2016年9月4日日曜日

Theatre is a place....

2016年のトニー賞授賞式をみた。
トニー賞とは毎年一度行われる、シアターの祭典だ。
過去12ヶ月の間上演された米ブロードウェイの中から、特に卓越した舞台パフォーマンスを表彰するイベントだ。

私は言わずと知れたミュージカルフリークである。
だが、この投稿はマニアしかわからない「細かすぎて伝わらない」ネタを披露するために書いたのではない。
違う。
この授賞式、特に今年のトニー賞が示した価値観に私は予想しない形で心を揺さぶられたのだ。
それは、私が単なるシアター好きだということよりも、もっと根本的なことだった。
その驚きと衝撃について、ダイバーシティと共棲していく、という視点から少し書きたいと思う。

70回目を迎えた今年のトニー賞は舞台の精神性としての包摂性(inclusiveness)と多様性を強く体現した回だった。式は例年になく、とても静かに幕をあける。司会を務めた英国人コメディアン、James Cordenは同日起きたオーランドの銃乱射事件に追悼の意を示して、こんな一言で式をあけた。

"All we can say right now is that you are not on your own right now. Your tragedy is our tragedy. Theatre is a place where every race, creed, sexuality and gender is equal and embraced and is loved. Hate will never win"

-私たちが唯1つ言えることがあるとすれば、それはこれを観てるあなたが1人ではないという事です。あなたの悲劇は私たち全員が分かち合う悲劇です。舞台とは、すべての人種、信教、セクシュアリティー、ジェンダーが等しく、抱き締めるように迎い入れられ、愛される場所です。憎悪が勝利することは決してない"



オーランドでおきた銃乱射は宗教、政治、性、様々な問題が複雑に絡んだ事件だ。
あの出来事のたった数時間後にその立場を示すことは容易ではない
ましてや、個人ではなく、この時Cordenはシアター関係者の総意としてこの言葉を開会の言葉に替えた。
そこに迷いはなかった。
この言葉を通じて手向けられる追悼の言葉が、焚きつけるかもしれない物議を、ものともしない強い信念がそこには感じられた。

それだけではない。
今年のトニー賞ノミネート作品を見渡すと、その懐の広さに驚く。
ノミネートされていた作品のほんの一部をここにあげてみる。


激しい人種差別に苦しむ20世紀初頭のアメリカで強く生きるブラック女性を描いた作品、Color Purple


米シアター史上初めて黒人のみで作り上げた1920年代の舞台を劇中劇で振り返る、Shuffle Along

田舎のウェイトレスがシングルマザーとして奮闘するWaitressはブロードウェイで初めて、女性のみの制作チームで望んだ

そして、今年史上最多ノミネートを果たした Hamiltonは米国建国の物語を過半数がcolored なキャストで届ける。

ジョージ・ワシントンはブラック、
アレクサンダー・ハミルトンはプエルトリコ系
その妻は中国系だ。

つまり歴史物でありながら、史実とは異なるキャスティングをあえて選んでいるのだ。自身が移民でありながら、国づくりの中核で情熱を燃やしたアレクサンダー・ハミルトンのストーリーを現代のアメリカに連綿と続けることを大事にした。



Hamilton の トニー賞パフォーマンス

ジェンダーについても、今年こそ目立った作品はなかったものの、1作品に1人は必ずといっていいほど、公言したLGBTの役者がいる。作品としても、今年関連作品がなかったことがむしろ近年では珍しいほど。
Kinky Boots、Hedwig and Angry Inch、Priscilla、Fun Homeなど、セクシュアルマイノリティーを扱った作品は枚挙に暇がない。

もはや、Broadwayではある作品がdiversityを表現しているのではなく、業界全体がinclusivenessを表明している。上記のどれをとってもアカデミー賞受賞のなれば、どれも大きな話題を呼ぶだろう。トニーでは今年多様性を扱わないもの作品がもうなかった。受賞したキャストはすべてPeople of colorだった。問いはすでに Should we ? から Which と Howの段階に進んでいる

そして、今年のダイバーシティ豊かなノミネート作品の中でも、 私がショックに近い衝撃を受けた作品がある。
Spring Awakening (春の目覚め)だ。
この作品の新演出は、舞台の体現する多様性を新たなレベルに開いたといっても過言でないようにおもう。

リバイバルで演出されたこの舞台、実はキャストの半分が聾唖者だ。

そう、耳が聞こえない。

ミュージカルはその名の通り、music、音楽が命だ。
それを聴覚障がいがある人と実現させたことに、私はたかが5分のパフォーマンスだったが、目からウロコがベリベリと引き剥がされたような衝撃を受けた。作品全編を手話で振り付け、歌のパートは聾啞キャストの代わりに他のキャストが "代唱"したり、1つの役に対して声の演者と身体の演者の二人たてることで、有機的につないだこの作品はミュージカルという表現形態を改めて創造的に覆す試みに出た。

Spring Awakening - Bitch of Living



Spring Awakening - Touch me Late Night


司会の James. Corden は言ってのけた
"ほら、この会場、diverseすぎてトランプがいま僕らを観てたら、今からこのシアターの周りに壁を建て始めるだろうね"

最多受賞を果たした前述の Hamilton の Lin Manuel Miranda は涙を溜めながら「世界は愛、愛、そして愛」と叫び、即興のソネットを犠牲者に送った。

Lin Manuel Miranda のスピーチ

舞台はその制作の過程自体が包摂である。

昨年仕事で「参加型街づくり」のパネルディスカッションを聞きに行った時のこと。その分野の先駆者が、参加型街づくりをリードするにはどのような人物が向いているか聞かれて、"舞台経験者"と即答していた。

主役でも、バックダンサーでも、脚本家でも、カーテンコールが終われば横並び一列で舞台にモップをかける。そんな文化が、人を巻き込むこと、様々な人を大きな円に含み込んでいく作業に向いている、と説明していた。

おそらくそれが銀幕との圧倒的な違いなんだろう。現に今年のアカデミー賞は、「白人ゲーム」だと揶揄された。ノミネートされたのは全員が白人だった。ハルベリーが初の黒人女性として受賞し、スピーチで涙したのは2001年だ。それから15年経って、その後受賞した黒人女性は一人もいない。男性でも2人だけだ。フェミニストからも結局、権力を持つのは男だ、と指摘され、いわゆる権威を再生産する「出来レース」だという批判を受けた。映画はいい画をとるための、その一瞬、"美しい虚構"を生み出せればよい。主演の2人が作品製作中、カメラのファインダーの外では、ほとんど話さなかった、というのは役者インタビューでもよく聞く話だ。ハリウッドのblockbusterともなれば、カットがかかった瞬間、主演俳優には付き人が駆け寄り、それぞれのトレーラーハウスに誘導する。しかし、ミュージカルは生だ。短くても2ヶ月、長ければ5年、10年、キャストは劇場で共同生活に近い日常をともにする。今年、賞レースを総なめにした、Hamiltonの制作・主演の Lin Manuel Miranda も人がやっとすれ違えるくらい小さな楽屋に、歯ブラシからインスタント食品、ケータリングを持ち込み、キャストと毎日汗を流している。

去年、私は"I"として、人と接することについて書いた。
Foster your marbles -パリ同時多発テロをうけて


舞台はそれを体現する1つの試みである。

もちろん舞台にだって、差別や区別はある。でも、少なくとも業界のメッセージとしてdiversityに留まらずinclusiveであることを謳うこの世界にとても私はとても心うたれるし、それを説教くさく、偽善的に語るのではなく、文字通り身をもって示し、歌い上げるシアターの住人に心底共鳴した。

昔から好きだった舞台への「好き」がここ数年どんどん加速してるのは単純にその芸術性だけでなく、それが体現する価値観に共鳴し、その一部になりたいと思うからだと気づき、ハッとした。小さい頃は歌って、踊るそのパワーになによりも惹かれた。そんな自分の近くにあった世界が、自分の核に触れるアイデンティティーをもってること、それにわたしが本質から気づかぬうちに惹かれていたこと。それにいまさらながら、気づいた。

もちろん、世界にゴロゴロと転がる課題に対して頭を動かし、issueに対してsolutionを投げ続けることはやめてはならない。

でもこの世界を1つの舞台のように、キャストたる市民みんなで共有していくことに共棲の道があると本気で信じている舞台人の naive な理想主義が私は好きだ。対立や摩擦を和らげるのはそれを喧々諤々詰めたてる「理」ではなくて、"なんてバカなことをしてるんだろう"とお互いを指差し笑う、緊張の緩み、「情」や「感性」なのではないかと信じている自分がいる。