祖父が亡くなった。
数日前から携帯から目が離せない日が続いた。LINEの画面にぽっと浮かんだ母からのメッセージを見た時は驚きはなく、ただそうか今だったのかとおもいながら重い息をついた。身の回りを片付けたり、家族と連絡をとりながら、ふと急な空腹に追われた。なぜこんな時に、しかも日も変わった夜中に空腹を覚えるのか、自分でもその間の悪さと、場違いな様に乾いたような笑いが出る。明日のために作っておいたチキンカレーに火をかけ、冷凍ご飯をチンした。
役人をしていた祖父は日本からまだ外貨の持ち出し制限があるようなころ、ジュネーブに長期出張をしていたことがあり、ジュネーブで勤める私によく嬉しそうに思い出話をしてくれた。毎朝食べれるクロワッサンがそれはそれは美味しかったこと、羽目を外してフランス側シャモニーにスキーに出かけたらうっかり足を怪我してしまったこと。
熱々のチキンカレーにスプーンを沈め、はふはふ言いながら食べる。ガラムマサラを多めに入れたカレーのピリピリとした香りが空腹を埋めていく。
冬のジュネーブにはレマン湖に越冬しにきた大きな白鳥がいるよね。こっぺは湖のどちら側に住んでるの?私が普段歩き、目にする景色を鮮明に思い描けるというだけで、東京で仕事をしていた頃よりも私の仕事を身近に感じてくれていた気がする。
熱々のカレーをまた口に運ぶ。
数日前からできている口内炎が染みる。
祖父は家事をすべからく自分でできるかといえばそんなことはないし、ポリティカリー・コレクトではない言い方をしてしまうことはなくなはなかったが、少なくとも孫の私に対して女性だからと振る舞うことは全くなかった。いつでも「しっかり頑張りなさいね」と仕事をする私を激励してくれた。最後に言葉を交わした時も、私がきたとわかると手を握って、「しっかり頑張んなさいよ」と優しく言った。
最近はめっきり人に「頑張って」ということが減った。その言葉が呪縛となって、辛い思いをする人があまりにも多く、頑張れという言葉が肩にのしかかり、相手を地面にじりじりと沈めてしまうのではないかということの方が心配だからだ。一生懸命な人、辛い境地にいる人、踏ん張り時な人をみれば見るほど、張り詰めた気を抜いてほしくて、「のんびりね」「いつでもやめていいからね」という事の方が多くなった。
でも、祖父の「頑張りなさいね」は不思議とそんなプレッシャーは感じさせることはなかった。とてもオープンな考えであることに加えて、超がつくほどポジティプ思考な祖父は、親や祖母が心配しているときも、私や他の孫たちをみても「まぁ大丈夫だろう」という圧倒的な自信と安心が感じられた。祖父の言う「頑張れ」は「辛くても、歯を食いしばって頑張れ」ということではなく、「何をしたってどうにかなるんだから、歩きたい方向に歩くことを応援してる」という意味だったと私は受け取っている。果てしなく辛い環境にいたらきっとすぐに辞めてもいいと言う人だったし、それも含めて、自分の思うことに自信をもって、行動に移す勇気をもっていい。そんな「頑張りなさいね」だった気がしている。
亡くなるほんの2週間ほど前に祖父と話していたとき、ふと祖父は「こっぺの仕事は世界の人のためになってるんだから」と言った。今の自分の仕事があまりに取るに足らないような矮小さで、恥ずかしさで隠れたくなった。私なんて組織の末端の末端しかも、支援の場からは距離がありすぎて、私が明日からいなくなっても世界の平和と厚生には微塵の影響もない。援助という行為事態、あまりに多くの難しさを抱えており、私は世の中のただの中間搾取だと感じることも多い。世界のためになる仕事をしていると言うことは慚愧に堪えない。私がこの仕事をしているということで胸を張れることがあるとすれば、こうやって祖父が「うちの孫はジュネーブで世界の人のためになる仕事をしている」と思ってくれることそれ自体だったかもしれない。
「頑張るね、おじいちゃん。私はこれからもっともっと世界の人のためになる仕事をするね」なんて言うことはあまりに陳腐で、そんな自分自身にもわからないことを言うことは傲慢すぎてできないけれど、祖父が誇らしく、今以上に誇らしく思える仕事はしていきたいなと思った。
電線につもった雪が暗い空に白く網のように張り巡らされてるのをみながら、サクサクと雪を踏み締めた。東京には珍しいほどに雪が降りしきる日でした。
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冬の間レマン湖にやってくる白鳥たち |
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