2018年11月19日月曜日

Hamilton という完全犯罪

ハミルトンをみてきました。
もう一度いいます。ミュージカル ハミルトンをみてきました。

一階のちょうど真ん中くらい。WEの劇場はこじんまりなのがとても好き
私はご承知の通り、重度の舞台オタクなので、「いつものことか」と思うかもしれないのですが、いや、今度ばかりは(オオカミ少年ぽい)ちょっとレベルが違うことなんですよ。

ハミルトンとは社会現象です。
舞台とかそういうことじゃないんですよね。
3年前トニー賞で全部門ノミネートされ、そのうち3部門以外すべて受賞した作品です。

これは例えれば、オリンピックの競泳で、
自由形、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、全ての泳法のすべての競技に出場して、
ほとんどで金メダルをとる、みたいな離れ業です。
はっきり言って意味が分からない。

Victoria Palace Theatre ロゴを見るだけで胸が高鳴る(だって3年も待ったんだもの)
交通整理のテープまでブランディング
さて、そんなハミルトン、
3年近く、のどから手が出るほど観た過ぎて、のどが裂けるかとおもうほど(大袈裟)観たい舞台で、且つこんな評判を3年間聞き続けると、もう期待は驚くほど上がるわけです。
しかし、この舞台の鑑賞体験はそんな天井をうつほどに上がりきった期待値をやすやすと越えてきたんですよね。
どこがすごい、とかじゃないんですよね。
自由形、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎで他を圧倒した泳者をみておもうのは、「すごい生き物が水を泳いでる」という。
舞台に隙がない。一つ一つすべての動きや演出が意味をもっており、考えつくされている。
妥協がなく、舞台のすべての要素に全力が投じられており、ある意味息をつく暇をあたえない舞台だ。
観初めて、4曲目ほどで、ゆっくり息をはきながら、自分が開始からそこまで、息を止めるようにして、張り詰めた空気に吸い込まれいたことに気づいた。
そしてその完成度ゆえに、ハミルトンは素晴らしい舞台であることを、電流のように全身で感じながらも、同時に泣くのは難しい舞台だった。
それを振り返りながら、私は不思議に思った。なぜなら、私はハミルトンのパフォーマンスをトニー賞でみながら、一節目からテレビ越しに涙を流したからだった。
そこにある圧倒的な違い、それは、この舞台の仕掛人である舞台作家Lin Manuel Mirandaだったのだとおもう。Mirandaは今日の米舞台界の圧倒的なカリスマだ。彼は、エンタメ界におけるグランドスラム、EGATP(エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞、ピュリッツァー賞)に最も近い人、といわれ、事実エミー以外を総なめにしている。彼がつくってきた舞台は、どれも脚本、作曲に加えて、主演は彼本人が必ず務める。ハミルトンの場合、初演のアレクサンダー・ハミルトンはMirandaだ。

しかし、彼は決して歌がうまいわけではない。クリエーターとしては一流なのだが、彼はその歌声で人を惚れ惚れさせるわけではない。どちらかというとこもった声で、高温はかすれ、ラップ曲では歌っているというより、叫んでいるようになることも多い。

しかし、彼の粗削りのパフォーマンスが、この舞台を不完全に完成させている。ハミルトンはアメリカ建国の話だ。オバマ政権の最後、次期大統領選のキャンペーンの勢いの中で、排外主義が台頭し、言葉のトゲが柔な肌にぐさぐさと刺さる日々の中で、自身もラティーノであるLin Manuel Mirandaが建国期のアメリカの、ツギハギでボロボロながらも必死だったころに希望を込めて書いたのがこの舞台だ。

私は最初Hamiltonという舞台を聞いたことがあるか?という言葉で冒頭このレビューをはじめようかともおもったが、投げかけべき質問は、むしろ、アレクサンダー・ハミルトンという人物を聞いたことがあるか?ということかもしれない。
私は彼を知らなかった。10ドル札にかたどられた彼は、通称Founding Fathers(建国の父)の中でも最も知名度が低く、ドル札でしかみたことがないという人がアメリカでもほとんどだったという。
開演とともに流れる曲、Alexander Hamiltonで語られる彼の生い立ちで、私たちは、彼がカリブの島で生まれた私生児で、母を亡くしたあとに、アメリカにわたってきた移民であることを知る。
そんな彼が一代にして初代財務長官に上り詰めたことに驚きながら、キャストは「みてろ、また一人移民が上まで這い上がっていくから(Another immigrant coming up from the bottom)」とうたう。

Im just like my country Im young scrappy and hungry (俺ら、この国<アメリカ>みたいに、まだ若く、ツギハギで、ハングリーだからさ)【My Shot
と叫ぶように声を張り、額から汗をツーっと流すMirandaと今のアメリカを生きるキャストたちにその言葉の真価を私たちは見る。Hamiltonは史実としては白人の人物もすべてカラード(Colored)のキャストをあえて登用していることで話題になった、ブラックのワシントンやラファイエット、アジア系のエライザ、そしてラティーノのハミルトン。アーサー・ミラーが『The Crucible(坩堝)』のなかで魔女裁判を使って、赤狩りに克明に抗議したように、HamiltonはそんなMirandaと彼が率いるキャストたちが、その歌とパフォーマンスを通じてアメリカの今に語り掛け、歴史に身を重ねて身を奮い立たせる舞台だ。Essentials of Migration Management 2.0 - Home
こめかみが切れるほどの必死さと、肌が震えるのほど当事者性がこの舞台を泥臭く完成させる。
そんな、英米キャストで見ることの違い、初演キャストと、その後のキャストでみることのコントラストを非常に考えさせられた鑑賞体験でした。

Miranda率いるトニー賞パフォーマンス

実際のパフォーマンスというと、前述のとおり、むしろ米国初演キャストよりも完成度は磨きつくされているくらいで、ただただ最高峰をみているなという感想につきる。
冒頭で、オリンピックの水泳種目のすべてを総なめにしたような舞台だということを述べたが、本当に、それを肌身でかんじるというか、ただ話題になったから、全てをとったのではなかったことがわかる。照明から、舞台セット、振り付けまでどこにも隙がないほどに考え抜かれている。無理矢理に一言で述べるならば、特に印象にのこったのは、緩急の絶妙なコントラスト。
例えばアンジェリカのソロ【Helpless】で、アンサンブルがダンスをピタッととめて、回転式の床をつかうことで、時を振り返る演出、
その後、戦友となる仲間に初めて出会うAaron Burr Sirのシーンでは、オーケストラがいきなりスッと消え、拳で机をダンダンダンとたたく音だけで歌うアカペラ

衣装やセットも引き算の仕方が一流。
セットも実は木製の枠組みがほとんどで、それをぐるっと囲むように二階バルコニー部分がある。その他目立つセットは椅子と机くらい、
衣装も多くのシーンは、薄いベージュのピタッとした軍服ぽい衣装でアンサンブルはほとんどそろえている。身体のラインを見せる、スキニーな衣装はPippinを彷彿とさせるところがあった。
椅子は振り付けの中でもとてもうまく使われており(特に【Yorktown】等)、作品を通じて、「権力の座」「Ownership」のシンボリズムとしてストーリーと絶妙に共鳴していた。
衣装が実は色のトーンをそろえながらも、何回も着替えを挟んでいることや、
セットもここぞというところで、効果的につかっているところに、
考えに考えつくされた引き算の美学があり、その精緻な時計仕掛けのようなアートに始終圧倒されていた。

セットの様子。二階から吊られた階段がシーンによってはパタンと降りてくる。床は三重の回転式
最後に、家に帰ってから、買ってきたパンフレットをニマニマしながら眺めていたときのこと。背表紙にいろいろなキャラクターのシルエットが描いてあるんですが、ひとつずつ、「これはワシントン、これはラファイエット」と追っていったとき、ふと指がとまる。
それはどうみても、額と額をよせているハミルトンと妻エライザのシルエット。
となると、あのメインロゴの左手を掲げているのは・・・?
そこでふとハッとして思わず「えっ」と声をあげてしまった。
このシルエット・・・・Burrなのでは?
Hamiltonの名と星を土台に迷いなく指を天に掲げているのは、この作品の"ヒーロー"たる主人公だとなんの疑いもなく思ってきた。

よくよく、見るとその顔の形も長髪のハミルトンではなく、短く刈ったBurrに酷似している。
背筋をスッと伸ばし、星の元に身を翻すのは、建国父ハミルトンではなく、彼を殺した政敵Burrなのだ。

パンフレット裏面にはキャラクターのシルエットが







Who lives who dies who tells their story…History has Its Eyes on You】
まさにその節と完全に呼応したそのシンボリズムの強さに心底おどろいた。
このシルエット一つをもって、舞台の解釈の深みをまた一つ重ねるその巧さに、改めてハミルトンというこの舞台の精到に計算つくされた完全犯罪を確信したのでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿