2015年11月17日火曜日

Foster your marbles -パリ同時多発テロをうけて-

J’envoie tous mes condoléances aux victimes de l’attaque qui s’est passé à
Paris pendant le weekend, aussi qu’aux autres victimes ailleurs y compris
Beyrouth, le Burundi, la Syrie, qui souffrent à leurs coins du monde.

It aches that yet again, one of the places that I hold dear to my heart had to suffer as it did.

私の周りの聡明たちな友人たちがこの数日で色々な考察を綴っていて、どれも私の拙い言葉よりも理路整然と物事を整理していると思う。だから、ここで私はあえて理ではなくて、情で語りたい。いま、ネットというバーチャルな空間だけでも吹き荒れている衝突にあえて、三人称ではなくて、一人称で話したい。

この2年間で、これまで私が育ってきた国の全てではテロが起こりました。そう言われると驚かれるかもしれない、どんな危険で激動な人生を送ったのだ、と。

まず、この言葉を発した時、聞く人はどこを思い浮かべるんだろう。

****************************************************************
アルジェリア(2013年・ガスプラント人質)
タイ(2015年・バンコク・エラワン)
オーストラリア(2014年・シドニー・マーティンプレイス)
フランス(2015年1月/11月・パリ)

****************************************************************

このリストをみると、納得する人の方が多いのかな、私には分からない。慣れる?慣れることなんてない。
朝起きてつけたテレビをみて、私は毎度のごとく、「信じられない」と思った。

涙もでなかったし、拳が怒りに震えることもなかったけど、胃腸がギリギリするくらいに絞られるようだった。

暴力そのものに対してもそのなのだけど、それ以上に自分にとっての「日常」がビリビリ破られる気持ちになるからだ。だから、何度体験したって、どんなにテロが起きそう、と予見されていても、胃腸か絞られるような辛さは変わらない。
そして、それを契機として、溢れるヘイト、阻害、排除、団結、糾弾、それがもっと怖かった。暴力に続いて瞬く間に引かれていく、「we」と「they」。それが「じぶんごと」として怖かった。私はどの国にも外国人として滞在したことがある。あわせて10年これらの国に流浪してきた。they の刃がいつ自分向けられてもおかしくないと思ってしまう。そして、もし仮に日本が戦争を始め、「団結」していったときに、「あんなどこで育ったかも分からないやつは敵国のやつだ」と日本でだって、いつその求心性のレトリックで排除されてもおかしくない。大袈裟でしょうか?

でも、他国や、日本の歴史でだって、これが起こりうることだということを私たちに示している。

パリに祈ることはできても、国旗を掲げて団結することは私には辛い。これはもしかしたら、伝わらない感覚かもしれないけれど、私にとって、フランス、日本、アルジェリア、オーストラリア、女、〇〇社員、〇〇区民、そんな括りはそれぞれ「私」といういれもの中に入っているビー玉のようなのです。

私が「日本」というおっきな袋にたくさんの人と一緒にビー玉としてガラガラと詰め込まれているのではない、自分の方がいれものなのです。




だから、自分の中のガラス玉がカンカンと激しくぶつかって、耳を刺すように響くのはとてもつらい。だから、胃腸がねじれる絞られたような気持ちになる。

*大好きなイラン系アメリカ人のコメディアン、Maz Jobraniが、自身のコメディーで ”think about it, part of me likes me, part of me hates me”
と言っていた。わかる。私でそうなのだ、多重国籍やハーフの人の気持ちを想像するとやりきれない想いになる。

トリコロールの追悼バナーを巡る議論も実は両方とも一人称の気持ちから来ているんではないかと私は見ていて思う。トリコロールを付ける人はきっと、パリの事件をもって想起する個人や、場所、思い出、情が「わたし」としてあるのだろう。それを懐疑的に捉える声も、トリコロールを掲げることで、その国旗の外に押しやられる世界の他のどこかが強く思いにあるのだと思う。

だからこそ、私はそれを一人称・二人称のままに感じて、示してほしいと願って成らない。

国旗のもとに、自分や想いを寄せる相手をおっきなビー玉袋にいれて、袋と袋に繋がれない境をつくってしまったり、その中身の多様性、個人がみえなくなってしまうのは悲しい。バナーを批判的に語るひとも、客観的に語りすぎて、自分を袋にいれてしまってはもったいない。「じぶんごと」として語れば国旗を載せている人と根幹は同じなのではないかと私は思う。

外から中がみえない麻袋では、中に入ったガラス玉一つ一つはおっきな袋を体積として成す一部でしかない。それを、上からハンマーで袋叩きにしても、なかでどのビー玉がガラス屑になってしまったかはわからない。全部がただの破片と化す。

わかるのは、何でできているのかよくわからない麻袋がしぼんだということだけだ。

そして、それこそがテロリストがはじめとする、憎悪をかきたてる人たちがしようとしているコトそのものではないの?

一つ一つは割るのを躊躇してしまう珠を、押し込めて見えなくすることで、匿名な塊にすることで、抹消することについて無感情になる。空爆やテロも同じ。あの人数、一人一人を武器を持たず自分の手だけで殺められるとは思えない。

だから、周りをいっしょくたに袋に押し込めるようなこと、自分を袋に入れてしまうことをしたくない。自分の様々なtrait/特性、情を感じる括りというのを、自分の中に納めていたい。

自分という袋のなかにそれを全部納めて、共存することをみて、
自分と同じガラス玉をもっている人、自分とは違う珠を持っている人をみつけて、それを互いに指さしながら、「自分」として接してほしい。

Let yourself be the biggest unit for all that you belong to. Don’t let
yourself be owned by a larger unit

(あなたが属する全てについて、あなたが一番大きな単位になってほしい。他のもっと大きな単位の何かに自分を所有されないでほしい)

私は、エゴなことに自分の体験の積み重ねでしか、物事は考えられない。

人間の想像力とはそんなものだ。

ニュースでどんなことを目にしていても、結局自己体験や近親の人の体験が一番強い。

「あんなこと、報道しているけどね、〇〇さんがこないだ行って来たらね、全然大丈夫だったのよ」こんなことを聞かないでしょうか?

だから、自分を大きく柔らかい袋として、たくさんのビー玉を詰め込んでほしい。

目の前で起きることが、They や Weから、I の問題になると、人はもっと腹、胎を傷めて考えられる。

だから私は袋を作るよりも、 ビー玉を増やしていきたい。

*今年は、上記ほとんどの街に仕事で久しぶりに再訪する予定だ。1つ1つのガラス玉に映った自分を見直して、そっと自分にしまい直したい。

0 件のコメント:

コメントを投稿