2015年5月31日日曜日

モザイク模様のアイデンティティー

イランは国内の地域色が豊かな国だ。
国境をイラク、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタンと接しており、多様な文化圏との繋がりをもっている。

今回私が旅をしたのはこんなルート


A:Teheran→B:Marivan (Kurdistan)→C:Hamadan→D:Esfahan→E:Shiraz→F:Yazd→G:Teheran

どの都市も筆舌に尽くしがたいほど、素敵な場所だったのだが、独特の魅力をもっているなと思った都市について少し書いておきたい。

一つは、Marivan。私がテヘランの次に向かった街。
Marivanはイラク国境際のクルディスタンにある村。クルディスタンとは、「世界最大の国家を持たない民族」とも呼ばれるクルド人が住んでいる地域である。その居住地域は、トルコ、イラク、イランにまたぎ、それが一つの国となればフランス国土に匹敵する広さとも言われる。特にトルコでは厳しい弾圧と迫害にあっており、分離運動がたびたびトルコ軍と衝突を繰り替えてしている。他方イラクでは自治権を有しており、イランでは自治権はないものの、コルディスタン州という行政単位として認識されており、トルコほどの差別はないが、独自の文化圏として認識されている。

私がクルドについて、はじめてきちんと学んだのは大学一年生のとき、中東研究者の先生のテーマ講義であった。そのとき、先生が語っていた人情に溢れるクルドの村での思い出はとても印象的で、私もいつかこの地に足を運べないかと頭の隅で思っていた。

クルディスタンには、ガイドブックを色鮮やかに飾るような建築物やランドマークはない。でも、訪ねる者を全力で歓迎してくれる人がそこにはいる。


日本に比べてとても乾燥しているイランだが、クルディスタンはとても青々としている。
小高い丘に上るとそこには、原っぱに湖、花畑が広がる。





村を歩いている私たちはすぐに村の人の目を引いた。イラン人/クルド人は本当にいろんな顔立ちの人がいるので、欧米人であれば歩いているだけでは目立たないのだが、なんせアジア人顔はほとんどいない。小さな小さな子供でさえ、はじめて見た、顔が平たく、目が細いわたしの顔に驚いている。気づけばあっと言う間にあちこちの家から人がでてきて、「どこから来たの??」の嵐。子供たちはペルシャ語もクルド語もはなせない私と友人に駆け寄り、一生懸命なにかを話しかけてくれる。気づけば手を引かれ、村中を案内されていた。

子供たちとはしゃいでる姿をみて、一層警戒心が解けたのか、そこからは通る道、曲がる角ごとにお茶に誘われた。
何軒かのお家にはお言葉に甘えてお邪魔したのだが、なかでも、特に印象にのこったのが、ある7歳の男の子。村のほとんどの人がペルシャ語とクルド語しかはなせない中、彼は学校で習っている英語を総動員して、家族と私たちの間をつなぎながら一生懸命私たちと会話をしてくれた。Marivanの印象をきかれ、「とても素敵な街だね」と答える私たちの言葉にKianooshという名の彼は顔をほころばせ、「Yes! Marivan is very very very clean!!!」と満面の笑みで何度も言っていた。彼のいうとおり、Marivanは街中もお家の中もとても整然としていた。お邪魔したお家はどこも、床の上に無駄なものがほとんどなく、部屋の空間をとても広く使っている。店が並ぶ道路脇もごちゃごちゃしておらず、店先でおじさんたちが日向ぼっこしているようなピースフルな場所だ。


暖かいチャイとほっぺの内側がキーンとなるほど甘いスイカをいただいていると、お母さんがクルド衣装まで出してきてくれて、色鮮やかなクルドのドレスをわたしに着せてくれた。お家を去るときには、これを日本にもってかえってほしい。とまで言ってくれて、さすがに受け取れないと断ったが、「また、クルディスタンに来るのよ」と手を握りながら何度も言っていた彼女が忘れられない。




イランは本当に東西の間に位置するのだなと思うほど、色々な顔立ちをした人がいる。気のせいかもしれないが、クルドは特にその多様性が多いと感じた。金髪、黒髪、栗色の髪から、目の色も緑、茶、青まで本当に一瞬どこにいるのだかわからなくなる。
国境を越えて広がるクルディスタンは通商ルートとしても重要である。先の投稿で、テヘランガールズの飲酒事情について書いたが、多くのお酒は私が訪ねたイラク国境を越えて入ってきているようだ。イラク側では自治権が与えられていることもあり、イラン−イラクのクルディスタンは治外法権とまではいかなくとも国家の境界に妨げられないボーダーレスな関係が構築されているようだ。私たちが訪ねた二つ目の村では、町内会の方のお宅でネギ焼きをごちそうになったのだが、ここのお父さんも毎日イランーイラク間の運搬業に携わっているそうで、そこに「国」の感覚はあまりない。



クルド人のトレードマークのクルド・パンツ。股上が深いダボダボパンツ。
サルエルパンツ人気はここに端を発したと私は信じている。
もう一つ、印象的だった街がヤズドだ。先のクルディスタンとは打って変わり、乾燥地帯と岩砂漠に囲まれている街。
ここはゾロアスター教の聖地として有名な街である。
普段聞き慣れない宗教だが、有名どころだとバンド・Queenのボーカルのフレディ・マーキュリーがゾロアスター信者だった。


ゾロアスター教の歴史はイスラムよりも古く、紀元前6世紀、アケメネス朝のペルシャに遡る。一説にはユダヤ・キリスト・イスラムのアブラハム系宗教にも強く影響したともされる。教義は二元論を基礎とするもので、光と闇、善と悪が拮抗する世界を描く。ゾロアスター教は拝火教とも呼ばれるが、これは彼らが光に神聖な意味をもたせ、礼拝の時に必ず火をともすからである(そのため、性格には「火」を拝んでいるのではない、とゾロアスター教徒には念押しされた)

またアニミズム的な性格も強く、自然を大地、空、などの要素によって捉えている。ゾロアスターについてもう一つのイメージが鳥葬であるが、遺体を鳥がついばむがままに任せる、この行為は霊魂が文字通り天に昇華されるための慣習である(鳥葬自体は200年前ほどに廃れ、1930年には正式に宗教権威が禁止を言い渡した)


鳥葬場は「沈黙の塔」と呼ばれる。(上)はヤズドの沈黙の塔。(下)は頂上の遺体を据えていた場所。
ゾロアスター教徒は現在世界で15万人ほどいると言われており、そのうち10万ほどはインドに住んでいる。残りの5万のうち3万ほどがイランに住んでおり、そのほとんどがヤズド近辺に住んでいると言われる。7世紀にイランがイスラーム化されてから、それまで国教であったゾロアスター教は一変してマイノリティの宗教となる。


ヤズドの見所の一つ。カルナック。何と4000年前から20年ほど前まで人が暮らしていた小さな村。
街の建造物すべてが土レンガでできており、砂漠気候のヤズドで夏は涼しく、冬は暖かくなるようにできている。
(下)は案内してくれたゾロアスター教徒のドライバー兼ガイドさん

断絶を挟みながらも国教が長らくイスラムであるイラン/ペルシャにおいて、ゾロアスター教徒の立場はつねに危うかったが、その習慣や教義は多くのイラン人に愛されていると感じた。例えば、イランが年間もっとも盛り上がる行事の一つに、ペルシャ正月であるヌールーズがあるが、これは元々ゾロアスターの習慣である。クルド人にも広まったことで、いまは彼らを媒介して、クルド文化としてトルコやイラクのクルド人でも祝われている。また、ゾロアスター教のシンボル、プラヴァシは少し気に留めるとあちこちで見かける。私が泊まらせてもらったテヘランっ娘のお宅の冷蔵庫にもプラヴァシのマグネットが貼ってあった。そして、誰に聞いてもこのシンボルの意味やゾロアスター教の教義の基本をよく知っている。「ゾロアスター教徒」という人の数は減れど、その考え方や習慣は一種の道徳として人々に享受されている。そんなところが、日本における神道や中韓における道教にとても近い、という印象を受けた。


ゾロアスター教のシンボル、プラヴァシ


事実、私たちを案内してくれたゾロアスター教のお兄さんは「ゾロアスター教はとても柔軟だし、排他性をもたないんだ」と言っていた。「ゾロアスター教には教典があるけれど、別にそれは硬直的なものではなく、教義の解釈は頻繁に行われ、柔軟にかわっていくんだ」と。彼いわく、ゾロアスター教では、現代にはいってから、輪廻の考え方も否定しないとの立場を明らかにするようになったといい、これは当初の教典の教えの中で明示されていないことらしい。加えて、イスラム教以外の宗教とは両立を認めているらしく、他の宗教の信徒として入信したとしても、その人はゾロアスターであり続けてよいのであるとか。お兄さんも11年前に仏教徒になったのだと言っていた。毎日瞑想はかかさずおこなっており、「仏教の自分と向き合うことで自らを高めるという内省的な面に惹かれた」そうで、自分の外ではなく、自らの内面に思いを照らすそのピースフルな考え方はゾロアスターの教えとなんら反発しあうものではない、とのことだ。


ゾロアスターの聖地の一つ、チャックチャック。その昔王女が逃げ込んだ場所と言われ、礼拝所に滴り落ちる雫のチャックチャック(=ポタポタ)という音が王女の涙になぞらえられる。6月には世界中から信徒が集まるそう。(上)火を灯す礼拝台、(下)乾燥したヤズドでこの場所は不思議とわき水が絶えず流れており、その雫の音、湿った空気は確かに神秘的。
イランはイスラーム革命を期に、アイデンティティーを宗教で形成するようになり、物理的な境界をもつナショナル・アイデンティティーは陰を潜めてきた。現に革命とともに、ゾロアスターの教義を教える宗教学校もすべて取り潰しになり、その教えの伝承は一般家庭に人を集めて細々と行うよりほかなかった。また、政府からは実質的にその存在を否定され、制度的にも抑圧されてきた。
信徒に特定の行いを義務づけることがイスラームにくらべ少ないゾロアスター教では、飲酒も許されている。私たちを案内してくれたガイドさんは、一年前ビール一杯飲んでいるところを、風紀警察に見つかり、地裁で「むち打ち150回の判決」を受け、鞭にうたれた腫れで数ヶ月、普通の姿勢で眠れなかったそうである。ヤズドという地域にたいして、イスラーム体制がどのような姿勢をむけてきたは定かではないが、テヘランの子がお酒7リットルをもっていて、一晩留置所で過ごしておわりだったことを考えると、彼の出自が関係したのではと思わずにはいられなかった。また、他の都市の自由な気風をみていると、鞭打ちや石打ちなんか本当にあるのか⁈、等と思っていたが、自己体験としてこんなエピソードが本人の口からひょうひょうと語られるのを聞くと、そのリアリティーにハッとする。イラン国内に存在する果てしないギャップに、キンキンと耳が奥から響いた。




乾燥地帯のヤズドでは、熱い夏、冷気を入れるための煙突(バードギール)がたくさんある。(上)(下)は野菜などを貯蔵していた製氷庫
しかし、近年、イスラーム体制に対する信頼の低下をうけ、イランでも、ペルシャ・ナショナリズムが復興しつつある。イラン人はペルシャの誇りを強く持っている人々であるが、その中でも、アケメネス朝をはじめとする、ペルシャ帝国の栄華はその華を飾っている。その時代から連綿とつづくゾロアスター文化を大事にする傾向は以前にもまして高まっているようだ。



ヤズドとクルディスタンはどちらも、目の覚める様なモスクや、華やかな広場がある場所ではない。でもこの地域にわたしはペルシャの奥深さとモザイクの様に鮮やかで、しかし一筋縄にはいかない多様性の一片をみたきがした




2015年5月18日月曜日

ベールが覆う嘘と本音

イランは神権政治の国だ。言うまでもなく神権政治とは政教同体の政治体制であり、宗教指導者が同時に政治指導者を勤めていることを指す。現在、神権政治の政体を採る国はほとんどない。定義にもよるが、バチカンやチベット自治区が該当するともいえる。

さらにいえばイランの特殊性はこの神権政治がわずか36年前、“革命”で成立されたことである。単線的な民主主義発展論を唱えるつもりはまったくないが、多くの国は宗教的権威による統治をとってかわるかたちで民主制が発展してきたわけであり、政教同体をわざわざ革命をもって再導入する、という、一見「逆行」するようにも思える変革を起こしたという点でイランはとても興味深い。


テヘラン(上)と、地方都市クルディスタンの街マリヴァン市内(下)。地方にいってもイランの街はとても整然としている。どこもゴミなど落ちておらず、街中は街路樹や花で明るい雰囲気

イランについて、日本で日常生活を送っていて自然に耳にはいってくることはとても限られている。神権政治、イスラーム革命、アメリカ大使館人質事件、核開発、などからも狂信的な国だという印象をもっている人は多い。しかし、一度足を踏み入れるとこの国に驚くほどの矛盾が絡まり合っていることを全身でかんじた。

「イラン人は嘘をつくのがうまいんだ」

私がイラン滞在中に、現地で知り合った人たちはよくこの言葉を口にした。

例えば衣服や風紀について。
シャーリア(イスラーム法)を国内法として採用するイランでは革命以降、女性はベール(ヒジャブ)を被ることが義務付けられるようになった。それは外国人でも例外なく、イラン到着の飛行機では到着前にみんな一斉にヒジャブをかぶる。しかし、街中を歩いているとむしろイランの女性のヒジャブのかぶり方はとても適当なことに驚く。もちろん、全身黒い布ですっぽり覆われたチャドルの女性も多くいるが、都心の若い女性は特に、「仕方ないからやってるのよね」といわんばかりに薄いストールをくるくると頭に緩く巻いてる人が多い。ヒジャブとはもともと頭髪を隠すためのものだが、ふさふさのロングヘアーをベールの端から垂らしていることは稀ではないし、お化粧も派手な人は多い。

私をテヘランで泊めてくれた今どきテヘランっ娘は、外出するときにベールをめんどくさそうに頭にのせながら、私の方をまっすぐみて言った。「こんなのね、私にとっては嘘っぱちなの。言われてるからやってるのよ」


イランの見所の一つ、古都エスファハーンのモスク。外壁のモザイク柄が息を飲むほど美しい。

それもそのはずだ。イランはいまでこそ神権政治の国だが、革命前の王政時代は中東のなかでも、特に自由な気風が強く、街なかにはミニスカートの女性が闊歩していたという。ヒジャブも1936年に「後進性」の象徴として禁止されていたこともあったくらいだ。それが、革命を期に一気に揺り戻った。しかし、大衆文化がそう一気に廃れることはない。革命直後の気運はわからないが、今のイランのポップカルチャーはその体制が発する厳粛なイメージとはかけ離れている。

イランではパーティーが盛んなことに知っているだろうか。パーティー文化は革命前から盛んだったらしいが、表立ったクラブや飲み屋が姿を消した今、パーティーも陰を潜めたのかといえば、とんでもない。舞台は街角から家の中に場所をかえただけで、いまでもイラン人はパーティー好きだ。先にあげた私の泊めてくれていたテヘランっ娘も大のパーティー好き。とくに大学生になって、自由が増えてからは、毎週のようにみんなで宅飲み(!)をしているそうだ。

私にも「さきもgathering来ないー?」というので、てっきり女子会みたいなものを想像して、
「それなにするの?みんなでお茶するの?」
と返したら、
「さきー、つまらないこと言わないでよ、お酒呑むに決まってるでしょ?!」と返された。


(上)エスファハーンの川沿いで遭遇したギャルのピクニック。イラン人はとてもピクニックが好き。通りかかったら、誘われたので一緒にお茶をした。(下)パン屋で夕食用のパンを買うチャドルの女性

そこから、彼女は前週のパーティーの写真もみせてくれた。バブルのジュリアナにも負けないばっちりメイクとミニスカに胸元の大きくあいたドレス。
「この時はみんな彼氏もつれてきてたのー。」と。

結局、前後に移動が控えていたので、"gathering"にはお邪魔できなかったのだけど、代わりに、パーティー場所が見つからないときによくやるという”ナイトドライブ”の仲間にいれてもらった。夜23時ごろから一時間ほど、テクノ音楽(イラン・テクノ)をガンガンにかけながら、みんなで熱唱して、夜の街をドライブするというのが、そのお作法。特に男の子の集団の時は、「ナンパ・ストリート」繰り出していって、ナンパ待ちの女の子にウィンドウ越しに声をかけにいくらしい。そのとき、車を長い間止めてナンパをしていると、風紀警察にばれるので、その道をなんども"グルグル"とまわって同じ娘と話すらしく、そのドライブナンパのことを”ドルドル(=ペルシャ語でグルグル)”と呼ぶとか。

「風紀警察にばれてヤバいことになったことないの?」と聞くと、
「この子とかさ、一回パーティーくる途中酒7リットル持っているところ警察にみつかってさ、一晩留置所にいくことになったよね」
「あれは、やばかった。7リットルとかごまかしようがなかったもんー」

と。それでもパーティー文化は廃れない。
イランではパーティーするのもスリリングだ。


イランの国花は薔薇。白い薔薇が街中、公園内、でよく植えられている。気高いその気風はペルシャ人にとても似合う。

誤解を招かないように断っておくと、彼女たちはいずれもテヘランの一流大学の大学生。決して、ヤンキーとかではないということ。彼女たちがテクノで歌い狂ってる様は日本でお酒の味を覚え始めた大学生となんら変わらなかった。

もちろん、私が今回話してきたのは、主に富裕層や外国人にもオープンな中間層であって、平均的な地方の貧困層の意見まで上記が代表しているわけでは決してないと思う。
しかし、それが一部であったとしても、私はイランの体制の性格と大衆感情のあまりの隔たりに本当に驚かされた。それは、かけてきたとも知らなかったサングラスを正面から歩み寄って、フッと取り去られたような感覚だった。光の下で直視するイランはもっと鮮やかだった。

これほどまでに大衆感情とギャップがある体制について、政治について、人はどう感じているのか、気になった。イランは世界一頭脳流出「brain drain」が多い国と言われる。社会階層でものを語りすぎるのは危険ではあるとおもうが、生活に困った低所得者が出稼ぎに行っているのではなく、知識人、エリートが国を「諦めて去る」現実は深刻だと思う。イラン人のエリートの間には国の体制ゆえに、自らの能力を十分に発揮できない、それを持ち腐れにしている、という思いが強いと感じた。私をシラーズという街で案内してくれた生物学のPhDを持つ男性は、現在無職だった。「イランでは今宗教的な指標で社会的地位を得る構図ができている。学術をきわめても"徳を積んでる"奴に勝てないんだよ。この無力感てないだろ」といっていた。テヘランの大学生たちも、「もし、イスラーム的な理で考えたとしても、あいつら(政治的地位を持つ聖職者)はおかしいのよ。イスラーム科学者は本来"科学者"なのだから、サイエンスもわかっていた上でその権威を認められるはず。でもあの人たちは聖典と自分の地位しか、わかっていない。そんな人たちに学をおさめている私たちのことや政治がわかるわけがない。あの人たちがどうして偉いのかわからない」。実際、イランは石油による不労収入がありながら、その産業・学術においては内的動力が湾岸諸国に対して強い国だと思う。経済制裁をうけながらも、多くの産品を国産でつくることができ(国産自動車は50万台生産している)、PhDの6割は女性、去年は数学の最高峰フィールズ賞をとったのもイラン人女性だった。それが、政治体制に足かせを受けているという声には、思わずうなずきたくなった。

「今のイランは脳に腫瘍を抱えた秀才さ」

シラーズを案内してくれた彼はいっていた。

「じゃあ、革命は失敗だったの?」

「79年当時の王政は確かにあのままではいけなかったでも、必要だったのは "improvement" だったんだ、"Revolution"ではない。でも今僕らは"improvement"なんかじゃ足りないかもしれない、"revolution" でもしないとこの腐った状況はかえられないかもしれない」

「これは英語だからいえることだけどね」バザールを歩きながら、彼はいたずらな目でにこっと笑いながら言っていた。

今回いくつかの街を訪れる中で、どの街でも仲良くなる人は去り際の私に必ずこういった。
「これからの旅、イランでは誰も本当には信じちゃダメだよ。イラン人は本当に嘘がうまいんだから。」


イラン人の誇りペルシャ帝国の栄華。ペルセポリスの遺跡。

実際、いく場所、行く場所で私は地元の方の歓迎を受けて、不快な思いなどしなかったのだけど、その言葉は妙に耳に残った。嘘が"うまくなってしまった"イラン。その言葉の余韻に悔しさと寂しさを感じながら、もっとたくさんの人に、イラン人の「本音」をこの美しい国と一緒に観てほしいと思った旅だった。