2014年8月11日月曜日

Saigon calling

最近旅の記録を残そうと思うも、家に帰るとバタバタして時間がすぎてしまうことが多いので、
今回は旅先から少しずつ。

さて、今回の目的地はベトナム!
ベトナムは父が赴任していた時にホーチミンとニャチャンに来て以来7年ぶり。
新しい場所好きなわたしがどうしてベトナムを再訪することにしたかというと、
まず一番に前回の旅行で行きそびれたところがいくつもあること(あの時は父の駐在がもっと長いと思っていた)。それから、ベトナム人の友人を訪ねるため。
なんだかんだ久しぶりの一人旅。

     ベンタイン市場側朝から晩まで活気がある

7年ぶりのホーチミンは記憶の中よりもずっと整然として、さらに勢いがある街になっていた。
前回訪ねたときは電線がぶらーんと垂れていたり、ぼっこぼこの道路に雨水が溜まっていたりする場所がおおくて、建物ももっと低くて、全体的に少し地味だと思った記憶がある。
でも、今回友人の飛ばすバイクの後ろにのって、走り回ったホーチミンは10年前に住んでいたバンコクにとてもよく似ているとおもった。もちろん、社会主義なので格差は小さい。タイのように財閥率いる高層ビル群などはない。でも、都市部の成長はたかが7年でも実感できた。
さすがBRICSの次、VISTAを担うアジアの新星。

私の友人をみていても、今まさに経済発展の只中にいることが肌で感じられる。
根拠のある数字をもとに言っているわけではないのだけど、
おそらく今ベトナムは新世代が親世代のころの生活や所得の水準を急速に引き離しているのではないか。
私の友人も家などの固定資産はまだ質素なかんじである。
マンションとはいえ、最上階でキッチン兼シャワールームはトタン屋根の半屋外だし、エアコンも温水もない。部屋は収納がほとんどないため、全て物が積み上がっていて雑然としている。



  友人のワンルーム

  キッチン兼シャワースペース。家というよりベランダで、囲っているのは金網、屋根はトタン

一方、友人はVaioのパソコン、iPad mini、blutoothのスピーカーを完備している。
おしゃれする時はL'occitanの香水を使っているし、この春は海外旅行にでかけたそうだ(約10万の韓国ツアー)
所得水準は同程度の日本の職と比べてざっと半分程度だろうか。
景気がよいアジアの新興国の多くはそうだと聞くが、高度人材はキャリアに対する期待も高い。
ただ所得がいいだけでは満足しない。”自分が成長できる”場を提供できなければ企業は彼らには選ばれない。女性の独立もすすんでおり、彼氏と同程度の給料をもらっている私の友人は、家に入る気などサラサラなく、今は地方都市に住む彼氏について”私は田舎に行く気がないし、結婚を考えるのならまずホーチミンに移ってきてもらわないとなぁ”と言う。
これが経済成長というやつか。バブルの弾けた不景気・ニッポンしか知らない自分には新鮮。

観光っぽいことでは、
メコン川クルーズにでかけたり、
水上人形劇をみにいったりしました。
インドネシアといい、エストニアといい最近旅先で舞台芸術を鑑賞するのがマイブーム
言葉がわからなくても五感で楽しめる。)


水上人形劇(北部の伝統)実はあんまり期待値高くなかったんだけど、かなり見応えがあった。
すごい繊細なうごきで伝統音楽との組み合わせも含め人形浄瑠璃みたい。

  My Tho (ミトー)のメコン川クルーズ。2時間のバス往復に島の案内と昼食もついて、
700円ちょいという、ベトナム人もびっくりな異常な安さだった。

どれも地元民は逆にあんまり行ったことない”というやつらしく、
友人家族もみんな一緒に楽しめたのでなにより。

でも、やっぱりホーチミンで一番楽しかったのはプチ・ホームステイ体験。
5年あわないうちにすっかり日本語がうまくなたマイちゃん、
毎週末、2時間かけてマイちゃんに会いに来る彼氏。
旦那さんの浮気発覚(!)で、マイちゃんの家で冷戦中(只今2ヶ月目)のお姉さんとその息子の4人で過ごすホーチミン式の週末。
朝は市場で本気のグアバ選びをして、昼は春巻きづくり
昼寝のあとはベンタイン市場でぶらぶらして、夜はバイクを飛ばしてサイゴン川で橋飲み(パリジャンみたい)。ベトナム式”耳をすませば”はHONDAの二人乗り。














2014年7月27日日曜日

Miss Saigon

ミスサイゴンをみてきた。
レミゼラブルの黄金タグ、キャメロン・マッキントッシュとクロード=ミシェル・シェーンブルグのプロデュースとあって、音楽がすこぶる良い。

この作品、メインキャストが少ないこともあり、印象としては6割は主人公キムが歌っているのではないかと思うほど。だから、キムの配役で作品の印象が全然ちがう。

私は去年のレミゼのエポニーヌ役が気に入った昆夏美の回に。エポニーヌ→キムを同じ女優がやるのはよくある流れなだけあって、期待を裏切らないクオリティ。昆ちゃんの、芯がある声と、それに似つかわぬ華奢な身体、まっすぐな眼が純真で信念をもったキムぴったりだった。

あえて言うならば、男性キャストの高音が少し危うく、声がややインパクトに欠けたかな?とはいえ、合唱部分はやはり一級。レミぜに同じくやはり闘う男性のアンサンブルは太鼓の音のようにお腹にグッと落ちる感じが好き。

初めての鑑賞だったので、ストーリーについても少し。
ミスサイゴンはベトナム話ではない、と私は思う。あれをベトナムの話としてみると、端々に表れるステレオタイプが気になる(実際初演時はニューヨークのアジア人から抗議運動までおきたらしい)。ちがう、この作品はアメリカの話なのだ。そのベトナム・ベテランの無思慮なベトナム観も含め、描いているのだ。

ベトナム戦争はアメリカの自意識を破綻に追い込んだ戦争だった。アメリカであそこまで大規模な反戦運動が起きたのはベトナム戦争がはじめてだった。その後反戦運動自体はより常習的になったといえど、イラク戦争への反対運動でさえあそこまでの規模にはならなかったのではないかと思う。それまでアメリカは"正義の番人"として君臨して、その神話をNation-buildingの一つの柱としてきた。それは大敗を期したベトナム戦争で大きく揺るがされる。

兵士が大きな犠牲を払い、自分たちの手でモラルが侵され、大義も果たしえなかったベトナム戦争、その膿を描いたのがミスサイゴンだ。ベトナム戦争遺児を支援する基金を高らかに掲げながら、夜は悪夢にうなされ、それでも"あのときは他にどうしようもなかったんだ"と泣き崩れる、そんな人の矛盾と葛藤、そして自己満足な罪滅ぼしを描いている。

だから、最後にキムは救われない。"色々厳しいこともあったけど、この子を引き取って、彼は僕たちとアメリカで新しい人生を送って行く!"という自己満足の完結をこの劇は許さない。最後にキムは自死を選び、ベトナム戦争の膿は一層皮膚を深くえぐる。

そして、その膿を膿のままで残した点がこの作品に深みをもたせているところだと思う。これが、万事うまくいってしまう話ではあまりに不誠実なフィクションだ。

そんなミスサイゴンの初演が生んだスターLea SalongaのSun and Moon




お盆休みはベトナムに決まりました。今から楽しみ。

2014年7月21日月曜日

ジェンダー後進国

私たちはジェンダー後進国に住んでいる。OECDのジェンダー平等ランキングで日本は今年も105位だった。

この水準にいる先進国が皆無なことは言わずもがな、その他社会指標では日本に劣る途上国でさえ、多くは日本を引き離す。世界最貧国の一つレソトは16位(その他14カ国のサブサハラアフリカが日本より上位)男尊女卑のイメージが強いムスリムが最も多いインドネシアだって、95位と日本を上回る。105位はカンボジアに一つ後ろ、ナイジェリアの一つ上だ。

最近このジェンダー問題の膠着化が想像以上に重症だとかんじる。ひと昔前より、日本でもようやくそのジェンダー格差の後進性が認識されるようにはなってきたと思う。1986年にやっと男女均等雇用が確立された国だ。そこから考えれば都議会ヤジがありえない、と猛批判を浴びるようにまでなったことは社会認識が随分進展したことともいえる。

一方で、認識からアクションまでがまだとてつもなくエネルギーと時間を要することに気持ちが重くなるこがある。

ここ最近、男女がほぼ等しくいるホームパーティーが複数あった。どちらも参加者はジェンダー不平等性に理解がある集団だったと思える。しかし、そこでもやはりキッチンにたったのは全て女性だった。現状に問題を認識することと、そこから個人のアクションに至ることはさらにハードルが高い。

思うに日本のジェンダー状況の膠着化には根深い問題が二つあって、一つは母親像に対するRomanticismである。家庭や家族というものに強く母の姿が重ねられている。そして、そんな献身的で頑張る女性の像には懐かしさと温かみが強く象徴されている。亭主関白な日本男児像は私たちの世代になってくるとかなり薄くなっているとかんじる。でも、この母と家庭がどうにも手強い。偶然のことか、最近出てきたCMで複数この母親Romanticismを押し出したものがある。

[味の素 "日本のお母さん"]




ボンカレー "働くママへの応援歌"



前者について、一部では"これシングルマザーの画かとおもった"という声があったが、そう思わされるほどに父の影が感じられない。(その点本だしのCMが最近男性なのは良い兆候だと思う)二つ目は最後父がカレーをつくるが、お母さんに必要以上のプレッシャーがかかっているという点では変わらない。
家庭というのは母があくせく働かなければ温かみがないのか。そうではないはず。いつまで私たちは女性の社会"進出"の話をしているんだろう。世のキャリアウーマンは仕事をこなすのに苦労しているんじゃない、ダンナさんに一緒に家庭を支えてほしいのだ。"あったかい家庭のお母さん""なんでもこなすお母さん"が憧憬される以上この呪縛から逃れることは難しい。

二つ目は承認欲求。
誰だって認められたい。女性側だってどんなに現状に不服でも日常においては自分個人は認められたい。そこで否応にも女性はその"女子力"と合わせて評価される。女性ばかりが家庭と結びつけられるのに納得しているわけじゃない。でも個人としては認められたい。女性としての測りに乗せられてしまうかぎり、それを振り切ることは勇気がいる。そうすると、"料理、洗濯、子育て。生活力がなければ!"というプレッシャーからその技術をより向上させるのは女性となり、効率の問題から(できる人がやったほうが早い)その不均衡は悪化するばかりだ。

やはり、あれだ。
"料理する男ってかっこいい"
"結婚したいのは育児してくれる男性"

これをヒソヒソ口コミで広めるしかない。草の根活動に励まんとす。



[閑話]
アメリカの生理用品のCMがとても素敵だった。
特に女の子が
"What do you think it means to run like a girl?"
と聞かれて
"To run as fast as I can"

という、その真っ直ぐな目がぐっとくる。

[Like a girl]

2014年6月22日日曜日

Laurence Anyways



図らずして二度目の鑑賞をした。
一度目はあまりにその世界観に圧倒されてしまい、鑑賞後もその感想を同伴した友人とうまくシェアできなかった。その一回目の感想がこれ


----------【一回目レビュー】--------------
見終わった直後、なんだか腑に落ちない映画だと思った。監督自身もLGBT当事者であるこの映画、このようなジャンルは対外「特殊」だと思われがちな彼・彼女たちの集団をいかに「平凡」に描くか、その他社会に共鳴してもらうかに注力しているものが多いように思う。だが、この作品は違う。ところどころに出てくる主人公の妄想世界・情緒の具現化、非凡でビビットな色使いに衣装。そのどれもがあえて観客を遠ざけている気がした。突き抜けた感性・価値観をあえて強調する、あの共感を寄せ付けない感覚は独特だった。映画の原点はやはり共感メディアだと思うから。

中盤からは、映像美として楽しむのが自分にとっての正しい見方だとかんじながらみていた。

監督はまだ若い。ケベックの片田舎出身だし、決して今まで自分のアイデンティティーを背負っていくのは楽ではなかったのかもしれない。彼の尖った感性が研ぎ澄まされた作品だった。それに圧倒されてしまったのかもしれない。
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二度目の観賞後の感想は、
"これは映画であるというより文学だ"。
やや、雑な言い方だがこれに尽きる。

一度目の鑑賞のとき、私は上記の通り、監督の表現方法ゆえに、この映画に突き放されるような印象をうけた。
"私たちはあなたたちとは違うんだ!"と叫ぶような。

二度目に映画をみて、エキセントリックに映った映画の中の視覚世界は、現実というよりも心象風景という要素が強いのだと理解した。ストーリーを知っているゆえに、一度目よりもスクリーンに映る造形や色彩に視点が集中した。

文学に擬えたのはこのこと。文学作品でイコンやメタファーを拾って行くように観ると監督の意図したことがよりキャッチできるきがした。

一番目を引いたのは色。
冒頭車内でロランスとフレッドがイチャイチャしながら"楽しみを半減するものリスト"をつくっているとき。彼女たちは色の意味を確認していく。

赤は怒り、情熱
黄色はエゴ
茶色は性やエロチシズムの対局
ピンクとベビーブルーは健康に反する色
ダークチョコレートは自己破壊への一歩

その色への意味づけが二度目の鑑賞でとても気になって、頭のすみに置きながら残りは鑑賞した。
そうすると、鮮やかに彩られた画面がロランスとフレッドの心情の揺れ、その機微がをいっぱいに描きなぐったキャンバスであることに気がついた。

若くて、ナイーブで矛盾に満ちた二人の感情は言葉や表情じゃとても映しきれない。その混沌、激しさ、非合理性、surrealでナマなかんじが色のぶつかり合いとして表現されていた。

ロランスの受賞お祝いディナーの黄色い背景
フレッドの最初は赤く、最後には茶色い髪
常に黒い服をきたロランスの母とフレッドの妹ステッフ
インタビューでピンクとベビーブルーのスーツを着たロランスは、"不健康上等、ゲテモノでなにか不満でも?" と言うがごとく、marginalityをまとって歩くプライドを放っていた。

特に黒は社会規範やconventionalityを強く推し示す色だった。"ダークチョコレートは自己破壊への一歩"。溢れる自我を丸め込む箱。

混乱していたフレッドがむかったダンスホールは暗い部屋に真っ黒なスーツの人が溢れる。仮面のようなメイクをした群衆の中にフレッドは視線を浴びながら入っていくも、その中にもまれ、呑まれていく

数年後に見る所帯持ちのフレッドは、かつて、大嫌いだった"自己破壊へのはじまり"たるダークチョコをかじっていた。

衣装のディレクションまで監督自身が担当していることには意味がある。


黒がそんな色だから、2人の憧れの場所が"île au noire-黒の島"というのとても象徴的。彼女たちは自分たちでありつづけながらも、"社会"に受け入れられたいと願った。カミングアウトしたロランスはîle au noireに行きたいと言う。彼女はそのままの自分として学校という規範の鏡のような場にいつづけたいとねがった。しかし、結局Marginalityにおしやられ、夢と描いた2人の島行きもなくなってしまう。

再会した2人はそんな"真っ黒な島"に色の雨を降らせる。背景もセットもどんよりグレーが続く中、抱き合う2人に色とりどりのランドリーが降り注ぐ様は画一的な世界に一気に感性が注がれるかのよう。それは、まだ"ただの男女"だった頃、2人が路地の真っ黒な洗濯物の前で抱き合うシーンとの対でもある。

はじめて観たときこの映画を私は現実世界として受け取ろうとし、消化不良を起こした。でも、二度目の鑑賞を経て、これは文学であり、叙情詩だときづいた。実体や言動よりも、その中の渦巻く感情が核であり、画面はその具現化である。言って見ればこれはロランスとフレッドの感情が全てであり、その心象風景である作品だ。マージナルな2人がバケツいっぱいのエモーションをお互いに、モノクロ世界にぶちまけあったはなしなのだ。

  -Non sire, ceci n'est pas une révolte, c'est une révolution

 -いいえ、陛下これは反乱ではありません、革命なのです



おまけ
各国版のポスターのちがいがとてもおもしろい



カナダver
   

アメリカver

   

スペインver



イギリスver



ドイツver



香港ver

2014年6月13日金曜日

Act of Killing



これは政治犯罪についてのドキュメンタリーである以上に人間の心理を描いたノンフィクションだと感じた。いままで、戦争モノ、ジェノサイドモノはそれなりに観てきたが、一番ガツンと殴られた作品だったかもしれない。

一番驚くべきことはこれが"スクープ"じゃないこと。加害者は世に知らせたいと願って映画の被写体となったし、"残忍さ"を正確に描写することにこだわった。

でも、観つづけるに従って、それは彼らにとって精神を崩壊の手前で支えるのつっぱり棒であるとわかった。自己肯定を何度も何度も塗り重ねることで、ふと襲う罪の悪寒を飲み込んで飲み込んで。
しかし、シーンが変わる度に言うことが変わる彼らのSanityはすでに縺れきっていた。

後悔と賞賛、嘔吐と歓声を往き来する彼らに精神の崩壊をみた。

2014年6月3日火曜日

チョコレートドーナツ/any day now


私はこの映画を親子の愛ではなく、gay rights の映画として観た。だから前評判が謳うように、溢れる涙を拭う映画ではなかった。なぜなら、闘った彼らは結局求めたものを得られず、あの映画の後も闘い続けなくてはいけないから。その苦しさや不条理を思うと手放しに感動はできない。

でも、感涙しなくてもこの映画はとてもいい映画だとおもった。親権という題材を使って、同性愛者が晒される偏見と不条理をとても強いメッセージ性をもって描いている。ゲイ、ドラッグ、身体障害、などキワモノになりかねない要素ばかり取り入れてるのに、観客をとり残さず、きっちり話に気持ちを乗せていく。

それはやはり、マルコ役のIsaacはじめ役者陣の演技がすばらしいから。演技を演技と感じさせず、しかも個性の強い要素をうまく"日常"としてbelievableにしてるのはすごい。セクマイの権利という多くの人が当事者ではない(マジョリティーである)話をしているのに多くの人を泣かせられる映画というのはそれだけで評価に値すると思う。

ps 原題より邦題の方が良いと思ったのは久しぶり。

2014年6月2日月曜日

Dorothy Vacance



リメイク&雑貨のお店、Dorothy Vacance に行ってきました。デザイナー兼オーナーのgonちゃんは中学の部活の先輩。私は一貫校を高校進学とともに出てしまったので、部活ネットワークとは少し疎遠になっていたのだけど、彼女がお店を開いたことは風の噂で知っていた。家からとても近いこともあって(バスで一本‼︎)前々から足を運びたいと思っていました。

しかし、最後に会ってからのブランクが長くて照れ臭かったりで、なかなか思いおこせず、でもやっぱり行きたくて、今週末やっとやっと意を決してお店にお邪魔できました。


*定番商品の一つフリンジゴム

Dorothy Vacanceのまずはじめの魅力はそのデザイン性と色遣い。目の覚めるようなビビットな服や小物の数々。たくさんの色を使っているのに全くチープに見えないのは、gonちゃんの抜群のセンスの成せるわざ。
(中学のころ、彼女にスタイリングをしてもらっていた私たちはなんて贅沢だったんだろう)

もうひとつの魅力はそのボーダーレスなデザイン。Dorothy Vacanceは店内にgonちゃんの作業場もあるのだが、そこに溢れる素材は世界各国のもの。トルコ刺繍に、インドのボタン、タイのフリンジに、パラグアイのレース。文字通りに世界中から

そのcultural nomadityに流浪ライフを送ってきた私はたまらなく惹かれる。
たくさんの場所から来てるのに、そのどれでもなくて、独自の個性を放っているのがとても魅力的。
各地から渡って来た手芸品がDorothy Vacanceにシャラシャランと集まって、新たな魅力を織りなす様はまるで万華鏡をみるよう。


そして、なにより店主のgonちゃんが素敵。すでに書いたとおり、部活の繋がりとはブランクがあった私はなんとgonちゃんと会うのも10年ぶり。実は結構ドキドキしていたのだけど、その時間を感じさせないほど彼女は暖かく迎えてくれました。わざわざお茶まで出して頂いて、購入したヘアゴムも希望をその場で聞いて仕上げてもらい、その心遣いが嬉しかった。
話に華を咲かせるうち、時間もあっという間にすぎて、とてもとても、すてきな週末のひとときになりました。


わがままなオーダーメイドもさせてもらったので、来月そのコを迎えにくるのがたのしみ。


*実は、私も旅行先で手工芸品を集めるのが大好きです。
gonちゃんのお店から帰ってわたしもまた何かつくりたくなりました。
上はわたしの旅先素材コレクションの一部。