この季節になると、公共部門に少しでも足をつっこんでいる働き人にとっては、業務負荷が日に日に大きくなります。定時なんてとうに過ぎた時間、デスクでパソコンにむかっていたり、やむことのないメールに返信していると、考えざるを得ないのです。
「なぜ、日本はこんなに身を粉にしてまで働くのか」
もちろん、反論する人はいうでしょう。
「他国だって、徹夜で働いしている人はいる」
そうかもしれない。
でも、日本では圧倒的にオーバーワーク気味の人が多いところは自他ともに多くの人が認めるところではないでしょうか。他の国にももちろんそういう人はいるかもしれない。でもその一定層は「自らそれを望んで」しており、また、望まなくなった時点でその意思を表明することができる。
しかし、日本はこんなに働くことが幸せだなんて考えてはいないのに、反対できずに過労している人がほとんどな気がしている。それは私自身も含めてだ。
「責任感がつよい」
「細部への徹底した丁寧な仕事」
美辞麗句はいくらでもいえる。
でも、私はそのようなポジティブな側面だけで吸収してしまうべきではない日本の労働環境の構造がそこにはあるとしか思えなかった。
残業後の帰宅電車はそんなことを考えるものだ。
自分の置かれている状況を客観的に認識したい、そんな思いからふらふらと思考の散歩にでてしまう。
ぐるっと一周散歩をして思った
日本ではリーガルマインドが理解されていない。
仕事において人と人をつなぐのは「契約」ではなく「金」であると。
私がしているような、委託をうける仕事、サービス業全般、製造業の下請け等では特に顕著だと感じる。
何を言いたいか
それは、サービス提供者に対して契約の下の平等が与えられていないということだ。
お金を払っている人(=委託元)が「偉く」、下請けをただただその「命令」に従うべきだ、とされていることがあまりに多い。
そもそも法律、特段民法はなんのためにあるかといえば、
社会的な上下関係、商業上の強弱関係の下、いわば弱肉強食に任せて問題解決が行われることを避けるためである。法の下、人格は平等であることをその考えの基礎としている。
日本では形骸化しているが、契約書もその合意を結ぶ両者からの割り印があるのは、そのためである。商業契約においても、それは同じだ。
契約書は金を払っている依頼主が、ちゃんと納品を受けるためだけに存在するのではない。
業務を請け負っている会社が「合意した業務を提供する」代わりに「合意した報酬」を受ける。
このとき、業務は報酬との等価交換であることが暗に合意されている。
日本では,お金を払っている方が、
この等価交換が成立していないことを訴えることはあっても、逆はほとんどない。
例えばコンサル会社が言われる・・・・
-200万円で調査を委託したのに,この量じゃ想定していた調査量に全く足りない
印刷会社が言われる・・・・
-パンフレット100部を発注翌日に受け取れるという約束だったのに、日が暮れても納品物が届かない
でも実態はこんなことだったりする
-契約時に合意していた内容は「解釈」に次ぐ、「解釈」が加えられて、当初想定していた3-4倍の業務量にまで膨張。結果的にコンサル会社が提出済みの人件費単価で単純計算しても、働けば働くほどプロジェクトは赤字になっていく。これ以上調査を進めても会社にとってはなんの利益もうまないどころか、損失ばかり増えていく。
-そもそもパンフレットは当初50ページで一週間前に原稿データも送付されるはずだった。でも、実際に依頼主が送ってきた資料は150ページ、データが送られてきたのは前日夜。とてもじゃないが翌日までに完成させられる量ではない。会社はやむを得ず、夜間、印刷工場を稼働させた。
これはどちらも実話である。
もちろん、細部は特定を避けるために多少かえているが、日本のサービス業に努める人ならば、これと似た話はみな経験があるのではないだろうか。
委託を受ける側はいつも言われる。
「こんなんじゃ、お金を払えない」
「別に契約内容に具体的に書いているわけではないけれど、こんな対応も込みでしょ?それを期待しているから御社に頼んだのに」
「得意先のよしみで」
本当は私たちは契約を盾に訴えてもおかしくない。
極端な裁判文化の米国などでは、実際訴訟問題となるだろう。
「その業務は本来請け負っていないはずだ」
「その委託料でできる内容ではない。これではうちは大赤字だ」
しかし、日本にはその慣習がない。
「払えない」の一言に脅され、
「そんなことなら他社に乗り換える」の言葉で圧倒的劣位に追いやられる。
つまり先の一言に戻る。
日本ではいまだリーガルマインドが醸成されていないのだ。日本は先進国の中でもとくにサービス業の生産性が低いそうだ。いまやサービス業は我が国のGDPの7割を占める。日本の経済停滞の一因にこのサービス業の低生産性を挙げる人もいる。だが、このような契約意識では生産性が低いのも当たり前だ。
もっと踏み込めば、これは労働者⇔雇用者の間でもいえる。労働者が強い欧州と違い、日本は労働者から権利をつきあげることはまだまだ限定的だ。それよりも、雇用者が握る、「雇用」と「賃金」というのが圧倒的なパワー(権力性)を持つ。これが他国よりブラック企業や過労を生みやすい原因ともなっている。
だから、私たち労働者とて、サービス事業者とて、こんなに長く働きたいのではない。自分で選べる状況ならば、もっと早く帰る。
「なぜ、日本はこんなに身を粉にしてまで働くのか」
もちろん、反論する人はいうでしょう。
「他国だって、徹夜で働いしている人はいる」
そうかもしれない。
でも、日本では圧倒的にオーバーワーク気味の人が多いところは自他ともに多くの人が認めるところではないでしょうか。他の国にももちろんそういう人はいるかもしれない。でもその一定層は「自らそれを望んで」しており、また、望まなくなった時点でその意思を表明することができる。
しかし、日本はこんなに働くことが幸せだなんて考えてはいないのに、反対できずに過労している人がほとんどな気がしている。それは私自身も含めてだ。
「責任感がつよい」
「細部への徹底した丁寧な仕事」
美辞麗句はいくらでもいえる。
でも、私はそのようなポジティブな側面だけで吸収してしまうべきではない日本の労働環境の構造がそこにはあるとしか思えなかった。
残業後の帰宅電車はそんなことを考えるものだ。
自分の置かれている状況を客観的に認識したい、そんな思いからふらふらと思考の散歩にでてしまう。
ぐるっと一周散歩をして思った
日本ではリーガルマインドが理解されていない。
仕事において人と人をつなぐのは「契約」ではなく「金」であると。
私がしているような、委託をうける仕事、サービス業全般、製造業の下請け等では特に顕著だと感じる。
何を言いたいか
それは、サービス提供者に対して契約の下の平等が与えられていないということだ。
お金を払っている人(=委託元)が「偉く」、下請けをただただその「命令」に従うべきだ、とされていることがあまりに多い。
そもそも法律、特段民法はなんのためにあるかといえば、
社会的な上下関係、商業上の強弱関係の下、いわば弱肉強食に任せて問題解決が行われることを避けるためである。法の下、人格は平等であることをその考えの基礎としている。
日本では形骸化しているが、契約書もその合意を結ぶ両者からの割り印があるのは、そのためである。商業契約においても、それは同じだ。
契約書は金を払っている依頼主が、ちゃんと納品を受けるためだけに存在するのではない。
業務を請け負っている会社が「合意した業務を提供する」代わりに「合意した報酬」を受ける。
このとき、業務は報酬との等価交換であることが暗に合意されている。
日本では,お金を払っている方が、
この等価交換が成立していないことを訴えることはあっても、逆はほとんどない。
例えばコンサル会社が言われる・・・・
-200万円で調査を委託したのに,この量じゃ想定していた調査量に全く足りない
印刷会社が言われる・・・・
-パンフレット100部を発注翌日に受け取れるという約束だったのに、日が暮れても納品物が届かない
でも実態はこんなことだったりする
-契約時に合意していた内容は「解釈」に次ぐ、「解釈」が加えられて、当初想定していた3-4倍の業務量にまで膨張。結果的にコンサル会社が提出済みの人件費単価で単純計算しても、働けば働くほどプロジェクトは赤字になっていく。これ以上調査を進めても会社にとってはなんの利益もうまないどころか、損失ばかり増えていく。
-そもそもパンフレットは当初50ページで一週間前に原稿データも送付されるはずだった。でも、実際に依頼主が送ってきた資料は150ページ、データが送られてきたのは前日夜。とてもじゃないが翌日までに完成させられる量ではない。会社はやむを得ず、夜間、印刷工場を稼働させた。
これはどちらも実話である。
もちろん、細部は特定を避けるために多少かえているが、日本のサービス業に努める人ならば、これと似た話はみな経験があるのではないだろうか。
委託を受ける側はいつも言われる。
「こんなんじゃ、お金を払えない」
「別に契約内容に具体的に書いているわけではないけれど、こんな対応も込みでしょ?それを期待しているから御社に頼んだのに」
「得意先のよしみで」
本当は私たちは契約を盾に訴えてもおかしくない。
極端な裁判文化の米国などでは、実際訴訟問題となるだろう。
「その業務は本来請け負っていないはずだ」
「その委託料でできる内容ではない。これではうちは大赤字だ」
しかし、日本にはその慣習がない。
「払えない」の一言に脅され、
「そんなことなら他社に乗り換える」の言葉で圧倒的劣位に追いやられる。
つまり先の一言に戻る。
日本ではいまだリーガルマインドが醸成されていないのだ。日本は先進国の中でもとくにサービス業の生産性が低いそうだ。いまやサービス業は我が国のGDPの7割を占める。日本の経済停滞の一因にこのサービス業の低生産性を挙げる人もいる。だが、このような契約意識では生産性が低いのも当たり前だ。
もっと踏み込めば、これは労働者⇔雇用者の間でもいえる。労働者が強い欧州と違い、日本は労働者から権利をつきあげることはまだまだ限定的だ。それよりも、雇用者が握る、「雇用」と「賃金」というのが圧倒的なパワー(権力性)を持つ。これが他国よりブラック企業や過労を生みやすい原因ともなっている。
だから、私たち労働者とて、サービス事業者とて、こんなに長く働きたいのではない。自分で選べる状況ならば、もっと早く帰る。
ただ、
「うちができるのは今日ここまでです」
この一言が社外にいえない、その一言が通らないことが、私たちをデスクに縛り付けている。
「うちができるのは今日ここまでです」
この一言が社外にいえない、その一言が通らないことが、私たちをデスクに縛り付けている。
本当にワーカホリックな人はほんの一部である。本当に細部への気配りを徹底することで、長時間労働になっている人なんて一握りだ。
上司だけが偉そうにして、部下だけに仕事を押し付けるような労働倫理の崩壊した会社が東証一部を埋め尽くしているわけではないだろう。
実態は、報酬を振りかざし、無理難題をふりかけてくる顧客からのメールをみて、肩を落として上司・部下共々溜息をつきながら、残業の明かりを窓から零している。
繁忙期、思考の散歩は業務量を減らしてはくれないけれど、自分の置かれている状況が客観的に理解できると、仕組が理解できると、幾分か楽になるものです。
契約の下、平等がないところにノー残業はないわけです。
ストップ過労、いざ育たんリーガルマインド
上司だけが偉そうにして、部下だけに仕事を押し付けるような労働倫理の崩壊した会社が東証一部を埋め尽くしているわけではないだろう。
実態は、報酬を振りかざし、無理難題をふりかけてくる顧客からのメールをみて、肩を落として上司・部下共々溜息をつきながら、残業の明かりを窓から零している。
繁忙期、思考の散歩は業務量を減らしてはくれないけれど、自分の置かれている状況が客観的に理解できると、仕組が理解できると、幾分か楽になるものです。
契約の下、平等がないところにノー残業はないわけです。
ストップ過労、いざ育たんリーガルマインド
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