2016年1月13日水曜日

Book of Mormon

ロンドン、ウェストエンドでBook of Mormonを鑑賞してきました。2015年、サントラにはまった作品No.1! ずっと生を鑑賞できる機会を探していたミュージカル。




Book of Mormonは控えめにいっても、モルモン教とアフリカの途上国を馬鹿にした作品だ。そのあらすじはこんな具合。

「若い頃、世界に飛び出し、2年間の宣教に派遣されるモルモン教徒。若きモルモン2人は、希望を胸に楽しみに赴任地の発表を待つ("Two by Two")。しかし、2人が行くことになったのはウガンダ。任地の村では民兵がのさばり、8割の人はエイズ患者だった("Hasa Diga Eebowei")。そんな中、熱心に教えををとくも、モルモンの信仰がウガンダの人々に何も響かないことに気がつく。また、説明しながら、"後世では信者一人一人に惑星がひとつもらえる"、"エデンの園はアメリカのミズーリ州ジャクソン群だった"等、盲目的信じてきた教典の言葉にも疑問の雲が覆うようになる ("I Believe")。2人はウガンダの人々の生活に直接響く言葉を考えるとともに、自らの信仰とも向き合う」

私は最初このあらすじを読んで全くと言っていいほど、惹かれなかった。偏見に満ちている気がしたし、下品だと思った。一方この作品は強豪を抑え、2011年にトニー賞9部門にノミネートのセンセーションを巻き起こしている。

「そんなに人気ならやはり光るなにかがあるのでは?」

と出来心でサウンドトラックを聴き始めたが最後、すっかりハマってしまった。ミュージカル本編を見る前から音楽にハマるなんてはじめてだった。

つまり、このミュージカルは,どうしてなかなか音楽が良いのである。
本作が「人をバカにしていない!実はもっと深いメッセージが!」
なんて擁護する気はさらさらない。しかし、音楽を聴くと、本作が嘲笑や皮肉はこめていても、誹謗中傷することが目的ではないことがわかる。これはストレートプレイでは成し得ない演出だ。その後音楽プロデューサーは「アナと雪の女王」の作曲家であると聞いて、深く深く納得した。相当な敏腕であることはいうまでもない。

ユーモアと、差別・イジメは紙一重である。その2つの間に線を引くのは、無知・無関心だ。扱う対象について、事実誤認や虚偽に基づく偏見を広めたり、本質的には関係ないのにも特定の社会的特徴と結びつけたり(e.g. xx教徒は皆暴力的だ、など)することは無知や無関心からくる行為だ。それは瞬時に相手と自分に線を引いてしまう。しかし、Book of Mormon に出てくる主人公はなんとも可愛らしいのである。観客は彼らを遠ざけるどころか、愛されキャラとして、大事にしたくなる。公演がはじまってから、今に至るまで、主要キャストや関係者のところにはモルモン教徒から一通も抗議文は届いていないそうだ(その後、オラフの声としてブレークした、助演Elder Cunningham 役の Gad はインタビューで 「稽古をしてるときは、”この公演がはじまったら、いつか刺される”と思っていた」と笑いながら答えている)。

私もこの劇を知ってからはモルモンについてもっと興味が出た。先日なんと家のそばで2人の若い宣教派遣中の信者に会い、チラシをもらったときは「うわーーーー!本物のモルモン!」とちょっと嬉しくなったくらいだ。実際、モルモンの教会はしばらくすると、この劇のヒットに完全に乗っかって、パンフレットの広告欄を買って、"Now you've seen the play, the book is even better!"というキャッチまで載せたくらいだ。また、無知からくるただの下品な作品にならぬよう、プロデューサー2人は、とても綿密なモルモンについてのリサーチをした上でこの台本を書いている。彼らはこれをユーモアとして成立させるためにも、虚偽は書かないことを徹底していたそうだ。あくまで、モルモン教徒の教えからの興味深い部分の引用で本作を成立させている。誤った内容を書くことでユーモアが損なわれないように細心の注意を払っていたと。

それから、キャストについて少し。本作はそのストーリーやノリがとても、アメリカンなゆえ、観賞前はロンドンキャストだとどのような印象になるのか、興味と不安が半々くらいだった。実際、イギリス人がやるのと、アメリカ人がやるのとでは、「信心深い若者」のイメージが違っていて面白いなと思った。イギリスキャストは、みんな色白、もやしっこ、神経質そうな感じがすごい。内輪で盛り上がるあの雰囲気も含め、オタクっぽい。一方、オリジナルのアメリカ版の演出のモルモンの青年はもっと過度に健康的で活動的。イメージ的には、ファストフードのCMやスポーツジムの広告のあの、目が爛々としていて、笑顔すぎてちょっとこちらが引く、みたいなかんじ。どちらもそれぞれの国での「宗教に没頭する青年」のイメージを反映しているきがして興味深かった。ロンドンは、Elder Cunningham役の方が、Elder Priceに比べ歌も演技も抜群にうまかった。あの、多動性オタクのかんじが本当にツボにどハマり。主演のElder Priceは、どうしてもBW初演と比べてしまい、先に述べた彼の健康的にラリったかんじの演技と圧倒的歌唱力を知ってしまうとなかなか、それには及ばなかったかな。嬉しい驚きは、5年前にWicked でエルファバ役をみて素晴らしい!とおもった女優を今回、主演女優としてみれたこと。そうして、言わずもがなだが、みんな演技が抜群にうまかった(顔芸もすごい)。あんなに会場が揺れるほど観客が笑うミュージカルははじめてだ。


と、ここまで言った上で再度述べるけれど、本作はやはり高尚な作品ではまっっったくない。簡単にいえば、歌うクレヨンしんちゃんレベルのユーモアである。ミュージカルファンよりもお笑いファンに進めたいくらい。

しかし、結局人の溝を埋めるのは小難しいディスカッションよりもユーモアの方が力強いと思っていたりする。宗教や信仰という難しい話題を扱いながらも、スレスレのバランスでメッセージをコミカルに伝えたプロデューサーと作曲家は本当に只者ではない。真似できるものではないし、すればただただ大やけど負うような、綿密で大胆な作品である。自分の日常に「やってらんねぇ!」とおもった時の処方箋にしたいミュージカルだ。


オープニングナンバー "Hello"

"I Believe"

2015年12月14日月曜日

Chicago

今年のミュージカル納めはChicago。シアターオーブの気合いの入った2015年ラインアップの締め。去年来日が決まった時から楽しみにしていた公演。






Chicagoは多くの人と同じように映画をみて初めて知った。ゼルウィガーの刺すようなかっこよさにしびれた。曲はもちろん全部知っているし、中学からずっと聴き続けてる。

舞台のChicagoはやはりその派生系である映画とは違った。舞台はもっと生臭い。

映画Chicagoは絶妙におしゃれだ。やりすぎず、力をグッと抜いて、シックにまとめてくる。女優の投げる視線、控えめな照明、綺麗な衣装には高級感がある。しかし、Chicagoは酒とジャズに溺れ、欲に駆られた女囚のはなしだ。ミュージカル版の女性たちはもっとその汚さを乱暴に突き出してくる。Cell Block Tangoではそんなお上品にとどまってなんかいない。男を殺めた自分の罪状を噛み付くように声をあげて正当化する、ダンスも心臓が鼓動を打つように衝動的だ。髪も乱れていれば、衣裳も挑発的だ。

むしろ、舞台全体に妖しさを醸していのは男性のアンサンブル。透けたトップスやはだけた上半身にはハットを乗せている。名と役がある女性と違い、彼らは全て匿名、あくまで女性を崇め、立てる存在としている。女性が急なら、男性は緩だ。身体をくねらせながら、ゆっくりフロアを舐めるように舞う。

この良さが最高に出たのがRazzle Dazzle 。正直映画版ではなんてことない曲と思っていたのだけど、男性の振り付けがとても良かった。あと何と言っても、ミラーボールや銀紙を降らす、ようなチープな演出が絶妙だ。舞台だったらもっといろいろやることもできるだろうに、敢えてその安さをだしているのが、ロキシーとヴェルマの目指す大衆劇場の空気を表現していた。

Chicagoの演出はとてもminimalistだ。使う大道具(ほぼ小道具に近い大きさだけど)も椅子くらい。あとは銃、ステッキ、ハシゴしかないのじゃないだろうか。バックダンサーから裁判官まで何役もこなす演者もずっとスケスケの衣裳のままである。衣裳も、人も、大道具も変わらないのに、その何もない真っ黒な舞台で全てを魅せてみせているのが本当にすごい。

そしてChicagoで忘れてはならないのは音楽の素晴らしさ。最近のミュージカルはオケボックスを舞台裏隠してしまうことも多いが、Chicagoではむしろ舞台の「上」中央、一番いい位置にオケが設置されている。ピアノを除いてはほとんどが一つの楽器につき1人だし、ソロも多い。そう、Chicagoではミュージシャンもキャストなのである。指揮者は途中セリフも入るし、最後カーテンコールではMCも務める。シロップのようにどろりと甘美なメロディー、スパイスのようにピリリとエッジの効いたリズム、観劇ファンでなくともジャズを聴きにくるだけでも十分に楽しめるのがChicagoだ。

そしてそして、last but not least、 キャストだ。
今回の来日で一番注目されたのがやはり、シャーロット・ケイト・フォックスだろう。名前に聞き覚えがなくても、朝ドラ、マッサンの妻エリー役の女優といえばわかる人は多いのではないだろうか。はっきりいえば、観劇ファンからすれば、舞台の実績がほとんどない彼女の主役への抜擢は観劇ファンからすると、「日本での話題作りだな」という印象をうける。日本はまだ芸ではなくて「ヒト」の人気で客を呼んでいる。海外公演の方が芸のレベルが高いのに、人が入らないのはそのせいだ。しかし、幕間で席を立った時に思った、「シャーロットのロキシーはこれとしてアリだな!」。ロキシーはヴェルマとは違う。元々虚弱で甘えったれで、果てしなく男に依存してる。そんな彼女が自分のチープな名声によって、キラキラ、クルクル回るのをシャーロットはよく表現していた。ロキシーはかっこいい必要はないし、痺れるようなキレと自立心を持ってる必要はない。経験が浅いことを割り切り、逆手にとった「未熟で自己陶酔したロキシー」はとても清々しく、エロティックなロキシーからのアルターナティブは好感が持てた。

そして、Amra-Faye Wright。シカゴのヴェルマといえば彼女。年齢を検索して驚いた、55歳!空気をピタリと止めるようなキレと若さには出せない貫禄。15年もこの役を演じきった彼女にしか出せない圧倒的自信。それなのに、まだ毎回即興もいれているらしい。信じられないエンターテイナーだ。だから。10年以上やっていても、人はまだ彼女のヴェルマを観に行くのだろう。彼女のシカゴを観れたことはとても幸運だった。

Chicagoで締めくくる2015。ジンは冷たく、ピアノが熱いジャズフロアのように、来年も緩急がピリリとついた年になりますよう。



2015年11月17日火曜日

Foster your marbles -パリ同時多発テロをうけて-

J’envoie tous mes condoléances aux victimes de l’attaque qui s’est passé à
Paris pendant le weekend, aussi qu’aux autres victimes ailleurs y compris
Beyrouth, le Burundi, la Syrie, qui souffrent à leurs coins du monde.

It aches that yet again, one of the places that I hold dear to my heart had to suffer as it did.

私の周りの聡明たちな友人たちがこの数日で色々な考察を綴っていて、どれも私の拙い言葉よりも理路整然と物事を整理していると思う。だから、ここで私はあえて理ではなくて、情で語りたい。いま、ネットというバーチャルな空間だけでも吹き荒れている衝突にあえて、三人称ではなくて、一人称で話したい。

この2年間で、これまで私が育ってきた国の全てではテロが起こりました。そう言われると驚かれるかもしれない、どんな危険で激動な人生を送ったのだ、と。

まず、この言葉を発した時、聞く人はどこを思い浮かべるんだろう。

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アルジェリア(2013年・ガスプラント人質)
タイ(2015年・バンコク・エラワン)
オーストラリア(2014年・シドニー・マーティンプレイス)
フランス(2015年1月/11月・パリ)

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このリストをみると、納得する人の方が多いのかな、私には分からない。慣れる?慣れることなんてない。
朝起きてつけたテレビをみて、私は毎度のごとく、「信じられない」と思った。

涙もでなかったし、拳が怒りに震えることもなかったけど、胃腸がギリギリするくらいに絞られるようだった。

暴力そのものに対してもそのなのだけど、それ以上に自分にとっての「日常」がビリビリ破られる気持ちになるからだ。だから、何度体験したって、どんなにテロが起きそう、と予見されていても、胃腸か絞られるような辛さは変わらない。
そして、それを契機として、溢れるヘイト、阻害、排除、団結、糾弾、それがもっと怖かった。暴力に続いて瞬く間に引かれていく、「we」と「they」。それが「じぶんごと」として怖かった。私はどの国にも外国人として滞在したことがある。あわせて10年これらの国に流浪してきた。they の刃がいつ自分向けられてもおかしくないと思ってしまう。そして、もし仮に日本が戦争を始め、「団結」していったときに、「あんなどこで育ったかも分からないやつは敵国のやつだ」と日本でだって、いつその求心性のレトリックで排除されてもおかしくない。大袈裟でしょうか?

でも、他国や、日本の歴史でだって、これが起こりうることだということを私たちに示している。

パリに祈ることはできても、国旗を掲げて団結することは私には辛い。これはもしかしたら、伝わらない感覚かもしれないけれど、私にとって、フランス、日本、アルジェリア、オーストラリア、女、〇〇社員、〇〇区民、そんな括りはそれぞれ「私」といういれもの中に入っているビー玉のようなのです。

私が「日本」というおっきな袋にたくさんの人と一緒にビー玉としてガラガラと詰め込まれているのではない、自分の方がいれものなのです。




だから、自分の中のガラス玉がカンカンと激しくぶつかって、耳を刺すように響くのはとてもつらい。だから、胃腸がねじれる絞られたような気持ちになる。

*大好きなイラン系アメリカ人のコメディアン、Maz Jobraniが、自身のコメディーで ”think about it, part of me likes me, part of me hates me”
と言っていた。わかる。私でそうなのだ、多重国籍やハーフの人の気持ちを想像するとやりきれない想いになる。

トリコロールの追悼バナーを巡る議論も実は両方とも一人称の気持ちから来ているんではないかと私は見ていて思う。トリコロールを付ける人はきっと、パリの事件をもって想起する個人や、場所、思い出、情が「わたし」としてあるのだろう。それを懐疑的に捉える声も、トリコロールを掲げることで、その国旗の外に押しやられる世界の他のどこかが強く思いにあるのだと思う。

だからこそ、私はそれを一人称・二人称のままに感じて、示してほしいと願って成らない。

国旗のもとに、自分や想いを寄せる相手をおっきなビー玉袋にいれて、袋と袋に繋がれない境をつくってしまったり、その中身の多様性、個人がみえなくなってしまうのは悲しい。バナーを批判的に語るひとも、客観的に語りすぎて、自分を袋にいれてしまってはもったいない。「じぶんごと」として語れば国旗を載せている人と根幹は同じなのではないかと私は思う。

外から中がみえない麻袋では、中に入ったガラス玉一つ一つはおっきな袋を体積として成す一部でしかない。それを、上からハンマーで袋叩きにしても、なかでどのビー玉がガラス屑になってしまったかはわからない。全部がただの破片と化す。

わかるのは、何でできているのかよくわからない麻袋がしぼんだということだけだ。

そして、それこそがテロリストがはじめとする、憎悪をかきたてる人たちがしようとしているコトそのものではないの?

一つ一つは割るのを躊躇してしまう珠を、押し込めて見えなくすることで、匿名な塊にすることで、抹消することについて無感情になる。空爆やテロも同じ。あの人数、一人一人を武器を持たず自分の手だけで殺められるとは思えない。

だから、周りをいっしょくたに袋に押し込めるようなこと、自分を袋に入れてしまうことをしたくない。自分の様々なtrait/特性、情を感じる括りというのを、自分の中に納めていたい。

自分という袋のなかにそれを全部納めて、共存することをみて、
自分と同じガラス玉をもっている人、自分とは違う珠を持っている人をみつけて、それを互いに指さしながら、「自分」として接してほしい。

Let yourself be the biggest unit for all that you belong to. Don’t let
yourself be owned by a larger unit

(あなたが属する全てについて、あなたが一番大きな単位になってほしい。他のもっと大きな単位の何かに自分を所有されないでほしい)

私は、エゴなことに自分の体験の積み重ねでしか、物事は考えられない。

人間の想像力とはそんなものだ。

ニュースでどんなことを目にしていても、結局自己体験や近親の人の体験が一番強い。

「あんなこと、報道しているけどね、〇〇さんがこないだ行って来たらね、全然大丈夫だったのよ」こんなことを聞かないでしょうか?

だから、自分を大きく柔らかい袋として、たくさんのビー玉を詰め込んでほしい。

目の前で起きることが、They や Weから、I の問題になると、人はもっと腹、胎を傷めて考えられる。

だから私は袋を作るよりも、 ビー玉を増やしていきたい。

*今年は、上記ほとんどの街に仕事で久しぶりに再訪する予定だ。1つ1つのガラス玉に映った自分を見直して、そっと自分にしまい直したい。

2015年11月12日木曜日

すごい10周年 in 日本武道館 -Chatmonchy-

チャットモンチーはわたしの青春だ。
音楽なしじゃ生きていけないのに、雑食なわたしにとって、「好きなアーティストは?」と問われて答えられる名前は多くない。

でも、そんな時に大抵答えるのは「チャットモンチー」だ。新譜が出るのを知った上で、待ちの態勢から全て買っているのはチャットモンチーだけ。

アーティスト(特に音楽は)、概して完成された世界観をギュッと握って、研いだものを作品として私たちに投げてくる。チャットモンチーの曲は少し違う。独特なざらざら感があると思っている。なんというか、彼女たちの進行形の必死さ、辛さ、それでも走る一生懸命さ、それが全部舌触りで感じられる。ボタンを押したら出てくる缶ジュースではなくて、その場で勢いよくミキサーにかけられていく生ジュース。果肉の甘きも酸いも、一緒に噛み締めて、果肉のゴロゴロを感じながら、それに共鳴して涙が出そうになる。

特にドラムの久美子さんが脱退したあとのチャットモンチーはそれはそれは痛々しいくらいに必死だった。もともとスリーピースバンドで最低限の音で曲をつくっていたのに、そこから、ツーピースになってしまった。ベースだったあっこちゃんはドラムに転向し、ギターとドラムだけで、かき鳴らす音楽。叫ぶように歌う歌。アルバム「変身」が出たのは2012年暮れでほぼ私が大学院を卒業するころ。そこから会社に入って、私ももがいてもがいている時期で、ライブでツーピース時代の曲を聴きながら涙しそうになった。


積まれた段ボール
あれもこれも捨てられない
言ったばかりの「さようなら」
今さら後には引けません

夢が夢でなくなる東京

おいしそうな花のミツ
私はまだまだ世間知らず
甘い匂いに負けそう

   -「東京ハチミツオーケストラ」- 


留学の時よく聞いていた曲




コンタクトはずして 酸化した現実

今日も見慣れた景色 無性に不安になる
あったかい布団這い出して 扉を開けた
ネオン輝く 虹色のメリーゴーランド

ジェットコースター 走り続けた

ヘッドライトの先に歪むレール
上がっては降りての 胸の高鳴り
ジェットコースター もう止まらない
ヘッドライトの先に潜むカーブ
振り落とされないよう 振り落とされぬよう

    -「真夜中遊園地」ー


ランナーズハイになるしかないときはこの曲がお守り



いつもゴールを探してる

道はばっちりナビってる
いまどこ走ってるかって?
知らない そんなこと

いきなり荒野で立ち往生

行先 再度検索中
ナビは明日を指している
壊れてる?なんなのよ!

景色を変えたいのなら

歩いて 走って スキップして
とにかく前へ とりあえず前へ
目指すは誰かの背中でもいい

  -「レディナビゲーション」-


劣等感とあきらめと、辛い!!がいっぱい詰まってるのに、
それでもポジティブで、でもやっぱり頑張る!を高らかに笑顔で歌い続けるチャットモンチーはやっぱりずっと応援歌。

真夜中遊園地

サポートを迎えるようになって、新しいアレンジになったLast Love Letter もとても好き


今回はうたってなかったけど、この曲もとてもいい

2015年10月24日土曜日

ソウル-アジアの観劇ホットスポット-

弾丸でソウルまで旅行してきた。
目的はただただ、観劇すること。
これを伝えると大抵反応は二分する。

—え、韓国に観劇.....?韓流ファンだっけ?

—えええぇーーー!うらやましいぃ!

観劇ファンの間で韓国のシアターの充実っぷりは実は割と有名だ。

今回のそもそものきっかけは、とても好きなフランスのミュージカル2作品(Roméo et Juliette, Notre Dame de Paris)と、ナイトショー(Crazy Horse Paris)がすべて同じ時期に来韓していることを知ったからだ。



どれも目と鼻の先まできているのに、ソウルまでで、東京までは来てくれない!
今でこそ、渋谷のHikarieにシアターオーブができて、今年に限って言えば1ヶ月に一度は海外カンパニーが来日しているが、基本的に日本にはあまりミュージカルが来てくれない。理由は簡単だ。客が入らないから。

バレエやクラシックなんて絶えず何かしらが来日していて、クリスマスころになると、決まってどちらも毎年チャイコフスキーをやっていたりするのに、それでもお客さんは絶えない。

しかし、シアターオーブにくる公演は大抵1ヶ月前、下手すると当日でもチケットはとれる。例えばこの間、オーブに来ていた、PIPPIN。あの作品の来日は本当に事件であった。
これは、ミュージカル・オタクの戯言では決してなく、ファンではなくても、世間的にレジェンドな作品なのだ。テニスを常に追ってなくても、錦織圭くんに会えるのはすごいとわかる、そんな作品。公演の一ヶ月半前、「しまった、ちょっと乗り遅れた!」とおもって取れた席は最前列だった。私は、心臓が止まりそうに感動したのだが、(詳しくはPIPPINの観劇レビュー)、当日会場を見渡すと、一階が埋まるのがやっとで、二階は数列しか人が入ってなかった。びっくりして、悲しかった。「みんな、なんで来てないの!」

そんなわけなので、日本には来日公演がなかなかきてくれない。

しかし、韓国は違う。
ミュージカルが大衆エンタメとして根付いている。
私と旅友がチケット発券の列に並んでいると、
横には当日券を求める人がたくさん並んでいた。

日本では、ミュージカルは計画的に観に行く人しかほとんど売れない。
当日買うのは、突然暇ができたミューオタだけだ。
しかも、席には家族連れがいる。
日本では、女性か中年夫婦がほとんど。

「あ、今日◯◯の席あいてるからいこーよー」

こんな具合に映画のようにミュージカルが楽しまれてる場所を、
私は他に、ロンドンとブロードウェイしか知らない。

*しかもすごくマニア受けなフレンチ・ミュージカルでこの集客・・・。考えられない。



そして、そして忘れてはいけないのが、韓国のローカルキャストのレベルの高さ!!!!
ソウルは決して外から呼んできているだけではない。
地場の舞台俳優がものすごくレベルが高くて、層が熱い、いや厚いのだ。

私たちが観てきたのは、In the Heights。ブロードウェイで2008年、トニー賞で13の部門にノミネートされた作品。


When You're Home / In the Heights (韓国キャスト)


このミュージカル、ラップが多くて、油断すると簡単に「ダサく」なってしまう。
(実際には日本キャストがやったときはコケた)
エキストラや脇役だれに歌わせても、抜群に巧い。
歌い方もミュージカル唱法。
高音までちゃんと地声で歌いあげてくれるし、発音もしっかり。
実は、K−POPスターも何人かでているのだが、片手間にやった感じではなく、ちゃんとギアチェンできている。

ストリートダンスが多い作品だったのだが、
バキバキの筋肉のキャストがこれまた、一流のダンスを踊ってくれる。
日本のキャストももちろん踊れるのだけど、韓国の方が、「男っぽい」かんじが個人的には舞台としては迫力があって、好きだ。



そう、先に見たノートルダムも実はダンサーは半分以上がローカルキャストだった。
舞台は基本的にコストダウンが難しい。
一番コストがかかる「人」を現地調達できることで、遠征公演も出費も抑えられる
(もちろん、韓国キャストを安い労働力といっているということではなく、海外から人を連れてくるのは、渡航費もかかるし、いわばフルタイムに「身柄を拘束する」ための人件費もかさむ)
そして、

これも韓国が海外公演をたくさん呼んでこれる理由だと思う。

・観劇人口が多い(ファンやオタクじゃなくても観る)
・市場が大きいので、いい人材が集まる(舞台一本ですみたいな役者が多い)
・ミュージカルに向いてる人材が集まるので、レベルの高い自前ミュージカルができる
・いい人材が集まるので、ローカルキャストで海外公演を補完して、招致できる。

これがまた「観劇人口が多い」に跳ね返って、いい循環ができているのではないか、というのが私の思うところ。

市場原理を考えると、なかなか入らない舞台に投資をすることが難しいのは、
いわば、当たり前のことであり、そうするといい人が残ってくれないのはどこの業界も一緒だろう。
特に、舞台は人気がなくてもコストをカットすることが難しい。
高くしようと思えば舞台装置や衣装など青天井だろうけども、
安くすることには限りがある。

舞台セット、衣装、上演をする施設、どれも安っぽさを感じないレベルで留めるには
安価にはできない。
すると、やはり削られてしまうのは人件費なのだろう。

Crazy Horse Paris こちらはミュージカルじゃなくセクシーショーだけれど。
綺麗なお姉さんたちの素敵なダンスを堪能


ただ、頭の体操をここで止めてしまうと、韓国の舞台人気の真意には迫れないと思っている。
そもそも、上記の良循環のスタートである、

「観劇人口が多い(ファンやオタクじゃなくても観る)」

の理由がなぜだかが一番ひも解かなきゃいけない、ミステリーの肝だと思う。
日本のミュージカル劇場にいくと、
そのほとんどが「観劇ファン」で、特に宝塚、四季など特殊な舞台ともなると、
観客は「ヅカ・ファン」「四季ファン」と、とても狭くコアな人たちになってくる。
年齢は30-50代の女性が半分以上。

しかし、ソウルの劇場は、
親子連れや、カップル、若い男性のお客さんも多い。
当日券も買う人も多い(日本では固定層のファンがいくので、当日駆け込みでフラッと行く人はとても少ない)

周りの知人・友人に聞いてみても

「ミュージカルたまに行くよー」

と、映画とディズニーランドの間ぐらいの感覚で
馴染みがある。作品名をいっても有名どころは知っている。


ここからが、推論でしかないのだけど、
私は、これが駐屯米軍の影響ではないかと思っている。
そう思う一番の理由は他の米軍駐屯先にも同じような現象がみられるから。
例えば、ASEAN内ダントツでブロードウェイや米国音楽界に逸材を輩出している国といえばどこだか、ご存じだろうか。フィリピンである。

知っている人にはおなじみのミス・サイゴンの、オリジナルキャスト(キム役)のLea Salongaは
ブロードウェイで最も成功したアジア人女優だけど、彼女はフィリピン系(その後も、Les Misérables のÉponine, Fantine, Aladdin のJasmin, Mulanと輝かしい経歴。最新の作品ではWWII中の日系アメリカ人訳)
ご存じの通り、フィリピンはASEAN圏で最も大きい米軍拠点の一つであり、
ローカルなポップ文化にかなり深くアメリカ文化が浸透している。

Lea Salongaのうたう On my Own (Les Misérablees) 圧巻です。

もう一つ、身近な例が沖縄。
沖縄は、その人口規模を考えると驚くほど、日本の音楽界で活躍する人が多い。
特に90年代は顕著だ。
さらに、関東圏でもやはり横須賀周辺はJAZZの震源といわれるなど、米軍を中心とする音楽文化の広がりというのは無視できないものがある。

私が今回足を運んでいたBluesquare theatreも漢江鎮(ハンガンジン)も、
駐屯地がある、梨泰院(イテウォン)の隣駅だ。

ミュージカルとの関連性でいうと、
つまり、米軍駐屯エリアでは、米兵文化の広がりから、
洋楽カルチャーが醸成され、Barなどで洋楽を流したり、歌ったりする需要が生まれるとともに、
洋楽を聞く文化も大衆の間で一般的になったのではないかと。
現に、世界の音楽マーケットではJ-POPよりもK-POPの方が成功を収めているが、あれは音楽的に洋楽と親和性が高いからだと私は思っている。
つまり、需要側でいうとソウルの人は歌詞の意味が完全にわからなくても洋楽を聞くという文化が形成され、結果音楽的に洋楽への傾倒ができたとともに、言語面でも外国語で歌う舞台を鑑賞することに抵抗がなくなったのではないか。

そこで、まずは海外からの来韓公演を望む声が生まれ、人気があがり、
そこから派生する形で韓国語・韓国キャストで海外作品を制作するように。
音楽人材の観点からも、すでに洋楽的な歌唱の需要があり、しかも舞台俳優としても十分に稼げるため、人材にも困らないのではないか。

だから、日本も沖縄に劇場があったら、
実はもっと集客が望めるんではないか、なんてソウルから帰国後思ったりした。
(このあたりは、沖縄出身の日本のミュージカル女優、知念里奈あたりに聞いてみたいところ)


そんなわけで、
今アジアで熱いシアター都市はソウルなんです。
福岡に行くくらいの気持ちと予算でいけてしまうのでこれは癖になりそうです。

次に狙っているのは韓国キャストのNext to Normal
繁忙期のオアシスの逃避行をもくろみ中



2015年10月9日金曜日

The dead end of a very public secret -ルック・オブ・サイレンスレビュー


虫が寄生している木の実がコロコロ転がるのを見ながら、息子を虐殺された母は言う「早く出ておいで。いるのは分かっているんだよ。出てきてくれなきゃ、本当にいることが見えないじゃないか」

インドネシアの田舎の村の公然たる秘密。木の実がコロコロ転がるのだからそこにあることはわかっている。でも、それはこじ開けられることなく、重い沈黙で鍵がかかっていた。

前作アクトオブキリングについて私はこう書いた
「後悔と賞賛、嘔吐と歓声を往き来する彼らに精神の崩壊をみた。」(Act of Killing レビュー)

見終わった直後、今作は一作目に比べてナラティブが薄いと感じた。一作目はそれまで得意げに虐殺を語っていたマフィアボスが「自分は罪人なのか?」と涙ぐみ、暴力を再現した場所で嘔吐しているシーンで終わる。そこに狂気と正気が絡まりながら堕ちていく様を感じた。ルック・オブ・サイレンスでは加害者の語りをあと、賞賛もなければ糾弾もない。なにを描きたいのか、それは一作目と同じなのか、それとも違うのか、スッとはわからなかった。でも、タイトルを改めてみて、そのなにも生まれない重苦しい空白こそ本作の核ではないかと気がついた。

虐殺を語ったあと、アディは加害者をただただ見つめる。虫の音、扇風機の風が響く部屋。インドネシアの蒸し蒸しとした湿度までが観ているこちらの肌を這うような感覚になる。その語りを通して、確執は解決せず、納得も生まれず、赦しは訪れない。

公然たる秘密を開けたところにあったのは沈黙という空白と、どこにも行かない行き止まり。そのどうしようもないやるせなさこそがこの2作目の向けた眼差しだった。木の実が地に落ち、芽を生やすにはまだまだ時が必要である。

The dead end of the very public secret

ルック・オブ・サイレンス


虫が寄生している木の実がコロコロ転がるのを見ながら、息子を虐殺された母は言う「早く出ておいで。いるのは分かっているんだよ。出てきてくれなきゃ、本当にいることが見えないじゃないか」

インドネシアの田舎の村の公然たる秘密。木の実がコロコロ転がるのだからそこにあることはわかっている。でも、それはこじ開けられることなく、重い沈黙で鍵がかかっていた。

前作アクトオブキリングについて私はこう書いた
「後悔と賞賛、嘔吐と歓声を往き来する彼らに精神の崩壊をみた。」Act of Killing レビュー

見終わった直後、今作は一作目に比べてナラティブが薄いと感じた。一作目はそれまで得意げに虐殺を語っていたマフィアボスが「自分は罪人なのか?」と涙ぐみ、暴力を再現した場所で嘔吐しているシーンで終わる。そこに狂気と正気が絡まりながら堕ちていく様を感じた。ルックオブサイレンスでは加害者の語りをあと、賞賛もなければ糾弾もない。なにを描きたいのか、それは一作目と同じなのか、それとも違うのか、スッとはわからなかった。でも、タイトルを改めてみて、そのなにも生まれない重苦しい空白こそ本作の核ではないかと気がついた。

虐殺を語ったあと、アディは加害者をただただ見つめる。虫の音、扇風機の風が響く部屋。インドネシアの蒸し蒸しとした湿度までが観ているこちらの肌を這うような感覚になる。その語りを通して、確執は解決せず、納得も生まれず、赦しは訪れない。

公然たる秘密を開けたところにあったのは沈黙という空白と、どこにも行かない行き止まり。そのどうしようもないやるせなさこそがこの2作目の向けた眼差しだった。木の実が地に落ち、芽を生やすにはまだまだ時が必要である。