2014年5月20日火曜日

Fiskars

ヘルシンキ以外にもう一つFiskarsという街を訪ねた。
Fiskarsは職人の街。

元々は製鉄や銅など、重工業で栄えていた。
その中で生まれたのが、街の名前をそのまま冠する
はさみブランド ーFiskars


オレンジの柄をはじめてオレンジにしたのもこのFiskarsだそう。

以降、重工業の衰退はするも、フィンランドは独自に見出したインダストリアル・デザインの拠点として、今に至ってたくさんの職人が集まる街だ。
1000人弱の住民のうち、なんと1/3がアーティストとその家族。


キャンドルショップ

おもしろいのは、これが行政の旗揚げで始まったまちづくりだということ。
上述のとおり、重工業の勢いが衰える中で、1980年、工業化やアーティストを約10名村に招聘。
以来、アートクラスター育成のための補助を行い続けており、アーティストと職人の街が製作拠点として移り住む街となった。
今では、職人の街としてのFiskarsの街づくり自体をこれらのアーティストが担っており、協同組合を中心として、マーケティングやイメージづくり、イベント運営などまで行っている。


駅前のセレクトショップ、モードなのに素朴

元々は外からの活力として注入されたアーティストたちが、今は”地元民”として、自らイニシアチブを発揮して街づくりに携わっている。
外から来た新しいものでも、それが新しい「地産・名産」になりえるのだなとおもえました。

日本でも、今瀬戸内トリエンナーレで名を馳せた直島のアートな島振興を筆頭に、ソフトな形での街のRevitalizationが見られる。最近でいえば、震災復興と芸術を絡めたとりくみも目に付くようになった。
アートというと、ついメディア的な商業色がつよいとか、価値判断が曖昧だとか、軽んじられてしまいがちだけど、物質的な需給が飽和状態にあるいま、感性による街の価値転換は私はとても興味深いとおもっている。





Fiskarsの職人のたちは冬は製作期間にあて、夏限定でショップを開いている。
私たちが足をは運んだときは、まだFiskarsのシーズン少し前だったけれど、それでもこの街の魅力は十分に堪能することができた。
最後にタクシーのおじさまが景観豊かな道を選んで、お話しながら走ってくれて、
素朴な赤屋根の家々、森に囲まれた澄んだ空気は、
冷たく身体にストンと落ちました。








2014年5月14日水曜日

アバンギャルドとシナモンロール

この旅行は実はずいぶん前から決まっていた。
チケットを予約したのはちょうど前回のインド出張のころだったと思う
(わたしは今この記事をインド行きの飛行機の中でかいている。)

発端は母が銀座で目にした各国の観光局の展示会だった。
そこで、なんとなく目を引いたブースがエストニアだったそうだ
その日帰ると、食後のテーブルに母はさっそく旅行パンフを持ってきて言った

"ね、エストニアいかない?"

(ちなみにうちの旅行計画は大抵こんな具合にはじまる

そのころ私は職場でかなりへばっていた。
ここで詳述することは控えるが、オフィスで不適合を起こし、
まだ十分に相談できる相手も見つけられず、
毎日不登校児のように会社にいくのが憂鬱だった。
日常に精一杯すぎて、旅行についてちゃんと考えるエネルギーはなかった。

"知ってた?フィンランドからフェリーで2時間なんだって"

横でパンフレットを広げた母は続ける。
そうか、フィンランドも近いのか。
かもめ食堂のような休暇はいいなぁ。
うん、悪くないかもしれないその旅行。
そこからは、相変わらず無気力なわたしを横目で、
旅行プランのプロの母があっというまに半年後のゴールデンウィークのチケットをとっていた。


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旅行に出かけてみて、フィンランドはとてもsustainableな国だと思った。街に出ると平日でも東京のような人ごみもなく、道にでるとまるで閑静な住宅街がずっと続いているよう。スーパーもあるけれど市場で買い物をしている人も多く、自転車で移動している人や、ジョギングしている人をとてもよく見かける。ヘルシンキにいると、人間の適性密度はこのくらいなのかなと思えてくる。


オールド・マーケット。果物が綺麗



Kaivopusto 公園。吸い込む空気がひんやり


日本ではいま、少子高齢化が社会課題の筆頭だ。でも、考えてみれば、本来自然の中でも動植物には適性なバランスというものがあり、それを超過したときには抑制圧力がかかる。いわば、生態系のホメオスタシスといったところか。人間はある種その自然を超越してしまっているわけだけど、それでもやっぱり日本は適正な生態バランスを越えてしまったんではないかなぁと思ったりする。もちろん、人口の減少過程には痛みが伴うわけだけど、規模が小さくなること事態はそんなに悪いことなのかなぁ、とフィンランドにいて思った。

Sustainabilityのはなしにもどります。
フィンランドは社会的な先進性をもちつつ、田舎っぽいオーガニックな部分を残しているところがとても特徴的だと思う。

ネオ田舎町、と呼びたくなるような面白いバランスがフィンランドにはある。




先進性とは漠然とした言い方だ。
この言葉で私がイメージしているのは例えば、学力水準。
PISA(国際学習到達度調査)というテストがある。3年ごとにOECD国際を対象に高校1年生の基礎学力を調べているテストだ。ゆとり教育の”失敗”以来、その順位に日本も一喜一憂しているわけだけど、このPSAでフィンランドは安定して高順位につけている。
2003年から2009年にかけては国別では総合一位。テスト項目や対象地域の定義が変更されてからも、教育トップ国としてランクしつづけている。

同じくOECD調査の男女平等ランキングでは2位(日本は105位)、一人当たりGDPは14位(日本は24位)、デジタルアクセス指数はにスウェーデン、アイスランド等に次いで80%、都市のQOLランキングと、EIUの生活しやすさランキングではヘルシンキがそれぞれ8位にランクインしている。

国の制度が社会保障をはじめとし、とても安定しているとともに、デジタル文化などの新しい取り組みの受容が高い。


カモメ食堂にも出てきたウルスラカフェ。フィンランドの定番、サーモンのオープンサンドとパンケーキ。

それが現れるのは制度だけではない。もっと身近なところからも感じられる。
フィンランドといえば忘れてはならないのがそのデザイン性の高さ。Marimekko, ittala, Aalto, 女の子なら誰だってときめくカラフルでポップなデザインがフィンランドにはある。

惜しげも無く使われる原色
隙間なくぎっしり並ぶモチーフ
シンプルでスパイスの効いた造形





Aalto建築の本屋さん、アカデミア書店。

まさにモダンを代表するポップアートデザインだ。しかし、そんな近代デザインが実用性を置いていかないのが、フィンランド・デザイン。
先にあげたフィンランド・ブランドはどれもみな日用品を扱うメーカー。

インダストリアル・デザイン。プロダクト・デザイン。実用品としての実用性、心地よさ、無駄を削いだ美しさを追究するPhilosophyがフィンランドには根付いている。フランス留学中、フランスは「美しき無駄」に贅沢さを見出す文化だと書いたことがあった。フィンランドは対照的だ。実用性の中にいかにそれを阻害しない心地よさ、機能を高める美しさを生み出すか、を考えている。


ittala のキャンドルホルダー

ヘルシンキ内のDesign Districtにあるデザイン博物館にいくとその真髄が体感できる。




私がみてきたのはヘルシンキとその周辺だけだから、その偏りはもちろんあるとおもう。

でも、港のオープンテラスでシナモンロールをかじったり、
色鮮やかなキッチン雑貨を手にとりながら、横目で夜の帰宅"ラッシュ"にリュックを背負ったサラリーマンがスルスルーと自転車を漕いでいく姿をみていると、このネオ田舎町の生活がとても羨ましくなった。


この国のシンプルでアバンギャルド、オーガニックだけど進歩的なところにとても惹かれたのでした。




フィンランドは世界二位のコーヒー消費国。


フィンランド定番の朝ごはんシナモンロール
カリカリシュガーが美味しい

岩を繰り抜いて作られてる Temppeliaukion 教会。反響する音が幻想的で、岩とモダンなつくりの組み合わせがとても素敵だった。


フィンランド出身の先輩がおすすめしてくれたEira地区。20世紀初頭から建っている建物が並ぶ地区。
少しレトロで雰囲気がある。

If only it wasn't that cold!!!
でも、寒くなかったら人が殺到しちゃうもんなぁ。
寒さもフィンランドがフィンランドとしてあれる所以?



2014年4月22日火曜日

Jalang Jalang in Jyogjya

Then why are you traveling?
-We travel just to travel 
(Motorcycle Diaries)

So I'm finally off my hard and enduring high season. My boss gave me a go for a few days off and so my flights were booked within a blink. I had that craving for the smell of "somewhere not here". To physically detach myself from the ordinary.
I had places and sites that I longed to visit, but more essentially it was traveling itself I so strongly so strongly yearned for 

Some tropical ray and carefree stay should pump in some vitamins for the mind and soul

なぜ旅をするの?
-旅をするためにだよ
(Motorcycle Diaries)

繁忙期がようやくおわり、
部署で突然「有給奨励月間」が言い渡された。
気が変わらないうちにしなくてはと思い、気づけばフライトチケットを購入していた。
「ここではないどこか」にどうしても行きたくて。
物理的に日常から離れたかった。
行きたいところなんて、いつだってたくさんありすぎる。
でも、本質的には「旅」それ自体がどうしてもどうしてもしたかった。

荷物をまとめて向かったさきは、


インドネシアはジョグジャカルタ。


A地点がジャカルタ(首都)で、
B地点がジョグジャカルタ

ジャカルタから飛行機で約一時間の同じジャワ島の都市。

名前が似ているので、"小江戸"のようなネーミングなのかとおもいきや、
実は正式な表記はYogyakarta(c.f.ジャカルタはJakarta)
発音ももともとは"ヨグヤ"カルタ。
元々、インドネシアは(旧宗主国)オランダ式のアルファベット表記。
ヤ行は"J"で綴る。
これを英語式に発音した時に、奇遇にも音が似てしまったとのこと。
地元では、もっぱら"ジョグジャ"の愛称で親しまれている。

そんなジョグジャは歴史・文化が豊かなことで知られる古都
日本で言うと京都と例える人が多い。
というのも、ジョグジャはクラトン(王宮)が今日にいたるまで連綿と続いており、
その繁栄とともに、洗練された芸術文化が発展してきた都市だからである。
最も有名なのがその遺跡や史跡の数々。
市内のクラトン宮殿やタマンサリはもちろんのこと、
やはり多くの観光客を惹きつけるのが、ボロブドゥール寺院と、プランバナン寺院。

    ボロブドゥール寺院


   プランバナン寺院

その他、ジョグジャを代表的する文化といえば、
バティックと呼ばれるろうけつ染め、銀細工、影絵劇、ガムラン音楽、ラーマヤーナ・バレエ等。

    バティック染め工場を見学。柄一つ一つに意味がある。


プランバナン寺院園内の野外ステージを使った
ラーマヤーナバレエの公演。
夜風に吹かれて見る舞台は一際気持ちがいい。
とにかく、文化芸術に触れる場には事欠かず、
とても、豊かな街である。
京都の「雅」な雰囲気がこれになぞらえられるのにも納得。
   *実際京都とは姉妹都市らしい。

そんなジョグジャは先に触れたとおり、ジャワ島に位置するのだが、
ジャワ人は日本人は似ているとよく言われるらしい。
Javanese are like Japanese but more relaxed
Japanese are like punctual Javanese
来る前に偶然話したジャワ人の人もいっていた。
その最たる例は、礼儀作法と敬語体系。
ジャワ語はおろかインドネシア語が一言もわからない私には具体的に説明できないのだが、
日本語の敬語がおそろしく複雑なのは言わずもがなだが、
ジャワでもその宮廷文化の影響で、大変厳格な敬語のしくみがあるらしい。
日本語でいうところの、尊敬語・謙譲語・謙遜語のような区分けがあり、
それぞれ、音が全く違うことは稀ではない。
日本語で、「食べる」に対して、謙遜語 の「頂く」と謙譲語の「召し上がる」
の二つがあるというようなことである。
(冷静に外から見ると、こんな複雑な敬語体系はすごく特殊である。
外国人だったら、なぜ、Taberu ItadakuMeshiagaru になるのか意味がわからないだろう。
私だって意味がわからない。)

数日たりきの滞在だった私には、これ以上の比較は難しいが、
滞在中に見聞きした人に限って言えば、
日本文化と親和性が高いという評価には納得できるものがあると感じた。
(それが、果たしてインドネシア性なのか、ジャワ性なのか、ジョグジャ性なのかはわからないのだが)
まず、アメリカのポップカルチャーにどっぷり浸っている
ご近所のフィリピンなどと比べて、
インドネシアはその傾向は薄いと感じた。
(繰り返すがジャカルタの状況はまた違うかもしれない)
音楽といえば、かかっているのはもっぱらJustin BieberにTaylor Swift,
女の子のファッションといえば、ピタッとしたタンクトップに美脚ジーンズ
男はLakersのバスケシャツ、
という光景は少なくともジョグジャにはない。

じゃあ、今やアジア域内で一世を風靡するKPOPが至るところを埋め尽くすかと
いうとそうでもない。
最近仕事で、アジアの女性の美意識についての調査を目にする機会があったのだ、
ASEAN6ヶ国の中で「美容、といったときに憧れる国はどこか」という質問に対して、
韓国を抑え一位だった唯一の国がインドネシアだった。

なんというか、一言で言うともっと地味なのだ。
ティネイジャーたちをとっても、
こう、きゃっきゃっしながら、でも少しシャイなかんじがすごく
日本のJKぽいのである。
例えば、インドネシアで今流行っているものの一つに「自撮り棒」がある。
これは友人もしくは彼氏/彼女と揃って写真を撮りたいときに、
カメラやスマートフォンを装着して前にかざすことで、
楽に自撮りができるという、優れものである。
ちなみに「自撮り棒」とは私が勝手につけた名前。
これが、とにかく至るかしこに出現していた。

あとは、最近はいわゆる日本でいうところの"肉食系女子"のようなボキャが流行ったり。
「ミニスカ×ケバい化粧×男を狩猟している」女の子を
総称してチャベチャベアン(=唐辛子女子)と呼んでネットではこれを揶揄ったイラストなどもでまわっているとか。
でも、こういう表現が生まれること自体、一歩引いた立ち回りが”スタンダード”だとされている一つの証拠だと思うの。

顔だけワントーン薄いのは厚化粧だから

それから.....
今回のインドネシア、私は初めて東南アジアのムスリム・マジョリティーの国!
国内がムスリム・マジョリティーであるどころか、インドネシアは世界一のムスリム人口を擁する国である。その中東圏との比較に興味があった。
今回は、そこまで徹底して宗教的側面を観察したわけではなかったけど、
一つ強く印象づいたことは、宗教的慣行と女性の社会進出が共存していること。
インドネシアで見る女性は女の子も含めそのほとんどが基本的にスカーフ(インドネシア語ではジルバブという)をかぶっているのだが、その風貌そのままにバイクをブイブイ飛ばしていたりするのである。
これはインパクトが大きい光景だった。

中東圏ではかたや最も厳しいワッハーブ派のサウジでは女性は車を運転することが法律で禁じられている。サウジの例は極端であるにせよ、少なくとも私が言ったエジプトやモロッコでは百歩譲って車はあってもバイクを乗り回す女性など見たことがない。
それから、ジルバブ以上に顔を覆うスカーフ類はみかけなかった。
インドネシアにもジュマ・イスラミーヤなど一部に過激派というのはいて、
私の想像では街中でみかける衣服ももっとグラデーションに幅があるかと思っていた。
逆に、動きやすい伸縮性ジルバブや、日差しのつばつきジルバブ、いちいち巻かなくてもよい被り式ジルバブなど、活動しやすく工夫されたものがよく目についた。
なんというか、実用性を非常にかねているのだ。

    ジルバブ屋さん。一番手前が伸縮性素材、奥のオレンジや緑は日差しつき。


インドネシアにおけるイスラームの歴史的広がりについては全く詳しくないのだが、
私の数日いた印象では、インドネシアの女性の方が信仰と利便性を区別しているのでは、と感じた。要は、信仰上の敬虔深くとも、かならずしもそれのために生活上の利便性を代償にはおかないということ。特にそれが衣服などそれ自体が倫理的本質を大きく問わないものについては、実用性を損なわない範囲で慣行しているのかなというのが、印象。
では、これは単にインドネシアの方が、「信仰が薄い」ということでは?
と問われそうだが、私はそういうことではないと感じた。
なぜなら、中東では一般的に女性はスカーフを初潮を迎えたときから着用する人が多いが、
インドネシアでは幼稚園児の年齢から制服としてジルバブを着ている子がとても多く驚いた。
また、ファストフードの飲食店にまでお祈りスペースがあったり。
宗教的な信仰・慣習はそこまで色褪せてはないのだろうと感じた。
アジア圏のイスラームの方がよりPragmaticなのか、これについては是非専門の人に伺ってみたい。


さて、考えてみれば、海外"旅行"は一年ぶりだった。
最後に行ったのは卒業旅行の南米だ。
ジョグジャに行ってみて、いかに異国を旅することが恋しかったかに気がついた。
本当にただただ当たり前のことなのだが、
海外出張は仕事だ。
その国をほとんど知ることもなしに帰ってくることの方が多い。
とてもとても狭く守られたカゴの中で決まった場所で決まった人と面会して、
その外はほとんど見ることができない。
初めて出張したインドでは目が飛び出るほどの高級ホテルと、先方のオフィスと
その間を移動するチャーター車がわたしの滞在の全てだった。
私がその一週間のあいだに知ったインド要素はインド料理と、協業先だったインド人パートナーくらいしかない。インドには行ったとはいえ、口が裂けても”インドを知っている”なんていえないと思った。

だから、ほんの少しでもジョグジャに住む人の生活が追体験できたことがうれしかった。
特に、インドネシア式リキシャ―、ベチャの心地よさと言ったら。
人力でゆっくりゆっくり(pelang-pelang)風を切りながら、移動するのはとっても癒された。
坂になったらバテた漕ぎ手のおじさんに「一回おりて」って言われて、
三輪車を手で押すおじさんの横で一緒に歩いたり。
深夜までやってるフルーツの露店でいいマンゴスチンをお兄さんに選び抜いてもらったり、
Warung(屋台)や、(三輪式の稼働屋台)で朝食食べたり、軽食つまんだり。

改めてお守りをしてくれた友人に感謝。私もまた東京でせっせとリキシャーこぐぞ。


















2014年3月29日土曜日

Après un an....

一年がたった。
去年、着慣れないスーツに腕を通したあの時から見えていた景色と、今と何が違うだろう。

一年間終えた今私が感じているのは達成感とは少し違う。

まずは安堵。自分が逃げ出さなかったこと、潰れてしまわなかったこと、今ここにたっていること。

次に納得、理解。
人は就職して、就労生活を始めることを「社会に出る」という。
一年間前のわたしには、その表現がピンとこなかった。学生であるわたしは今まで「非社会的」であったのか?

でも、一年たった今わかる。わたしは自分が想像していた以上に自己本位な環境にいた。

6年間守られた箱庭にいた自分は社会がどういう仕組みでまわっているのかやはり理解していなかった。

社会は労働と契約、就労と報酬、組織と規律で駆動されていることを実感した。そして、学生はやはりそのロジックに身を絡められないところにいる。

一年前、入社したころ、研修が大嫌いだった。意味を考えさせまいとするルールに溢れていたから。「ルールに従うというのがルール」とある日言われて吐き気がした。そんなの全体主義だと思った。わかっている、考えすぎなことは。

現場にはいってからはPower(権力)の本質を知った。今までろくに部活社会にもいたことのない私はだいたい地位の違いみたいなものを理解していなかった。「自分がされたくないことをしない」というのは人間関係の基本だと思っていたし、双方向に与えるものがある互恵的な関係が良好な人の繋がりだと思っていた。

でも、それは対等な人間関係、またはそれを許してくれる人との上下関係のみの話だと気づいた。遅い。それは知っている。
上下関係というのはもっと有無を言わせない。大義のための理不尽は日常だ。発言力、人権を向上させるためには、Powerをつけなければいけない。

これは私の部署の話でも、会社のはなしでも、日本社会のはなしでもないと思う。私があまりにもナイーブだったのだ。

大学時代、政治学徒としてマルクスとか、アーレントとか耳にして、わかったつもりでいても、私のなかで、それは実はフィクションだったのだろう。肌が吸い込む日常じゃなかったのだ。


それから、「価値」についても学んだ。企業の中で私を判断するのは「価値創造」という基準だ。それも相対的な。就活のころから少しは気づいていた。自分も市場の商品だということを。わたしのわかりやすい価値は語学だ。それは理解した。他者との差を明示的に示しやすい特性だし、明確な情報量の増加や、コストカットに貢献する。都合の良い通訳になるなんて嫌だ、内実でなくツールでしか評価されない、そんなことを言っている場合ではない。自分が何をしたいかじゃなく、自分の評価される技能はなにか、を考えて戦略的には生きなければならない。居場所はきっとあるものでなくて、作るものだから。

一年を終えて、私の目はきっとキラキラ輝く希望の塊じゃないし、すこしくすんでいて、でもきっと一年前よりもあるがままの景色をみていると思う。写真集に溢れる綺麗なシーンの切り取りに頭をうずめていた一年前に比べ、いまは現実の混沌を歩いている。外に出てみる景色はめちゃくちゃで、暴力的だけど、生を感じる気がする。

本の虫、やっと外にでれました。まだ、その破壊的なエネルギーに慣れているほんの途中です。







2014年3月25日火曜日

Changeになろうとすること

Be the change you want to see in the world.

とは言わずとも知れたマハトマ・ガンジーによる名言である。
私は最近この一句の示すところの大切さを切に感じている。

かの非暴力不服従にてインドを独立に導き、植民地主義で断固としたNOをつきつけたマハトマ先輩の言葉とあり、この一句の"change"も"world"もひどく大きなことのように感じる。

しかし、この一句はごく日常の場にもその芽を潜ませていると、というのが最近の気づきだ。


私が働くようになって一番ナンセンスだと思う考え方の一つに「辛い体験の継承」がある。新人、若手がなかなかキツい思いをしているとき「俺/私のときはもっとキツかった」とその発生源たる本人に言われることがある。

自身も大変な思いをしたし、それに意味があるとは思わないが、自分だってそれに耐えたのだから、お前もその洗礼を受けて当然だろう、というその言い草に私は納得できたことがない。

もちろん、中にはその仕事をする上で本当に不可避についてきてしまう困難だってある。ただ、上の世代が自分以降がその辛い体験をしないことに対して不公平を感じているだけならば、ここまでナンセンスなことはない。

自分が辛かったのなら、なくてもいいと思ったのなら、それは自分を最後の犠牲にしたいと私は思う。自分からその悪習に「change」をつきつけ、クルッとかえることで、誰かにとっての「world」は住みやすくなるかもしれない。

「社会」だけでなく、目の前の「人」をきちんと見ることができるとはそういうことだと思う。でなくばシステムの思考停止の1ピースになってしまう、誰しも。そんなのごめんだよね。

un weekend fermenté


今日はお味噌を大豆から作った。
味噌はパックをあけたらそこにあるものとして育った私は改めてあれが豆からできているものだということに少し驚いた。ツルツルに煮上がった大豆を押してつぶして、押してつぶして。互いの境を取り除くように。粒と他の粒の違いがわからなくなるまで。





手のひらいっぱいに掴んだそのマッシュド大豆に力をこめ、味噌びつめがけて投げ入れる。パンっ、ペタリ。

仕上がりは11月。味噌が一人前になるまでは少し長い。

あの褐色のイソフラボンファンタジーを次に開けるとき、自分が何を考えどういう生活をしているのか今は想像がつかない。

でも麹菌たちが、酵素たちが、ツボの中で躍動して、ぐんぐん育つように私もそれまでに自分のいろいろをゆっくり熟成して、つるんとした粒から、コクある味噌になりたい