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2017年3月11日土曜日

La La Land

89回アカデミー賞であらゆる意味で話題をさらった本作品。ここまで前評判で話題になってしまったこと、また「ミュージカル映画」という謳い文句を背負っていたことで、(ミュージカルファンとしては)妙に構えたスタンスで観に行ってしまったことは否めない。シンプルに観後感を表現するとすれば、映画としては、工夫に凝らされたチャーミングな作品、ミュージカルとしては・・・、いやミュージカルとしては評価できない、と思った。




まず映画としての話をしたい。私は同監督の出世作『セッション』は観ていないのだが、ララランドはなんといっても、デミアン・チャゼルの抑えきれないほどの音楽への愛がこもった作品だ。ジャズをそれこそ「恋人のように」愛する主人公セブの眼差しや、鍵盤に転がる指から溢れる想い、物語の随所で流れ始める音楽、弾ける笑顔で踊るミア。2人が視線でかわす感情の網を縫うように流れるメロディー。「そんなことだからジャズは死にかけている」と言うセブの必死さは、音楽が好きで好きでたまらない監督の切な想いをまさに表現していて、その人間くささがとてもよかったとおもう。「説明なんてできないんだ、とりあえず聴いてくれ」という音楽バカらしさが滲み出ていた。

同時に、ララランドは技巧に凝らされた作品でもあると思う。最も顕著なのはライトワークである。ここまでざっと目にした批評のなかではほとんど触れられていないことが不思議なくらいララランドは照明にこだわりがある。音楽に注目が行きがちだが、この作品のdramatic effect、これを「舞台」たらしめているのはむしろ光の使い方だとおもう。リアルをそのままに映しているかに思われたシーンに急にスポットライトが落とされ、主人公の浴びる光以外、真っ暗になる、その誇張されたdramatic effectこそ、この映画がリアルと戯曲を行ったりきたりする効果を生んでいる。本当だけど、どこか嘘、なこの作品の印象はそんなところから来ている。このライトワークとうまく相乗効果をもたらしているのが、衣装。現実だとしたら、バカバカしくみえるほどに鮮やかでradiantな衣装が舞う様は画に華を添え、ライトワークをより鮮明にしている。エマ・ストーンの演技の素晴らしさも相まって、色鮮やかな衣装で次々と画面を舞う彼女をみるためだけに観にきてもいいなと思ってしまうところさえある。

さて、ではミュージカルとしては、どうか。はっきりいって、これはミュージカル・ファンにとってはミュージカルではないのだ。良いか、悪いかとかではなくて評価するのが難しい。なぜか。シンプルにいえば、この作品が戯曲として表現されていないからだ。これはあくまで「戯曲風」なのである。

どういうことか。
ミュージカルは突然歌ったり、踊ったりすることにその特徴、もしくは違和感があると良くいわれる。前者は全く持ってその通りだと思う。しかし、違和感を覚えるかというと、見始めると意外と毎度毎度突っ込みたくなる類の妙なかんじはない。サッカーを見はじめてから「どうして手を使わないだろう」と気にならないのと同じで、一度そういうルールのものだとして観はじめるとそこは不問となる。

しかし、ララランドは違和感だらけだ。踊りはじめるたびに、なんで「この子たちは急に踊り始めたんだ!」と思うし、主人公が歌いはじめる瞬間、照明がおち、スポットライトが当たると、毎度「なんだ、リアルを描いていたのではないのか」、と感じる。ルールが一貫していないのだ。つまりバットを持っていたと思った次のシーンで足でボールを蹴りはじめているような感覚を覚える。現代ミュージカルのなかには、いわゆる「日常っぽさ」にシームレスに馴染むものも手法もたくさんあるのだが、この映画が引用し、用いているのは、50〜70代のいわゆる古典作品。これ見よがしな演出が多い作品ばかりを使っていることもこの唐突さを強調する。

ララランドはこれを全て「あえて」やっている。これは最後のシーンに顕著に表れる。オルタナティブな筋書きを寸劇風に流す最後のシーンでこの作品が示しているのは、

「人生って戯曲、でも戯曲ほどうまくいかない、それが人生でもある」

というメッセージではないか。そんな日常の危うさ、戯曲以上に時にドラマチックで、でも戯曲よりも残酷で陳腐なこともある人生をあえて違和感もまじえながら銀幕に映すのがこのララランドという作品だ。そう、その陳腐さがまさに映画としてスクリーンに映されているところもポイントだ。ララランドはその踊りと歌が一見示しているかのような底抜けなハッピーさは持っていない。むしろ、セブが弾くピアノの旋律のように、胸にひっかかる、拗らせた不協和音が全体を通してながれている。でも、だからこそ、この映画は踊るし、歌う。そして、その行為をさりげなく、自然にしようとはしない。泣きたくなるような悲痛さをあえて戯曲かのように示していることも含めて魅せた映画だとおもう。

だから、この映画について、「ミュージカルってやっぱり微妙」とか、「ミュージカルも案外いい」と言われるとなんとなく複雑だ。これは、ミュージカルのように戯曲を戯曲としてみるものではないし、それがゴリゴリと放つ違和感を泣き笑いしながら見て欲しい、音楽バカな監督がそう願う作品なのではないかとおもう。


2016年2月12日金曜日

Begin Again




お茶をゆっくり飲みながら、アルバムを一枚聴いたような鑑了感のある映画だ。

ドラマの中のドラマを劇中劇というならば、この作品は歌中歌だ。

曲を聞かせながら、アーティストが曲をつくる過程をなぞるようにして奏でている。
だから劇中歌はただの劇中歌ではない。登場人物が自ら喉を震わせて歌っており、彼らのその時の心情を旋律に乗せている。だから、予期せぬタイミングで、不意に涙を流しそうになる。辛くて、悲しくて、笑みをほころばせるような心情描写が耳にそっと吹かれるから。Onceと同じプロデューサーというのは耳をしてもすぐにピンとくるが、舞台がダブリンからニューヨークに移ったからだろうか、より救われる、清涼感のある人間関係を描いている。

音に対するこだわりは、画のシンプルさからもうかがえる。曲は全てプレ・レコーディングで録ったものかぶせており、雑味を絶っている。ボーイフレンド役の新人アーティストはMaroon5のボーカル、Adam Levineをつかう徹底ぷりだ。ビジュアルな刺激を極力控え、耳で魅せている。また、高貴な役に定評があるキイラ・ナイトレイにどこにでもいそうな健康的な衣装をまとわせるところが逆に贅沢さを感じるのもビジュアルなシンプリシティーの特典だ。
泣きながら少し笑って、自転車で走りたくなる、そんな映画。

2015年10月9日金曜日

The dead end of the very public secret

ルック・オブ・サイレンス


虫が寄生している木の実がコロコロ転がるのを見ながら、息子を虐殺された母は言う「早く出ておいで。いるのは分かっているんだよ。出てきてくれなきゃ、本当にいることが見えないじゃないか」

インドネシアの田舎の村の公然たる秘密。木の実がコロコロ転がるのだからそこにあることはわかっている。でも、それはこじ開けられることなく、重い沈黙で鍵がかかっていた。

前作アクトオブキリングについて私はこう書いた
「後悔と賞賛、嘔吐と歓声を往き来する彼らに精神の崩壊をみた。」(Act of Killing レビュー)

見終わった直後、今作は一作目に比べてナラティブが薄いと感じた。一作目はそれまで得意げに虐殺を語っていたマフィアボスが「自分は罪人なのか?」と涙ぐみ、暴力を再現した場所で嘔吐しているシーンで終わる。そこに狂気と正気が絡まりながら堕ちていく様を感じた。ルックオブサイレンスでは加害者の語りをあと、賞賛もなければ糾弾もない。なにを描きたいのか、それは一作目と同じなのか、それとも違うのか、スッとはわからなかった。でも、タイトルを改めてみて、そのなにも生まれない重苦しい空白こそ本作の核ではないかと気がついた。

虐殺を語ったあと、アディは加害者をただただ見つめる。虫の音、扇風機の風が響く部屋。インドネシアの蒸し蒸しとした湿度までが観ているこちらの肌を這うような感覚になる。その語りを通して、確執は解決せず、納得も生まれず、赦しは訪れない。

公然たる秘密を開けたところにあったのは沈黙という空白と、どこにも行かない行き止まり。そのどうしようもないやるせなさこそがこの2作目の向けた眼差しだった。木の実が地に落ち、芽を生やすにはまだまだ時が必要である。


2014年6月22日日曜日

Laurence Anyways



図らずして二度目の鑑賞をした。
一度目はあまりにその世界観に圧倒されてしまい、鑑賞後もその感想を同伴した友人とうまくシェアできなかった。その一回目の感想がこれ


----------【一回目レビュー】--------------
見終わった直後、なんだか腑に落ちない映画だと思った。監督自身もLGBT当事者であるこの映画、このようなジャンルは対外「特殊」だと思われがちな彼・彼女たちの集団をいかに「平凡」に描くか、その他社会に共鳴してもらうかに注力しているものが多いように思う。だが、この作品は違う。ところどころに出てくる主人公の妄想世界・情緒の具現化、非凡でビビットな色使いに衣装。そのどれもがあえて観客を遠ざけている気がした。突き抜けた感性・価値観をあえて強調する、あの共感を寄せ付けない感覚は独特だった。映画の原点はやはり共感メディアだと思うから。

中盤からは、映像美として楽しむのが自分にとっての正しい見方だとかんじながらみていた。

監督はまだ若い。ケベックの片田舎出身だし、決して今まで自分のアイデンティティーを背負っていくのは楽ではなかったのかもしれない。彼の尖った感性が研ぎ澄まされた作品だった。それに圧倒されてしまったのかもしれない。
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二度目の観賞後の感想は、
"これは映画であるというより文学だ"。
やや、雑な言い方だがこれに尽きる。

一度目の鑑賞のとき、私は上記の通り、監督の表現方法ゆえに、この映画に突き放されるような印象をうけた。
"私たちはあなたたちとは違うんだ!"と叫ぶような。

二度目に映画をみて、エキセントリックに映った映画の中の視覚世界は、現実というよりも心象風景という要素が強いのだと理解した。ストーリーを知っているゆえに、一度目よりもスクリーンに映る造形や色彩に視点が集中した。

文学に擬えたのはこのこと。文学作品でイコンやメタファーを拾って行くように観ると監督の意図したことがよりキャッチできるきがした。

一番目を引いたのは色。
冒頭車内でロランスとフレッドがイチャイチャしながら"楽しみを半減するものリスト"をつくっているとき。彼女たちは色の意味を確認していく。

赤は怒り、情熱
黄色はエゴ
茶色は性やエロチシズムの対局
ピンクとベビーブルーは健康に反する色
ダークチョコレートは自己破壊への一歩

その色への意味づけが二度目の鑑賞でとても気になって、頭のすみに置きながら残りは鑑賞した。
そうすると、鮮やかに彩られた画面がロランスとフレッドの心情の揺れ、その機微がをいっぱいに描きなぐったキャンバスであることに気がついた。

若くて、ナイーブで矛盾に満ちた二人の感情は言葉や表情じゃとても映しきれない。その混沌、激しさ、非合理性、surrealでナマなかんじが色のぶつかり合いとして表現されていた。

ロランスの受賞お祝いディナーの黄色い背景
フレッドの最初は赤く、最後には茶色い髪
常に黒い服をきたロランスの母とフレッドの妹ステッフ
インタビューでピンクとベビーブルーのスーツを着たロランスは、"不健康上等、ゲテモノでなにか不満でも?" と言うがごとく、marginalityをまとって歩くプライドを放っていた。

特に黒は社会規範やconventionalityを強く推し示す色だった。"ダークチョコレートは自己破壊への一歩"。溢れる自我を丸め込む箱。

混乱していたフレッドがむかったダンスホールは暗い部屋に真っ黒なスーツの人が溢れる。仮面のようなメイクをした群衆の中にフレッドは視線を浴びながら入っていくも、その中にもまれ、呑まれていく

数年後に見る所帯持ちのフレッドは、かつて、大嫌いだった"自己破壊へのはじまり"たるダークチョコをかじっていた。

衣装のディレクションまで監督自身が担当していることには意味がある。


黒がそんな色だから、2人の憧れの場所が"île au noire-黒の島"というのとても象徴的。彼女たちは自分たちでありつづけながらも、"社会"に受け入れられたいと願った。カミングアウトしたロランスはîle au noireに行きたいと言う。彼女はそのままの自分として学校という規範の鏡のような場にいつづけたいとねがった。しかし、結局Marginalityにおしやられ、夢と描いた2人の島行きもなくなってしまう。

再会した2人はそんな"真っ黒な島"に色の雨を降らせる。背景もセットもどんよりグレーが続く中、抱き合う2人に色とりどりのランドリーが降り注ぐ様は画一的な世界に一気に感性が注がれるかのよう。それは、まだ"ただの男女"だった頃、2人が路地の真っ黒な洗濯物の前で抱き合うシーンとの対でもある。

はじめて観たときこの映画を私は現実世界として受け取ろうとし、消化不良を起こした。でも、二度目の鑑賞を経て、これは文学であり、叙情詩だときづいた。実体や言動よりも、その中の渦巻く感情が核であり、画面はその具現化である。言って見ればこれはロランスとフレッドの感情が全てであり、その心象風景である作品だ。マージナルな2人がバケツいっぱいのエモーションをお互いに、モノクロ世界にぶちまけあったはなしなのだ。

  -Non sire, ceci n'est pas une révolte, c'est une révolution

 -いいえ、陛下これは反乱ではありません、革命なのです



おまけ
各国版のポスターのちがいがとてもおもしろい



カナダver
   

アメリカver

   

スペインver



イギリスver



ドイツver



香港ver

2014年6月13日金曜日

Act of Killing



これは政治犯罪についてのドキュメンタリーである以上に人間の心理を描いたノンフィクションだと感じた。いままで、戦争モノ、ジェノサイドモノはそれなりに観てきたが、一番ガツンと殴られた作品だったかもしれない。

一番驚くべきことはこれが"スクープ"じゃないこと。加害者は世に知らせたいと願って映画の被写体となったし、"残忍さ"を正確に描写することにこだわった。

でも、観つづけるに従って、それは彼らにとって精神を崩壊の手前で支えるのつっぱり棒であるとわかった。自己肯定を何度も何度も塗り重ねることで、ふと襲う罪の悪寒を飲み込んで飲み込んで。
しかし、シーンが変わる度に言うことが変わる彼らのSanityはすでに縺れきっていた。

後悔と賞賛、嘔吐と歓声を往き来する彼らに精神の崩壊をみた。

2014年6月3日火曜日

チョコレートドーナツ/any day now


私はこの映画を親子の愛ではなく、gay rights の映画として観た。だから前評判が謳うように、溢れる涙を拭う映画ではなかった。なぜなら、闘った彼らは結局求めたものを得られず、あの映画の後も闘い続けなくてはいけないから。その苦しさや不条理を思うと手放しに感動はできない。

でも、感涙しなくてもこの映画はとてもいい映画だとおもった。親権という題材を使って、同性愛者が晒される偏見と不条理をとても強いメッセージ性をもって描いている。ゲイ、ドラッグ、身体障害、などキワモノになりかねない要素ばかり取り入れてるのに、観客をとり残さず、きっちり話に気持ちを乗せていく。

それはやはり、マルコ役のIsaacはじめ役者陣の演技がすばらしいから。演技を演技と感じさせず、しかも個性の強い要素をうまく"日常"としてbelievableにしてるのはすごい。セクマイの権利という多くの人が当事者ではない(マジョリティーである)話をしているのに多くの人を泣かせられる映画というのはそれだけで評価に値すると思う。

ps 原題より邦題の方が良いと思ったのは久しぶり。