先週、知り合いのツテで日本舞踊のお教室の発表会にお邪魔してきた。
舞台芸術が好きと公言しながら、私は恥ずかしいことに日本の古典はまだ疎く、とても少しずつ観賞の幅を広げているところ。
日本舞踊をみるのも初めてでした。
これを読んでいる方は日本舞踊に対してどのようなイメージをお持ちだろうか。
私は、舞踊というその呼称のまま、それは「ダンス」であると理解していた。
例えばそれはタップダンスや、ブレイクダンス、ジャズダンス、ベリーダンスのようなものと同じ円の中に私の頭の中に区分されていた。
ダンスの定義自体はむずかしいところだけど、
私は舞台芸術の中でも、記号が多様される、抽象性が高いジャンルという風に理解している。
あえてややこしい言い方をしたけれど、
言いたいことは、ダンスは多くの場合、まずVerbal(言語をもちいた)コミュニケーションを用いない。
「花びらが舞う」ことを伝えたいとして、
それを身体的に表現するのがダンスである。
これは伝え方の話。
加えてそもそも伝えたいコトも抽象的であることが多いと思う。
例えば、「人魚として生まれた女の子が、父親に反対されるも、地上の世界に憧れ、海をでて地上の生活を謳歌することを夢見る」(人魚姫)
ではなくて、
「いま解き放たれる自由な私」(という感覚)を言葉を使わず身体性だけで表現する世界である、
筋、といういうより、核たるメッセージを伝える世界だとというのが私のダンスに対する捕らえ方である。
だから、日舞をみる前も
「春はあたたかで気持ちがいいですね」っていう気分の高揚を
身体で表現するのが日本舞踊の属する世界であるとおもっていた。
しかし、2演目くらい終わった時点で、予想だにしなかったものと日本舞踊が酷似しているとかんじた。
Perfumeだ。
そう、あのテクノ系ポップユニットのPerfumeである。
Perfumeを少しでも知っている人なら彼女たちの振り付けが、
とてもユニークであるのを知っているかもしれない。
リオの閉会式をプロデュースしたことでもしられるmikikoが手がける振り付けは、
手話なのではないかと思うほど、歌詞を具体的に表現する。
「時」といえば、カチカチ回る時計の針を表現し、
「前をみて歩く」といえば、横をむいていた首をぐっと前に回し、目を指して、足を踏む。
観ていると、日本舞踊もまさに驚くほどの具体性をもった振り付けだった。
波の間から出ずる月といえば、水平線を手でスッと引き、月にみたてた扇をゆっくりあげていく。
駆けていた娘が転ぶと歌うと、実際に倒れこむようにして、膝をつく。
非言語的な「感覚」を非言語のまま表現するというよりも、
言語的な内容を、なるべく、その言語を想起させる形で具体的な身体表現に転換して示す芸術であることがとても新鮮であった。
Perfumeとおなじく、歌詞世界をなるべく忠実に表現することを目指しているように感じられた。
さらに見続けると、もう一つ気に留まる点があった。
それは、日本舞踊の演目に筋がある、ということである。
昨年私は遅まきながらはじめて歌舞伎を鑑賞したのだが、
そのときは、その表現方法が芝居というよりも、舞踊に近いと感じた。
バレエにも「この動きは小鳥のような軽やかさを表現している」みたいないわゆる型があると聞くが、
歌舞伎も動きや所作がが記号化されていて、お唄の言葉を聞き取るだけで理解することは難しく、
その型の意味もあわせて、初めてwholisticな理解が得られるという印象であった。
その意味では、今回みた日本舞踊は想像以上に記号が多く、誌的であったので、
「では日本舞踊と歌舞伎の違いとはなんなんだろう」とはたと考えた。
舞踊と演劇、としてカテゴライズされてはいるものの、むしろ互いにもう一方の特徴に近い部分が見られ、
両者はとても似ているように感じられた。
後日、日本舞踊のお家の友人に尋ねると、
そもそも、表象方法という意味において両者に本質的な違いはないという。
元々は、日本舞踊とは歌舞伎をみていた裕福なご婦人方が、
自分自身もやってみたくなったことを契機としてできたお稽古事として発展してきたそうである。
つまり、歌舞伎と日本舞踊は単にちかいだけではない
歌舞伎から、日本舞踊が派生しているのだ。
目から鱗だ。
それこそ、私は歌舞伎の舞の部分を構成しているのが、日本舞踊、だと考えていた。
(私はそれこそ舞台をみる際いつも、ミュージカルを基礎としてしまうのだが)
歌舞伎という舞台中に、雅楽、長唄、日本舞踊、という芸術の構成要素があり、
それらを全部パッケージにした総合芸術であると捕らえていた。
ミュージカルに、ジャズ音楽とタップダンスとゴスペルが詰め込まれていることがあるように。
しかし、友人の話によれば、むしろ歌舞伎をよりシンプルにし、広く色々な人に開いたのが日本舞踊であると。
それは、両者は似るわけだ。
語弊を恐れずにいえば、日本舞踊はいわば長編小説に対する短編集、短歌に対する川柳のようなもので、
両者に本質的な違いはない。
日本舞踊はストーリーをもっているナラティブを詩的に紡いでいくものと知って、
それはラーマヤーナのようだとはたと思った。
ラーマヤーナは古代インドの長編叙情詩だ。
ヒンドゥー教の神話を起源としているが、現在にいたり、東南アジア、特にタイやインドネシアでも語り継がれ、敬称されてきた。
タイは熱心な仏教国だが、仏教の寺院にいくとながーい壁に
ラーマヤーナの物語が屏風絵のように描かれている。
各シーンが線でくぎられることなく、流れるように、
同じ人物と見受けられる人が少しの距離をおきながら登場し、
時空が緩やかに進んでいくその詩的世界は神秘的だ。
そんな叙情詩を表象する舞踊が、
タイやインドネシアにある。
ラーマヤーナ・バレエと、西洋式に呼ばれたりする。
言葉はつかわないものの、日本舞踊のように、
その詩的世界をナラティブとして紡いでいく世界がそこにはある。
横浜の、さかを上がった先にある能楽堂で、
くるりと翻るセンス、揺れる着物の裾、響くすり足の音を効きながら、
ドクっ、ドクっとビート音とおもに刻まれるPerfumeのダンスや
少し汗ばむ夜風の中、野外舞台でみたラーマヤーナに思いを馳せ、
繋がるその表象の世界に、その広さと緊密性に少しわくわくとしたのでした。
舞台芸術が好きと公言しながら、私は恥ずかしいことに日本の古典はまだ疎く、とても少しずつ観賞の幅を広げているところ。
日本舞踊をみるのも初めてでした。
これを読んでいる方は日本舞踊に対してどのようなイメージをお持ちだろうか。
私は、舞踊というその呼称のまま、それは「ダンス」であると理解していた。
例えばそれはタップダンスや、ブレイクダンス、ジャズダンス、ベリーダンスのようなものと同じ円の中に私の頭の中に区分されていた。
ダンスの定義自体はむずかしいところだけど、
私は舞台芸術の中でも、記号が多様される、抽象性が高いジャンルという風に理解している。
あえてややこしい言い方をしたけれど、
言いたいことは、ダンスは多くの場合、まずVerbal(言語をもちいた)コミュニケーションを用いない。
「花びらが舞う」ことを伝えたいとして、
それを身体的に表現するのがダンスである。
これは伝え方の話。
加えてそもそも伝えたいコトも抽象的であることが多いと思う。
例えば、「人魚として生まれた女の子が、父親に反対されるも、地上の世界に憧れ、海をでて地上の生活を謳歌することを夢見る」(人魚姫)
ではなくて、
「いま解き放たれる自由な私」(という感覚)を言葉を使わず身体性だけで表現する世界である、
筋、といういうより、核たるメッセージを伝える世界だとというのが私のダンスに対する捕らえ方である。
だから、日舞をみる前も
「春はあたたかで気持ちがいいですね」っていう気分の高揚を
身体で表現するのが日本舞踊の属する世界であるとおもっていた。
しかし、2演目くらい終わった時点で、予想だにしなかったものと日本舞踊が酷似しているとかんじた。
Perfumeだ。
そう、あのテクノ系ポップユニットのPerfumeである。
Perfumeを少しでも知っている人なら彼女たちの振り付けが、
とてもユニークであるのを知っているかもしれない。
リオの閉会式をプロデュースしたことでもしられるmikikoが手がける振り付けは、
手話なのではないかと思うほど、歌詞を具体的に表現する。
「時」といえば、カチカチ回る時計の針を表現し、
「前をみて歩く」といえば、横をむいていた首をぐっと前に回し、目を指して、足を踏む。
観ていると、日本舞踊もまさに驚くほどの具体性をもった振り付けだった。
波の間から出ずる月といえば、水平線を手でスッと引き、月にみたてた扇をゆっくりあげていく。
駆けていた娘が転ぶと歌うと、実際に倒れこむようにして、膝をつく。
非言語的な「感覚」を非言語のまま表現するというよりも、
言語的な内容を、なるべく、その言語を想起させる形で具体的な身体表現に転換して示す芸術であることがとても新鮮であった。
Perfumeとおなじく、歌詞世界をなるべく忠実に表現することを目指しているように感じられた。
さらに見続けると、もう一つ気に留まる点があった。
それは、日本舞踊の演目に筋がある、ということである。
昨年私は遅まきながらはじめて歌舞伎を鑑賞したのだが、
そのときは、その表現方法が芝居というよりも、舞踊に近いと感じた。
バレエにも「この動きは小鳥のような軽やかさを表現している」みたいないわゆる型があると聞くが、
歌舞伎も動きや所作がが記号化されていて、お唄の言葉を聞き取るだけで理解することは難しく、
その型の意味もあわせて、初めてwholisticな理解が得られるという印象であった。
その意味では、今回みた日本舞踊は想像以上に記号が多く、誌的であったので、
「では日本舞踊と歌舞伎の違いとはなんなんだろう」とはたと考えた。
舞踊と演劇、としてカテゴライズされてはいるものの、むしろ互いにもう一方の特徴に近い部分が見られ、
両者はとても似ているように感じられた。
後日、日本舞踊のお家の友人に尋ねると、
そもそも、表象方法という意味において両者に本質的な違いはないという。
元々は、日本舞踊とは歌舞伎をみていた裕福なご婦人方が、
自分自身もやってみたくなったことを契機としてできたお稽古事として発展してきたそうである。
つまり、歌舞伎と日本舞踊は単にちかいだけではない
歌舞伎から、日本舞踊が派生しているのだ。
目から鱗だ。
それこそ、私は歌舞伎の舞の部分を構成しているのが、日本舞踊、だと考えていた。
(私はそれこそ舞台をみる際いつも、ミュージカルを基礎としてしまうのだが)
歌舞伎という舞台中に、雅楽、長唄、日本舞踊、という芸術の構成要素があり、
それらを全部パッケージにした総合芸術であると捕らえていた。
ミュージカルに、ジャズ音楽とタップダンスとゴスペルが詰め込まれていることがあるように。
しかし、友人の話によれば、むしろ歌舞伎をよりシンプルにし、広く色々な人に開いたのが日本舞踊であると。
それは、両者は似るわけだ。
語弊を恐れずにいえば、日本舞踊はいわば長編小説に対する短編集、短歌に対する川柳のようなもので、
両者に本質的な違いはない。
日本舞踊はストーリーをもっているナラティブを詩的に紡いでいくものと知って、
それはラーマヤーナのようだとはたと思った。
ラーマヤーナは古代インドの長編叙情詩だ。
ヒンドゥー教の神話を起源としているが、現在にいたり、東南アジア、特にタイやインドネシアでも語り継がれ、敬称されてきた。
タイは熱心な仏教国だが、仏教の寺院にいくとながーい壁に
ラーマヤーナの物語が屏風絵のように描かれている。
各シーンが線でくぎられることなく、流れるように、
同じ人物と見受けられる人が少しの距離をおきながら登場し、
時空が緩やかに進んでいくその詩的世界は神秘的だ。
そんな叙情詩を表象する舞踊が、
タイやインドネシアにある。
ラーマヤーナ・バレエと、西洋式に呼ばれたりする。
言葉はつかわないものの、日本舞踊のように、
その詩的世界をナラティブとして紡いでいく世界がそこにはある。
横浜の、さかを上がった先にある能楽堂で、
くるりと翻るセンス、揺れる着物の裾、響くすり足の音を効きながら、
ドクっ、ドクっとビート音とおもに刻まれるPerfumeのダンスや
少し汗ばむ夜風の中、野外舞台でみたラーマヤーナに思いを馳せ、
繋がるその表象の世界に、その広さと緊密性に少しわくわくとしたのでした。
《日本舞踊・藤間流『長唄 -傾城』》
※03:18あたりから
《Perfume『Dream Figher』》
《ラーマヤーナ舞踊ーインドネシア・プランバナーン宮殿にて》