2016年9月4日日曜日

Theatre is a place....

2016年のトニー賞授賞式をみた。
トニー賞とは毎年一度行われる、シアターの祭典だ。
過去12ヶ月の間上演された米ブロードウェイの中から、特に卓越した舞台パフォーマンスを表彰するイベントだ。

私は言わずと知れたミュージカルフリークである。
だが、この投稿はマニアしかわからない「細かすぎて伝わらない」ネタを披露するために書いたのではない。
違う。
この授賞式、特に今年のトニー賞が示した価値観に私は予想しない形で心を揺さぶられたのだ。
それは、私が単なるシアター好きだということよりも、もっと根本的なことだった。
その驚きと衝撃について、ダイバーシティと共棲していく、という視点から少し書きたいと思う。

70回目を迎えた今年のトニー賞は舞台の精神性としての包摂性(inclusiveness)と多様性を強く体現した回だった。式は例年になく、とても静かに幕をあける。司会を務めた英国人コメディアン、James Cordenは同日起きたオーランドの銃乱射事件に追悼の意を示して、こんな一言で式をあけた。

"All we can say right now is that you are not on your own right now. Your tragedy is our tragedy. Theatre is a place where every race, creed, sexuality and gender is equal and embraced and is loved. Hate will never win"

-私たちが唯1つ言えることがあるとすれば、それはこれを観てるあなたが1人ではないという事です。あなたの悲劇は私たち全員が分かち合う悲劇です。舞台とは、すべての人種、信教、セクシュアリティー、ジェンダーが等しく、抱き締めるように迎い入れられ、愛される場所です。憎悪が勝利することは決してない"



オーランドでおきた銃乱射は宗教、政治、性、様々な問題が複雑に絡んだ事件だ。
あの出来事のたった数時間後にその立場を示すことは容易ではない
ましてや、個人ではなく、この時Cordenはシアター関係者の総意としてこの言葉を開会の言葉に替えた。
そこに迷いはなかった。
この言葉を通じて手向けられる追悼の言葉が、焚きつけるかもしれない物議を、ものともしない強い信念がそこには感じられた。

それだけではない。
今年のトニー賞ノミネート作品を見渡すと、その懐の広さに驚く。
ノミネートされていた作品のほんの一部をここにあげてみる。


激しい人種差別に苦しむ20世紀初頭のアメリカで強く生きるブラック女性を描いた作品、Color Purple


米シアター史上初めて黒人のみで作り上げた1920年代の舞台を劇中劇で振り返る、Shuffle Along

田舎のウェイトレスがシングルマザーとして奮闘するWaitressはブロードウェイで初めて、女性のみの制作チームで望んだ

そして、今年史上最多ノミネートを果たした Hamiltonは米国建国の物語を過半数がcolored なキャストで届ける。

ジョージ・ワシントンはブラック、
アレクサンダー・ハミルトンはプエルトリコ系
その妻は中国系だ。

つまり歴史物でありながら、史実とは異なるキャスティングをあえて選んでいるのだ。自身が移民でありながら、国づくりの中核で情熱を燃やしたアレクサンダー・ハミルトンのストーリーを現代のアメリカに連綿と続けることを大事にした。



Hamilton の トニー賞パフォーマンス

ジェンダーについても、今年こそ目立った作品はなかったものの、1作品に1人は必ずといっていいほど、公言したLGBTの役者がいる。作品としても、今年関連作品がなかったことがむしろ近年では珍しいほど。
Kinky Boots、Hedwig and Angry Inch、Priscilla、Fun Homeなど、セクシュアルマイノリティーを扱った作品は枚挙に暇がない。

もはや、Broadwayではある作品がdiversityを表現しているのではなく、業界全体がinclusivenessを表明している。上記のどれをとってもアカデミー賞受賞のなれば、どれも大きな話題を呼ぶだろう。トニーでは今年多様性を扱わないもの作品がもうなかった。受賞したキャストはすべてPeople of colorだった。問いはすでに Should we ? から Which と Howの段階に進んでいる

そして、今年のダイバーシティ豊かなノミネート作品の中でも、 私がショックに近い衝撃を受けた作品がある。
Spring Awakening (春の目覚め)だ。
この作品の新演出は、舞台の体現する多様性を新たなレベルに開いたといっても過言でないようにおもう。

リバイバルで演出されたこの舞台、実はキャストの半分が聾唖者だ。

そう、耳が聞こえない。

ミュージカルはその名の通り、music、音楽が命だ。
それを聴覚障がいがある人と実現させたことに、私はたかが5分のパフォーマンスだったが、目からウロコがベリベリと引き剥がされたような衝撃を受けた。作品全編を手話で振り付け、歌のパートは聾啞キャストの代わりに他のキャストが "代唱"したり、1つの役に対して声の演者と身体の演者の二人たてることで、有機的につないだこの作品はミュージカルという表現形態を改めて創造的に覆す試みに出た。

Spring Awakening - Bitch of Living



Spring Awakening - Touch me Late Night


司会の James. Corden は言ってのけた
"ほら、この会場、diverseすぎてトランプがいま僕らを観てたら、今からこのシアターの周りに壁を建て始めるだろうね"

最多受賞を果たした前述の Hamilton の Lin Manuel Miranda は涙を溜めながら「世界は愛、愛、そして愛」と叫び、即興のソネットを犠牲者に送った。

Lin Manuel Miranda のスピーチ

舞台はその制作の過程自体が包摂である。

昨年仕事で「参加型街づくり」のパネルディスカッションを聞きに行った時のこと。その分野の先駆者が、参加型街づくりをリードするにはどのような人物が向いているか聞かれて、"舞台経験者"と即答していた。

主役でも、バックダンサーでも、脚本家でも、カーテンコールが終われば横並び一列で舞台にモップをかける。そんな文化が、人を巻き込むこと、様々な人を大きな円に含み込んでいく作業に向いている、と説明していた。

おそらくそれが銀幕との圧倒的な違いなんだろう。現に今年のアカデミー賞は、「白人ゲーム」だと揶揄された。ノミネートされたのは全員が白人だった。ハルベリーが初の黒人女性として受賞し、スピーチで涙したのは2001年だ。それから15年経って、その後受賞した黒人女性は一人もいない。男性でも2人だけだ。フェミニストからも結局、権力を持つのは男だ、と指摘され、いわゆる権威を再生産する「出来レース」だという批判を受けた。映画はいい画をとるための、その一瞬、"美しい虚構"を生み出せればよい。主演の2人が作品製作中、カメラのファインダーの外では、ほとんど話さなかった、というのは役者インタビューでもよく聞く話だ。ハリウッドのblockbusterともなれば、カットがかかった瞬間、主演俳優には付き人が駆け寄り、それぞれのトレーラーハウスに誘導する。しかし、ミュージカルは生だ。短くても2ヶ月、長ければ5年、10年、キャストは劇場で共同生活に近い日常をともにする。今年、賞レースを総なめにした、Hamiltonの制作・主演の Lin Manuel Miranda も人がやっとすれ違えるくらい小さな楽屋に、歯ブラシからインスタント食品、ケータリングを持ち込み、キャストと毎日汗を流している。

去年、私は"I"として、人と接することについて書いた。
Foster your marbles -パリ同時多発テロをうけて


舞台はそれを体現する1つの試みである。

もちろん舞台にだって、差別や区別はある。でも、少なくとも業界のメッセージとしてdiversityに留まらずinclusiveであることを謳うこの世界にとても私はとても心うたれるし、それを説教くさく、偽善的に語るのではなく、文字通り身をもって示し、歌い上げるシアターの住人に心底共鳴した。

昔から好きだった舞台への「好き」がここ数年どんどん加速してるのは単純にその芸術性だけでなく、それが体現する価値観に共鳴し、その一部になりたいと思うからだと気づき、ハッとした。小さい頃は歌って、踊るそのパワーになによりも惹かれた。そんな自分の近くにあった世界が、自分の核に触れるアイデンティティーをもってること、それにわたしが本質から気づかぬうちに惹かれていたこと。それにいまさらながら、気づいた。

もちろん、世界にゴロゴロと転がる課題に対して頭を動かし、issueに対してsolutionを投げ続けることはやめてはならない。

でもこの世界を1つの舞台のように、キャストたる市民みんなで共有していくことに共棲の道があると本気で信じている舞台人の naive な理想主義が私は好きだ。対立や摩擦を和らげるのはそれを喧々諤々詰めたてる「理」ではなくて、"なんてバカなことをしてるんだろう"とお互いを指差し笑う、緊張の緩み、「情」や「感性」なのではないかと信じている自分がいる。

2016年7月18日月曜日

拝啓チェ・ゲバラ様

拝啓チェ・ゲバラ様、

今年、2016年はキューバ革命57周年です。
あなたがゲリラと共にハバナを掌握してから既に半世紀が経ちます。
キューバでは未だに新年が近づくと、Feliz Ano Nuevo(あけましておめでとう)と共に¡Viva el Aniversario de la Revolución! (革命記念日おめでとう)の言葉が添えられます。
キューバの中にまだ革命は動脈を巡る血のように流れています。
ハバナでは年月が革命の記憶と共に刻まれている。






ハバナの革命博物館でみたグランマ号は驚くほど小さく、心許ない姿でした。船というよりもボートと呼ぶ方がしっくり来るほど"おばあちゃん(=グランマ)"はガラスケースの中自分が受ける不釣り合いな注目に、どうも居心地わるくしているように見えました。

この小さな小さなボートにあなたやカストロ、82人もの人が乗り込み、キューバに上陸したところからキューバ奪還の戦いは始まったと聞きます。でも、グランマをみているとそれ自体が現実味がなく、まるでそれは建国のために作られた神話のようにさえ感じます。

Revolutionary Neighborhood「革命的な街角」と書いた市街の壁


日本にいるとキューバについて耳にするのは、革命と、アメリカとの緊張関係の話がほとんどです。長いカストロ政権が敷いた不便にも思える社会主義体制、資本主義の放つ物質的豊潤を捨て、その甘い蜜を米国の帝国主義とともに地面に叩き付けたその成り立ちも含め、私はキューバに対して、とても尖った、血気盛んなイメージを持っていました。かつての最大貿易相手国の顔面でピシャリとドアを締め、イデオロギーを貫徹することを誓ったそこはどんな場所なのかに興味があって、ハバナに足を運びました。

"corner of the cretins" from the left Batista, Reagan, Bush Sr, Bush Jr. -バカのショーケース- 左からバティスタ、レーガン、ブッシュ×2。革命博物館より。


実際にキューバを訪ねてみて、なぜ外国人のあなたがキューバの人たちに、その新たな建国に、その身を投じたのかが少しわかったような気がしました。
キューバの人たちは、皆、太陽を食べて生きているかの様に明るい。
ハバナの街に繰り出すと、人から絶えず声をかけられ、どこにでも音楽が流れている。
街行く人は刻まれるビートに肩を揺らし、信号を待ちながらステップを踏んでいてる。
流れるリズムに突き動かされるその衝動を全く押しとどめることなく、放っている。
他にもわずかではあれどラテンの国には訪れたことはありますが、ハバナのように街全体がダンスフロアのような場所は初めてでした。
横断歩道を渡るその足取りが、サルサの様に軽やかに進むのをみながら、キューバの人たちがその身に通わせる熱射のようなエネルギーに圧倒されました。

街角で突然始まるジャズライブ


歩いていたら、声をかけてきたホテル勤めの三人組。みんな英語はあまりはなせないが、ヨーロッパ客の接客のため、
フランス語とイタリア語がはなせた。

大抵のことならば、「踊って忘れればいいじゃない」「ラムでも呑めば気持ちが晴れるよ」 そんなことを言い兼ねない雰囲気をキューバの人たちはまとっています。
そんな天性の明るさをもった彼らが本気でゲリラ戦を計画し、大国に反旗を翻した革命だったからこそ、アルゼンチン人のあなたも胸を突き動かされたのではないでしょうか。

一方、ハバナの街を見回すと、目に映る景色はキューバが標榜する「米国へのアンチテーゼ」とは少し違いました。むしろ、そこではアメリカ的なカルチャーと、それに反駁するような文化が互いにぶつかり合いながらも、うねるようにして混ざり合っていました。

住宅街の端で、こどもたちがしているのは、サッカーではなく、野球です。
街角に売っている昼食メニューは大抵がピザ、
Cuba Libre(自由キューバ)というカクテルはキューバの名産ラムをコークで割っています。
外国人観光客が集う5つ星ホテルの周りに止まっているのは、ハバナ名物のカラフルなアンティークの「アメ車」でした。


高級ホテルの前にずらりと並ぶアメ車

住宅街では子供が野球をしている
ハバナで私たちは公的に認可された民泊(Casa Particular)に泊まりました。クリスマスの夜、ホストである奥様の誕生日を兼ねたホームパーティが開かれました。ご飯を食べるも束の間、すぐにみんな数フロア下まで聞こえるほどの大音量の中踊り始めました。「今日のためにちゃんとベストな曲のミックスしてきたんだ」と旦那さんは得意気に言います。TV画面に目を向けると、音楽とともに流れているのは、ホットパンツの女性たちと腰をくねらせるJustin Bieberだったと言ったら、あなたはどんな顔をするでしょう。「君たちもほら、座っていないで!」を手をとられ、私と友人も、交互に流れてくる、ラテン・ジャズとアメリカ・ポップスに慣れないサルサのステップを、けらけら笑って、汗をかきながら踏みました。その横で子供達は大きなミッキーやミニオンズのぬいぐるみを取り合って、駆け回っています。

ホストファミリーの奥様の誕生日兼クリスマスパーティー
そんな、光景は今に始まったことではありません。
アメリカの文学の大家ヘミングウェイは、その半生をハバナで送っています。
老人と海にある、海とはカリブ海です。
そんなヘミングウェイが愛したハバナの名所、Floditaカフェで流れるアフロキューバンジャズはラテンとアメリカの音楽がスパークしながらできたカルチャーです。
代表的なクバーノ名曲の一つ、グアンタナメーラの由来の地、グアンタナモにあるのは、イラク戦争中に悪名を馳せた米軍基地です。
ハバナの大統領官邸は米ホワイト・ハウスをそっくりそのまま5cmだけ高くつくった設計だと言うことはここにきてはじめて知りました。

アメリカとキューバの大衆文化は切っても切っても切り離せません。

ヘミングウェイの愛したカフェ、Flodita
とても不思議でした。
革命の時に、アメリカがキューバに課した経済制裁はまだ解かれていません。
今でもキューバの人たちは基本的食糧を配給で得ています。
2008年からすこしずつ合法化されている個人商店もほとんどはガランとしてモノがなく、ガラクタのようなものがポツポツとおいてあるくらいです。売っている服はみな同じ、軽食屋で変えるのは、大抵ボソボソとしたこっぺパンにペラペラのハムとチーズを挟んだ、ハモン・ケソ・パンです。

ガランガランの配給所

モノがぽろぽろとおいてある雑貨屋さん
本屋は今も革命本ばかり

かたや、資本主義を体現するような消費大国を反目し、それと逆行するような政治経済体制を敷きながらも、生活文化の中では、キューバは驚くほどアメリカ的な部分を内面化しています。

そうすると、不思議に思えてきます。なぜ、アメリカ禁輸措置がいまだ解かれていないのか。冷戦は私が生まれた翌年、1989に終結しました。あなたが革命家だったあのころ、世界を二分していたあの緊迫が、歴史となってから既に30年近くたつことを、あなたが聞いたらきっと驚くでしょう。国際連合では、キューバへの経済制裁の「解除」を求める決議がすでに24回採択されています。24回目だった昨年、賛成は191カ国、反対したのはたった2カ国。アメリカとイスラエルだけです。そして、経済制裁の解除を阻んでいるのは他でもない、在米キューバ人です。

皮肉だと思いませんか?
あなたは苦笑するかもしれません。メキシコにいたキューバ人ディアスポラの革命運動からできた国は、いまディアスポラによって、足かせをはめられています。あなたは知っているでしょうか。アメリカには今、150万人のキューバ系移民が住んでいます。マイアミのDade Countyでは、70%の住民がキューバ系だそうです。全国キューバ系アメリカ人財団は、アメリカ政界における最も強固なロビー団体の一つです。キューバと取引するビジネスに対してはかつては常に爆弾テロ予告をした、と言われるほどに強硬な立場をとっています。今年の米大統領選には、このマイアミから、Mark Rubioというキューバ移民2世の候補がティーパーティーの保守派の申し子として、強固な外交政策を一つの軸として出馬していました。もちろんキューバとの国交回復にも反対です。

葉巻を噴かすタロット屋のおばちゃん
しかし、在米キューバン・ディアスポラが一貫してキューバを敵対視しているかといえば、そう一筋縄にもいきません。上記の150万人もの在米キューバ人達が送ってくる送金は50億ドルにも及び、ニッケル、医療、観光、と並びキューバのGDPを支える4大収入源の一つです。キューバの家庭の6割はこの送金を肥やしに生活していると言われています。在米キューバ人たちは自らの祖国を憎みながらも、それに恋い焦がれる、アンビバレントな思いに揺れています。米国の握る砂糖のモノカルチャーから抜け出したキューバが築いた新たな経済を駆動する歯車の一つが在米ディアスポラからの仕送りとは、なんとも数奇な顛末です。


キューバとアメリカ、どちらも胎の中でお互いを少しずつ抱えている二カ国。
この時代遅れにも見える交易の断絶を双方のキューバ人が解こうとしないのは、「こんなにも近いのに」ではなく、「こんなにも近いからこそ」なように私は感じました。
革命は、そのイデオロギーは、キューバにとって建国のアイデンティティーなのではないでしょうか。いまでも政権を祝うのではなく、「革命」を祝っていることには意味があるように思えます。キューバは自国の革命が成立すると、ソ連までもを時に非難し、第三世界の旗手として、革命を輸出する国を標榜しました。パラグアイやボリビアにとどまらず、遠くはコンゴやエチオピアまで革命の後押しを買って出ました。その革命の唯一無二のアイコンが、チェ・ゲバラさん、まぎれもなくあなたです。今や世界中の反体制を志す人々にとって、あなたの肖像が象徴となっているのをあなたはご存知でしょうか。こちらでは、2011年アラブの春という中東政治の地殻変動を起こす反体制運動の連鎖がありましたが、そのとき発端となったチュニジアのジャスミン革命でも若者はあなたのTシャツをきていました。あんたが忌み嫌ったアメリカでもヒッピーや、パンクな学生があなたの顔を模したTシャツを着ることは珍しくありません。「支配」「現状」に対する反骨を標榜することでこそ、キューバはキューバたる風采を保ってきた。そして、マイアミは、そのキューバを否定し、忌むことで自分たちを自己定義してきた様に感じます。

ジャスミン革命に参加する若者(Al Jazeeraより)

至るところにあるゲバラのポートレート
何かに反対する、拳をあげて、異を唱える。それはとてつもないエネルギーを要します。キューバというネイションの求心力、そのバイタリティーはその反骨の精神とともに今まで培い、cultivateされてきたのではないでしょうか。

先住民は駆逐され、「スペインと黒人の間に生まれた不幸の子」と評されるキューバ。
宗主国と黒人奴隷の狭間の完全に溶解することもないけれども、分離もしない、危うい自我を持ちながら、その原動力を反骨に見いだしたように私は感じました。

キューバは本当に耳の幸福のためだけに行ってもよいと思えるくらい音楽がユニークで刺激的


スペインの民謡と黒人由来のビートが織りなすグアヒーラ音楽、
それに合わせて我を忘れたように汗を光らせ踊るサルサは、
自らの反目しあうエネルギーの中でうねり、謳うキューバそのものでした。

2016年7月 


2016年5月11日水曜日

メコンの向こう岸までパンを買いに -越境からみるラオス-

旅行においては国境の形骸化を感じることのほうが多い。特にそれが地続きであるとき、地図にみえるその線は、広く広がる地平にたてられた人為的な柵の様にさえ感じる。イランのイラク国境にあるクルディスタンにいって、フランスのドイツ国境の町、アルザスにいって、国境の意味を感じるよりも、それがいかに後付けであるかを感じることが常であった。

しかし、タイからラオスに渡って感じたのは象徴を超えた国境だった。
メコン川は二つの国を分かつ流れる境だ。
私たちが出発地としたノンカーイはタイのラオス国境にある小さな町である。この町が位置するイサーン(タイ東北地方)はタイの中でも最も貧しいことで知られており、バンコクで働く家政婦など、出稼ぎ労働者はこの地方出身であることが多い。現に私たちがバンコクの長距離バスターミナルに向かうとき、乗ったタクシー運転手もイサーン出身のタイーラオ・ハーフだった。たった今、ノンカーイは小さな町だと書いたが、実をいうと、「小さな町である」というのが、私のこの町に対する「イメージ」であった、というほうが正確だ。バンコクから10時間バスに揺られながら、私は水牛がのそのそと歩き、太陽のひかりで水田の水面が光る、そんな田園風景を思い浮かべていた。実際のノンカーイは、高層ビルこそ立っていないものの、水田は見当たらず、それどころか、賑やかな商店街に、いくつもの宿泊施設が立ち並ぶ大都会だった。バンコクと比べて一番目についた違いいえば、メインストリートを滑走していくのが、タクシーではなく、三輪バイク(トゥクトゥク)であること。それだって、私が住んでいた10数年前は、バンコクでも見慣れた風景だった。

ノンカーイ市内のカフェ。青山にあると言っても驚かないおしゃれさである。
拍子抜けしたというのが正しい表現なきがする。
アジアの田舎の原風景を見に来たつもりが、なんだか、たどり着いたのは、中堅地方都市だった。そんな感覚だ。 泊まっていたのはタイ好きが高じてノンカーイに移り住んだ欧米人が経営するヴィラだった。メコン川沿いに座って足をぷらーんぷらーんさせていると、向こう岸からラオス側の音が聞こえる。ラオスの鶏の鳴く声、ラオスのバイクを吹かす音、それが背後のタイの屋台の音と重なり、ストンと耳に落ちていく。

長い長い滑り台を伝ってラオス行きのボートに乗せられていく貨物
ノンカーイとヴィエンチャンを結ぶのは、オーストラリアの援助で建てられた「タイ・ラオ友好橋」。出入国の手続きで時間が多少とられるけれど、越境バスにものの数十分も揺られれば、ラオスの首都にたどり着ける。聞けば聞くほど、ラオスとタイの違いはなんなのかよくわからなくなってきた。直前にみた映画「ブンミおじさんの森」(2010年カンヌ映画祭・パルムドール受賞)においても、ラオ人の雇われ人に対して登場人物が、「あいつはイサーン訛りが強いな」「彼はラオスからきてるんだ」なんてシーンがあったりする。ラオ語のアルファベットも少しヘニョヘニョしたタイ語のようで、一見区別がつかない。

脱力感のあるタイ語にみえるラオ文字。仏領だったラオスではラオ語の次にくるのはフランス語なことも少なくない
私たちが滞在していたヴィラで、一番良い入国方法をオーナーに聞いてみると、「やはりバスがいいと思うよ。」と答えたあと、すぐに彼はこう付け足した。
「でもね、はっきり言って一日ラオスで過ごすくらいだったら、ノンカーイ近郊で行けるところの方が断然充実していると思うよ」

 私「でも、どうしてもヴィエンチェンに行きたいんだよね。見所はなにかな?」 
欧米人オーナー「まー、例えば凱旋門(インドシナ戦争終結記念)があるでしょ。でもはっきり言ってコンクリの固まりにしかみえないから」(関係ないが、このオーナーはややフェミニンで、いわゆる毒舌オネエ風だった)
「あとは、タート・ルアンっていう通称”黄金の塔”があるんだけどね。はっきり言って、黄金っていうか、チープなオレンジ色してるから!まぁ、きっと途中でやっすいペンキで塗り替えたのね。まじでオレンジだから」 
「あとは、ほらヴィエンチェンに珍しいものと言えば、フランス料理かな?めっちゃ、シャレたフレンチ食べにいくのはいいかもね。でも、はっきり言って、”そんなに払うの?"ってかんじだよ。高いね。」
 「悪いこと言わないから、ノンカーイ郊外にしておけばいいじゃない?」

とにかく猛烈にまくしたてられて、私たちも「ぽかーん」としてしまった。 (まぁ、その理由の一つには日本人以外の多くの欧米人は入国税だけで、30ドル以上かかる、ということもある。それがますます「コスパ」を悪くしているらしい)

さて、オーナーがこんな具合で大した情報もくれなかったので、何を期待して良いのかもわからず、私たちはとりあえずバスに乗ってラオスに向かった。国境は街の中心からすぐだ。とても簡易な出入国を終えて、いざラオス入りをする。バスが入国審査を終えた乗客を再び乗せたバスが走り出すと、さっきまでなかった土ぼこりが舞った。ラオ側では道路が舗装されていない。「まぁ、ここは国境際だから」と思ったが、窓の外を見つめていると、気づけば土ぼこりを通してみる景色はすでにビエンチェンだった。
バスターミナルに降り立ち、市内に出ると、その次に目についたのは、旗だった。至る所に国旗がかかっている。国旗が多いのは、王への忠誠心が強いタイでも珍しいことではない。しかし、ラオスではほぼ必ずと言っていいほど、その隣には、黄色い「鎌と槌」を据えた真っ赤な旗がなびいていた。共産主義の赤旗である。

街中にはためく国旗、写真ではよくみえないが、だいたい赤旗がセットになっている
はっきり言って、昨今、王道の赤旗を観ることは多くない。
私は中国にはいったことがないが、例えばヴェトナムではかつてのプロパガンダポスターの絵の中や博物館などの展示品であの旗をみることはあっても、ハノイの中心街にそれがバサバサとなびいている様をみることはない。ロシアも軍事パレードなどでは赤旗をはためかせているのかもしれないが、TVで観る限りは街中でそういう光景は観た記憶はあまりない。 忘れていたが、ラオスは共産主義であった。いまもラオス人民革命党という、「いかにも」な名前の政党が一党支配体制を築いている。しかし、ヴィエンチェンの街を歩いて感じられるのは、国の権威や革命的士気とは違った。

ヴェトナムにあるような先にも触れたプロパガンダポスターや、キューバで見かける闘争心溢れる革命スローガンでもない。それよりも原始共産主義に近い。シンプルにいえば、牧歌的なのだ。首都に来ているというよりも、田園地帯の真ん中にできた市場にきたような感覚に近かった。
単純に驚いた。
タイで最も田舎と言われる地方よりも、一国の首都の方が田舎だったことに。
川一本で隔てられている「あちら側」と「そちら側」がこんなにも違うことに。



例えば、バスターミナルのすぐ横にあるタラートサオ。
越境バスまでででているのだから、東京で言えば、新宿バスターミナル、くらい位置づけか。そこに広がる市場は、歩道のど真ん中、地べたにお店を広げている人が多い。そんなの、途上国ではよく観る光景だろう、と言われるかもしれない。しかし、そんなことはない。私が驚いたのは、この市場の大半がその日かぎりの仮設であったということである。風呂敷一枚でお店を広げている。こんな光景、バンコクにはもちろんなければ、その他多くの国でだって、首都の交通の要所ど真ん中でみることはそうそうない。あったとしても、せめて簡易机を出した日用品の露天だ(露天街は野外であるというだけで、簡易に折り畳める常設であることが多い)。私がこういう光景を目にしたのは、例えばフィリピンの山岳地方やボリビアの首都から数時間離れた田舎である。
帰国後少し調べてみると、インドネシアのフローレスの山間の人々、インド東北、ミャンマー山地帯の村の生活との類似性も指摘されているよう。

そう、ヴィエンチェンは山岳地方の商空間にとても似ていた。



タラートサオで、おばちゃんたちがイス一つ、風呂敷一つでお店をひろげる
 その印象はあながち間違っていなかったようだ。ラオスの風土に特徴的なのは、その人口分布にあるという。山がちなラオスは人口の集中する地域がない。隣国のベトナム、カンボジア、タイではそれぞれ大河(紅河、メコン、チャオプラヤ)沿いのデルタが栄え、それが、政治と経済の中心を成している。しかし、ラオスの場合は山間を縫うようにして集落ができており、人口密度も1㎢なんと24人である。(ちなみにベトナムは256人、タイは132人、最も近いミャンマーでも74人とラオスの3倍以上ある)。森林面積は70%弱と、マレーシアと並んでASEANで最も広い。それぞれの村が離れており、それらの集落は市場などの商空間を通じて交わりを持ってきたのが伝統的なラオス社会である。村で農業を営み、それを山間に持っておりて、少し売買して、また村にかえっていく。そんな姿が思い浮かぶ。

想像するに現在のヴィエンチェンの市場もいまでもそのように、機能しているのではないか。机を出してる簡易商店は市内に住む人がだしているのだろうが、風呂敷のおばちゃんたちは、それこそバスにでも乗って市街から、たまに来てるのではないか。週一くらい市場に売るための野菜をえっちらおっちら持ってきていて、普段は自分の畑のそばに住んでいる。これが、本当にそうだとしたら、まさに山岳地域の生活だ。

そんな市場の常設パートのほうに目を向けると、フランスパンが山積みになっているのが目に入る。そう、ラオスは旧仏領でもある。タイ人に「ラオスらしさってなんだと思う?」「ラオスのタイと違うところは?」と聞くと大抵「フランスの影響があるところ」と答える。タイはインドシナで唯一「植民地化されなかった」プライドやメコン流域でいち早く経済発展を遂げたこともあり、ラオスを自分の田舎バージョンだとおもっている節がある。冒頭の完全に親泰化したアメリカ人も「ラオスでいいものはフランス料理くらい」とか言っていたことからも、その対ラオイメージの一片を感じられる。

私と友人はそこでバゲットサンドを注文した。そのときの言語はタイ語だ。
私たちとラオ人の共通語はタイ語なのだ。
私のタイ語が十数年前からの残像で、片言なのはさておき、なるほどこの地域において、「タイ性」とは一種の権力性をもっているのか、と気づいた。はじめ、バスでラオス入りしたとき、乗車していたのはほとんどがタイ人だったのだが、ドアが空いた瞬間、降りるタイ人をラオス人の客引きがドッと囲んでおり、「そうかラオスではタイ人は田舎出身でも都からきた金持ちなのか」と驚いた。私たちがわたってきた、タイーラオ友好橋の完成はヴィエンチェンを一気に外に開いたという。タイ人のみならず、タイを経由する私たちのような外国人が急に増えたからだ。ラオスにとってタイは大海への窓を提供する都なのかもしれない。

山積みのバゲット。もちろん自家製
そう、ラオスは常に覇権の中でその身をたてようとしてきた国なのだ、とそこで気づく。メコンの盟主タイの周縁として扱われ、フランスの植民地となり、共産圏のはしくれとして、中国、ソ連、ベトナム、どれにも付きすぎず、離れすぎずの距離を持ちながら、そのアイデンティティーを狭間の中で形成してきた。街中に赤旗が溢れていたのも、それが理由かもしれない。ラオスの共産主義は経済政策的というよりも、外交政策といわれる。実体として、社会主義が完成していくよりも、それを「標榜」することがとてもラオスにとって大事なのだ。街中に赤旗をはためかせ、対外的に自らの共産アイデンティティーを顕示し、その「一味」として認めてもらうことこそ、ラオスの共産主義の大意義なのだろう。
地元のこどもたち。文化会館で踊りの発表をしていたらしく、メイクをした顔が、嬉しかったり、恥ずかしかったり。
 帰り、暗くもなってきたころ帰りのバス乗り込む。再び、メコンを越えながら、窓の外をみると、河の向こう岸にあるタイの河岸が、街頭や建物の灯りに照らされるのに対して、振り返ると見えるラオスの河岸はとても静かで灯りも少なかった。

ヴィエンチェンにコンクリートのださい門とフレンチしかないなんて、嘘だ。
このほんの数キロにある両岸の違い、それは踏みしめて越えなければわからない境界だった。
メコンの川の音ききながら、頬張るバゲットサンドはどの岸でたべても美味しかった。

メコン川をはさんで向こう側にみえるのはラオス

2016年3月31日木曜日

なぜ日本だけがこんなに働くのか -日本と過労とリーガルマインドについて-

この季節になると、公共部門に少しでも足をつっこんでいる働き人にとっては、業務負荷が日に日に大きくなります。定時なんてとうに過ぎた時間、デスクでパソコンにむかっていたり、やむことのないメールに返信していると、考えざるを得ないのです。

「なぜ、日本はこんなに身を粉にしてまで働くのか」

もちろん、反論する人はいうでしょう。

「他国だって、徹夜で働いしている人はいる」

そうかもしれない。
でも、日本では圧倒的にオーバーワーク気味の人が多いところは自他ともに多くの人が認めるところではないでしょうか。他の国にももちろんそういう人はいるかもしれない。でもその一定層は「自らそれを望んで」しており、また、望まなくなった時点でその意思を表明することができる。

しかし、日本はこんなに働くことが幸せだなんて考えてはいないのに、反対できずに過労している人がほとんどな気がしている。それは私自身も含めてだ。


「責任感がつよい」

「細部への徹底した丁寧な仕事」

美辞麗句はいくらでもいえる。
でも、私はそのようなポジティブな側面だけで吸収してしまうべきではない日本の労働環境の構造がそこにはあるとしか思えなかった。

残業後の帰宅電車はそんなことを考えるものだ。
自分の置かれている状況を客観的に認識したい、そんな思いからふらふらと思考の散歩にでてしまう。

ぐるっと一周散歩をして思った


日本ではリーガルマインドが理解されていない。
仕事において人と人をつなぐのは「契約」ではなく「金」であると。
私がしているような、委託をうける仕事、サービス業全般、製造業の下請け等では特に顕著だと感じる。

何を言いたいか

それは、サービス提供者に対して契約の下の平等が与えられていないということだ。
お金を払っている人(=委託元)が「偉く」、下請けをただただその「命令」に従うべきだ、とされていることがあまりに多い。

そもそも法律、特段民法はなんのためにあるかといえば、
社会的な上下関係、商業上の強弱関係の下、いわば弱肉強食に任せて問題解決が行われることを避けるためである。法の下、人格は平等であることをその考えの基礎としている。

日本では形骸化しているが、契約書もその合意を結ぶ両者からの割り印があるのは、そのためである。商業契約においても、それは同じだ。
契約書は金を払っている依頼主が、ちゃんと納品を受けるためだけに存在するのではない。
業務を請け負っている会社が「合意した業務を提供する」代わりに「合意した報酬」を受ける。
このとき、業務は報酬との等価交換であることが暗に合意されている。

日本では,お金を払っている方が、
この等価交換が成立していないことを訴えることはあっても、逆はほとんどない。

例えばコンサル会社が言われる・・・・
-200万円で調査を委託したのに,この量じゃ想定していた調査量に全く足りない

印刷会社が言われる・・・・
-パンフレット100部を発注翌日に受け取れるという約束だったのに、日が暮れても納品物が届かない


でも実態はこんなことだったりする

-契約時に合意していた内容は「解釈」に次ぐ、「解釈」が加えられて、当初想定していた3-4倍の業務量にまで膨張。結果的にコンサル会社が提出済みの人件費単価で単純計算しても、働けば働くほどプロジェクトは赤字になっていく。これ以上調査を進めても会社にとってはなんの利益もうまないどころか、損失ばかり増えていく。

-そもそもパンフレットは当初50ページで一週間前に原稿データも送付されるはずだった。でも、実際に依頼主が送ってきた資料は150ページ、データが送られてきたのは前日夜。とてもじゃないが翌日までに完成させられる量ではない。会社はやむを得ず、夜間、印刷工場を稼働させた。


これはどちらも実話である。
もちろん、細部は特定を避けるために多少かえているが、日本のサービス業に努める人ならば、これと似た話はみな経験があるのではないだろうか。


委託を受ける側はいつも言われる。
「こんなんじゃ、お金を払えない」
「別に契約内容に具体的に書いているわけではないけれど、こんな対応も込みでしょ?それを期待しているから御社に頼んだのに」
「得意先のよしみで」


本当は私たちは契約を盾に訴えてもおかしくない。
極端な裁判文化の米国などでは、実際訴訟問題となるだろう。


「その業務は本来請け負っていないはずだ」
「その委託料でできる内容ではない。これではうちは大赤字だ」


しかし、日本にはその慣習がない。
「払えない」の一言に脅され、
「そんなことなら他社に乗り換える」の言葉で圧倒的劣位に追いやられる。


つまり先の一言に戻る。
日本ではいまだリーガルマインドが醸成されていないのだ。日本は先進国の中でもとくにサービス業の生産性が低いそうだ。いまやサービス業は我が国のGDPの7割を占める。日本の経済停滞の一因にこのサービス業の低生産性を挙げる人もいる。だが、このような契約意識では生産性が低いのも当たり前だ。

もっと踏み込めば、これは労働者⇔雇用者の間でもいえる。労働者が強い欧州と違い、日本は労働者から権利をつきあげることはまだまだ限定的だ。それよりも、雇用者が握る、「雇用」と「賃金」というのが圧倒的なパワー(権力性)を持つ。これが他国よりブラック企業や過労を生みやすい原因ともなっている。


だから、私たち労働者とて、サービス事業者とて、こんなに長く働きたいのではない。自分で選べる状況ならば、もっと早く帰る。


ただ、

「うちができるのは今日ここまでです」


この一言が社外にいえない、その一言が通らないことが、私たちをデスクに縛り付けている。
本当にワーカホリックな人はほんの一部である。本当に細部への気配りを徹底することで、長時間労働になっている人なんて一握りだ。
上司だけが偉そうにして、部下だけに仕事を押し付けるような労働倫理の崩壊した会社が東証一部を埋め尽くしているわけではないだろう。


実態は、報酬を振りかざし、無理難題をふりかけてくる顧客からのメールをみて、肩を落として上司・部下共々溜息をつきながら、残業の明かりを窓から零している。


繁忙期、思考の散歩は業務量を減らしてはくれないけれど、自分の置かれている状況が客観的に理解できると、仕組が理解できると、幾分か楽になるものです。

契約の下、平等がないところにノー残業はないわけです。

ストップ過労、いざ育たんリーガルマインド

2016年2月12日金曜日

Begin Again




お茶をゆっくり飲みながら、アルバムを一枚聴いたような鑑了感のある映画だ。

ドラマの中のドラマを劇中劇というならば、この作品は歌中歌だ。

曲を聞かせながら、アーティストが曲をつくる過程をなぞるようにして奏でている。
だから劇中歌はただの劇中歌ではない。登場人物が自ら喉を震わせて歌っており、彼らのその時の心情を旋律に乗せている。だから、予期せぬタイミングで、不意に涙を流しそうになる。辛くて、悲しくて、笑みをほころばせるような心情描写が耳にそっと吹かれるから。Onceと同じプロデューサーというのは耳をしてもすぐにピンとくるが、舞台がダブリンからニューヨークに移ったからだろうか、より救われる、清涼感のある人間関係を描いている。

音に対するこだわりは、画のシンプルさからもうかがえる。曲は全てプレ・レコーディングで録ったものかぶせており、雑味を絶っている。ボーイフレンド役の新人アーティストはMaroon5のボーカル、Adam Levineをつかう徹底ぷりだ。ビジュアルな刺激を極力控え、耳で魅せている。また、高貴な役に定評があるキイラ・ナイトレイにどこにでもいそうな健康的な衣装をまとわせるところが逆に贅沢さを感じるのもビジュアルなシンプリシティーの特典だ。
泣きながら少し笑って、自転車で走りたくなる、そんな映画。

2016年1月13日水曜日

Book of Mormon

ロンドン、ウェストエンドでBook of Mormonを鑑賞してきました。2015年、サントラにはまった作品No.1! ずっと生を鑑賞できる機会を探していたミュージカル。




Book of Mormonは控えめにいっても、モルモン教とアフリカの途上国を馬鹿にした作品だ。そのあらすじはこんな具合。

「若い頃、世界に飛び出し、2年間の宣教に派遣されるモルモン教徒。若きモルモン2人は、希望を胸に楽しみに赴任地の発表を待つ("Two by Two")。しかし、2人が行くことになったのはウガンダ。任地の村では民兵がのさばり、8割の人はエイズ患者だった("Hasa Diga Eebowei")。そんな中、熱心に教えををとくも、モルモンの信仰がウガンダの人々に何も響かないことに気がつく。また、説明しながら、"後世では信者一人一人に惑星がひとつもらえる"、"エデンの園はアメリカのミズーリ州ジャクソン群だった"等、盲目的信じてきた教典の言葉にも疑問の雲が覆うようになる ("I Believe")。2人はウガンダの人々の生活に直接響く言葉を考えるとともに、自らの信仰とも向き合う」

私は最初このあらすじを読んで全くと言っていいほど、惹かれなかった。偏見に満ちている気がしたし、下品だと思った。一方この作品は強豪を抑え、2011年にトニー賞9部門にノミネートのセンセーションを巻き起こしている。

「そんなに人気ならやはり光るなにかがあるのでは?」

と出来心でサウンドトラックを聴き始めたが最後、すっかりハマってしまった。ミュージカル本編を見る前から音楽にハマるなんてはじめてだった。

つまり、このミュージカルは,どうしてなかなか音楽が良いのである。
本作が「人をバカにしていない!実はもっと深いメッセージが!」
なんて擁護する気はさらさらない。しかし、音楽を聴くと、本作が嘲笑や皮肉はこめていても、誹謗中傷することが目的ではないことがわかる。これはストレートプレイでは成し得ない演出だ。その後音楽プロデューサーは「アナと雪の女王」の作曲家であると聞いて、深く深く納得した。相当な敏腕であることはいうまでもない。

ユーモアと、差別・イジメは紙一重である。その2つの間に線を引くのは、無知・無関心だ。扱う対象について、事実誤認や虚偽に基づく偏見を広めたり、本質的には関係ないのにも特定の社会的特徴と結びつけたり(e.g. xx教徒は皆暴力的だ、など)することは無知や無関心からくる行為だ。それは瞬時に相手と自分に線を引いてしまう。しかし、Book of Mormon に出てくる主人公はなんとも可愛らしいのである。観客は彼らを遠ざけるどころか、愛されキャラとして、大事にしたくなる。公演がはじまってから、今に至るまで、主要キャストや関係者のところにはモルモン教徒から一通も抗議文は届いていないそうだ(その後、オラフの声としてブレークした、助演Elder Cunningham 役の Gad はインタビューで 「稽古をしてるときは、”この公演がはじまったら、いつか刺される”と思っていた」と笑いながら答えている)。

私もこの劇を知ってからはモルモンについてもっと興味が出た。先日なんと家のそばで2人の若い宣教派遣中の信者に会い、チラシをもらったときは「うわーーーー!本物のモルモン!」とちょっと嬉しくなったくらいだ。実際、モルモンの教会はしばらくすると、この劇のヒットに完全に乗っかって、パンフレットの広告欄を買って、"Now you've seen the play, the book is even better!"というキャッチまで載せたくらいだ。また、無知からくるただの下品な作品にならぬよう、プロデューサー2人は、とても綿密なモルモンについてのリサーチをした上でこの台本を書いている。彼らはこれをユーモアとして成立させるためにも、虚偽は書かないことを徹底していたそうだ。あくまで、モルモン教徒の教えからの興味深い部分の引用で本作を成立させている。誤った内容を書くことでユーモアが損なわれないように細心の注意を払っていたと。

それから、キャストについて少し。本作はそのストーリーやノリがとても、アメリカンなゆえ、観賞前はロンドンキャストだとどのような印象になるのか、興味と不安が半々くらいだった。実際、イギリス人がやるのと、アメリカ人がやるのとでは、「信心深い若者」のイメージが違っていて面白いなと思った。イギリスキャストは、みんな色白、もやしっこ、神経質そうな感じがすごい。内輪で盛り上がるあの雰囲気も含め、オタクっぽい。一方、オリジナルのアメリカ版の演出のモルモンの青年はもっと過度に健康的で活動的。イメージ的には、ファストフードのCMやスポーツジムの広告のあの、目が爛々としていて、笑顔すぎてちょっとこちらが引く、みたいなかんじ。どちらもそれぞれの国での「宗教に没頭する青年」のイメージを反映しているきがして興味深かった。ロンドンは、Elder Cunningham役の方が、Elder Priceに比べ歌も演技も抜群にうまかった。あの、多動性オタクのかんじが本当にツボにどハマり。主演のElder Priceは、どうしてもBW初演と比べてしまい、先に述べた彼の健康的にラリったかんじの演技と圧倒的歌唱力を知ってしまうとなかなか、それには及ばなかったかな。嬉しい驚きは、5年前にWicked でエルファバ役をみて素晴らしい!とおもった女優を今回、主演女優としてみれたこと。そうして、言わずもがなだが、みんな演技が抜群にうまかった(顔芸もすごい)。あんなに会場が揺れるほど観客が笑うミュージカルははじめてだ。


と、ここまで言った上で再度述べるけれど、本作はやはり高尚な作品ではまっっったくない。簡単にいえば、歌うクレヨンしんちゃんレベルのユーモアである。ミュージカルファンよりもお笑いファンに進めたいくらい。

しかし、結局人の溝を埋めるのは小難しいディスカッションよりもユーモアの方が力強いと思っていたりする。宗教や信仰という難しい話題を扱いながらも、スレスレのバランスでメッセージをコミカルに伝えたプロデューサーと作曲家は本当に只者ではない。真似できるものではないし、すればただただ大やけど負うような、綿密で大胆な作品である。自分の日常に「やってらんねぇ!」とおもった時の処方箋にしたいミュージカルだ。


オープニングナンバー "Hello"

"I Believe"

2015年12月14日月曜日

Chicago

今年のミュージカル納めはChicago。シアターオーブの気合いの入った2015年ラインアップの締め。去年来日が決まった時から楽しみにしていた公演。






Chicagoは多くの人と同じように映画をみて初めて知った。ゼルウィガーの刺すようなかっこよさにしびれた。曲はもちろん全部知っているし、中学からずっと聴き続けてる。

舞台のChicagoはやはりその派生系である映画とは違った。舞台はもっと生臭い。

映画Chicagoは絶妙におしゃれだ。やりすぎず、力をグッと抜いて、シックにまとめてくる。女優の投げる視線、控えめな照明、綺麗な衣装には高級感がある。しかし、Chicagoは酒とジャズに溺れ、欲に駆られた女囚のはなしだ。ミュージカル版の女性たちはもっとその汚さを乱暴に突き出してくる。Cell Block Tangoではそんなお上品にとどまってなんかいない。男を殺めた自分の罪状を噛み付くように声をあげて正当化する、ダンスも心臓が鼓動を打つように衝動的だ。髪も乱れていれば、衣裳も挑発的だ。

むしろ、舞台全体に妖しさを醸していのは男性のアンサンブル。透けたトップスやはだけた上半身にはハットを乗せている。名と役がある女性と違い、彼らは全て匿名、あくまで女性を崇め、立てる存在としている。女性が急なら、男性は緩だ。身体をくねらせながら、ゆっくりフロアを舐めるように舞う。

この良さが最高に出たのがRazzle Dazzle 。正直映画版ではなんてことない曲と思っていたのだけど、男性の振り付けがとても良かった。あと何と言っても、ミラーボールや銀紙を降らす、ようなチープな演出が絶妙だ。舞台だったらもっといろいろやることもできるだろうに、敢えてその安さをだしているのが、ロキシーとヴェルマの目指す大衆劇場の空気を表現していた。

Chicagoの演出はとてもminimalistだ。使う大道具(ほぼ小道具に近い大きさだけど)も椅子くらい。あとは銃、ステッキ、ハシゴしかないのじゃないだろうか。バックダンサーから裁判官まで何役もこなす演者もずっとスケスケの衣裳のままである。衣裳も、人も、大道具も変わらないのに、その何もない真っ黒な舞台で全てを魅せてみせているのが本当にすごい。

そしてChicagoで忘れてはならないのは音楽の素晴らしさ。最近のミュージカルはオケボックスを舞台裏隠してしまうことも多いが、Chicagoではむしろ舞台の「上」中央、一番いい位置にオケが設置されている。ピアノを除いてはほとんどが一つの楽器につき1人だし、ソロも多い。そう、Chicagoではミュージシャンもキャストなのである。指揮者は途中セリフも入るし、最後カーテンコールではMCも務める。シロップのようにどろりと甘美なメロディー、スパイスのようにピリリとエッジの効いたリズム、観劇ファンでなくともジャズを聴きにくるだけでも十分に楽しめるのがChicagoだ。

そしてそして、last but not least、 キャストだ。
今回の来日で一番注目されたのがやはり、シャーロット・ケイト・フォックスだろう。名前に聞き覚えがなくても、朝ドラ、マッサンの妻エリー役の女優といえばわかる人は多いのではないだろうか。はっきりいえば、観劇ファンからすれば、舞台の実績がほとんどない彼女の主役への抜擢は観劇ファンからすると、「日本での話題作りだな」という印象をうける。日本はまだ芸ではなくて「ヒト」の人気で客を呼んでいる。海外公演の方が芸のレベルが高いのに、人が入らないのはそのせいだ。しかし、幕間で席を立った時に思った、「シャーロットのロキシーはこれとしてアリだな!」。ロキシーはヴェルマとは違う。元々虚弱で甘えったれで、果てしなく男に依存してる。そんな彼女が自分のチープな名声によって、キラキラ、クルクル回るのをシャーロットはよく表現していた。ロキシーはかっこいい必要はないし、痺れるようなキレと自立心を持ってる必要はない。経験が浅いことを割り切り、逆手にとった「未熟で自己陶酔したロキシー」はとても清々しく、エロティックなロキシーからのアルターナティブは好感が持てた。

そして、Amra-Faye Wright。シカゴのヴェルマといえば彼女。年齢を検索して驚いた、55歳!空気をピタリと止めるようなキレと若さには出せない貫禄。15年もこの役を演じきった彼女にしか出せない圧倒的自信。それなのに、まだ毎回即興もいれているらしい。信じられないエンターテイナーだ。だから。10年以上やっていても、人はまだ彼女のヴェルマを観に行くのだろう。彼女のシカゴを観れたことはとても幸運だった。

Chicagoで締めくくる2015。ジンは冷たく、ピアノが熱いジャズフロアのように、来年も緩急がピリリとついた年になりますよう。