2020年7月16日木曜日

人生は舞台みたいだけれど、やっぱり舞台ではなくて

ここのところ、とてもつらいことがあった。
自分が数年間積み上げてきたと思ったものが一気に崩れ落ちるような感覚で、
足元がぐらつく中でちょっとどうしいいかわからないくらいに自分を見失った。

大好きな舞台の音楽を聴きながら私は自分を役に重ねていた。
辛さに吸い込まれそうなとき、憤怒で拳をにぎりしめているとき、舞台の音楽の力強さに私はいつも救われる。
キャラクターの独白が自分の胸のなかでぎちぎちに絡まっているものをほどいて心象風景をあざやかにそこに広げてくれる。それはいわばカタルシスである。

Evanは心細さを、Janisが裏切られた自分を、ElphabaとMatildaは抑圧への不公平感を歌に乗せて重ねてくれる。

私は彼らの言葉をなぞりながら、安心する。
舞台は私に共感してくれるからだ。

でも舞台は私に共感はしてくれるかもしれないが、現実は舞台とは異なる。
ソロのバラードに乗せて私の周りの人たちが内面を吐露してくれるシーンはない。

私の話していた相手は八方美人のCadyか、流れに身をまかせるしかなかったEvanか、役に徹しながら本当はFor Goodを心刻むGlindaか、自分が正義と信じて疑わないFloroかはわからない。

相手の目を見ながら、メールの語彙一つ一つを手繰り寄せ、行間に見えない気持ちを探しながら、
悩むことしかできない。
だから現実は戯曲ではない。
相手の本当に考えていたことなんてわからない。
シーンはいつまでたってもすすまず、見えない相手の気持ちを確かめようと目を泳がせてるとき、
自分は暗転の中で立ちすくんでしまうような気持ちになる。

例えば、相手の気持ちを手に取ることが無理でも
自分がハッとスポットを浴びてモノローグで空気を握れたらいいのに、とも思う。
EvanがWords Failで嗚咽をあげながら告白するように、JanisがI’d Rather be meで自分を貶めてくる人に付き合ってる暇はない、と宣言するように、私だって自分が苦労してなんでもないフリをしなくてもよければいいのにと思う。
I wish I also owned the discourse of the moment と思ってやまない。

でも、Pippin がOh, it's time to start livin’, Time to take a little from this world we're givenというように、私や相手の気持ちがどうなろうと、現実のシーンは先に進む。そして、シーンは絶えず次に更新されていくからこそ、私は自分のこのプロットをどうにだってできる。
Matildaだっていっている、

Like Romeo and Juliette
Twas written in the stars before they even met
That love and fate and a touch of stupidity
Would rob them of their hope of living happily
The endings are often a little bit gory
I wonder why they didn't just change their story
But nobody else is gonna put it right for me
Nobody but me is gonna change my story
Sometimes you have to be a little bit naughty

私たちの現実は舞台ではない。
運命も、既定のレールもないし、エンディングなんてきまってない。
だから、今いるプロットが嫌なら自分でどうにだって変えることができる。
それはPippinが最後サーカス小屋を剥がしていくように。
これを謳っているのもまた舞台の主人公たちだということは、驚くほどのアイロニーとウィットである。

だから私は現実は舞台ではない、という冷厳な事実にたちすくみながらも、
また少しの余裕がでてきたら、自分の気持ちを舞台の歌に託すのだと思う。
私が舞台で演じきれなかったシーンを代弁してほしいという願いと、
これから自分が描きたいプロットに期待をよせながら。


ここ数週間自分を励まし、包んでくれた曲たち
自分の救急箱にしたくてプレイリストで残してみた。