2015年8月12日水曜日

2世

私たちの思考や思いは言葉をもって運ばれる。ある言葉を知ったことで、自分の中で、全く新しく概念が生まれるということがある。

私は10年前くらいに「被爆者3世」という単語をきいて、その瞬間自分の中にアイデンティティーが新たに見出されて、とても驚いた。
それまでも、その後も言葉を通じた概念との出会いは有ったけれど、この時ほど、はっきりとした衝撃を伴ったことは後にも先にもない。
それは、水を泳ぐ魚が「君は海の生き物だよ!」と言われ、初めて水やその外の陸を意識するような気持ちだった。

毎年この日、ニュースでは平和を「被爆者3世」の活動が、現代へのつながりとして報道される。



(余談だが、長崎の方が3世アクティビズムは多い印象)


3世たちが、平和を訴える様子、非核を求める声が放送されるのを聞きながら彼らを活動へと突き動かす、意義や理由は私にもあるのだ、と思う。

「◯◯3世」という表現はどんな場合においても使えるわけではない。◯◯の厳格な定義には当てはまらないけれど、その地位が受け継がれているものに使われることが多いのではないかと思う。移民2世、在日コリアン3世などがその典型だ。被爆者3世という単語にびっくりしたのは、多分その地位に「継承性」があると思っていなかったから。

例えば、ひめゆり2世とか、ホロコースト被害者3世、は聞いたことがない。

何故、被爆者には3世が生まれるのか。

言葉を知ったあとすぐの考えたのは被爆体験は世界でも経験者が少ない特異な体験だからということ。その語り部としての地位が世代で引き継がれるということなのか。しかし、その点においてはダッカウの収容所経験者もなんら変わりない。そして、語り部の役目を果たすのは親族でなくたっていい。それよりも、「広島市民」とか「長崎市民」などその地に住んでいることの方が、語り部の地位に相応しい気もする。

おそらく「2世」概念に最も強く影響しているのは、原爆被害の遺伝性のように思う。単に広島市民じゃなくて、2世という概念が、生まれるのは、地縁ではなく血縁を円心とした被害の広がりがあるから。
例え、直接被爆していなくても、2世には疾患が及ぶことがある。うちの祖母は第一子である叔母が生まれるときは相当心配し、孫である私や従姉妹になんらかの生まれつきの身体傾向(大したものではない)があるとかならず、遺伝疾患のことが脳裏をチラつくという。

そして、やはりいまなお、原子力が平和利用、軍備として利用されていることの影響は無視できない気がする。チェルノブイリや福島の後、被爆被害の甚大さについて一番説得力をもつのは、その遺伝的リスクを僅かであれ背負った2世、3世である。だから、彼らは「3世として」、あえて血縁を誇示するかたちで運動を行う。被爆者の当事者性は世代を越えて共有されている。

政治学やシンクタンクという第三者性が絶対に必要とされる分野において身を立ててしまった私は「当事者」として行動したり、主張することがとてもヘタクソだ。それに飲み込まれるのが、怖くなってしまう。冷静に判断ができる自信がないから。

でも、8月6日には毎年かならず思う。もしかしたら、私も飛び込むに値する当事者性があるのかもしれない。
まだどうしたいのは分からない。

でも、一つだけいえる。「2世」にも治まらず、「3世」が生まれてしまっているのは、原爆投下がまだ現在進行形の問題だから。それは未だ移民が「2世」「3世」と連なっていき、いつまでも日本人、フランス人になれないのと同じ。そこにあるのはかさぶたでたはない。まだ生傷だ。



2015年8月11日火曜日

Who was Charlie? 今シャルリー・エブドを再考する

シャルリー・エブドの襲撃事件から半年以上が経った。
事件当初フランスではレジスタンスぶりと言われる数十万人規模のデモが各地で起き、ついには各国首脳まで行進に参加するなど、異例の熱気と怒りが同国を覆っていた。
その事がずいぶんと昔のことに感じるほど、今のフランスには1月の騒乱の面影はない。ニュースを聞いていても、ギリシャのEU離脱危機や債務問題、ツールドフランスなどが耳をかすめていくが、民衆の支持を一気に集めた極左雑誌の名前はもう聞くことがなくなった。

Charlie Hebdoを巡るフランス共和国の動揺、騒乱、言説の渦について、当初から私は胸がとてもザワザワした。過激派に襲われた12人のジャーナリストの死への悔やみや、犯人への怒り、がものすごいスピードで何か違うものに転がり落ちていっているように感じた。はっきり言って、とても怖かった。

復習もかねて、簡単に事件のあらましを説明する。
2015年1月7日にムスリム過激派数人が、フランスの雑誌 Charlie Hebdoの編集部を襲撃し、同誌が刊行したイスラムを冒涜する風刺画に対する報復として、社内にいたコラムニストや風刺画家を銃殺した。犯人はすぐさま警察にその身を追われ、翌日には倉庫で見つかり、その場で銃殺される。しかし、事件のショックはこれで収まらず、同事件に対する講義のデモは国全体を動員するかと思う市民運動に発展した。

この運動の大きな特徴として、それが、「共和国」の名の下に、共和国的価値観(les valeurs républicains)を護ることを大義として行われたという点がある。

 Je ne suis pas d'accord avec ce que vous dites, mais je me battrai jusqu'à la mort pour que vous ayez le droit de le dire.  Voltaire 


私は君と意見を異にするが、君がその意見を表明するためには命をかけて戦おう —ヴォルテール


これは、多くのデモでスローガンとして掲げられた言葉だ。

例え異なる価値観が共存する中でも、それらが自由に交わり、正当性を主張し合う場が用意されることこそ、res publica の目指すところであるという強い信念に基づいている。
いわば、「表現の自由」の原点。

CHの事件がおこった直後の反応みて、私の直感的な反応は「怖い」だった。
私がそう思うのは、自分が犯人に同調や同情しているからではもちろんなく、過激な暴力はどんな思想を背景にしようとも許されるべきではないと思う。
でも、それでも怖さを感じたのは、この事件がなぜ「民主主義」や「共和国理念」の下、ここまで多くの人を動員するのか理解できなかったからである。


・「共和国」に対する攻撃?
もう一度立ち返ると、この事件は極めてマージナルな過激派が、これまた政治的に急進的な週刊誌を襲撃したという事件だ。これが、なぜ「共和国」という体制に対する攻撃だと受け取られたのか私には解せない。

この事件を簡略化すると、イスラームを冒涜する風刺画を掲載した一民間誌に対して、激怒した過激思想を有するムスリムが、その表現者に対して暴力をもって報復した、という構図になる。
語弊を恐れずに言うと、私はCH事件はその過激性・暴力性に違いはあれど、その構図においては「フライデー襲撃事件」と何ら変わらないと思う。
(フライド襲撃事件:北野武のプライベートで交友関係のあった民間人に執拗な取材をおこなったフライデーに対して、たけし軍団が、編集者に押し入り、傘などで編集部の人間を殴打するなど傷害を追わせた事件。)しかし、この時、社会が「言論の自由のため」に立ち上がるということはなかった。それは、たけし軍団がフライデーのみを直接の標的としたからであり、彼らの行為がメディア各社に脅迫状をおくる等、社会の中で自らの意見を発する術を奪おうとする行為ではなかったからである。では、なぜ過激派→CHの攻撃はフライデー襲撃事件と同じように整理されず、その攻撃には公共性を付与されたのか。
これは報道と名誉毀損の攻防ではあれど、「共和国主義」に対する攻撃を意図されたものではなく、そのような図式の下、解釈されることは問題の危険なすり替えではないか。


・シャルリー・エブドは共和国主義の代表性を有するか?—Are you really Charlie?—
もし、CH事件を共和国への攻撃とするならば、それは、CHの掲載する表現やその政治的思想が共和国と高い同一性/融和性を有していることを認めざるを得ないと思う。ようは、CHの発していた言論を「我々」の声としてフランス共和国の市民を代表する声であるとするならば、これを死に至らしめようとした過激派はまさしく共和国への攻撃であろう。

しかし、共和国理念と同体どころか、シャルリー・エブドはとても周縁的な雑誌である。元々政治的には極左であり、元々の創刊時の雑誌名はなんと日本語からとった「Hara-Kiri(腹切り)」だった。大衆誌とはほど遠く、多くの人からは眉をひそめられるような政治的には過激な部類に入る雑誌だ。強い批判と皮肉を込めた風刺画が同誌の売りの一つであり、権威性のある大抵のものは攻撃の対象となった。宗教でいえば、イスラム教だけでなく、キリスト教、ユダヤ教、政治的ならば、極右はもちろん、中道左派まで、完全にこき下ろす。体制、権威、権力の影のかかるものはすべて嫌うという、アナーキストに近い、アンチシステムな論客である。

そのため、同誌の政治的な立場は元々”Anti-gaulliste=反ド・ゴール主義”と称される。
ド・ゴールとはいわずとも知れた、シャルル・ド・ゴール将軍。フランス人に最も愛される大統領であり、第五共和制の創始者。共和国主義の権化である。ということは、反ド・ゴール主義のCHはその中核的な思想の真っ向から対峙する政治的立場をとっているといっていい。また、Hara-Kiri時代から読者は極端に少なく、1981年には売り上げ不足で廃刊においこまれ、10年した1992年にやっと、CHとして再スタートをきっており、購読者とい浮観点からも到底大衆の意見を代表しているとは言いがたい。

CHは共和国主義を真っ向から切り捨てる思想を有しており、支持者はとてもすくなく、とてもではないがメインストリームといえる立場を有してはいなかった。同誌に共和国主義を見いだすのは、それこそ手のひらを返すようなご都合主義な気がしてならない。


・声を持たぬ市民はだれか—identifying the subaltern—
そもそも、「表現の自由」の名の下制限されるのは、公権力であり、政権の暴走や専制を防ぐことがその意図である。公的権力がその権威の下に自らに対する批判や反論の「表現」の術を断つこと、そのことで自らの主張を有無を言わせず押し進め、独裁性を帯びていく、という危機が念頭にある。市民の声が正常に政治・行政に反映されなくなるとき、民主主義は機能不全に陥ることから民主主義のための必要条件の一つとされる。言葉の成り立ちや定義は重要ではないという意見もあるだろう。問題であるのは、ある主張が暴力をもって断たれたことであって、それが公権力であるかどうかは二次的だと。でも、これが民主主義、共和国主義に対する冒涜だという主張するためには、やはりこの基本理念の理解の下に問題を整理する必要があると思う。

CH後の一連の動きの中で、やはり最も衝撃をうけたのは、1月11日にフランス全土で行われた370万人のデモである。このデモの先頭をに立ったのは、名だたる国家首脳である。仏オランド、独メルケル、英キャメロン、イスラエルのネタンヤフなど44カ国以上の国家主席があつまった。日本からも駐仏大使が参加している。
(彼らはRépublique広場(共和国広場)からNation(国民広場)までVoltaire大通りを抜けて行進した。これだけでも、それに込められたシンボリズムは言うに及ばないとは思う)


 国家主席の”デモ”・・・?


 
  共和国広場に集まる人
—Paris Match

このデモの画をみて「公的権力が表現の自由を主張して行進する」ということの矛盾と怖さについて考えずにはいられなかった。風刺というのは、権力を持つ者に対して、力を有さない市民が批判の全力を筆と言葉に込めて突き上げることにこそ、その力強さと正義を宿しているのであり、権力を既にもたれし者が主張する表現の自由は、全体主義とどうやって峻別しようがあるのかわからない。

もう一度、考えてみたい。フランス社会において今、力を持たない市民と、チェックアンドバランスを受けるべきマジョリティーは誰なのか。




上)ムハンマドの裸体
下)「”フランスではまだ攻撃はありません”—「一月終わりまでお願い事かなうんだよ!」」
これが、本当に共和国主義や言論の自由を掲げてまで守るべき、言説なのだろうか?
シャルリー・エブド誌より



ムスリムはフランスの中で今最も抑圧される市民の一つだ。彼らを揶揄することで「風刺」は成立しない。それは、弱き声をさらに押し込める「弱い者いじめ」と何ら変わりない。繰り返すが、CHの襲撃や暴力は断固として糾弾されるべきだ。しかし、「表現の自由」の下、公権力たる国家主席がフランス社会のサバルタン、ムスリム市民に対する攻撃の矢を擁護したことには暴力的であり、ムスリム・コミュニティーとの溝をこれまで以上に深くえぐったと思う。

CHと表現の自由を巡る言説については、1)共和国主義との対立構図、2)共和国主義とCHの代表する思想の不和、3)公権力がマイノリティーに対する攻撃的な言論を擁護する不当性、という3点において正当性・整合性がないという思われる。でも、ここで思考を止めてはならない。問題は、なぜそのガタガタの議論が370万人の人を動員し、支持を得たかである。

・メディアの第三者性
とても、表層的なことから指摘すると、この運動が驚くほどの早さで加熱したことには、間違いなく、メディアの力がある。今回、多くのメディアは「被害者」として語っていた。CH誌に自らを自己投影しながら、報道した彼らは「They」ではなく、「We」として報道を行った。ジャーナリスト達が「当事者」として、自らの権利の侵害を訴えたことで、報道の客観性は損なわれ、情動的に訴える論調が吹き荒れた。普段は、社会情勢の、権力のWatchdogの最前線を走るジャーナリストが「一番冷静さを失った人」になってしまったことのエンジンは大きかったように思う。

The legitimacy and wisdom of criticism directed at offensive speech is generally inversely proportional to the level of mortal danger that the blasphemer brings upon himself...when offenses are policed by murder, that’s when we need more of them, not less, because the murderers cannot be allowed for a single moment to think that their strategy can succeed.
New  York Times
—不敬な言説はそれを発した者に死のリスクが伴えば伴うほど、その不敬な言説に対する批判は正当性や良識さを失う。つまり、もしもその攻撃や無礼が殺人の脅迫を招くならば、それこそその攻撃がもっと必要であるという証拠だ。なぜなら、殺人者に一時たりとも彼らの戦略が成功していると思わせてはならないからだ。
ニューヨークタイムズ

(ニューヨークタイムズの論説は、不敬な攻撃的発言が殺害予告をまねけば招くほど価値あると主張していた・・・。相手を激昂させることが報道の目的ではないはずではないか)

・Identité Française—フランス社会のアイデンティティーの犠牲—
もっと本質的になぜ今回の事件が共和国主義を掲げた市民の動員になってしまったかを考える。それは、ムスリム市民が今フランス社会のアイデンティティーを外縁的に定義する「他者」だからではないか。ここからは、自分の修論の主論とかなり重なってくるのだが、現在、グローバル化、EU地域統合など、国家の意義や境界が揺らぐなか、自らを規律・制度的なアイデンティティーで自己定義してきたフランスはアイデンティティー・クライシスに陥っている。自らの国を規律してきたルールにおいてネーション神話を気づいてきたフランス共和国は、その国を律するルールがより越境的に形成されるにしたがって、その根底を揺さぶられている。「国外」と「国内」の線を引くことが難しくなったフランスは、自らの「中」に「外」を見いだすことで、「あの”他者”ではないということが共和国市民である」という意味付けをするようになった。そして、その「内なる他者」となったのが、ムスリムだ。最も顕著なのは、国民アイデンティティー省なるものまで創立し、ことあるごとにムスリムに周縁性のレッテルを貼り続けた前サルコジ大統領だが、その流れは政権が変わろうともフランス社会の中で途切れることなく続いている。ムスリムの、イスラームの「共和国主義」と反する要素を見つけるにつけ、これを「共和国への反逆だ」ということで、フランス・アイデンティティーは今支えられていることは否めないと思う。




フランス中道右派の週刊誌 L'Expressの表紙
上)革命の象徴、ドラクロワのマリアンヌがペンを持ち、民衆を導く画
下)「イスラムに対峙する共和国」



”「あんなことを断固許さない」「あんなことは絶対しないこと」がフランス国民”

「私はA!」じゃなくて「私はBじゃない!」といって定義されるアイデンティティー


そんな言説によっって、いまのフランス国民の紐帯はつなぎ止められている気がしてならない。

そんなことをしたところで「他者性」に追いやられるムスリムとの軋轢は強まるばかり。
移民であることが経済的弱者であることと同義になっていること、
移民一世の社会的劣位が世代を越えて継承されてしまっていること、
それゆえに、異文化性の問題と社会層間の軋轢が区別できなくなってしまっていること、
社会的な差別について「悪い市民」というだけで、それを制度的に対処しようとしないこと、

これらのことが解消されない限り、フランスがいくら共和国主義を歌い上げようとも、暴力的な衝突は止まない。民主主義への暴力を考えるときに、その「攻撃されているとする」民主主義は正しく機能しているか、今一度考えたいものです。

(本当に言論の自由を考えるべきなのは、CHのデモがおこる地球の裏で、「ピースとハイライト」のパフォーマンスが政権批判ではない、とサザンが謝罪声明を出さざるを得なかった日本なのではないか、そんな事もちらつきます)

シャルリーは誰だったのか、
それは共和国広場で民主主義の旗をひるがえすマリアンヌ?
それとも、自らの築いた礎を揺るがされ、石畳を彷徨うCharles (≒Charlie) de Gaulle?

2015年5月31日日曜日

モザイク模様のアイデンティティー

イランは国内の地域色が豊かな国だ。
国境をイラク、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタンと接しており、多様な文化圏との繋がりをもっている。

今回私が旅をしたのはこんなルート


A:Teheran→B:Marivan (Kurdistan)→C:Hamadan→D:Esfahan→E:Shiraz→F:Yazd→G:Teheran

どの都市も筆舌に尽くしがたいほど、素敵な場所だったのだが、独特の魅力をもっているなと思った都市について少し書いておきたい。

一つは、Marivan。私がテヘランの次に向かった街。
Marivanはイラク国境際のクルディスタンにある村。クルディスタンとは、「世界最大の国家を持たない民族」とも呼ばれるクルド人が住んでいる地域である。その居住地域は、トルコ、イラク、イランにまたぎ、それが一つの国となればフランス国土に匹敵する広さとも言われる。特にトルコでは厳しい弾圧と迫害にあっており、分離運動がたびたびトルコ軍と衝突を繰り替えてしている。他方イラクでは自治権を有しており、イランでは自治権はないものの、コルディスタン州という行政単位として認識されており、トルコほどの差別はないが、独自の文化圏として認識されている。

私がクルドについて、はじめてきちんと学んだのは大学一年生のとき、中東研究者の先生のテーマ講義であった。そのとき、先生が語っていた人情に溢れるクルドの村での思い出はとても印象的で、私もいつかこの地に足を運べないかと頭の隅で思っていた。

クルディスタンには、ガイドブックを色鮮やかに飾るような建築物やランドマークはない。でも、訪ねる者を全力で歓迎してくれる人がそこにはいる。


日本に比べてとても乾燥しているイランだが、クルディスタンはとても青々としている。
小高い丘に上るとそこには、原っぱに湖、花畑が広がる。





村を歩いている私たちはすぐに村の人の目を引いた。イラン人/クルド人は本当にいろんな顔立ちの人がいるので、欧米人であれば歩いているだけでは目立たないのだが、なんせアジア人顔はほとんどいない。小さな小さな子供でさえ、はじめて見た、顔が平たく、目が細いわたしの顔に驚いている。気づけばあっと言う間にあちこちの家から人がでてきて、「どこから来たの??」の嵐。子供たちはペルシャ語もクルド語もはなせない私と友人に駆け寄り、一生懸命なにかを話しかけてくれる。気づけば手を引かれ、村中を案内されていた。

子供たちとはしゃいでる姿をみて、一層警戒心が解けたのか、そこからは通る道、曲がる角ごとにお茶に誘われた。
何軒かのお家にはお言葉に甘えてお邪魔したのだが、なかでも、特に印象にのこったのが、ある7歳の男の子。村のほとんどの人がペルシャ語とクルド語しかはなせない中、彼は学校で習っている英語を総動員して、家族と私たちの間をつなぎながら一生懸命私たちと会話をしてくれた。Marivanの印象をきかれ、「とても素敵な街だね」と答える私たちの言葉にKianooshという名の彼は顔をほころばせ、「Yes! Marivan is very very very clean!!!」と満面の笑みで何度も言っていた。彼のいうとおり、Marivanは街中もお家の中もとても整然としていた。お邪魔したお家はどこも、床の上に無駄なものがほとんどなく、部屋の空間をとても広く使っている。店が並ぶ道路脇もごちゃごちゃしておらず、店先でおじさんたちが日向ぼっこしているようなピースフルな場所だ。


暖かいチャイとほっぺの内側がキーンとなるほど甘いスイカをいただいていると、お母さんがクルド衣装まで出してきてくれて、色鮮やかなクルドのドレスをわたしに着せてくれた。お家を去るときには、これを日本にもってかえってほしい。とまで言ってくれて、さすがに受け取れないと断ったが、「また、クルディスタンに来るのよ」と手を握りながら何度も言っていた彼女が忘れられない。




イランは本当に東西の間に位置するのだなと思うほど、色々な顔立ちをした人がいる。気のせいかもしれないが、クルドは特にその多様性が多いと感じた。金髪、黒髪、栗色の髪から、目の色も緑、茶、青まで本当に一瞬どこにいるのだかわからなくなる。
国境を越えて広がるクルディスタンは通商ルートとしても重要である。先の投稿で、テヘランガールズの飲酒事情について書いたが、多くのお酒は私が訪ねたイラク国境を越えて入ってきているようだ。イラク側では自治権が与えられていることもあり、イラン−イラクのクルディスタンは治外法権とまではいかなくとも国家の境界に妨げられないボーダーレスな関係が構築されているようだ。私たちが訪ねた二つ目の村では、町内会の方のお宅でネギ焼きをごちそうになったのだが、ここのお父さんも毎日イランーイラク間の運搬業に携わっているそうで、そこに「国」の感覚はあまりない。



クルド人のトレードマークのクルド・パンツ。股上が深いダボダボパンツ。
サルエルパンツ人気はここに端を発したと私は信じている。
もう一つ、印象的だった街がヤズドだ。先のクルディスタンとは打って変わり、乾燥地帯と岩砂漠に囲まれている街。
ここはゾロアスター教の聖地として有名な街である。
普段聞き慣れない宗教だが、有名どころだとバンド・Queenのボーカルのフレディ・マーキュリーがゾロアスター信者だった。


ゾロアスター教の歴史はイスラムよりも古く、紀元前6世紀、アケメネス朝のペルシャに遡る。一説にはユダヤ・キリスト・イスラムのアブラハム系宗教にも強く影響したともされる。教義は二元論を基礎とするもので、光と闇、善と悪が拮抗する世界を描く。ゾロアスター教は拝火教とも呼ばれるが、これは彼らが光に神聖な意味をもたせ、礼拝の時に必ず火をともすからである(そのため、性格には「火」を拝んでいるのではない、とゾロアスター教徒には念押しされた)

またアニミズム的な性格も強く、自然を大地、空、などの要素によって捉えている。ゾロアスターについてもう一つのイメージが鳥葬であるが、遺体を鳥がついばむがままに任せる、この行為は霊魂が文字通り天に昇華されるための慣習である(鳥葬自体は200年前ほどに廃れ、1930年には正式に宗教権威が禁止を言い渡した)


鳥葬場は「沈黙の塔」と呼ばれる。(上)はヤズドの沈黙の塔。(下)は頂上の遺体を据えていた場所。
ゾロアスター教徒は現在世界で15万人ほどいると言われており、そのうち10万ほどはインドに住んでいる。残りの5万のうち3万ほどがイランに住んでおり、そのほとんどがヤズド近辺に住んでいると言われる。7世紀にイランがイスラーム化されてから、それまで国教であったゾロアスター教は一変してマイノリティの宗教となる。


ヤズドの見所の一つ。カルナック。何と4000年前から20年ほど前まで人が暮らしていた小さな村。
街の建造物すべてが土レンガでできており、砂漠気候のヤズドで夏は涼しく、冬は暖かくなるようにできている。
(下)は案内してくれたゾロアスター教徒のドライバー兼ガイドさん

断絶を挟みながらも国教が長らくイスラムであるイラン/ペルシャにおいて、ゾロアスター教徒の立場はつねに危うかったが、その習慣や教義は多くのイラン人に愛されていると感じた。例えば、イランが年間もっとも盛り上がる行事の一つに、ペルシャ正月であるヌールーズがあるが、これは元々ゾロアスターの習慣である。クルド人にも広まったことで、いまは彼らを媒介して、クルド文化としてトルコやイラクのクルド人でも祝われている。また、ゾロアスター教のシンボル、プラヴァシは少し気に留めるとあちこちで見かける。私が泊まらせてもらったテヘランっ娘のお宅の冷蔵庫にもプラヴァシのマグネットが貼ってあった。そして、誰に聞いてもこのシンボルの意味やゾロアスター教の教義の基本をよく知っている。「ゾロアスター教徒」という人の数は減れど、その考え方や習慣は一種の道徳として人々に享受されている。そんなところが、日本における神道や中韓における道教にとても近い、という印象を受けた。


ゾロアスター教のシンボル、プラヴァシ


事実、私たちを案内してくれたゾロアスター教のお兄さんは「ゾロアスター教はとても柔軟だし、排他性をもたないんだ」と言っていた。「ゾロアスター教には教典があるけれど、別にそれは硬直的なものではなく、教義の解釈は頻繁に行われ、柔軟にかわっていくんだ」と。彼いわく、ゾロアスター教では、現代にはいってから、輪廻の考え方も否定しないとの立場を明らかにするようになったといい、これは当初の教典の教えの中で明示されていないことらしい。加えて、イスラム教以外の宗教とは両立を認めているらしく、他の宗教の信徒として入信したとしても、その人はゾロアスターであり続けてよいのであるとか。お兄さんも11年前に仏教徒になったのだと言っていた。毎日瞑想はかかさずおこなっており、「仏教の自分と向き合うことで自らを高めるという内省的な面に惹かれた」そうで、自分の外ではなく、自らの内面に思いを照らすそのピースフルな考え方はゾロアスターの教えとなんら反発しあうものではない、とのことだ。


ゾロアスターの聖地の一つ、チャックチャック。その昔王女が逃げ込んだ場所と言われ、礼拝所に滴り落ちる雫のチャックチャック(=ポタポタ)という音が王女の涙になぞらえられる。6月には世界中から信徒が集まるそう。(上)火を灯す礼拝台、(下)乾燥したヤズドでこの場所は不思議とわき水が絶えず流れており、その雫の音、湿った空気は確かに神秘的。
イランはイスラーム革命を期に、アイデンティティーを宗教で形成するようになり、物理的な境界をもつナショナル・アイデンティティーは陰を潜めてきた。現に革命とともに、ゾロアスターの教義を教える宗教学校もすべて取り潰しになり、その教えの伝承は一般家庭に人を集めて細々と行うよりほかなかった。また、政府からは実質的にその存在を否定され、制度的にも抑圧されてきた。
信徒に特定の行いを義務づけることがイスラームにくらべ少ないゾロアスター教では、飲酒も許されている。私たちを案内してくれたガイドさんは、一年前ビール一杯飲んでいるところを、風紀警察に見つかり、地裁で「むち打ち150回の判決」を受け、鞭にうたれた腫れで数ヶ月、普通の姿勢で眠れなかったそうである。ヤズドという地域にたいして、イスラーム体制がどのような姿勢をむけてきたは定かではないが、テヘランの子がお酒7リットルをもっていて、一晩留置所で過ごしておわりだったことを考えると、彼の出自が関係したのではと思わずにはいられなかった。また、他の都市の自由な気風をみていると、鞭打ちや石打ちなんか本当にあるのか⁈、等と思っていたが、自己体験としてこんなエピソードが本人の口からひょうひょうと語られるのを聞くと、そのリアリティーにハッとする。イラン国内に存在する果てしないギャップに、キンキンと耳が奥から響いた。




乾燥地帯のヤズドでは、熱い夏、冷気を入れるための煙突(バードギール)がたくさんある。(上)(下)は野菜などを貯蔵していた製氷庫
しかし、近年、イスラーム体制に対する信頼の低下をうけ、イランでも、ペルシャ・ナショナリズムが復興しつつある。イラン人はペルシャの誇りを強く持っている人々であるが、その中でも、アケメネス朝をはじめとする、ペルシャ帝国の栄華はその華を飾っている。その時代から連綿とつづくゾロアスター文化を大事にする傾向は以前にもまして高まっているようだ。



ヤズドとクルディスタンはどちらも、目の覚める様なモスクや、華やかな広場がある場所ではない。でもこの地域にわたしはペルシャの奥深さとモザイクの様に鮮やかで、しかし一筋縄にはいかない多様性の一片をみたきがした




2015年5月18日月曜日

ベールが覆う嘘と本音

イランは神権政治の国だ。言うまでもなく神権政治とは政教同体の政治体制であり、宗教指導者が同時に政治指導者を勤めていることを指す。現在、神権政治の政体を採る国はほとんどない。定義にもよるが、バチカンやチベット自治区が該当するともいえる。

さらにいえばイランの特殊性はこの神権政治がわずか36年前、“革命”で成立されたことである。単線的な民主主義発展論を唱えるつもりはまったくないが、多くの国は宗教的権威による統治をとってかわるかたちで民主制が発展してきたわけであり、政教同体をわざわざ革命をもって再導入する、という、一見「逆行」するようにも思える変革を起こしたという点でイランはとても興味深い。


テヘラン(上)と、地方都市クルディスタンの街マリヴァン市内(下)。地方にいってもイランの街はとても整然としている。どこもゴミなど落ちておらず、街中は街路樹や花で明るい雰囲気

イランについて、日本で日常生活を送っていて自然に耳にはいってくることはとても限られている。神権政治、イスラーム革命、アメリカ大使館人質事件、核開発、などからも狂信的な国だという印象をもっている人は多い。しかし、一度足を踏み入れるとこの国に驚くほどの矛盾が絡まり合っていることを全身でかんじた。

「イラン人は嘘をつくのがうまいんだ」

私がイラン滞在中に、現地で知り合った人たちはよくこの言葉を口にした。

例えば衣服や風紀について。
シャーリア(イスラーム法)を国内法として採用するイランでは革命以降、女性はベール(ヒジャブ)を被ることが義務付けられるようになった。それは外国人でも例外なく、イラン到着の飛行機では到着前にみんな一斉にヒジャブをかぶる。しかし、街中を歩いているとむしろイランの女性のヒジャブのかぶり方はとても適当なことに驚く。もちろん、全身黒い布ですっぽり覆われたチャドルの女性も多くいるが、都心の若い女性は特に、「仕方ないからやってるのよね」といわんばかりに薄いストールをくるくると頭に緩く巻いてる人が多い。ヒジャブとはもともと頭髪を隠すためのものだが、ふさふさのロングヘアーをベールの端から垂らしていることは稀ではないし、お化粧も派手な人は多い。

私をテヘランで泊めてくれた今どきテヘランっ娘は、外出するときにベールをめんどくさそうに頭にのせながら、私の方をまっすぐみて言った。「こんなのね、私にとっては嘘っぱちなの。言われてるからやってるのよ」


イランの見所の一つ、古都エスファハーンのモスク。外壁のモザイク柄が息を飲むほど美しい。

それもそのはずだ。イランはいまでこそ神権政治の国だが、革命前の王政時代は中東のなかでも、特に自由な気風が強く、街なかにはミニスカートの女性が闊歩していたという。ヒジャブも1936年に「後進性」の象徴として禁止されていたこともあったくらいだ。それが、革命を期に一気に揺り戻った。しかし、大衆文化がそう一気に廃れることはない。革命直後の気運はわからないが、今のイランのポップカルチャーはその体制が発する厳粛なイメージとはかけ離れている。

イランではパーティーが盛んなことに知っているだろうか。パーティー文化は革命前から盛んだったらしいが、表立ったクラブや飲み屋が姿を消した今、パーティーも陰を潜めたのかといえば、とんでもない。舞台は街角から家の中に場所をかえただけで、いまでもイラン人はパーティー好きだ。先にあげた私の泊めてくれていたテヘランっ娘も大のパーティー好き。とくに大学生になって、自由が増えてからは、毎週のようにみんなで宅飲み(!)をしているそうだ。

私にも「さきもgathering来ないー?」というので、てっきり女子会みたいなものを想像して、
「それなにするの?みんなでお茶するの?」
と返したら、
「さきー、つまらないこと言わないでよ、お酒呑むに決まってるでしょ?!」と返された。


(上)エスファハーンの川沿いで遭遇したギャルのピクニック。イラン人はとてもピクニックが好き。通りかかったら、誘われたので一緒にお茶をした。(下)パン屋で夕食用のパンを買うチャドルの女性

そこから、彼女は前週のパーティーの写真もみせてくれた。バブルのジュリアナにも負けないばっちりメイクとミニスカに胸元の大きくあいたドレス。
「この時はみんな彼氏もつれてきてたのー。」と。

結局、前後に移動が控えていたので、"gathering"にはお邪魔できなかったのだけど、代わりに、パーティー場所が見つからないときによくやるという”ナイトドライブ”の仲間にいれてもらった。夜23時ごろから一時間ほど、テクノ音楽(イラン・テクノ)をガンガンにかけながら、みんなで熱唱して、夜の街をドライブするというのが、そのお作法。特に男の子の集団の時は、「ナンパ・ストリート」繰り出していって、ナンパ待ちの女の子にウィンドウ越しに声をかけにいくらしい。そのとき、車を長い間止めてナンパをしていると、風紀警察にばれるので、その道をなんども"グルグル"とまわって同じ娘と話すらしく、そのドライブナンパのことを”ドルドル(=ペルシャ語でグルグル)”と呼ぶとか。

「風紀警察にばれてヤバいことになったことないの?」と聞くと、
「この子とかさ、一回パーティーくる途中酒7リットル持っているところ警察にみつかってさ、一晩留置所にいくことになったよね」
「あれは、やばかった。7リットルとかごまかしようがなかったもんー」

と。それでもパーティー文化は廃れない。
イランではパーティーするのもスリリングだ。


イランの国花は薔薇。白い薔薇が街中、公園内、でよく植えられている。気高いその気風はペルシャ人にとても似合う。

誤解を招かないように断っておくと、彼女たちはいずれもテヘランの一流大学の大学生。決して、ヤンキーとかではないということ。彼女たちがテクノで歌い狂ってる様は日本でお酒の味を覚え始めた大学生となんら変わらなかった。

もちろん、私が今回話してきたのは、主に富裕層や外国人にもオープンな中間層であって、平均的な地方の貧困層の意見まで上記が代表しているわけでは決してないと思う。
しかし、それが一部であったとしても、私はイランの体制の性格と大衆感情のあまりの隔たりに本当に驚かされた。それは、かけてきたとも知らなかったサングラスを正面から歩み寄って、フッと取り去られたような感覚だった。光の下で直視するイランはもっと鮮やかだった。

これほどまでに大衆感情とギャップがある体制について、政治について、人はどう感じているのか、気になった。イランは世界一頭脳流出「brain drain」が多い国と言われる。社会階層でものを語りすぎるのは危険ではあるとおもうが、生活に困った低所得者が出稼ぎに行っているのではなく、知識人、エリートが国を「諦めて去る」現実は深刻だと思う。イラン人のエリートの間には国の体制ゆえに、自らの能力を十分に発揮できない、それを持ち腐れにしている、という思いが強いと感じた。私をシラーズという街で案内してくれた生物学のPhDを持つ男性は、現在無職だった。「イランでは今宗教的な指標で社会的地位を得る構図ができている。学術をきわめても"徳を積んでる"奴に勝てないんだよ。この無力感てないだろ」といっていた。テヘランの大学生たちも、「もし、イスラーム的な理で考えたとしても、あいつら(政治的地位を持つ聖職者)はおかしいのよ。イスラーム科学者は本来"科学者"なのだから、サイエンスもわかっていた上でその権威を認められるはず。でもあの人たちは聖典と自分の地位しか、わかっていない。そんな人たちに学をおさめている私たちのことや政治がわかるわけがない。あの人たちがどうして偉いのかわからない」。実際、イランは石油による不労収入がありながら、その産業・学術においては内的動力が湾岸諸国に対して強い国だと思う。経済制裁をうけながらも、多くの産品を国産でつくることができ(国産自動車は50万台生産している)、PhDの6割は女性、去年は数学の最高峰フィールズ賞をとったのもイラン人女性だった。それが、政治体制に足かせを受けているという声には、思わずうなずきたくなった。

「今のイランは脳に腫瘍を抱えた秀才さ」

シラーズを案内してくれた彼はいっていた。

「じゃあ、革命は失敗だったの?」

「79年当時の王政は確かにあのままではいけなかったでも、必要だったのは "improvement" だったんだ、"Revolution"ではない。でも今僕らは"improvement"なんかじゃ足りないかもしれない、"revolution" でもしないとこの腐った状況はかえられないかもしれない」

「これは英語だからいえることだけどね」バザールを歩きながら、彼はいたずらな目でにこっと笑いながら言っていた。

今回いくつかの街を訪れる中で、どの街でも仲良くなる人は去り際の私に必ずこういった。
「これからの旅、イランでは誰も本当には信じちゃダメだよ。イラン人は本当に嘘がうまいんだから。」


イラン人の誇りペルシャ帝国の栄華。ペルセポリスの遺跡。

実際、いく場所、行く場所で私は地元の方の歓迎を受けて、不快な思いなどしなかったのだけど、その言葉は妙に耳に残った。嘘が"うまくなってしまった"イラン。その言葉の余韻に悔しさと寂しさを感じながら、もっとたくさんの人に、イラン人の「本音」をこの美しい国と一緒に観てほしいと思った旅だった。





2015年1月12日月曜日

Kinky Boots

はじめてブロードウェイにいって、Kinky boots をみてきた。
とにかく圧倒された。
ストーリーは老舗の革靴屋をついだ青年がドラッグクイーン(女装家のパフォーマー)との出会いを通して、女装市場向けのブーツを作り始めるという話。
設定が設定だけに、歌も、踊りも、何より衣装がとても派手でエネルギッシュ。
それがイギリスの片田舎をイメージした古臭いセットと絶妙に不釣り合いだ。(そして、それがとてもよい)

この話は社会不適合者のお祭りさわぎである。そう聞くと、とてもアングラな匂いがするのだけど、そうではないのだ。この劇はその社会との摩擦を高らかに笑いあげ、踊るその足のステップとともにエネルギーに発散していく。驚くほど、健康的な劇だ。ドラッグクイーンのover-the-top (やりすぎ)なあのかんじは吹っ切れていてとてもホッとする。あの 派手な出で立ちはそれこそ、自分たちの周縁性を全て余すことなく日の目にさらけ出すということで、"まだ、そんなこと言ってるの⁈ くっだらない!"と言わんばかりの自信である。それが本当に清々しい。

パフォーマーを題材にした作品なだけあって、ダンスと歌はそれはすごい。

作曲は True Colors で有名な Cindy Roper。80年代の音楽シーンを席巻したダンスミュージックのパンチがぴったり。ドラッグクイーンの話とあり、この作品はミュージカルには珍しく歌い手がほとんど男性。力強さが桁違いだ。打楽器のような音の波がお腹の底を震わせる。ダンスもとてもダイナミック。それを牽引するのがメインを張ってるLowla役のBilly Porter。自身もゲイの彼は自分自身を作品に重ね合わせていることもあり、目が醒めるような熱演だった。彼でなくてはこの作品は成り立たないと思うほど。

日本キャストではなかなか出来ない演目なので、ブロードウェイデビューの作品としては文句なしだった。
All hands together for the amazing Kinky Boots cast

2015年1月2日金曜日

星と縞の渦巻くなかで

仕事でアメリカにいってきた。
アメリカには去年の2月に初めていったのだけど、その時は12時間ほどの滞在だったので、ほぼ初めてに近かった。

私は帰国子女は帰国子女でもいわゆる「お登りさん系」である。というのも、パリ留学以外は東京がダントツで都会で、いわゆるロンドンやNY帰国ではないので、(ほぼ)初めての、しかも仕事でのアメリカ上陸はとてもドキドキした。

まず、着くや否や乗り込んだタクシードライバーは全力クリスマスキャロルを歌っている。私も最後は鼻歌で加勢していたけれど、あんなのドラマでの演出だけかと思っていた。パリやロンドンではタクシー運転手は悪態をついたり、雑談をすることはあっても、キャロルは歌わない。
そう、アメリカは何かにつけてドラマのワンシーンみたいなのだ笑。日本でも地方出身者が東京にきたときにこれを口にするけれど、まさにこの感覚なのである。

他にもブランチを食べてたら横に座ってたゲイのお兄ちゃんに「あらぁー、あなたのカメラちっちゃくてかわいいじゃないのー」って話しかけられたり。パリでは政治学の先生が実はゲイということがあっても、こんなカジュアルな絡まれ方はしない笑。

なんというか、「そんなの映画の中だけでしょ!ステレオタイプだよ!」と思うようなことを平然と全てやってしまうのが、アメリカである。

もう一つアメリカにいて感じたことがある。それはこの国が自分が大好きで大嫌いだということ。
よくも悪くもすごく自意識が高い。高すぎる。例えば、国旗。アメリカ人ほど自分の国旗をみにつけたがる国民を私は知らない。日の丸を身につけることなんて、あったとしても日本代表ユニフォームに腕を通すときにくらいだろうと思う。でも、アメリカ人はさも当然のようにStars and Stripesを着るし、普通のお店に特になんでもないときにも国旗がかかっていたりする。泊まったホテル(いわゆる東急インのようなチェーンだ)にジョージワシントンの肖像がかかっていた時には衝撃をうけた。ホワイトハウスに行くと、写真を撮る外国人観光客の横で、それと同じくらいのアメリカ人が官邸見学のために長い列をつくっていた。私は首相官邸からほど近いエリアで働いているが、見学ができたとしてもこれほどの列が日本でできるのは想像できない。国会議事堂だって、社会科見学の学生だけだ。自国の国家主席に向けられる関心の高さ、そこに見出されるカリスマ性をみると、アメリカは世界で最後の一国になろうとも国民国家神話を信じる国なのではないかと思えてくる。

一方、MoMaに行くと、アメリカのモダンアートは自国に対する痛烈な批判ばかりだ。現代アートはそのメッセージ性の高さから、社会批判を込めることは多い。多くは現代社会に対する風刺である。レディメイドと消費者主義の関係などその典型だ。しかし、アメリカ人のアーティストは他国以上に、「アメリカ」に対する批判を込めるのである。首を吊った男性の絵と牧歌的な風景を永遠繰り返す壁紙で”アメリカの汚点”を示すアーティスト、911とアフガン侵攻を痛烈批判したアーティスト・・・・etc

アメリカは葛藤と自己矛盾の繰り返される衝突に悩み、そのエネルギーとともに歩みをすすめてきている。国家、国民を強く感じていないネーションには上記のような反応はありえない。何か起こったときにそれは、「政権」や「政治」の問題となる。国民が個人として国家から自分を切り離している限り、それは「自己批判」にはならない。同じように国旗というシンボルも自己統一化されない。

国家に対する敬愛も、それに対する嫌悪感も同じコインの表裏。

アメリカ合衆国という集合体・その神話に対する強い強い自意識から来ているのだろうと私は思う。そして、その葛藤とturmoilがアメリカの抱える矛盾であり、この国の推進力でもあるのだと思う。想像の共同体の一番の体現者なのかもしれない、アメリカ合衆国は。

それから、NYで休日、DCで仕事をしてみて感じたこと。それはアメリカが驚くほどに異種なものに対してオープンなことである。なんというか、私が1.5mに満たない童顔だろうが、アジア人だろうが、時に言葉に詰まろうが、話す中でほとんど決めつけた態度をとられないな、と思った。もちろん、これは大都市で且つハイクラスな国際市民(低賃金の移民だけじゃないということ)がいるNYとDCだったからということは多分にあるのだけれど、なんと言うのだろう、「すごく当たり前」に接することに慣れているのだ。

例えばフランスでは(すぐ比較にもちあげてしまうが)、とても好感の持てる店員さんやインタビュー相手でも、どこか「わー、なんか小さくても頑張っている子だわ。」という視線の混じった暖かさであることも多い。(それに問題はまったくないし、可愛がられるのは嬉しい)でも、アメリカは”サッと”一瞬ですべてを受け入れる柔軟性がある。対等に扱われるし、生半可な態度もなければ、手加減もない。
そのなんだか、フェアプレイなところはとてもアメリカらしく、とても好感をもった。

今年は気づけばたくさんの場所に訪れていたけど、一番つかみきれなかったのはアメリカだった気がする。矛盾とエネルギーと限りなく研ぎすまされた自己意識の国。

紅葉のDC。10-21℃もあって、意外と暖かかった。


地元で人気のカップケーキ店。ポップな店内がかわいらしく、Chaiもカップケーキもすばらしく美味しかった。
奥に見えるのが星条旗。さりげない色々なところにかけてある。

この露骨さってとてもアメリカっぽくて、笑ってしまった。
経産省の建物。「仕事が一番ですよ!」っていうすごくシンプル横断幕

アメリカの現代とポップの代名詞。ウォーホル。全く同じものが限りなく生み出されるいま。

日本未上陸のバーガー店、Shakeshack.
アメリカにしては小ぶりでバンが甘くて、食べやすい。
バーガーショップなのに、ミドルクラスの中年の仲間が仕事終わりのご飯に使っていたり、
中流家庭が家族の外食につかっているところがアメリカ的である。
バーガーに対して、チープでジャンクなイメージが薄い。


2014年8月29日金曜日

ゴービトゥイーンズ展

終業後に駆け込んできた。
22:00まで空いている森美術館は素晴らしい


Go-Betweens
19世紀アメリカの移民二世を指して写真家Jacob Riisがもちいた表現だ。

ここでもなく、あそこでもない、そのはざま。揺らぎの中に生きるいろいろ。

子どもは一つの媒介にすぎないと思った。国、社会、人間関係、ジェンダー、様々なゆらぎの中の不安定さ、そのリアリティー、それを当たり前に描いていることに好感をもった。

混沌の中を走り回って、立ち止まる、その無秩序を一生懸命に吸い込む。子供の感性の素直さが根底を流れていることで展示全体がとても明るくポジティブな雰囲気をもっていた。

危うさを持ちつつも、健全さをつねに失わない展示。

どこでもない間にいることはいつしも、不安定な曖昧さをもつ。閉鎖的な尖った感性、普通からの逸脱、"誰にもわからない"という孤独を描くこともできる。これをポケットの裏を返すように明るい色にくるりと返したことにこの展示の良さがあると思う。

はざまを指す語にin-between-ness という言葉もある。”狭間”だ。間に挟まれて、狭く、窮屈でどこにも属さない物悲しさがこの語にはある。

この展示は"Go-betweens"!境界ではなく越境。どちらでもないそのスキマの妙で不思議な空間に、飛び込んでいく勢いと明るさを持っている。その未来に対するエネルギーにとても元気をもらいました。