2020年2月10日月曜日

Matildaと労働

先日久しぶりに舞台Matildaをみた。私にとっては思い出深い作品だ。初めてみたのは2014年。入社2年目のロンドン出張の時だった。舞台オタクなので、ロンドンやニューヨークに行くときは選択肢が多すぎて頭を悩ませるのだが、その時は迷うことなく、真っ先にMatildaを予約した。

転職して2年も経ったので、closetの中でなくても話せると感じはじめたが、私は前職時代本当に苦しんだ。どんな場所に旅行しても壊したことない胃腸が自慢だったのに、入社半年で逆流性食道炎になり、同じ年の秋には突然の腹痛で病院でそのまま5時間点滴につながれたりした。腹痛の原因は不明と言われた。「理由はわからないが、胃がものすごい炎症をおこしている」と。

食道炎の時と点滴の時のちょうど間くらいだっただろうか、初めての出張をした。その出張が入社以来の私のストレスと辛さを集約したような3日間だった。行き先はインド。ずっと行ってみたかった場所だったはずだった。でもインドについて私が触れることができたのは、ホテルにいたインド人従業員と、2泊で食べたインドカレーくらいだったことに嘆いた。夜、ホテルでベッドに倒れこんでふとYoutubeにあがってきた、Matildaのトニー賞受賞時のパフォーマンスをみた。見た瞬間、仕事着とメイクもそのままにボロボロ泣いた。机の上に上がり、顔を真っ赤にして叫び、ホッケースティックを振りかざし、怒る子どもたちがものすごくかっこよくみえたのだ。

だから、そのちょうど一年後にロンドンでMatildaをみたとき、私は文字通り号泣した。目の前のこどもたちが、私がいえないこと、抑圧されて私の中で窮屈にしている自我を代弁してくれるように感じた。それはある種のカタルシス体験だった。
例えば、School Song、子どもたちが新学期初めて小学校に登校した新一年生たちに対して

上級生が歌う曲なのだが、この曲に込められた皮肉は強烈だ。

So you think you're A-ble 
To survive this mess by B-ing a prince or a princess, 
you will soon C (see),
There's no escaping trage-D .
And E-ven If you put in heaps of F-ort (effort),
You're just wasting ener-G (energy),
'Cause your life as you know it is H-ent (ancient) history.
I have suffered in this J-ail .
I've been trapped inside this K-ge (cage) for ages,
This living h-L(hell),

え、おすまし顔してこのカオスを生き延びられるとでも思ってる?
すぐにわかるよ、この悲劇から逃れる方法なんてないってことを。
どんなに努力したって、それは労力が浪費されているだけ
だって、昨日までの君の人生なんてもう太古の歴史だから。
僕らもこの監獄で苦しんできたんだ
この檻の中にずっととらわれてる
この生き地獄

Like you I was Q-rious (Curious),
So innocent I R-sked (ask) a thousand questions,
But, unl-S you want to suffer,
Listen up and I will T-ch you a thing or two.
U, listen here, my dear,
You'll be punished so se-V-rely if you step out of line,
And if you cry it will be W should stay out of trouble,
And remember to be X-tremely careful.

私だって君達みたいに興味津々だった
無垢な目でいろんな質問したさ
でも苦しみたくなかったら、疑問はなげかけないほうがいい。
だから、一つここはアドバイスをあげるよ、だからよく聞いて
ここでは線を踏み外したら、厳格に罰せられるんだから
泣こうものなら、さらにきつく当たられるよ
問題は起こさないほうがいいよ
だから気を付けて


これは、私が感じてることそのものだった。
入社するまえのワクワク、緊張、自立したことへの誇り、
それを思い出しては、縛られたような窮屈と踏み外してはいけない規律については、
話してはいけないとおもった。
だって、「問題はおこさないほうがいい」から。
だから、舞台でこの曲が歌われているときに、声を潜めて話さなければならないような秘め事を大きな声で堂々と宣言されているような清々しさと感謝を覚えた。
それをほんの7-8歳の子たちが歌っているというアイロニーもすごい。
子どもは学校を楽しんで、行けることに感謝しなければならない、という無言の前提を一気にかき消すような全力の声がそこにはある。
内在した圧力を吹き飛ばすパワフルさがあるのだ。
(余談だが、このSchool Songの歌詞がA-Zの順になってるかっこよさも本当に痺れる)

私の周りをみると、日本人、日本で働いている人に特にMatildaのファンは多いように感じる。上記の私もそうだが、他にも何十も作品をみている舞台ファンがお気に入りの作品にあげたりしている。今回一緒にみにいった私のパートナーも、数か月前に初めてみたMatildaに衝撃をうけ、今回半年足らずで二人で再訪することにした。

日本はいまだ体育会型の厳格な規律が社会を駆動していると感じる。とくに労働において。第二次世界大戦を振り返ったときに、日本は権力が仕組みのなかに埋め込まれており、ドイツやイタリアのような個人のドグマを象徴として敷かれるヒエラルキーや、政治的カリスマに牽引される英米とはことなり、軍、という仕組みそのものが権力となっていたことが、その後の戦犯を裁く際もことを複雑にした、という声もある。(天皇制の理解の仕方にもよるので、あくまで解釈の一つではあるが)その後、日本は製造業を主軸産業とし、高度成長をとげた。一定の品質で生産を大規模化、効率化させていく製造業の性質もこの強い規律に駆動される労働規範に非常に合致していたのだと思われる。
いまや日本のGDPの7割はサービス業が担っている。しかし、日本はその就労文化はいまだ、軍国主義の時代、そしてそこからの大量生産の工場労働を維持しているように思える。

例えば私の前職であるコンサルを例にとってみたいと思う。
本来サービス業は提供するサービスの価値に対して対価が払われるべきだ。しかし、日本ではそうではないことが多い。日本は本当に暮らしやすい国だが、それは消費者としては、払っている金額に対してサービスが不均衡に過多であることが大きいと思っている。
コンサルも、本来であれば我々が提供してる価値、分析の質、得てきた情報の質、提案が与える示唆に対して払われるべきであると思う。しかし、現状そうとはなっていないところが多い。コンサルと一言にいっても細かく分けるとビジネスモデルは異なるかもしれないが、例えば私の前職では私の一時間の労働の対して単価がつけられ(これが私の給料になるわけではない)、何時間分の労働、またはそれに相当する成果をあげたかでコンサルタンシーフィーを顧客からもらう仕組みであった。(私の記憶が正しければ大手の弁護士ファームもそういったところが多かったように思う)。私のアウトプットの値がついているのではない。私の身に値がついているのである。もちろんその背景には時間を費やせば費やすほど良いものができるという推論があるわけだ。しかし、それは同時にコンサルティング会社が利益を出すためには常に長時間の労働をささげる以外にない、ということでもある。中には民間企業をお客さんにした場合に、アウトプットで評価してフィーを払ってくれる場合もある。しかし、その仕事で多くのお客さんが「量」で仕事を評価していたのを思い出す。

例えば新規事業立ち上げのためになるような参考事例を調べてほしい、といったとき、本来であればその新規事業に最も参考になるような良例をいかにだすか、ということが大事だとおもう。しかし、こういった事例を調べるときにも、「何十例だしてほしい」みたいなことを言われたりする。それは、その何十分の一であることが正当性を高めるからなのだが、別にその例は調査の際に3つ目にでてきているかもしれないし、絶対的な価値があるかもしれない、のにだ。

コンサルを目指す学生やその業界外から「高い専門性」で付加価値を提供しているというイメージをもたれている、なかにはコンサル自身もそのように勘違いしていることさえある。しかし、ほとんどの場合、クライアントに自社にはない時間と労力をお金で買ってもらう、というのがコンサルビジネスだ。コンサルの中で、自分がクライアントより優れているから、自分の仕事をできると思っている人がいるとしたら、それは思い上がりだと思ったほうがいい。クライアントにないのは時間と人手である、彼らは毎日の通常業務で忙しい。普段の仕事に加えて、言ったこともない途上国のビジネスチャンスを調べる時間なんてない、自社が未開拓の事業分野について参入可能性を分析する時間なんてない、マーケットの市場分析をExcelでカチカチやる若手がいない。だから、私たちコンサルを時間で買う。

コンサルというと激務がつきものだが、本質的にはそれは逃れようがないとおもっている。当たり前だ。だって、私たちが何時間働くか、でお金が入っているんだもの。労働が短くなれば得られるフィーは少なくなり、儲けは減るのである。

少し脱線したが、こうした労働集約的ビジネスの場合、強い規律は非常に大事だ。いかに長い間人を労働に従事させ、生産性をおとさずにを稼働させるかが大事だからだ。行動規範は厳格に、一糸乱れず前進することがマネジメントのコストをさげ、効率を高める。上記は私が知っているコンサルの例だが、サービス業がGDPの7割を占めるようになった今も日本の多くの業種は労働集約的な工場労働に近いのかもしれない。厳しい規律のもとに、自分の時間をささげることで価値を生むような生産活動をしながら、私たちは自分たちをマチルダのこどもたちに重ねるのであろう。先のSchool Song を初めて聞いたとき、私は新人研修の時に言われたことを思い出した。
その研修講師は私たちの前に立つと言った、この研修の中では3つのルールがある、と。
最初の二つはもはや覚えていない。互いに協力しましょう、みたいなことだった気がする。最後に彼はいった「そして、3つ目のルールは、ルールを守ること」。
ぞわっと寒気がした。中身がないルール。
なにがルールであれ、それを守ることを約束させられる。全体主義だとおもった。
大げさかもしれない。なにをいってるんだ、たかが研修だろう、その数時間の研修会社が内容をこなすためのだけの道具だ、と。でも、私はいまだ忘れられない。それは問うことを殺すような一言だった。ただ規律に従うことを「研修」で教えている。この講師は前職の職員ではなかった。しかし、むしろ様々な会社が彼にこの「ルールを守る」研修をたのむことで彼は仕事をしていたともいえる。だから、「疑問はなげかけないほうがいい」し、「線は踏み外しちゃいけない」。その研修講師の前に起立して並ぶ私たちはまさにTrunchbullの前に顔を強張らせMatildaたちだった

Matildaはよくキッズミュージカル、と形容される。しかし、この作品をキッズミュージカルと呼ぶのはあまりに過小評価だと思う。キッズが出演者の大半を占める、という意味ではキッズが出てるミュージカルではある。しかし、それは学校という誰もが経験する規律教育を通じて、圧倒的な皮肉とともに「線を踏み外しちゃいけない」大人たちに送る応援歌なのである。



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