一年がたった。
去年、着慣れないスーツに腕を通したあの時から見えていた景色と、今と何が違うだろう。
一年間終えた今私が感じているのは達成感とは少し違う。
まずは安堵。自分が逃げ出さなかったこと、潰れてしまわなかったこと、今ここにたっていること。
次に納得、理解。
人は就職して、就労生活を始めることを「社会に出る」という。
一年間前のわたしには、その表現がピンとこなかった。学生であるわたしは今まで「非社会的」であったのか?
でも、一年たった今わかる。わたしは自分が想像していた以上に自己本位な環境にいた。
6年間守られた箱庭にいた自分は社会がどういう仕組みでまわっているのかやはり理解していなかった。
社会は労働と契約、就労と報酬、組織と規律で駆動されていることを実感した。そして、学生はやはりそのロジックに身を絡められないところにいる。
一年前、入社したころ、研修が大嫌いだった。意味を考えさせまいとするルールに溢れていたから。「ルールに従うというのがルール」とある日言われて吐き気がした。そんなの全体主義だと思った。わかっている、考えすぎなことは。
現場にはいってからはPower(権力)の本質を知った。今までろくに部活社会にもいたことのない私はだいたい地位の違いみたいなものを理解していなかった。「自分がされたくないことをしない」というのは人間関係の基本だと思っていたし、双方向に与えるものがある互恵的な関係が良好な人の繋がりだと思っていた。
でも、それは対等な人間関係、またはそれを許してくれる人との上下関係のみの話だと気づいた。遅い。それは知っている。
上下関係というのはもっと有無を言わせない。大義のための理不尽は日常だ。発言力、人権を向上させるためには、Powerをつけなければいけない。
これは私の部署の話でも、会社のはなしでも、日本社会のはなしでもないと思う。私があまりにもナイーブだったのだ。
大学時代、政治学徒としてマルクスとか、アーレントとか耳にして、わかったつもりでいても、私のなかで、それは実はフィクションだったのだろう。肌が吸い込む日常じゃなかったのだ。
それから、「価値」についても学んだ。企業の中で私を判断するのは「価値創造」という基準だ。それも相対的な。就活のころから少しは気づいていた。自分も市場の商品だということを。わたしのわかりやすい価値は語学だ。それは理解した。他者との差を明示的に示しやすい特性だし、明確な情報量の増加や、コストカットに貢献する。都合の良い通訳になるなんて嫌だ、内実でなくツールでしか評価されない、そんなことを言っている場合ではない。自分が何をしたいかじゃなく、自分の評価される技能はなにか、を考えて戦略的には生きなければならない。居場所はきっとあるものでなくて、作るものだから。
一年を終えて、私の目はきっとキラキラ輝く希望の塊じゃないし、すこしくすんでいて、でもきっと一年前よりもあるがままの景色をみていると思う。写真集に溢れる綺麗なシーンの切り取りに頭をうずめていた一年前に比べ、いまは現実の混沌を歩いている。外に出てみる景色はめちゃくちゃで、暴力的だけど、生を感じる気がする。
本の虫、やっと外にでれました。まだ、その破壊的なエネルギーに慣れているほんの途中です。