが足りないと「お前はあほか」みたいな走りながらどんどん目指すところに軌道修正していくみたいなところがある。ボスの権威はより強く、縦の指揮命令系統がある。

一方開発はもう少しふわふわしている。
緊急人道側からいわせれば、「答えがないことを永遠話している」のが好きで、基本的にゆっくり落ち着いて仕事したがる。短い時間で成果がもとめられるときも、まずは「なんでこんなに締め切りまでが短いのか。」ってところから聞いちゃうのが開発の人だ。

お互いを揶揄するとき、開発は緊急人道のことを、「頭も大して使ってない体育会系のハイな人たち」というし、緊急人道は開発のことを「なんの役に立つのかわからないことを永遠かけてやっていて、インパクトも大して残してない」なんて言ったりする。

ここまでは私もなんとなくイメージがついていた。
幸い私は本部におり、開発も緊急人道もやっている機関にいるので、両集団を目にすることがあり、その違いはむしろ分かりやすくみることができたかもしれない。

さて、わからなかったのが、
ここでの生活である。
イラクで仕事をしている、イエメンで仕事をしているときいたとき、どんな反応をするだろうか。「そんな危険なところで大変ですね」、これがまず一番に出てくる言葉ではないか。私もこちらに着任して「そんな危険なところで大丈夫?」「危ないよね、気を付けてね」とよく言われる。
このイメージが実体と少しずれている。
まずは緊急人道活動を行っている場所では、安全はほとんど自分の管理下にない。
もちろん最終的には自分の責任、という前提はあるのだが、
例えば、私が今いる場所では、いわゆるgreen zone(立ち入り許可地域)がかなり狭く区画化され、住んでもいいアパートは決まっており、なにより公私含めてすべての移動は公用車である。
すべての移動というのは文字通りだ、一片の誇張もない。
それが例え自分の家の20m先にある場所でも自分の足ではなく、オフィスの車を呼んでドライバーに連れて行ってもらわなければならない。
スーパーは2つあるうちのどれか、外食は8つほどあるうちのレストランのどれかである。
なんとなく街を散策する、ということはできないし、ましてや職場以外の人と話すこともほとんどない。確実で堅固な安全管理がされており、それは完全に職場によってコントロールされている。

緊急人道支援を行う、ということは危険と隣り合わせでハラハラ緊張感をもちながら生活するというよりも、軟禁状態の圧倒的な移動の制約下のストレスと戦う世界だ。
人は体験してみたいとなかなかわからないもので、このような行動制限があってはじめてわかったのは、手段(公用車での移動)が制限されていると、目的(xxにいきたい)というのも大きく制約をうけるのである。
まず、家にかえってちょっと買い物に行く、ということがなかなか億劫だ。電話をしてわざわざドライバーさんにきてもらって、車にのってそこにでかけなければならない。なんだか「おおごと」になってしまうのである。疲れる。
あとは、場所がまったく多様化しない。車には乗った瞬間に「じゃあ、どこにいく?」と言われる。目的地がなくてはいけないのだけど、ぷらぷら散歩もできない中で、あらたな商店、レストランを見つけることは非常に難しい。とりあえず、口伝できいたり、事務所のwelcome booklet に書いてあった数限られた場所を永遠とぐるぐると順にまわっていくことになる。きっと、green zoneのなかにはほかにもおいしいご飯屋さんなどあるのだとおもうのだが、なんたって、知る術がない。

結果、ほとんどの社会生活が事務所にしかなく、家の中でひたすらこもる生活が続く。
なんだかジュネーブにいたときも大してアクティブだった訳ではない気もするのだが、人は選択肢をもっていることに安心するのだと思う。
屋内生活が多いとおもってもってきたダンスシューズと手芸セットもなんだか帰宅後生気が十分になくて手に取れないことが多い。

そんな生活をしているものだがら、この国のことは驚くほどわからない。この国の危機状態を支援するためにきているはずで、その情勢や被害については毎日のように読んでいるはずなのだけど、この国の風土や人柄、文化などについて知る機会が驚くほどすくない。
そんなわけで私はこの国のことはきっとほとんど書けずに帰るのです。

このブログをキャリアのHow to で書くことはほとんどないけれど、もしこれを読む人に国際協力業界への転身・就職を迷っている人がいたら、開発・緊急人道を一つの軸として、カルチャーフィットを検討することをおすすめする。本当に別企業くらいの違いがある。

緊急人道支援のお仕事にきた私はいまなかなかにハードな日々を送っているのだが、それは、常に身を危険にさらしている緊張感というよりも、
慣れない体育会野球部で外出禁止の合宿生活をおくっている、みたいなカルチャーショック&ストレスと戦っているというほうが近い。

だから、もし周りで、シリア、イエメン、リビア、イラクなどで働いている人がいたら、「危険な中で大変だね」とか、「気を付けてね」という言葉よりも、
ただただ生活を営んでいることを全力で褒めてあげてください。軟禁状態の閉鎖生活を彼ら・彼女らは毎日耐えている。

あ、あと全国のめちゃくちゃ厳しい体育会運動部で合宿生活を送ってる子たちにも言ってあげたい。本当に君たちはがんばっている!いまならわかるよ、わたしも!