2022年6月15日水曜日

平成最後のぶち上げ全部盛りの宴 -Moulin Rouge!を観て-

演芸、もしくは芸術を目の前にして、その凄さを前に思わず笑てしまう、という経験はあるだろうか。 Dear Evan Hansen をみて息を呑むような瞬間を体験したり、マチルダで反逆的な解放感を味わったことは今も色濃く記憶に残っているが、実はなかなか思わず「笑てしまう」経験はなかった気がする。 ムーランルージュは一曲目のWelcome to the Moulin Rouge! から呆気に取られて声にだしてケラケラと笑ってしまった。隣を見るとパートナーも「うわぁ…な、なんやこれ」という顔をして口を開けて笑みをこぼしている。 昨今のミュージカルは引き算の巧さを競うように出してきた作品が多いように思う。10人満たないキャストで演じ通すDear Evan Hansen, ハモリの美しさを前面にだしてピアノとギターの中心にしたミニマルな演奏のWaitress、時代を代表する傑作と言われるハミルトンもたとえばセットや衣装はモノトーンでとてもシンプルだ。派手な印象が強い芸術、ミュージカルだが、近年は闇雲な派手さよりも、引くところをグッと引く演出こそが巧みである、という共通見解があったような気がする。

そんな時代にMoulin Rouge! は突き抜けた足し算演出で殴り込んできている。ミュージカルを観たことある人も、ない人も、舞台エンタメ(コンサートなど含む)でおおよそ考えうる演出と効果は全て放り込まれている。 一曲目の曲末にはキラキラの紙吹雪、ド派手でラメだらけの衣装、それに続く舞台で爆発する花火、ワイヤーで天井からでてくるブランコ、紐で吊られるエアリアル、止まっている瞬間が一度もないほど激しく動く振り付け…. 目に飛び込んでくる光と色、アクションの鮮やかさにはエンタメの真髄が詰め込まれている。 驚かされるのは、ここまで「トッピング全部乗せ」なのにこれらが完全にピタリとハマり、整合がとれていることだ。 引き算の演出はその「引き算」の行為自体がテクニックだと思う。しかし足し算そのものはただの浅はかな欲張りだ。それを一流にするには、足し算以上の圧倒的な技術が必要である。 私たちがあんぐり口をあけて、Moulin Rouge! の前に完敗した気持になるのはもちろんのその華やかな舞台効果に五感を奪われるからではあるが、それ以上に、可能だとは想像しようもなかった完成度のバランスが目の前に展開しているしていることに他ならないからだ。 先述のとおり、ミュージカルには元来派手な印象がある。それはミュージカルはそれまでの古典芸術に比して、あらゆる演芸を呼び込んで組み合わせたことに一つの特徴があり、元来多角的に刺激が展開されるからだと思う。そのため、説明しようとすればするほど、「ミュージカルってそういうもんじゃないの?」という問いを受けそうなのだが、実はオタクとして冷静に頭をひねるとMoulin Rouge!と比較可能な作品は現代作品に多くない。そう、現代作品とわざわざ断りをいれたのはここがポイントなのだからである。ミュージカルの元来の派手なイメージを築いてきた古典作品たちは華美で豪勢なものが多くあげられる。Chorus LineFunny Girl Me and My Girl Cinderellaあたりをはじめ、もう少し現代に近くなると歴史的ロングランを続けているPhantom of the Opera等があげられるだろうか。このあたりの作風を現代につなぐ形で牽引してきたのがロジャース&ハマースタインやソンドハイム、今も現役のアンドリュー・ロイド・ウェバー卿などである。しかし、これらの作品が初演の幕を開けてからすでに半世紀近くがたっている。当時の「全部盛り」で使われていた舞台効果はすでに古典の域に入っている。レースやフリルでボリュームを出した華やかな衣装はハミルトンやエリザベート等の歴史ものなのなら当然の様に出てくるし、すごい音圧を放つ重厚なアンサンブルもレミゼやウェストサイドストーリーを見に行けば必ず保証されている。舞台の立体的な展開はオペラ座の怪人に行けば拝めるし、プロのダンサーたちによる圧倒されるようなエネルギーを放つ踊りはCatsChicagoでみることができる。上記は全て「生もの」の講義のステージでは当たり前になってしまった。それぞれの効果を取り上げればそれはむしろ引き算演出の作品でも見受けることができる。

London のPiccadilly Theatre前

しかし、時は50年たっている。圧倒的な「全部盛り」だって革新に革新が重ねられている。現代の本気の「派手派手演出」はそんなものではない。2022年の私たちの派手派手演出のベンチマークはスーパーボールのハーフタイムショーやアイドルのドームツアーだ。Satineの登場シーンの派手派手衣装はブリトニーなみに露出しながら、BeyoncéDangerously in Loveのジャケ写を彷彿とさせるキラキラビジューだらけ。照明はマイケルやマドンナのコンサートばりに強いカラー照明をバッキバキにあてる。オペラ座でろうそくが置かれた地下室をみてかっこいい、と思ってた私たちは舞台上で無遠慮にバッチバチに上がる花火をみながら、「あれ、何でいままでこれってやられていなかったんだっけ?」と思っていることに気づく。そう、引き算のかっこいい舞台がセンスよく、お行儀よくシアターに連なっている間に、「全部盛り舞台」は更新されてきていなかった。無意識の中で演出の限界を更新していなかった自分を一瞬にして自覚させられ、見たこともないようなお祭り騒ぎをみせてくれる、それがMoulin Rougeである。

もう一点、圧倒的に素晴らしかったのが、音楽である。

Moulin Rougeはジュークボックスミュージカルである。オタクの皆様にはおなじみだが、ジュークボックスとは既存の曲を用いて、あとからそれに筋を宛書するミュージカルのジャンルだ。圧倒的に有名なのはMamma Mia、他にはBeautiful Carol King曲)、Tina Tina Turner曲)、最新のものだとMJMichael Jackson曲)が代表的なものとしてあげられるだろう。正直に告白すると私はJukebox Musicalが苦手だ。そもそも過去観たことがあるのもMamma Miaだけだ。それはJukebox作品の音楽は全く有機的にストーリーとつながってないからだ。製作過程を考えれば当然のことだ。既存の曲から作るため、Jukeboxはシーンや感情、セリフが強く制約を受ける。Mamma Miaも結構突拍子もない話だが、他の作品の多くも、どうしてもシーンが歌と歌を無理やりダラダラと繋げる助走のようになりがちだ。しかし、Moulin RougeJukeboxとしてその他の作品と大きく違う点が一つある。ここまで読んで気が付くひともいるかもしれないが、ほとんどのJuke Boxは単一歌手/グループのものに縛って劇中歌を決めているものが多い。多くの場合はその歌手へのオマージュや経緯を込めているものなので当然と言っちゃ当然だ。一方Moulin Rougeはあらゆる有名歌手から曲を引用している。それはいわば「平成最強ポップメドレー」なのだ。Whitney HoustonMadonnaにはじまり、Green DayBritney SpearsAdeleGagaと連なるセットリストはまさに私が人生の大半を過ごした平成を彩る青春ぶち上げメドレーだった(もちろん70年代くらい曲もあるのだが誤差として許してほしい)。ソロデビューをしたビヨンセが腰と拳を振りながら「かっけー!」と思った中学時代、何度闇落ちしても這い上がってくるブリトニーのToxicGreen Dayをアホみたいにみんな聞いていた高校時代、エッジを極限まで極めたGaga様が登場を飾った大学時代が曲とともに全身を駆け巡る。最後総立ちで客席中がジャンプと歓声で揺れるカーテンコールはもう10年分くらいの紅白を生でライブ鑑賞してる気分になって、本当に高まった。30年分のあらゆるポップスの名曲を詰め込んだらそれこそ陳腐なxxx歌謡祭ノリにもなりかねないのだが、それをうまくまとめ、本当にシーンごとにぴったりの曲をキュレーションしている音楽チームは圧倒的な手腕を持っていると言わざるを得ない。

終演後総立ちのカーテンコールの興奮冷めやらぬ劇場内

そして最後にMR!をすがすがしい鑑後感を成しているのが、「強よ強よガールズパワー」なストーリーの再解釈である。Moulin Rouge!は言わずとも知れた2001年のヒット映画である。原作映画もまた色々な芸術作品からの引用をしているが、その一つにCyrano Bergereacというフランスの古典演劇が挙げられる。特にRoxanneという曲はそのまま同作のヒロインを引用している。このCyrano Bergereac自体も広義のロミジュリ・ジャンルを構成しているといわれ、これ自体がかなわぬ恋ストーリーの翻案(アダプテーション)とされている。つらつらと古典作の名を色々と挙げたが、通底しているのは女性が綺麗な飾りものとして、恋や人生の主体性がほぼ男性にしか与えられていないことが挙げられる。映画Moulin Rouge!の場合もキャバレーの専属女優のSatineはあくまで花魁のように小屋やパトロンに所有され、終始彼女が「誰のものか」という観点で話は進む。彼女はあくまでか弱く、華美で切ない客体である。ミュージカル版MR!も基本的には映画の大筋のストーリーを踏襲しているのだが、その解釈は大きく異なる。舞台版においては、女性が圧倒的に強く、彼女たちが自らの選択を握りしめ、抑圧の中でもそれを「クソくらえ」を蹴飛ばしていた。例えば、Satineの登場シーン。Diamonds are a girls best Friend での幕開けは映画と共通しているのだが、そこから続くのはBeyoncéSingle Ladies。「私が欲しいならさっさと指輪もってきなさいよ」と挑発するSatineとダンサーたちは、Black Pantherに扮した2016年のBeyoncé自身のSuperbowlのパフォーマンスさながらだった。

BeyoncéとBruno Mars による2016年のSuperbowl Halftime show

Satineを買おうとする男爵との食事シーンに流れるのも映画のRoxanneから打って変わり、Lady GagaBad RomanceやブリトニーのToxicに合わせて女性たちがバッチバチに息が切れるまで踊る。こんなの恋じゃねぇよ、毒みたいなクソ男と言わんばかりのパフォーマンスが描くSatineや女性たちはもはやただ売られるのを待つ花魁のようなショーガールではなかった。不満には声をあげ、自分の価値はこれよ、と相手の顔面に突き付け、理不尽を蹴飛ばしかねないようなエンパワメントされた女性像がそこにはあった。映画では華美な女性ばかりが舞うダンサーシーンも、すっけすけのストリッパー男性が男女ロール逆転した形で女性とペアを組んでいたり、Lady Marmaladeを歌うDiva 4人衆も豊満なブラック女性や、華やかなドラァグがその一角を成しており、身体性をとっても自らにオーナーシップを持った女性像があふれんばかりに表現されていた。

開演前からずっと踊ってくれている強よ強よダンサーお姉さま

Moulin Rouge!は今や古くなってしまったミュージカルという芸術形態を、そして陳腐な女性像一気に現代に更新してくれる作品だ。元祖「全部盛り」芸術としてのミュージカルの2020年代の姿を、「こういうことでしょ」とマントを翻すようにいとも鮮やかに演出している。そして、平成を生きた私たちの青春、これからを強よ強よに生きていく私たちの背中をドンと蹴飛ばして、リズムをガンガン刻むBeyoncéのように勇気とともに前に送り出してくれる作品だ。

 


2022年1月12日水曜日

レマン湖の白鳥は冬やってくる

祖父が亡くなった。

数日前から携帯から目が離せない日が続いた。LINEの画面にぽっと浮かんだ母からのメッセージを見た時は驚きはなく、ただそうか今だったのかとおもいながら重い息をついた。身の回りを片付けたり、家族と連絡をとりながら、ふと急な空腹に追われた。なぜこんな時に、しかも日も変わった夜中に空腹を覚えるのか、自分でもその間の悪さと、場違いな様に乾いたような笑いが出る。明日のために作っておいたチキンカレーに火をかけ、冷凍ご飯をチンした。

 

役人をしていた祖父は日本からまだ外貨の持ち出し制限があるようなころ、ジュネーブに長期出張をしていたことがあり、ジュネーブで勤める私によく嬉しそうに思い出話をしてくれた。毎朝食べれるクロワッサンがそれはそれは美味しかったこと、羽目を外してフランス側シャモニーにスキーに出かけたらうっかり足を怪我してしまったこと。

 

熱々のチキンカレーにスプーンを沈め、はふはふ言いながら食べる。ガラムマサラを多めに入れたカレーのピリピリとした香りが空腹を埋めていく。

 

冬のジュネーブにはレマン湖に越冬しにきた大きな白鳥がいるよね。こっぺは湖のどちら側に住んでるの?私が普段歩き、目にする景色を鮮明に思い描けるというだけで、東京で仕事をしていた頃よりも私の仕事を身近に感じてくれていた気がする。

 

熱々のカレーをまた口に運ぶ。

数日前からできている口内炎が染みる。

 

祖父は家事をすべからく自分でできるかといえばそんなことはないし、ポリティカリー・コレクトではない言い方をしてしまうことはなくなはなかったが、少なくとも孫の私に対して女性だからと振る舞うことは全くなかった。いつでも「しっかり頑張りなさいね」と仕事をする私を激励してくれた。最後に言葉を交わした時も、私がきたとわかると手を握って、「しっかり頑張んなさいよ」と優しく言った。

 

最近はめっきり人に「頑張って」ということが減った。その言葉が呪縛となって、辛い思いをする人があまりにも多く、頑張れという言葉が肩にのしかかり、相手を地面にじりじりと沈めてしまうのではないかということの方が心配だからだ。一生懸命な人、辛い境地にいる人、踏ん張り時な人をみれば見るほど、張り詰めた気を抜いてほしくて、「のんびりね」「いつでもやめていいからね」という事の方が多くなった。

 

でも、祖父の「頑張りなさいね」は不思議とそんなプレッシャーは感じさせることはなかった。とてもオープンな考えであることに加えて、超がつくほどポジティプ思考な祖父は、親や祖母が心配しているときも、私や他の孫たちをみても「まぁ大丈夫だろう」という圧倒的な自信と安心が感じられた。祖父の言う「頑張れ」は「辛くても、歯を食いしばって頑張れ」ということではなく、「何をしたってどうにかなるんだから、歩きたい方向に歩くことを応援してる」という意味だったと私は受け取っている。果てしなく辛い環境にいたらきっとすぐに辞めてもいいと言う人だったし、それも含めて、自分の思うことに自信をもって、行動に移す勇気をもっていい。そんな「頑張りなさいね」だった気がしている。

 

亡くなるほんの2週間ほど前に祖父と話していたとき、ふと祖父は「こっぺの仕事は世界の人のためになってるんだから」と言った。今の自分の仕事があまりに取るに足らないような矮小さで、恥ずかしさで隠れたくなった。私なんて組織の末端の末端しかも、支援の場からは距離がありすぎて、私が明日からいなくなっても世界の平和と厚生には微塵の影響もない。援助という行為事態、あまりに多くの難しさを抱えており、私は世の中のただの中間搾取だと感じることも多い。世界のためになる仕事をしていると言うことは慚愧に堪えない。私がこの仕事をしているということで胸を張れることがあるとすれば、こうやって祖父が「うちの孫はジュネーブで世界の人のためになる仕事をしている」と思ってくれることそれ自体だったかもしれない。

 

「頑張るね、おじいちゃん。私はこれからもっともっと世界の人のためになる仕事をするね」なんて言うことはあまりに陳腐で、そんな自分自身にもわからないことを言うことは傲慢すぎてできないけれど、祖父が誇らしく、今以上に誇らしく思える仕事はしていきたいなと思った。

 

電線につもった雪が暗い空に白く網のように張り巡らされてるのをみながら、サクサクと雪を踏み締めた。東京には珍しいほどに雪が降りしきる日でした。


冬の間レマン湖にやってくる白鳥たち