2018年11月19日月曜日

Hamilton という完全犯罪

ハミルトンをみてきました。
もう一度いいます。ミュージカル ハミルトンをみてきました。

一階のちょうど真ん中くらい。WEの劇場はこじんまりなのがとても好き
私はご承知の通り、重度の舞台オタクなので、「いつものことか」と思うかもしれないのですが、いや、今度ばかりは(オオカミ少年ぽい)ちょっとレベルが違うことなんですよ。

ハミルトンとは社会現象です。
舞台とかそういうことじゃないんですよね。
3年前トニー賞で全部門ノミネートされ、そのうち3部門以外すべて受賞した作品です。

これは例えれば、オリンピックの競泳で、
自由形、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、全ての泳法のすべての競技に出場して、
ほとんどで金メダルをとる、みたいな離れ業です。
はっきり言って意味が分からない。

Victoria Palace Theatre ロゴを見るだけで胸が高鳴る(だって3年も待ったんだもの)
交通整理のテープまでブランディング
さて、そんなハミルトン、
3年近く、のどから手が出るほど観た過ぎて、のどが裂けるかとおもうほど(大袈裟)観たい舞台で、且つこんな評判を3年間聞き続けると、もう期待は驚くほど上がるわけです。
しかし、この舞台の鑑賞体験はそんな天井をうつほどに上がりきった期待値をやすやすと越えてきたんですよね。
どこがすごい、とかじゃないんですよね。
自由形、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎで他を圧倒した泳者をみておもうのは、「すごい生き物が水を泳いでる」という。
舞台に隙がない。一つ一つすべての動きや演出が意味をもっており、考えつくされている。
妥協がなく、舞台のすべての要素に全力が投じられており、ある意味息をつく暇をあたえない舞台だ。
観初めて、4曲目ほどで、ゆっくり息をはきながら、自分が開始からそこまで、息を止めるようにして、張り詰めた空気に吸い込まれいたことに気づいた。
そしてその完成度ゆえに、ハミルトンは素晴らしい舞台であることを、電流のように全身で感じながらも、同時に泣くのは難しい舞台だった。
それを振り返りながら、私は不思議に思った。なぜなら、私はハミルトンのパフォーマンスをトニー賞でみながら、一節目からテレビ越しに涙を流したからだった。
そこにある圧倒的な違い、それは、この舞台の仕掛人である舞台作家Lin Manuel Mirandaだったのだとおもう。Mirandaは今日の米舞台界の圧倒的なカリスマだ。彼は、エンタメ界におけるグランドスラム、EGATP(エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞、ピュリッツァー賞)に最も近い人、といわれ、事実エミー以外を総なめにしている。彼がつくってきた舞台は、どれも脚本、作曲に加えて、主演は彼本人が必ず務める。ハミルトンの場合、初演のアレクサンダー・ハミルトンはMirandaだ。

しかし、彼は決して歌がうまいわけではない。クリエーターとしては一流なのだが、彼はその歌声で人を惚れ惚れさせるわけではない。どちらかというとこもった声で、高温はかすれ、ラップ曲では歌っているというより、叫んでいるようになることも多い。

しかし、彼の粗削りのパフォーマンスが、この舞台を不完全に完成させている。ハミルトンはアメリカ建国の話だ。オバマ政権の最後、次期大統領選のキャンペーンの勢いの中で、排外主義が台頭し、言葉のトゲが柔な肌にぐさぐさと刺さる日々の中で、自身もラティーノであるLin Manuel Mirandaが建国期のアメリカの、ツギハギでボロボロながらも必死だったころに希望を込めて書いたのがこの舞台だ。

私は最初Hamiltonという舞台を聞いたことがあるか?という言葉で冒頭このレビューをはじめようかともおもったが、投げかけべき質問は、むしろ、アレクサンダー・ハミルトンという人物を聞いたことがあるか?ということかもしれない。
私は彼を知らなかった。10ドル札にかたどられた彼は、通称Founding Fathers(建国の父)の中でも最も知名度が低く、ドル札でしかみたことがないという人がアメリカでもほとんどだったという。
開演とともに流れる曲、Alexander Hamiltonで語られる彼の生い立ちで、私たちは、彼がカリブの島で生まれた私生児で、母を亡くしたあとに、アメリカにわたってきた移民であることを知る。
そんな彼が一代にして初代財務長官に上り詰めたことに驚きながら、キャストは「みてろ、また一人移民が上まで這い上がっていくから(Another immigrant coming up from the bottom)」とうたう。

Im just like my country Im young scrappy and hungry (俺ら、この国<アメリカ>みたいに、まだ若く、ツギハギで、ハングリーだからさ)【My Shot
と叫ぶように声を張り、額から汗をツーっと流すMirandaと今のアメリカを生きるキャストたちにその言葉の真価を私たちは見る。Hamiltonは史実としては白人の人物もすべてカラード(Colored)のキャストをあえて登用していることで話題になった、ブラックのワシントンやラファイエット、アジア系のエライザ、そしてラティーノのハミルトン。アーサー・ミラーが『The Crucible(坩堝)』のなかで魔女裁判を使って、赤狩りに克明に抗議したように、HamiltonはそんなMirandaと彼が率いるキャストたちが、その歌とパフォーマンスを通じてアメリカの今に語り掛け、歴史に身を重ねて身を奮い立たせる舞台だ。Essentials of Migration Management 2.0 - Home
こめかみが切れるほどの必死さと、肌が震えるのほど当事者性がこの舞台を泥臭く完成させる。
そんな、英米キャストで見ることの違い、初演キャストと、その後のキャストでみることのコントラストを非常に考えさせられた鑑賞体験でした。

Miranda率いるトニー賞パフォーマンス

実際のパフォーマンスというと、前述のとおり、むしろ米国初演キャストよりも完成度は磨きつくされているくらいで、ただただ最高峰をみているなという感想につきる。
冒頭で、オリンピックの水泳種目のすべてを総なめにしたような舞台だということを述べたが、本当に、それを肌身でかんじるというか、ただ話題になったから、全てをとったのではなかったことがわかる。照明から、舞台セット、振り付けまでどこにも隙がないほどに考え抜かれている。無理矢理に一言で述べるならば、特に印象にのこったのは、緩急の絶妙なコントラスト。
例えばアンジェリカのソロ【Helpless】で、アンサンブルがダンスをピタッととめて、回転式の床をつかうことで、時を振り返る演出、
その後、戦友となる仲間に初めて出会うAaron Burr Sirのシーンでは、オーケストラがいきなりスッと消え、拳で机をダンダンダンとたたく音だけで歌うアカペラ

衣装やセットも引き算の仕方が一流。
セットも実は木製の枠組みがほとんどで、それをぐるっと囲むように二階バルコニー部分がある。その他目立つセットは椅子と机くらい、
衣装も多くのシーンは、薄いベージュのピタッとした軍服ぽい衣装でアンサンブルはほとんどそろえている。身体のラインを見せる、スキニーな衣装はPippinを彷彿とさせるところがあった。
椅子は振り付けの中でもとてもうまく使われており(特に【Yorktown】等)、作品を通じて、「権力の座」「Ownership」のシンボリズムとしてストーリーと絶妙に共鳴していた。
衣装が実は色のトーンをそろえながらも、何回も着替えを挟んでいることや、
セットもここぞというところで、効果的につかっているところに、
考えに考えつくされた引き算の美学があり、その精緻な時計仕掛けのようなアートに始終圧倒されていた。

セットの様子。二階から吊られた階段がシーンによってはパタンと降りてくる。床は三重の回転式
最後に、家に帰ってから、買ってきたパンフレットをニマニマしながら眺めていたときのこと。背表紙にいろいろなキャラクターのシルエットが描いてあるんですが、ひとつずつ、「これはワシントン、これはラファイエット」と追っていったとき、ふと指がとまる。
それはどうみても、額と額をよせているハミルトンと妻エライザのシルエット。
となると、あのメインロゴの左手を掲げているのは・・・?
そこでふとハッとして思わず「えっ」と声をあげてしまった。
このシルエット・・・・Burrなのでは?
Hamiltonの名と星を土台に迷いなく指を天に掲げているのは、この作品の"ヒーロー"たる主人公だとなんの疑いもなく思ってきた。

よくよく、見るとその顔の形も長髪のハミルトンではなく、短く刈ったBurrに酷似している。
背筋をスッと伸ばし、星の元に身を翻すのは、建国父ハミルトンではなく、彼を殺した政敵Burrなのだ。

パンフレット裏面にはキャラクターのシルエットが







Who lives who dies who tells their story…History has Its Eyes on You】
まさにその節と完全に呼応したそのシンボリズムの強さに心底おどろいた。
このシルエット一つをもって、舞台の解釈の深みをまた一つ重ねるその巧さに、改めてハミルトンというこの舞台の精到に計算つくされた完全犯罪を確信したのでした。

2018年11月15日木曜日

ようこそかしまし部屋へ

日本の民間企業から国連に転職して大きく変化したことの一つは女性率の高さだ。

あえていうまでもないことだが、日本はジェンダー後進国だ。昨年更新されたWEFジェンダー平等ランキングでも日本は(安定の)117位(過去最低を更新)。それでも、いまの日本の途上国開発の戦略的重点分野の一つはジェンダーだというのだから、やや驚いてしまうのだが(10位以内にがっつり食い込むフィリピンやルワンダにはむしろ習うべきところの方が多い気がする)、これについてはここではひとまず置いておくとする。

とにかく女性が多い。
国連全体だと38%。うちの機関についていえば47%程度いる。
そして特にこれは先進国×本部ということも影響しているだろうが、上から下までどの職階をみてもきちんと女性がいる。
むしろ管理職にこそ女性が多い印象さえうけるといってもいい。
現に4つある局のうち2つの局は女性局長、副事務総長(No.2)、統括室長(No.3)も女性、うちの局では、5つの部のうち3つの部も部長は女性。おそらく部長レベルでみるとうちの局にかぎらず、本部では過半数が女性だと思われる。

対照的に、日本で勤めていた民間企業では、自分と同じ年代(ざっくり言うと2008年入社以降)は女性率3割(30人中10人、絶対数としては決して多くない)、これでも少ないが、上に上がれば上がるほど、女性は少なくなり(採用人数×昇進率)、基本的に「上司」と呼ばれるような役職に女性はほとんどいなかった。700名いる会社全体の中で、片手に収まるほど。

顧客でも状況はほぼ変わらず、会議で私が女性1人なのはデフォルトで、驚くことではなかった。「文化遺産」なんていう、いかにも女性が多そうなテーマで20以上の自治体(県、市町村)が集まる80-90人ほどの会議で、外から参加してる私と同僚以外には女性担当者が2人ほどしかいなくて、見渡す限りのグレーと黒のスーツの波に呆気にとられたこともある。

そんな具合なので、私が下っ端としてちょこちょこでて行く会議でも、8割が女性になり、「あら、今日はGender parityが崩れちゃったわね、クフフフフ(笑)」なんてひと笑いが起こるいまの職場は未だに私の中では新鮮だ。

うちのオフィスは一人オフィスを持っている管理職以外は、4-5人入る大部屋がそれぞれのフロアにいくつかあり、それをシェアしてつかっている。
私が割り当てられた大部屋はなんと全員が女性で、その雰囲気さながら私は、この部屋を勝手に「かしまし部屋」と呼んでいる。

かしまし部屋にいる女性は、私を含めて5人。
私ともう二人の若手はほぼ同い年だ。
一人はファッションにぬかりがなく、オフィスでは常に弾丸トークで電話をかけまくってる、デキ女のおしゃれっ子。
もう一人は童顔で、いつもニコニコ笑顔が柔らかいのに、実は鉄人レース*を年数本走るというものすごいストイックなアスリート
(*Iron man race - 水泳3.8km、自転車180km、マラソン42.195kmを一度にやってその総合タイムを競うレース。ちなみにトライアスロンは水泳1.5km、自転車40km、マラソン10km。アイアンマンはマラソン部分だけでフルマラソンの距離がある。はっきり言ってネジが外れてる)

残りの二人はアラフォーの中堅女性で、
一人は、ガハガハ笑いながら、子どもの保育園の迎えの時間に間に合うように、
ブルドーザーのごとく仕事をなぎ倒すようにしていく文字通り肝っ玉母ちゃん。
最後の一人は超が付くほど几帳面で「あー、あの人アメリカ人ぽいわよね」と自分もアメリカ人なのに、言っちゃうような生真面目先輩

そんなかしまし部屋の毎日はびっくりするほど前職のオフィスと違う。

真夏、冷房のないうちのオフィスで、室内はヨーロッパといえども西日で温室のようになる。
すると、肝っ玉母ちゃんがガバッと立ち上がったかと思うと、バタバタとどこかに消えていった。
ほどなくして戻ってきたかと思うと、手には5本のアイス
「はーーーい、もう暑いし金曜だし、みんな今からアイスタイムーーーー!」
部屋の残りの面々も、テンションは爆上がり。
「いぇーい!アイスーーー!」
「はい、午後もがんばりまーす」

また、別の日、
きまじめ先輩がなにやら、ジーーーーーっと窓の外をみている。
気づいた童顔アスリートちゃんが、「どしたの、なにか気になるの?」と話しかける。
すると彼女は視線を窓の外から一切そらさずいう、
「あのね、この外、今月から工事はじまったでしょ?」
「私たちのオフィスの目の前に彼らの控室のプレハブがあるのよね」

「うんうん、それがどうしたの?」

「私昨日気づいちゃったの、14時半くらいに彼ら着替えタイムはじまるの」
(ここで部屋一同仕事の手をとめ、聞き耳をたてる)

「いやぁ、土建やさんていい身体してるのよねー」

全員一斉彼女方をふりむく、
「やばーーーー。それ覗いてたの?エロー」
「いやいや、覗いてないし。勝手に着替えてるから窓の外みてただけ」
「早く教えてよ。独り占めとかずるいでしょ」
「わたしたちも眼福ひつよーーーう」
「ちょっと、今日の着替えはじまったら教えてね」
「了解。ちゃんと見逃さないようにするわ」

なにが面白いって、このメンバーの中でよりにもよって、
生真面目先輩がこれを言い出したことに全員が、笑いと驚きを隠せない。

この日、全員でかけよって窓の外を観察したのはいうまでもなし

このノリ、どこか懐かしいとずっとおもっていたのだが、
このあたりで確信した。
そう、これは15年前まで私がいた女子高のノリなのである。

一度思い立つと、もうそれ以外に形容しようがないくらいに、しっくりきた。

男女比が半々になった国際機関においては、
もはや一周まわって女子高ノリが存在する。
高校は共学、大学・大学院はもはや男子校のようなジェンダー比にいたため、私自身がこのノリを久しくわすれたいた。

代わって今度は私たちが、マジョリティーとしてハラスメントやPCに気を付けなければならないのだけど、逆の極から、大きく振れてきた私にとっては
いま、まだかしまし部屋のノリが新鮮で清々しい。

この部屋の女子高ノリを知っていて、かしまし部屋にはよく他の女性社員もたちよっていく。

今日のお弁当のレシピから、パートナーとの悩み、生理痛がヤバいはなしから、
Tinderであった男が100年の恋も一瞬で覚めるほどやばい奴だったこと、
Black Fridayのセールの戦利品はなんだったか、などに話を咲かせ、
全員がコーヒーとチョコ過多な部屋で、
2人・3人でコーヒー・チョコ断ちチャレンジ週間などの企画をたててみたりする。

私が、「中高生だから」していたと思っていた話題や、
「公共ではしない(友達と少人数でしかしない)」と思っていた話題がかしまし部屋にはある。

子供の夜泣き具合で朝のおしゃれへのやる気が変わる肝っ玉母ちゃんが紅いリップを引いて来ているのをみて、「今日はゆっくり準備できたんだな」と安心したり、
おしゃれデキ女にデスク小物を褒められてちょっと気をよくしたり、
ポーカーフェイスの生真面目先輩が、実はMUJIの筆箱にサンリオのシールを貼りまくってるのをみて、ちょっとクスってなったり、
童顔アスリートと、おすすめのドラマや映画のリンクを仕事メールで送りあってお昼ぺちゃくちゃする毎日は、
どんなに仕事が単調だったり、トラブル続きでも、それだけで少しだけ楽しい。
勉強や授業がどうであろうが、とにかく学校にいくのが楽しかった頃に、ほんのすこしだけ似ている。

2018年10月18日木曜日

新人職員、国連組織のクイズ大会に参加してみる

職場のレク企画ってあるじゃないですか。
花見とか、W杯みんなでTV観戦とか、クリスマスパーティーとか。
国連職員にそれを企画させるとどうなるか。

昨日はうちの職場の「クイズ大会」に参加してきました。
クイズ大会ってあれですよ、「xxの部長の大学時代の部活はなんでしょう」みたいなやつじゃないですよ?
「日本で一番収容人数が大きいのは日産スタジアムですが、世界で一番収容人数が大きいスタジアムはどの都市にあるでしょう!」みたいなやつです。
あの高校生クイズとか、東大王、みたいなやつです。

はい、この時点できもーい!イカトウ感(いかにも東大)が漂います。
仲良くなる手段としてNERDすぎませんか笑。
私が大好きな米コメディBig Bang Theoryを彷彿とさせます。


打ち解けるためにガチのクイズ大会やろうぜ!ってもう発想がSheldon とRenardですね。

さて、このクイズ大会決して体育会系ではないわれら職員の気質もあって、早押し制ではなく、回答は紙で提出する形式。これがまずよかったですね。
社交性とか、チーム内の遠慮しあい、みたいなのが不要で、合議できめられるので(こういうことを言ってしまうのが、私自身社交スキルのないNERD的なところなのですが)すごくやりやすい。
それぞれあらかじめ組んだ3-4人のチームが事務局側によってさらにランダムに組み合わされて、計8人程度のチームとして出場します。

なんとなく雰囲気が伝わるように、ここには覚えているクイズをいくつか紹介。
1) 憲法上、アフリカにルーツが辿れないと市民権が与えられない国は?
2) 地球上の動植物の種の5%が住み、そのうち、80%がそこの固有種である島はどこ
3) アルファベットの中で唯一周期表にはいってないのは?
4) 地球上に生存したことのある動物で最もおおきいのはなに?
5) 世界で最も大きな湖は
*答えは末尾に小さく書いておきます。

実際に参加してみて、いやぁ、これは懇親の方法としてすごくよくできてるなと感心しました。なぜかって、これ、強いチームを目指すと、多様性を反映したメンバーにならざるを得ないんですよね。
まず分野は、食・芸術・地理・科学・音楽・スポーツ・動物の7種あり、
それぞれ、地域的なバランスと、年代を考慮して出題が行われる(おなじみの国連のかざすPC感)
そのため、きちんといろんな趣味・特性をもった、年代もばらけて、出身もバラバラのチームじゃないと得意が偏るのだ。大学生のクイズ研究会同士の試合とはここは違う。これはいかに「多様」な「当たり前」を持っている人を集めてこれるかがすべてなのだ。人は属性によって当たり前にしっている知識が異なり、それを結集させて戦うのが、国連クイズ大会である。
例えば私が貢献した出題は以下

6) ウィンブルドンで男子女子の賞金が同額になったのはいつ
a)2007
b)1997
c)1967
d)今も同額ではない

7) 次のうちルノワール作品ではないのはどれ
a)Moulin de la galettes
b)ピアノに寄る少女たち
c)日傘をさす夫人

8) 標高が一番高い首都は?

9 )日本でクリスマスツリーの点灯をするために使われたことのある動物は?
a) ハムスター
b) モルモット
c) うなぎ

10)日本で13世紀からある、笛とリズムで奏でられる音楽の種類は
a) bon odori
b) Noh-mai
c) Kabuki

11) 猛毒のため日本では調理するのに免許が必要な食材は?
(これは英語でちゃんと覚えてホッとした)

12) -卵を産む二種の哺乳類のうち、一種をのべよ
13) -インドネシアのうち人が住んでるのはいくつ
a) 1000
b) 2000
c) 3000

でも、これって私のなかでは「当たり前」だったものが多い。
6)については私は高校を通してゴリゴリのテニスファンだったので、ルール改正が行われたときはまさにリアルタイムでそのタイミングを見ているときだった
12)は私が高校をすごしたオーストラリアの人にきけば、多分中学生でも知っているとおもう。
7)はフランス語選択者の授業でつかった教科書でならったし、8)は日本の中学地理で最初に叩き込まれるものの一つな気がする。
極めつけに9)-10)-11)は日本人だと圧倒的に正答率があがる。
この3問に関しては、あまりにも日本関連問題がこの大会で多くてさすがに笑ってしまった。
多様性の観点からアジア問題をいれたいときに、適度にエキゾシズムがあるが、教養人ならギリ知ってそうで、事実確認がしやすいって、ところで落ち着いたのが日本あたりだったのだろうか笑。
全チームのなかで日本人を入れていたのはうちのチームだけ。
そりゃ「うわーこの子いれて超よかった」とでなる。私も日本人として存在するだけで、肯定されるのですごく楽。
同じことは、それぞれの「当たり前」を持ち寄った、動物オタクや、アフリカ出身のチームメイトにもいえる。
どんどんいろんな人を入れていったチームが強くなり、
その多様性ゆえに、お互いを肯定しあって仲良くなるので、本当によくできている。
各国の国連の定番のレクイベントらしいが、極めて理にかなっていて、気軽に参加したが妙に納得してしまった。

結果、うちのチームは日本問題で一気に差をつけた甲斐もあってか?笑、一位タイに。
国連組織のガチクイズ大会で一位になったって、その響きの無双感がわれながらすさまじい。

新人職員が、国連クイズ大会にでたら、予想に反して、知を戦わせるのではなく、多様性を戦わせるゲームでした。
国連はどこまでいっても、国連。
どこまで行っても、学級委員みたいな、憎らしいほどの正しさを愛していく場所です。


上記問題の答え
------------------------------------------------------------------------
1)リベリア
2)マダガスカル
3)J 
4)シロナガスクジラ
5)チチカカ湖
6)a)2007
7)c)日傘をさす夫人(モネ)
8)ラパス
9)c)ウナギ
10)能舞い
11)pufferfish(ふぐ)
12)Platypus, Echidna (カモノハシ、ハリモグラ)
13c)3000

2018年9月18日火曜日

ケアの断片が編み込まれた職場

3ヶ月もすぎ、仕事でもただ不安や心配があるというだけじゃなくて、
仕事ならどこでもあるようなアップダウン、うまくいく日、いかない日を経験するようになってきました。
まぁどこだって、ちょっとありえないなという上司や同僚とかっているもので、
それはこの新しい環境でも例外ではないわけです。

私はスポ根の対局のような人間なので、「苦労は買ってでもしろ」みたいなのは強い言葉を使えば、クソくらえと思っています。不要な苦労や、不要な苦痛はいらないと思っている。
どんな経験からも観察や知見を得ることができる、という言葉には間違いはないとおもうけど、その方法で学ぶ必要はあるのか、ということは常に考えるべきだと思うのです。
火を使うときに気をつけるべき、というのは熱い鍋にずっと指をおしつけていなくても学べるわけで、その学びから、「いやいや、みんな耐えてきたからその熱さに耐えようよ」というのはナンセンスだとおもっている。

こんなに反骨精神がつよく、なんかプロレタリアートの火を目に燃やすような人でもなかったのだけど、
5年も社会人をやっていると気づけばこんな感じに条件づけされていた。
「これいまおかしいこと言われてるんじゃ?」と、レーダーでキャッチすると、すぐピリっとするし、その瞬間からとてもdefensiveになるので、職場の私が感じのよい人ではないことは心得ている。
だから、前回の投稿にもあるように、前職の私はASAHIのごとくスーパードライだった。
決して正義感がつよいからもの申すタイプではない。
自分が個人としての人格としてそんな人だと判断されたくなかったからかなといま考えてみれば思う。
「この人仕事だからこうしてるんだな」と思われようとしてたのかもしれない。

例によって、そんなこんなで同僚の一人とぶつかることがあった。
その詳細についてはここでは重要じゃないので、割愛する。
一言でいえば、仕事に予算上、スケジュール上、モラル上の影響が出そうになっている状況だった。
そして、儒教文化からでてきたばかりの私は、ここでは目上の人に対しての異議申し立ては日本よりはしやすいんじゃないかなと思っていた。
でも、来てみて儒教とはまた別の構造的な問題があることに気づく。
先にも書いたように、国際機関における雇用期間の不安定性と短さである。

特にプロジェクト上で雇われている人の場合、マネージャーとの関係は数ヶ月後自分が仕事にありつけるかに影響する。失業のリスクをおかしてまで、マネージメントに異議を唱えることは非常にむずかしい。それはある意味キャラ問題でどうにかなる(場合もある)儒教文化よりも、さらに抗いがたい社会保障上の構造ともいえる。

さてさて、そんなモラルハザードが蔓延している状況で、同僚と衝突した私は悔しさで涙を溜めて、「もう今日は帰宅しようかな」くらいに考えていた。

数人でシェアしているオフィスの中部屋で満身創痍になっている私を前に、一番姉御肌の同僚が「あんたは完全に正しいこと言ったよ、えらかった。よく言ったとおもう」とパソコンから顔をあげていってくれた。それに対して私が「ありがとう、もう懲り懲りで、こんなの」というと、明らかにミーティングをしてた姉さまもう一人が「(ミーティング相手にむかって)ちょっと一瞬いい、ごめんね?Saki、いい?この組織は「もう懲り懲り」とおもってからが一人前よ、これであなたも一人前!(ミーティング相手に向き直り)はい、失礼、続けて」

そこからも、なんとなーく断続的に別の同僚が自分の地元にある日本人街について急に話を振ってくれたり、また別の同僚が「日本の英語の教科書にある、やばい例文」の話を持ち出して一笑いしてくれたり。

なんというか、顔面で地面を打ちそうになっている人を前に、瞬時の判断で安全マットをすばやくそこに敷く態勢がすごかったのである。

鷲田清一(はい、マイブームです)は自著『語りきれないこと 危機と傷みの哲学』の中で「ケアの現場は、ケアの”小さなかけら”が編み込まれたものだ」と書いている。「いろんなところで小さなケアが、それも意図していないケアも含めて、なんとなく起こっている。そういうケアのかけらがうまく自然に編み込まれている空間が一番いいケア施設だといわれている」と。

今の自分の職場はまさにそんな場所だと感じた。

誰一人、なにが問題か尋ねたり、それを解決しようか?とは言わなかったけど、「あ、この人はいまやばいな」と察してほとんど脊髄反射のように対応してくれたように感じた。
私はそのことにとてもびっくりしてしまい、悔しさのボルテージでエネルギー切れになったことすら忘れて、なんだかあっけらかんとその日をすごした。

その後も衝突の発端となった業務を一緒にやっている同僚が「お昼に外に行く?」とそれぞれ別々に声をかけにきてくれたり、
極めつけはその内の一人が「今日は一緒に帰ろう」と言って、バスでの帰路ずっと「Saki、あなたはうちのチームに本当に大切な財産よ。だからこれで気を落としたり、私はいらないんじゃないかって思わないでほしいの。あなたは私たちの宝物よ。それだけはわかってほしい」。ジュネーブの都心に向かう夕方のバスに揺られながら、語りかけた彼女の言葉を聞きながら思った。なるほど、そうか。私は今日”顔面から地面に落下しそうになったところ、同僚にぐっと袖をひかれて助けられたな”と思っていた。けれど、実際は20m高度からすでに顔面先にフリーフォールしていたのだときづいた。その落下中の私を視覚の角で捉えた同僚たちがとっさにブラインドで投げた安全セーフティーネットにすぽーんとキャッチされた私は、その動力のままに網につつまれながら、ぽわんぽわん上下に揺られていたことに1日を終えて初めてハッと気づいたのである。

仕事の場にはなるべくだったら感情を持ち込まないほうが私もプロとして望ましいと思う。けれども、こうして感情の波に足元からすくわれそうになったときに、眉ひとつうごかさずに安全網を投げてくれるような場は、それだけで安心できるなと思ったのでした。

You are a treasure

そんなことを言われたのは、小学校3年生の担任のステイシー先生以来。

あなたはトレジャー、洋画タイトルの下手くそな邦題みたい、なんて思いながら、バスを降りるころにはその日の夕飯の献立を考えてた。



先日弟を訪ねて行った、オランダのGiethorn


2018年8月12日日曜日

冷静と情熱のあいだに、もしくはフロントオフィスとバックオフィスのあいだで

こちらではどんな仕事をしているの?とよく聞かれるようになりました。
圧倒的に現場重視で実行部隊ありきの組織の中で、本部にいる若手ペーペーの自分がどのような役割を担っているのか。それ自体を咀嚼して理解するの自体に時間と熟考を要しましたが、二カ月たった今ようやく頭と腹両方できちんと納得する形で理解が追いついて来た気がします。

私の仕事は民間企業に例えると、ちょうど経営企画や統括室に相当する、と表現するのが今のところ一番しっくり来ています。
経営企画といえば、まさに文字通り経営を企画するところなので、例えば中期計画など組織の戦略を組んだり、四半期ごとにその活動を分析したり、新規事業を立ち上げたり、といった仕事をしているような場所です。
そこをいわば組織のブレーンと呼ぶ会社もあるのではないかと思います。
さて、このように表現すると、花形というか、組織で重役を任されているような印象を与えますが、私がこれを持ち出したのはむしろ自分のabilitycapacityを示すためではなく、inabilityincapacityを説明するためです。

こちらに転職して仕事上、私が一番苦労したのは海外にきたから、ということや業種・業態が変わったということより、この組織での立ち位置の違いでした。
私は前職ではコンサルタントをしていたので、常に社外にいる別組織の顧客からプロジェクトベースで仕事をもらっていました。
この時、顧客はまず 1)問題意識や課題意識があります。
専門性の理由で組織内ではできない、または(こちらの方が圧倒的に多いですが)人手や時間の余裕的に社内でまかなえない仕事がアウトソースされてきます。問題意識がずれていて、それを一緒に後々軌道修正されることはありますが、問題意識はある。

なのでもちろん2)その作業の必要性も認識している。
社外の人にお金を出してでも頼みたいと思っているので、その量や質は都度すり合わせが必要ですが、少なくとも誰かにやってもらわなきゃいけない、と思っている。

そして、3)明確な成果物がある。
多くの顧客は私たちに払ったお金を正当化しなくてはならないし、ちゃんと元を取らなくては、とも思っているので、要求がふわふわしていることはありますが、成果物はあります。会議の企画や準備、商談、分析、レポートなど。

さて、仕事するときのこれら条件がこちらにきて大きく変わりました。

まず、経営企画とは、フロントオフィスとバックオフィスの間に位置する部署ということ。
むしろ、バックオフィス寄り。
だって、メーカーに例えれば、何か特定の商品を管轄しているわけではないし、生産管理をしているわけでもなければ、販売をしているわけでもない。つまり直接売上を持っている部署ではない。
これが全ての条件を変える。
バックオフィスなので、私の顧客は社内にいます。
私の同僚たちは加盟国や被援助国、裨益者に価値を届けているけれど、私の仕事の結果変わるのは概ね社内です。フロントオフィスがよりうまく活動できる環境と土壌を整えることが仕事。

しかもこの経営企画、いるのは局長と私だけ。
(私と彼女の職階には7つ開きがあるので、彼女が私の直接の指示系統であること自体めちゃくちゃイレギュラーなのだが)
中堅社員が頭を寄せ合っているのであれば、組織の戦略づくりとそれを実践に落としていくことが仕事になるのだろうけど、大大大ボスという責任者/意思決定者の元に新米の私一人がついているとなると、

1)必ずしも問題意識はないし、2)作業の必要性は認識されていないし、3)明確な成果物がない。なんて中で作業をすることになる。

例えば、私がこちらにきてした作業の一つが報告書のテンプレ作成(現在進行形)
私が配属されている事業部門(組織には2つの局がある。そのうちの一つ)では、例えば私の着任時、幹部クラスへの四半期報告のための共通テンプレートがなかった。それぞれ全く異なるスタイルと書き方で自由にまとめられた報告書を文字通り、そのままホッチキスで止めて、一つの事業報告かのように提出していた。(これ自体、日本のトップダウンの組織からすると驚きなのだが)
こうなると、局としての成果や活動が報告できないし、何より組織として統率取れてるのかな?なんて不安を与えたりする。
なので、私と局長のポジションからは至極当たり前の作業としてこのテンプレ改編の仕事が着手されたわけだけど、それぞれの部からすれば、「まずはやることをやることをやるのが大切でしょ?その結果を報告するにすぎないだけなのだから、そこに時間をかけるなんてよくわからない」なんて声はもちろんあるし、
それぞれの部で最適だと思った形式を元々選んでいるので、目的には賛成だけど、実際慣れたフォーマットを変えることには消極的だったりする。
加えて、ここが一番響くのだが、このテンプレを変えた結果のインパクトが非常に見えにくい。もしかしたらこの結果、予算が増えるかもしれないし、活動もしやすくなるかもしれないけど、それにテンプレがどれだけ寄与したかはわかりにくいし、すぐには結果が出ない。

この圧倒的違いが、日々の業務をする上では大きな変化だったので、かなり、いやかなり悩んだ。
まずは、私が仕事をするためのファーストステップは部署をぐるぐる散歩しながら、御用聞きをすることから始まる。
必要なことやニーズを把握するために日々部署を尋ねて回って時間をなんとか作ってもらって、ざっくばらんに世間話のようなことをすることから始まる。必要性や彼らの問題意識が把握できないと、まず「顧客」になってもらえないから。
そこから、さらに迷ったのは、自分の仕事の意義を認識してもらうこと。すごいエゴの塊みたいになってしまうけれど、承認と評価を得るためのプロセスである。
なんてったって、テンプレを作るっていうのは、ようは私の毎日はエクセルを広げて入力フォームをカタカタ作ることである。一見したら、秘書業とも思われかねない。
「なんか、あの子エクセル上手ね」じゃちょっとまずいのである。給料以上の価値を出していない、ということだから。
というより、ぶっちゃけ私自身がちゃんと工夫しないと、本当イメージだけでなく、実際秘書だと思っている。
テンプレには組織としてトラックしたい指標や数値を埋め込んで、かつそれを入力していく手間もあれやこれやの関数を使ってできるだけ自動化したり、なんとかその意義が伝わるように工夫するのが私のデスクの毎日だ。
そしてここまでしても多分まだ、「めんどいなぁ、なんか新しい子がきたから報告の手間増えた」って印象は拭えないと思っているので、実際次の四半期レポートをそのテンプレで作って、それを使った分析もして、それを見てもらって初めて後々「なるほどね。まぁよかったかもこれやってもらって」と思われるくらいなのかな、と思っている。(というよりそのくらいの危機感を持たないと秘書じゃない?リスクは常にあると思っている)

だから、こちらにきてから仕事上一番頼りになったのは、民間企業で同じく転職や異動などでバックオフィスを経験してきた友人たちでした。自分がちゃんと正しい方向に歩いているかのか確認するために彼らの金言は本当に良い道標だった。

そして、バックオフィスにいると、社内でのコミュニケーションの重要性がより高まるということもこっちにきてひしひしと感じます。上記の通り、まず御用聞きから初めて、めんどくさがられる作業をお願いするなんてことをするとので、心象は命です。確かに自分もフロントオフィスにいた頃、「経理のあの人は感じがいいし、話がわかるからあの人に相談しよう」とか思っていたし、「社内のために時間割かれるのハイパーめんどくさいけど、xxさんならまぁいっか」なんて勝手なことを考えていました。
前職の私は社内では仕事は仕事と割り切り、社内コミュニケーションはASAHIかよって思うくらいスーパードライだったのですが、今は「感じがよくて、話しやすい子」と思われるのが仕事とその評価に直結します。能面みたいに寡黙に仕事をしていたら、「なんか何考えてるかよくわかんないし、そもそもあの子仕事何してんの」みたいなことになる。
だから、社交スイッチは常にオンだし、社交苦手目 人見知り科の私としてはこれは慣れるまで相当エネルギーを要した。立食パーティーがあるだけで、フルマラソンかよと思うくらいのエネルギーだけを使うのに、それが常に、である。作業的にはエクセルかたかたやってるだけなはずなのに、ものすごい疲弊する、なんて日が最初は多かった。
それでも妥協できないのがこのコミュニケーション。脱アサヒスーパードライな自分。

事業への熱い思いをかけている人たちを前に、彼らの情熱を受け止めて、ツボを探りつつ、一方で完全に利得と有用性ベースで冷静に説得するバランス、
そしてそれを全て包む「感じのよさ」(これが一番とらえどころがなくて難しい)が私のTOR(業務指示書)に書かれるべきじゃないかというくらい大事なのではないかなと思っています。

冷静側から情熱との狭間に
フロントからバックオフィスに転身したよってはなし


登るぞドォーモ

ジュネーブ建国記念の花火大会(8/11)

2018年7月25日水曜日

「国連に転職する」という当たり前じゃない選択

なぜ国際機関か、なぜ国連、なぜいまの組織か。
転職を決めて、国連で移民の仕事をする、と伝えたとき、多くの人は私に「とても “らしい”」選択だと言ってくれた。
流浪してきた帰国子女で、国際政治を専攻し、語学をテコにして仕事をしてきた。
いわゆる人が納得しやすい経路なんだと思う。「国際的なさきちゃんにぴったりだね」周りは喜んでくれる。私もいつからか「グローバル人材」と呼称されることに”慣れて”しまった。そう呼ばれたときに、一度頭の中で引っ掛けて、自問することを辞めてしまった。

だから、人は私にあまり聞かない。「なぜ国連にいくの?」と。でも、私の転職のどこをとってもそれはキャリアパスとして「当たり前」ではないし、むしろ、その選択は何度も自問し、それを意味を確かめていかなければいけない、と私は思ってる。

国連での仕事について少しでも調べたことがある人なら知っているであろう。国際機関での職の多くは2-3年程度の有期雇用だ。それも若手のうちだけではない。役員クラスになってもここでは皆ずっと2年ほどの有期雇用を続けてきてる。これを話すとその次に聞かれるのは大体聞かれる。 
「じゃあ、2年経つとうまくいけば契約更新できるということ?」
実はこれもNOだ。国連では契約が終わると、そのあとまた求職のお知らせに応募しなければいけない。つまり、国連職員とは2年に一度就活をし続けるということなのである。同じオフィスにいる20年選手の部長だって、契約終了が近づくと同じようにまた就活をする。
今回の私の仕事も例に漏れず2年。そして、これが一番驚くべきことなのだが、これを言うと業界の人は「長いね」という。肌感覚だが、4割くらいの人は大体これよりも短い契約で働いている。
国連とはいわばそんなフリーランス集団だ。
日本にいたときの私は、曲がりなりにも終身雇用を用意された仕事についていた。いわゆる出来不出来で人をクビにはしない伝統的な日本企業だ。どれだけ、パフォーマンスが発揮できなくても、つまらない仕事でも、自分の生活は保証してくれた。色々古風なところは多かったが、用事があれば自己判断で早く帰り、ミーティングがなければ自宅から仕事ができ、繁忙でなければ2週間休んでも眉をひそめられることもない、(仕事量は少なくなかったけれど)日本に珍しい働き方が自由な場所だった。

そんな雇用の安定を「捨てて」有期雇用の不安定な生活に突入にするのは当たり前ではなかった。私は少なくとも怖かった。正直にいえば今も不安だ。

じゃあ、なぜ私はそれでも国連に行くという選択をしたのか。
一つは「異端児」を卒業したかったから。
これは能力と居心地の良さという観点で話したい。

就活の頃から新卒の頃にかけて気づいたことがある。
それは自分の比較優位、いわば集団の中でどれだけ際立つ存在であるか、と居心地の良さ、の二つは、
トレードオフ、ということだ。

こちらを立ててれば、あちらが立たず。
いわば交換条件なのである。

就活した時、新入社員の頃、
多くの人がそうであるように、私も不安で仕方がなかった。
自己証明をしたかったし、自分の価値を図ろうと必死だった。
そんな私にとっては、自分の持つ能力や性質に強い比較優位があるところに行くのは自己証明がとても楽だった。
前職に勤めている頃、不思議がられた。「なんでそこに勤めているの」。
いまの職場にくる前のJPOの選考でも、「なぜ国際機関を目指しているのに、その職場にしたのだ。なぜ5年も勤めたのか」と。
答えはシンプルだ。私みたいな人材が少ないからである。私の希少価値が高かったから。
国際業務が得意ではない場所で、語学や海外在住経験をテコにして来た私にとって、自分の埋めるべき穴や役割をみつけるのはそう難しくなかった。外務省や商社に行けばヤマといる私のような人材が、前職ではレアキャラだった。

しかし、同時に居心地はその犠牲になったかなと思う。
入社してすぐ、気づいたのは、自分自身が、多様で寛容な環境に慣れ切っていたということだ。
不寛容に不寛容な自分、ナイーブさに傷つきやすい自分に気がついた。
「え、帰国子女なの、ほらこれ音読して(店にあった英語のレシピ本を手渡される)」
「は、アルジェリアに住んでたの?狂ったイスラームの中で育ったんだね」
ぐっすり寝ていたところ、耳をぎゅっと引っ張って持ち上げられたような驚きと痛さだった。
他社との会話の中でも
「弊社はアフリカ中に拠点があります。ないところは全てただの砂漠です(同社のアフリカ拠点はその時点で9箇所。アフリカには全54か国ある)」
「モロッコってどこ、何語、モロッコ語?」
途上国の拠点を嬉しそうに紹介しながら「だいたいね、ここは日本の江戸時代くらいと思ってください」

開発について、人権について、国際政治については、話を広げようとはなかなか思えなかった。
そんな状況を前にして、自分自身の不寛容がおもてに出てしまうのがわかっていたし、
そんな話を始めることの方が結果疲れる作業になることもわかっていたから。

だから、自分の能力と関心にあう仕事をとってくることも楽ではなかった。
外交や開発の仕事をコンサルとして受けることが、当たり前の会社ではなかったし、
「やりたいなら、仕事を作りなよ」の一言の下、2年目からはせっせと企画書を書いて仕事を取ろうと奔走した。
会社はきっと社内をより多様化するために、チャレンジとして私のようなレアキャラを採用してみたのだろう。
でも、自分の比較優位は証明されやすい一方で、何をするにも、全てに説明が必要だった。
私の能力に、私の関心ごとに、私の存在そのものについて。
在社中に何度もBe the change you wish to see in the world (あなた自身が目指している変革そのものであれ)
という言葉を思い出したが、自分から組織全体を変えようと思うほど私には体力がなかった。

私は前職で明らかに「異端児」だったが、
異端児であることは体力を必要とする。
自分の関心ごとや、信条、が共有される環境で、居心地よく、
同じミッションの下、仕事ができる場所が欲しかった。

ナイーブな幻想は持っていない。
世界を変えられるのは国連だけじゃないし、
移民の仕事も、国際協力も開発も援助もできるのは国連だけじゃない。

でも、国連では少なくとも、国際協力で仕事をすることへの途方もなく体力のいる手間は必要ない。
それは当たり前のこととして、説明さえいらない。
そして、たくさんの「似た者同士」と仕事ができる。

職場環境としての圧倒的居心地の良さが私にとっての国連の魅力だ。
オフィスではおそらく、自国でしか生活したことがない人はおそらく一人もいない。
「おはよう」というくらいのテンションで「SDGsの目標10だけどさー」と話しだす人は珍しくないし、
私の同室の同僚はそれぞれ一つ前のポストではモロッコ、イエメン、ケニアにいた人たちだ。
日本人であるということがわかると、「私の地元のリオデジャネイロの日本人街ではさー」とか「実はJETS6年日本で英語教えてたんだよね」なんて人がいる。

これで、「グローバル人材」としての比較優位を私は無事に失った。
技術と能力はこれからは生身で勝負しなきゃならない。
でも、それと引き換えに得た居心地は代え難いと思っている。

二つ目はさらに個人的な理由だ。
私が長期的なプランで迷ったときに指針にしていることの一つに「10年前の自分に誇れる自分か?」という問いがある。
日本と他国と行ったりきたりしながら育ってきて、国際政治を勉強してきた自分にとって、国連で働くというのは自分の中での一つの答えだ。
夢というほど恋焦がれたわけではない。
でも、10年前の自分、ただの学生だった青二才の自分はとても喜ぶと思う。
きっと10年後に手が届くものと思っていなかっただろうし、そんな自分の中に住んでいる小さな自分をproudにさせてあげたい。そんな自分本位でしかない理由がある。
自分というストーリーを「語り直せるか」(鷲田清一)ということとも言えるのかもしれない。

変化の中、または全くの無変化の中で目眩がしたり、息苦しくなった時に、
自分というストーリーが一貫して繋がれていることに私たちは安心を覚える。
私にとっての国連転職はバラバラに思える自分の中のピースを回収していく作業でもあったように思える。

国連という転職について、そのミッションから話すことは難しくないし、
その公明な理念への共感に寄せて書くことだってできる。
でも、私自身に関していえば、ある意味「優等生すぎる」その理念は、いわば地球市民の模範解答であり、
私だけじゃなくて世界の大多数が求めていることだった。
もちろん、国際政治に、移民に関わる仕事はしたい。
でも、それだけじゃ、この不安定で、特殊でしかない仕事に「私が」飛び込む理由にはならなかった。

国連に飛び込むには世界の良心を背負う懐の広さと、絶えることのない情熱の炎が必要なのかと言われれば私の場合は決してそうではなかった。
むしろ、そのリスクをとって選びたかった最終的な理由は極めて個人的である。
私は、自分の居心地を求めて、また10年前の自分に誇れるストーリーを語り直せる、ということが魅力でここにきた。
これを言葉にする方が、どうかすると「世界平和のために」というより、よほどこっぱずかしい。
でもそれが本当のことだから仕方がない。

これらはどちらも国連が私に与えてくれるものだ。
だから、この場所に来たいま、その与えてもらった価値に対して、全力で自分のできることを還元したい、それを初心として、いま私はここジュネーブで仕事をしています。


そんな私の、とても大きな世界の前にして、とっても小さな自己完結をする、国連への転職の話。

2018年7月2日月曜日

正しさと正義の城下町

ジュネーブに来た。
ちょうど今週でここに越してから1ヶ月になる。
どう考えても特殊すぎるこの街に私はまだ慣れてない。
出勤初日。仮住まいのAirBnBからバスに乗った。乗ってくるひとは人種も様々、たくさんの言語が飛び交っている。でもどこを見回してもつけているのは国連マークのついたIDストラップだ。朝の混み合ったバスでひしめき合う人々のほとんどが国際公務員だという自体に目眩がしそうになる。バス停の名前は「ITU(国際電機連合)」、「Nations(国際連合本部前)」、「ILO(国際労働機関)」、「WHO(国際保健機関)」と並ぶ。

国連前のBroken Chair
ジュネーブの人口は19万人。大体東京台東区と同じくらい。そのうちなんと9500人が国連職員だ。なんとこの都市の5%が国連で働いている。これを各国の代表部で働く外交官も含めると7%にも登る。(さらに国連以外も含めると43の組織が拠点を構え、2700人が国際NGOで働いている)ここは世界のあらゆる都市で最も国連職員が多い場所らしい。

ここは正論とPCPolitical Correctness)で動く場所だ。人を見かけや出自で判断することはほぼ不可能に近いし、それはタブーである。物件の内見に行くと、迎えてくれたのはトゥブを着た恰幅のいいムスリムの女性だった。彼女はスーダンから着た国連職員でジュネーブでの5年の勤務を終え、ハルツームに帰るそうだ。スイス人のオーナーとも仲良く、「本当にいいオーナーよ」と私にその部屋を進めてくれた。飲食店やスーパーにいっても接客は丁寧だ。レジに並んでる人、街でバギーを押す誰がどこの外交官、どこの機関の要人かわからない。つい昨日もバスでヨレヨレのTシャツと短パンを履いてるおじさんが仕事帰りにジムにいったとおぼしきUNHCR(難民高等弁務官)の人だった。むしろ、「外国人」に見える人ほど、その確率は高いといえる。

Genèveのランドマーク、レマン湖の噴水。
お天気がいいと虹がかかって見える
新居に移るまで1ヶ月はAirBnBで居候をしていた。最初の2週間泊まった家はニカラグア人一家。週末なにやら広げ始めたと思ったら、市内のニカラグア人たちと数十人で集まって国連前でデモをすると言っていた。ニカラグアはいま反体制デモが本国で加熱し、すでに200人近くの死傷者がでて、国は1ヶ月以上機能停止している。
次に泊まったのは引退したてのバンカーだった。日本の大和証券にも勤めていたことがあるという彼は5ベッドルーム、トイレ3つ、バスルーム2つの大豪邸にすんでいて、色々な人を迎えるのが好きだからとジュネーブを見渡しても最低価格に近い値段でこの大豪邸を貸していた。帰宅すると私を捕まえては日本の企業文化がいかに素晴らしいか私に熱弁していた。

湖をまたぐ橋には週替わりで違う国連機関の旗がかけられる。
気のせいかもしれない。でも、PCが張り詰めたように意識されているきがする。多分ジュネボワ(ジュネーブ人)からすればそれは当たり前なんだろうと思う。空港を降りた瞬間、難民への支援を訴えるポスターが窓一面に貼られ、職場のトイレにはいると”Everybody wants to change the world but nobody wants to change the toilet paper”(世界を変えたいって皆いうけど、トイレットペーパーを変える人少ないよね[ロールを使い終わったら、変えよう])などと書いてある。市バスは、難民デー、女性デーなどがあるたびにそのキャンペーンフラッグを乗せパタパタとなびかせてる。

Do the right thing(きちんとしよう?正義は貫くよね?)ということが前提のように敷かれた場所だ。当たり前だ、国連という一大産業の城下町なのだもの。造船業が盛んなところで港が発達するのと同じようなことなのだと思う。でも、この違和感に似た何かは忘れずに居たくないなと思ってる。

「ポリコレ棒で殴る」という表現を最近よく聞く。私はいつも自分はそれを振りかざす危険がある側だと思ってきた。でもここにきて、ポリコレ棒と呼ばれるものが言わんとするある種の窮屈さみたいなものが、触れるか触れないかの距離で肌にスススっと通り過ぎていくのを感じることがある。
この感覚、この城下町で働いていると言うことをついためらってしまうような、この感覚は、摩耗させたくないなと思っている。

初めに滞在していたAirBnBの窓から。最近やっと自分のアパートに越しました。

街の中心地でもこんな感じ。
そのイメージに比べて実は随分のどかな街、ジュネーブ