うちの娘は今月から保育園にいきはじめた。
私は転居に伴って現在求職中なのだが、こちらの保育園の多くはこども園形式なので、まだ定職についてなくても預かってくれるのがありがたい。
こちらにもいわゆる慣らし保育があって、まだ今月にはいってからは朝は1-2時間したら迎えに行かなければならない。家に帰るほどの余裕はないので、大抵そばのカフェでコーヒーとコルネットを食べながら作業をしている。
イタリアはコーヒーのメッカだが、昔ながらに親しまれている飲み物だけに、いまだにバルと呼ばれる立ち飲みカウンターでクイっと飲む形式か、純喫茶風の昔ながらの店が多くて、なかなか英米風の軽食も食べ物も一通りあって、作業しやすい机と電源があるような形式のカフェは少ない。
保育園のそばのカフェはまさにこの稀にしかない作業者歓迎のフードもおいしいカフェなのは、朝の1-2時間を毎日ここで過ごす私にとっては、ありがたい幸運だ。中庭もきもちがよく、子どもの声が響いても気にする人もいないので、最近は保育園待機時間以外にもここをよく使うようになった。週末はパートナーの職場のインターン生に誘われてブランチをしたばかりだ。
そんな娘の保育園は彼女が通いはじめて2週目から警護が強化された。この保育園はシナゴーグが運営している保育園なのだ。に勃発したいますでに戦争状態といっていいであろうイスラエル・パレスチナにおける戦闘をうけ、シナゴーグを運営するフィレンツェのユダヤコミュニティは急ぎイタリア当局と相談し、普段からつけている警備を強化した。保育園は世俗教育で、いわゆる日本でいうところの仏教系幼稚園、みたいなあくまで内容というより運営母体がたまたまシナゴーグということなのだが、唯一戒律と関係することとして、コーシャー(豚を食べない等をはじめとするユダヤのルールに従った食事)の給食を提供しているということもあり、通っている園児はユダヤ系の家族がほかの保育園よりやや多い。初日クラスメイトの子たちの名前を覚えようとロッカーのシールの名前をメモしてきたが、そこには、Nogaちゃん、Avivちゃんなど、伝統的ユダヤ系の名前が並ぶ。先生との会話の中で、クラスの子の何人かのおうちはイスラエル人家庭だということも聞いている。警護を強化します、というメッセージをみて、ここまで一つのいいねのスタンプを押すのにまよったことはなかった。Whatsappグループにはもちろんムスリム系の家庭もいるかもしれない。このセンシティブな時期、どんなメッセージがどのように誰を傷つけるかはわからない。
帰宅する道の途中にはFree Palestineのペイントが道で目を引く。国連はイスラエルの攻撃をずっと糾弾し続けている。すでに過去に類をみないほどの国連職員と援助関係者も命を落としている。私のタイムラインには見るに堪えない惨状を移した写真が流れ、友人を直接悼む言葉も並び始めた。
イスラエル・パレスチナにおいた悲しくも再び勃発してしまった戦争には悲しみ、やるせなさを感じる。自体の根の深さにはため息もつききれないほどの、行き詰まりをかんじる。
先に書いた週末のブランチで会ったインターン生は話の中でウクライナ人だということがわかった。中学生のころからイギリスの全寮制の学校に通っているという彼女に「両親は今イギリスにいるの?」ときくと、父はウクライナ、母は米国にいると教えてくれた。「お父さんはキエフ?」と尋ねると、彼女は少し目をふせていった「いえ、父は今オデッサにいるの」。オデッサといえば、ウクライナ戦争の戦略的要所の港湾だ。
私たちのついている国際機関の仕事は無力だ。毎日世界を救う仕事をしている、と豪語する国連職員が目の前にいたら、その人の盲目さと驕りを疑った方がいい。私たちはむしろ圧倒的制約と無力のなかで、なるべくであればあらゆることがこれ以上ひどくならないことをなんとかしているという感覚がつよい。それでも自分たちの給料を直接あらゆる場所の現金給付したほうがいいと思うことも少なくない。
私個人がなにか世の凄惨な現実に対してできることがあるとすれば、それはこういう日常のだらけた空気を刺すような生々しい話に、目を開き、耳を傾け、ほおっておくと自分を毎日のように覆っていく、無関心のベールをなんどでも引きはがしていくことなのだと思う。
前職であるとき、「日本出身なんだ、日本なんてニュースでほとんど聞かないね」と言われたことがあった。「日本だからアジアだしやっぱり多産なの?」と言われたときは、あまりの驚きに一瞬返答が遅れてしまった。日本についてみんな知っているべきと奢っていたわけではない。その職場にはあらゆる場所に対してアパシーがあふれていて、日々耳の奥でなる雑音のように蓄積するストレスがあった。それは日本での勤め先で感じたそれと似ていた。本質的には日本国内だということや、国際機関かどうかということは関係ない。
紛争地を踏まなくても、自分の仕事が直接平和に貢献できなくても、日常にはその厳しさの断片、つらさの破片が織り込まれている。もっといえばそれらの厳しさを自ら感じ、周りも感じられる環境に私はいたい。辛く、難しく、複雑な現実を前に、それを肌で拾い続けようとする努めに私はぎゅっと握りあうミッションと連帯を感じるからだと思う。
そろそろ娘の今日の慣らしの時間が終わる。
私は転居に伴って現在求職中なのだが、こちらの保育園の多くはこども園形式なので、まだ定職についてなくても預かってくれるのがありがたい。
こちらにもいわゆる慣らし保育があって、まだ今月にはいってからは朝は1-2時間したら迎えに行かなければならない。家に帰るほどの余裕はないので、大抵そばのカフェでコーヒーとコルネットを食べながら作業をしている。
イタリアはコーヒーのメッカだが、昔ながらに親しまれている飲み物だけに、いまだにバルと呼ばれる立ち飲みカウンターでクイっと飲む形式か、純喫茶風の昔ながらの店が多くて、なかなか英米風の軽食も食べ物も一通りあって、作業しやすい机と電源があるような形式のカフェは少ない。
保育園のそばのカフェはまさにこの稀にしかない作業者歓迎のフードもおいしいカフェなのは、朝の1-2時間を毎日ここで過ごす私にとっては、ありがたい幸運だ。中庭もきもちがよく、子どもの声が響いても気にする人もいないので、最近は保育園待機時間以外にもここをよく使うようになった。週末はパートナーの職場のインターン生に誘われてブランチをしたばかりだ。
そんな娘の保育園は彼女が通いはじめて2週目から警護が強化された。この保育園はシナゴーグが運営している保育園なのだ。に勃発したいますでに戦争状態といっていいであろうイスラエル・パレスチナにおける戦闘をうけ、シナゴーグを運営するフィレンツェのユダヤコミュニティは急ぎイタリア当局と相談し、普段からつけている警備を強化した。保育園は世俗教育で、いわゆる日本でいうところの仏教系幼稚園、みたいなあくまで内容というより運営母体がたまたまシナゴーグということなのだが、唯一戒律と関係することとして、コーシャー(豚を食べない等をはじめとするユダヤのルールに従った食事)の給食を提供しているということもあり、通っている園児はユダヤ系の家族がほかの保育園よりやや多い。初日クラスメイトの子たちの名前を覚えようとロッカーのシールの名前をメモしてきたが、そこには、Nogaちゃん、Avivちゃんなど、伝統的ユダヤ系の名前が並ぶ。先生との会話の中で、クラスの子の何人かのおうちはイスラエル人家庭だということも聞いている。警護を強化します、というメッセージをみて、ここまで一つのいいねのスタンプを押すのにまよったことはなかった。Whatsappグループにはもちろんムスリム系の家庭もいるかもしれない。このセンシティブな時期、どんなメッセージがどのように誰を傷つけるかはわからない。
帰宅する道の途中にはFree Palestineのペイントが道で目を引く。国連はイスラエルの攻撃をずっと糾弾し続けている。すでに過去に類をみないほどの国連職員と援助関係者も命を落としている。私のタイムラインには見るに堪えない惨状を移した写真が流れ、友人を直接悼む言葉も並び始めた。
イスラエル・パレスチナにおいた悲しくも再び勃発してしまった戦争には悲しみ、やるせなさを感じる。自体の根の深さにはため息もつききれないほどの、行き詰まりをかんじる。
先に書いた週末のブランチで会ったインターン生は話の中でウクライナ人だということがわかった。中学生のころからイギリスの全寮制の学校に通っているという彼女に「両親は今イギリスにいるの?」ときくと、父はウクライナ、母は米国にいると教えてくれた。「お父さんはキエフ?」と尋ねると、彼女は少し目をふせていった「いえ、父は今オデッサにいるの」。オデッサといえば、ウクライナ戦争の戦略的要所の港湾だ。
私たちのついている国際機関の仕事は無力だ。毎日世界を救う仕事をしている、と豪語する国連職員が目の前にいたら、その人の盲目さと驕りを疑った方がいい。私たちはむしろ圧倒的制約と無力のなかで、なるべくであればあらゆることがこれ以上ひどくならないことをなんとかしているという感覚がつよい。それでも自分たちの給料を直接あらゆる場所の現金給付したほうがいいと思うことも少なくない。
私個人がなにか世の凄惨な現実に対してできることがあるとすれば、それはこういう日常のだらけた空気を刺すような生々しい話に、目を開き、耳を傾け、ほおっておくと自分を毎日のように覆っていく、無関心のベールをなんどでも引きはがしていくことなのだと思う。
前職であるとき、「日本出身なんだ、日本なんてニュースでほとんど聞かないね」と言われたことがあった。「日本だからアジアだしやっぱり多産なの?」と言われたときは、あまりの驚きに一瞬返答が遅れてしまった。日本についてみんな知っているべきと奢っていたわけではない。その職場にはあらゆる場所に対してアパシーがあふれていて、日々耳の奥でなる雑音のように蓄積するストレスがあった。それは日本での勤め先で感じたそれと似ていた。本質的には日本国内だということや、国際機関かどうかということは関係ない。
紛争地を踏まなくても、自分の仕事が直接平和に貢献できなくても、日常にはその厳しさの断片、つらさの破片が織り込まれている。もっといえばそれらの厳しさを自ら感じ、周りも感じられる環境に私はいたい。辛く、難しく、複雑な現実を前に、それを肌で拾い続けようとする努めに私はぎゅっと握りあうミッションと連帯を感じるからだと思う。
そろそろ娘の今日の慣らしの時間が終わる。
今日もきっと、オーブンで焼き立てのコーシャーパンをもらって満足げな顔ででてくるとおもう。