2015年1月12日月曜日

Kinky Boots

はじめてブロードウェイにいって、Kinky boots をみてきた。
とにかく圧倒された。
ストーリーは老舗の革靴屋をついだ青年がドラッグクイーン(女装家のパフォーマー)との出会いを通して、女装市場向けのブーツを作り始めるという話。
設定が設定だけに、歌も、踊りも、何より衣装がとても派手でエネルギッシュ。
それがイギリスの片田舎をイメージした古臭いセットと絶妙に不釣り合いだ。(そして、それがとてもよい)

この話は社会不適合者のお祭りさわぎである。そう聞くと、とてもアングラな匂いがするのだけど、そうではないのだ。この劇はその社会との摩擦を高らかに笑いあげ、踊るその足のステップとともにエネルギーに発散していく。驚くほど、健康的な劇だ。ドラッグクイーンのover-the-top (やりすぎ)なあのかんじは吹っ切れていてとてもホッとする。あの 派手な出で立ちはそれこそ、自分たちの周縁性を全て余すことなく日の目にさらけ出すということで、"まだ、そんなこと言ってるの⁈ くっだらない!"と言わんばかりの自信である。それが本当に清々しい。

パフォーマーを題材にした作品なだけあって、ダンスと歌はそれはすごい。

作曲は True Colors で有名な Cindy Roper。80年代の音楽シーンを席巻したダンスミュージックのパンチがぴったり。ドラッグクイーンの話とあり、この作品はミュージカルには珍しく歌い手がほとんど男性。力強さが桁違いだ。打楽器のような音の波がお腹の底を震わせる。ダンスもとてもダイナミック。それを牽引するのがメインを張ってるLowla役のBilly Porter。自身もゲイの彼は自分自身を作品に重ね合わせていることもあり、目が醒めるような熱演だった。彼でなくてはこの作品は成り立たないと思うほど。

日本キャストではなかなか出来ない演目なので、ブロードウェイデビューの作品としては文句なしだった。
All hands together for the amazing Kinky Boots cast

2015年1月2日金曜日

星と縞の渦巻くなかで

仕事でアメリカにいってきた。
アメリカには去年の2月に初めていったのだけど、その時は12時間ほどの滞在だったので、ほぼ初めてに近かった。

私は帰国子女は帰国子女でもいわゆる「お登りさん系」である。というのも、パリ留学以外は東京がダントツで都会で、いわゆるロンドンやNY帰国ではないので、(ほぼ)初めての、しかも仕事でのアメリカ上陸はとてもドキドキした。

まず、着くや否や乗り込んだタクシードライバーは全力クリスマスキャロルを歌っている。私も最後は鼻歌で加勢していたけれど、あんなのドラマでの演出だけかと思っていた。パリやロンドンではタクシー運転手は悪態をついたり、雑談をすることはあっても、キャロルは歌わない。
そう、アメリカは何かにつけてドラマのワンシーンみたいなのだ笑。日本でも地方出身者が東京にきたときにこれを口にするけれど、まさにこの感覚なのである。

他にもブランチを食べてたら横に座ってたゲイのお兄ちゃんに「あらぁー、あなたのカメラちっちゃくてかわいいじゃないのー」って話しかけられたり。パリでは政治学の先生が実はゲイということがあっても、こんなカジュアルな絡まれ方はしない笑。

なんというか、「そんなの映画の中だけでしょ!ステレオタイプだよ!」と思うようなことを平然と全てやってしまうのが、アメリカである。

もう一つアメリカにいて感じたことがある。それはこの国が自分が大好きで大嫌いだということ。
よくも悪くもすごく自意識が高い。高すぎる。例えば、国旗。アメリカ人ほど自分の国旗をみにつけたがる国民を私は知らない。日の丸を身につけることなんて、あったとしても日本代表ユニフォームに腕を通すときにくらいだろうと思う。でも、アメリカ人はさも当然のようにStars and Stripesを着るし、普通のお店に特になんでもないときにも国旗がかかっていたりする。泊まったホテル(いわゆる東急インのようなチェーンだ)にジョージワシントンの肖像がかかっていた時には衝撃をうけた。ホワイトハウスに行くと、写真を撮る外国人観光客の横で、それと同じくらいのアメリカ人が官邸見学のために長い列をつくっていた。私は首相官邸からほど近いエリアで働いているが、見学ができたとしてもこれほどの列が日本でできるのは想像できない。国会議事堂だって、社会科見学の学生だけだ。自国の国家主席に向けられる関心の高さ、そこに見出されるカリスマ性をみると、アメリカは世界で最後の一国になろうとも国民国家神話を信じる国なのではないかと思えてくる。

一方、MoMaに行くと、アメリカのモダンアートは自国に対する痛烈な批判ばかりだ。現代アートはそのメッセージ性の高さから、社会批判を込めることは多い。多くは現代社会に対する風刺である。レディメイドと消費者主義の関係などその典型だ。しかし、アメリカ人のアーティストは他国以上に、「アメリカ」に対する批判を込めるのである。首を吊った男性の絵と牧歌的な風景を永遠繰り返す壁紙で”アメリカの汚点”を示すアーティスト、911とアフガン侵攻を痛烈批判したアーティスト・・・・etc

アメリカは葛藤と自己矛盾の繰り返される衝突に悩み、そのエネルギーとともに歩みをすすめてきている。国家、国民を強く感じていないネーションには上記のような反応はありえない。何か起こったときにそれは、「政権」や「政治」の問題となる。国民が個人として国家から自分を切り離している限り、それは「自己批判」にはならない。同じように国旗というシンボルも自己統一化されない。

国家に対する敬愛も、それに対する嫌悪感も同じコインの表裏。

アメリカ合衆国という集合体・その神話に対する強い強い自意識から来ているのだろうと私は思う。そして、その葛藤とturmoilがアメリカの抱える矛盾であり、この国の推進力でもあるのだと思う。想像の共同体の一番の体現者なのかもしれない、アメリカ合衆国は。

それから、NYで休日、DCで仕事をしてみて感じたこと。それはアメリカが驚くほどに異種なものに対してオープンなことである。なんというか、私が1.5mに満たない童顔だろうが、アジア人だろうが、時に言葉に詰まろうが、話す中でほとんど決めつけた態度をとられないな、と思った。もちろん、これは大都市で且つハイクラスな国際市民(低賃金の移民だけじゃないということ)がいるNYとDCだったからということは多分にあるのだけれど、なんと言うのだろう、「すごく当たり前」に接することに慣れているのだ。

例えばフランスでは(すぐ比較にもちあげてしまうが)、とても好感の持てる店員さんやインタビュー相手でも、どこか「わー、なんか小さくても頑張っている子だわ。」という視線の混じった暖かさであることも多い。(それに問題はまったくないし、可愛がられるのは嬉しい)でも、アメリカは”サッと”一瞬ですべてを受け入れる柔軟性がある。対等に扱われるし、生半可な態度もなければ、手加減もない。
そのなんだか、フェアプレイなところはとてもアメリカらしく、とても好感をもった。

今年は気づけばたくさんの場所に訪れていたけど、一番つかみきれなかったのはアメリカだった気がする。矛盾とエネルギーと限りなく研ぎすまされた自己意識の国。

紅葉のDC。10-21℃もあって、意外と暖かかった。


地元で人気のカップケーキ店。ポップな店内がかわいらしく、Chaiもカップケーキもすばらしく美味しかった。
奥に見えるのが星条旗。さりげない色々なところにかけてある。

この露骨さってとてもアメリカっぽくて、笑ってしまった。
経産省の建物。「仕事が一番ですよ!」っていうすごくシンプル横断幕

アメリカの現代とポップの代名詞。ウォーホル。全く同じものが限りなく生み出されるいま。

日本未上陸のバーガー店、Shakeshack.
アメリカにしては小ぶりでバンが甘くて、食べやすい。
バーガーショップなのに、ミドルクラスの中年の仲間が仕事終わりのご飯に使っていたり、
中流家庭が家族の外食につかっているところがアメリカ的である。
バーガーに対して、チープでジャンクなイメージが薄い。