台湾で生まれたのちに、3歳からずっと日本に住む作者がことばとゆっくり刻んできた関係を丁寧に丁寧に綴ったエッセイ。自分が人生の大半を過ごしてきた国の言葉と「母国語」という関係が結べないこと、自分の母国である台湾の國語、中国語が思うように操れず、どこか切り離された母と子のようにかんじること、大陸から「南方の言葉」と呼ばれながら、國語と不可分に肌に浸透している台湾語、彼女を育てた3つの言葉との揺らぎながら親密な関係、そこから馳せる、国、国籍、越境への思い、すべてが愛おしくなる切実さで記されている。
私は母国語、母語を聞かれた時に迷いなく日本語と答えるだろう。私は両親も親戚も皆日本人だし、国籍も日本だ。一方私は日本語と同じように英語にも育てられてきた。バンコクのインターナショナル・スクールに通っていた私は温さんがちょうど日本語を「国語」として学びはじめたのとほとんど同じタイミングで、ある日突然全てが英語の世界におかれることになった。
幸か不幸か英語は「グローバル言語」としての地位をすでに我が物にしており、そして私がそれを学んだのがタイという第三国だったということもあり、私はその時点で国語や国籍について心を悩ますことは、作者の温さんほどにはなかったように思う。
でも、自分の中に生きている複数の言葉がその地位を変え、その中で自分が育っていく感覚に私はとても強く共感した。
一言も英語が話せなかった7歳の私は、気づけば1年半ですでにまわりのいわゆる「ネイティブ」の子どもたちと新しく自分の中にやってきたその言葉を遜色なく扱うことができるようになっていた。そのタイミングから、日本語は私の中で「お家で話す言葉」になっていく。物事をどんどん吸収していく時期、その知識を運んできてくれるのは英語であり、私の中で広がっていく世界はほとんど英語によって構成されるようになっていった。
小学校5年生後半に日本に帰国した私は100点満点の漢字のテストで8点しかとれなかった。
学校の子たちにはそれからしばらく「8点」と呼ばれ、からかわれたことをいまでも覚えている。
帰国したときは、自分の自我を構成するあまりにも多くが英語、そしてタイに根ざしていて、東京のマンションのダイニングテーブルで私は大声をあげて泣いたことを覚えている。
一方で、日本語はわたしと日本を最も強くつなぎとめていたものだったようにも思う。
アジアのはずれのタイに居た自分にとって、東京や日本は「憧れ」だった。同時にそれは私の「母語」でもあった。日本語は私を父や母と結ぶ言葉であり、従妹や祖父母と結ぶことばである。温さんが、言葉の境界を軽々しく飛び越えてはいかないように感じていた、とつづっているように、私も家では日本語で話すもの、と誰から言われることもなく強く思っていた。英語でしか言葉が浮かばないときに私はそれを恥じたし、どうしても英単語を混ぜなくてはいけないとき、私のあたまの中で探し出せなかったその日本語の単語を母に探してもらい、必ず置き換えてもらっていた。
その後、私は中学校を日本ですごし、失われかけていた母国語の地位を日本語は驚くほどの速さで取り戻していった。
高校になると私はオーストラリアに引っ越す。父の赴任の話をきいたとき、私はタイから日本に帰国した時点での日本語と英語の地位がもう完全に逆転していることに気づいた。私の精神世界は日本語がそのほとんどを占めていて、かつて主だった英語は隅に追いやられていた。家庭の言語も日本語だったわたしにとっては、自分が拾い上げてあげなければ、その灯火はいつか消えてしまうように感じられた。そして、今度は自分の失われた「国語」を再び取り戻すために私はシドニーに行きたい、と両親に伝えた。その時の感覚が中国語を学ぶときの温さんの感覚にとても似ている。
かつて自分の中で絶対的な中心を占めていた英語が気づけば小学生のレベルで足踏みをしていた。私が飛び込んだのは高校である。発音ばかりいいものの、言語的な世界は様変わりしていた。九九をおぼえたり、物語文を読んでいたはずのかつての英語世界はそこにはなく、シェイクスピアと物理・化学が待ち受けていた。しかも、英語に対してタイが第三国であったのに対して、オーストラリアは英語を「所有」していた。私は、圧倒的なよそ者として、自分の稚拙な英語をひっさげていくことになる。そこからの三年間はまさに温さんが中国語を取り戻していったように、自分の「失われた国語」を取り戻すような時間だった。英語が下手にできるからこそ、私はとても英語に神経質になった。なぜならそれは「間違えてもいい外国語」だと割り切れないから。私を育て、自分のコトバだと思ってきた言語に対して、稚拙さを露呈することは許されなかった。英語を自分の言葉のように操ることが私を私たるものにし、私の流浪性を可視化させ、日本と日本語に対する揺らぐ関係を説明するものだったから。「英語がうまいね」といわれることは褒め言葉ではなく、自分の自尊心を羞恥で燃やし、失意に落とす一言だった。完璧であることしか、自分に対して許さない英語とわたしの関係はこのころから少し緊張感のあるものだったように思う。
その後、私は再び大学で日本に帰る。グローバル化が叫ばれる今だ。よく聞かれる「なんでそのまま海外の大学に行かなかったの?」。しかし、私の中で日本に帰ることはあまり迷う余地がなかった気がする。それはこのまま大学教育も英語で受けていたなら、今度は私の日本語が自分の精神世界で中学生のままに置き去りにされてしまうことをわかっていたから。英語という「国語」を一生懸命取り戻していた間、私の日本語はまたすべり落ちるぎりぎりのところに居たように思う。
英語がそうであったように、日本語についても私は完璧でなければ自分自身が肯定できないとおもってきた。どちらの言語も不自由なく操れることで私ははじめて認められる存在であると。日本語ができることで、私の英語がときに滑らかさに欠くことは説明されるし、私が英語ができることで私の日本語が時折不自然なことは正当化される。常にそう感じてきた。そうでなければ、自分はどこにいてもただの半人前だと。
随分前から、私は単一の言語では完全に自分の精神世界を表現できなくなっている。温さんのママ語がそうであるように、温さんのなかで「わたし」という一人称が既に「日本語のわたし」であるように。完全には鏡映しにはならない二つの言語を使う中で、どちらかに自分の言語を限定しなければいけないことは、それだけで制約であった。でも、高校で日本語は決して英語のなかに織り交ぜてはいけないものであったし、日本語の中に英語を混ぜなければいけない自体は恥ずべきことだった。幸い、大学以降そんな複数の言葉がうずまく世界を共有する仲間をみつけ、また書いて自己表現するということを覚え、一つの言語で自分をすべからく表現しなくてはいけない、という呪縛からは解放された。
日本語も英語も完璧でなくてはいけないという、自分で自分に課した足枷からも少しずつ解かれつつあるように思う。
言葉は誰のものでもない。言葉が所有されていると思うからこそ、その境界を飛び越えることは何かを侵しているような気持ちにさせられる。赤子のころからその耳から注ぎ込まれる音に自分自身が育てられるように、自分と外を繋ぐために紡ぐ言葉は自分が拾い、育てあげてきたものである。本来それを括り、縛り上げる必要などないはずであり、しかし、それを実感し、気づけるまでに、多言語の中に暮らす当の本人たちが一番葛藤を抱え、時間を要する気がする。作者の温さんが、台湾語・中国語・日本語を混ぜて話す母の言葉は何語でもなく、ママ語である、と言うように、
複数の言語が一つの旋律として奏でられるそのこと自体を豊かである、
それをゆっくりかみ締めることを思い出させてくれたエッセイでした。
私は母国語、母語を聞かれた時に迷いなく日本語と答えるだろう。私は両親も親戚も皆日本人だし、国籍も日本だ。一方私は日本語と同じように英語にも育てられてきた。バンコクのインターナショナル・スクールに通っていた私は温さんがちょうど日本語を「国語」として学びはじめたのとほとんど同じタイミングで、ある日突然全てが英語の世界におかれることになった。
幸か不幸か英語は「グローバル言語」としての地位をすでに我が物にしており、そして私がそれを学んだのがタイという第三国だったということもあり、私はその時点で国語や国籍について心を悩ますことは、作者の温さんほどにはなかったように思う。
でも、自分の中に生きている複数の言葉がその地位を変え、その中で自分が育っていく感覚に私はとても強く共感した。
一言も英語が話せなかった7歳の私は、気づけば1年半ですでにまわりのいわゆる「ネイティブ」の子どもたちと新しく自分の中にやってきたその言葉を遜色なく扱うことができるようになっていた。そのタイミングから、日本語は私の中で「お家で話す言葉」になっていく。物事をどんどん吸収していく時期、その知識を運んできてくれるのは英語であり、私の中で広がっていく世界はほとんど英語によって構成されるようになっていった。
小学校5年生後半に日本に帰国した私は100点満点の漢字のテストで8点しかとれなかった。
学校の子たちにはそれからしばらく「8点」と呼ばれ、からかわれたことをいまでも覚えている。
帰国したときは、自分の自我を構成するあまりにも多くが英語、そしてタイに根ざしていて、東京のマンションのダイニングテーブルで私は大声をあげて泣いたことを覚えている。
一方で、日本語はわたしと日本を最も強くつなぎとめていたものだったようにも思う。
アジアのはずれのタイに居た自分にとって、東京や日本は「憧れ」だった。同時にそれは私の「母語」でもあった。日本語は私を父や母と結ぶ言葉であり、従妹や祖父母と結ぶことばである。温さんが、言葉の境界を軽々しく飛び越えてはいかないように感じていた、とつづっているように、私も家では日本語で話すもの、と誰から言われることもなく強く思っていた。英語でしか言葉が浮かばないときに私はそれを恥じたし、どうしても英単語を混ぜなくてはいけないとき、私のあたまの中で探し出せなかったその日本語の単語を母に探してもらい、必ず置き換えてもらっていた。
その後、私は中学校を日本ですごし、失われかけていた母国語の地位を日本語は驚くほどの速さで取り戻していった。
高校になると私はオーストラリアに引っ越す。父の赴任の話をきいたとき、私はタイから日本に帰国した時点での日本語と英語の地位がもう完全に逆転していることに気づいた。私の精神世界は日本語がそのほとんどを占めていて、かつて主だった英語は隅に追いやられていた。家庭の言語も日本語だったわたしにとっては、自分が拾い上げてあげなければ、その灯火はいつか消えてしまうように感じられた。そして、今度は自分の失われた「国語」を再び取り戻すために私はシドニーに行きたい、と両親に伝えた。その時の感覚が中国語を学ぶときの温さんの感覚にとても似ている。
かつて自分の中で絶対的な中心を占めていた英語が気づけば小学生のレベルで足踏みをしていた。私が飛び込んだのは高校である。発音ばかりいいものの、言語的な世界は様変わりしていた。九九をおぼえたり、物語文を読んでいたはずのかつての英語世界はそこにはなく、シェイクスピアと物理・化学が待ち受けていた。しかも、英語に対してタイが第三国であったのに対して、オーストラリアは英語を「所有」していた。私は、圧倒的なよそ者として、自分の稚拙な英語をひっさげていくことになる。そこからの三年間はまさに温さんが中国語を取り戻していったように、自分の「失われた国語」を取り戻すような時間だった。英語が下手にできるからこそ、私はとても英語に神経質になった。なぜならそれは「間違えてもいい外国語」だと割り切れないから。私を育て、自分のコトバだと思ってきた言語に対して、稚拙さを露呈することは許されなかった。英語を自分の言葉のように操ることが私を私たるものにし、私の流浪性を可視化させ、日本と日本語に対する揺らぐ関係を説明するものだったから。「英語がうまいね」といわれることは褒め言葉ではなく、自分の自尊心を羞恥で燃やし、失意に落とす一言だった。完璧であることしか、自分に対して許さない英語とわたしの関係はこのころから少し緊張感のあるものだったように思う。
その後、私は再び大学で日本に帰る。グローバル化が叫ばれる今だ。よく聞かれる「なんでそのまま海外の大学に行かなかったの?」。しかし、私の中で日本に帰ることはあまり迷う余地がなかった気がする。それはこのまま大学教育も英語で受けていたなら、今度は私の日本語が自分の精神世界で中学生のままに置き去りにされてしまうことをわかっていたから。英語という「国語」を一生懸命取り戻していた間、私の日本語はまたすべり落ちるぎりぎりのところに居たように思う。
英語がそうであったように、日本語についても私は完璧でなければ自分自身が肯定できないとおもってきた。どちらの言語も不自由なく操れることで私ははじめて認められる存在であると。日本語ができることで、私の英語がときに滑らかさに欠くことは説明されるし、私が英語ができることで私の日本語が時折不自然なことは正当化される。常にそう感じてきた。そうでなければ、自分はどこにいてもただの半人前だと。
随分前から、私は単一の言語では完全に自分の精神世界を表現できなくなっている。温さんのママ語がそうであるように、温さんのなかで「わたし」という一人称が既に「日本語のわたし」であるように。完全には鏡映しにはならない二つの言語を使う中で、どちらかに自分の言語を限定しなければいけないことは、それだけで制約であった。でも、高校で日本語は決して英語のなかに織り交ぜてはいけないものであったし、日本語の中に英語を混ぜなければいけない自体は恥ずべきことだった。幸い、大学以降そんな複数の言葉がうずまく世界を共有する仲間をみつけ、また書いて自己表現するということを覚え、一つの言語で自分をすべからく表現しなくてはいけない、という呪縛からは解放された。
日本語も英語も完璧でなくてはいけないという、自分で自分に課した足枷からも少しずつ解かれつつあるように思う。
言葉は誰のものでもない。言葉が所有されていると思うからこそ、その境界を飛び越えることは何かを侵しているような気持ちにさせられる。赤子のころからその耳から注ぎ込まれる音に自分自身が育てられるように、自分と外を繋ぐために紡ぐ言葉は自分が拾い、育てあげてきたものである。本来それを括り、縛り上げる必要などないはずであり、しかし、それを実感し、気づけるまでに、多言語の中に暮らす当の本人たちが一番葛藤を抱え、時間を要する気がする。作者の温さんが、台湾語・中国語・日本語を混ぜて話す母の言葉は何語でもなく、ママ語である、と言うように、
複数の言語が一つの旋律として奏でられるそのこと自体を豊かである、
それをゆっくりかみ締めることを思い出させてくれたエッセイでした。