2020年8月20日木曜日

Szégyen a futás, de hasznos

仕事をやめました。
8月頭に日本に戻ってきて、
ジュネーブで2.2年間勤めた職場を昨日やめた。


はっきり言って今はかなり疲弊しているし、この数ヶ月、経験したことのないようなストレスで心身ともにギリギリだった。今までも、前職や、短期出張先で、上司があわない、労働環境がきつい、などが理由で結構なストレス負荷の中で仕事をしたことがあったが、個人を標的とされて、数ヶ月にわたる心理負荷をかけられたことは初めてで、自分にはちょっと耐え難かった。


この数ヶ月で色々「ああすればよかった」「こうできたかもしれない」とか今も後悔や迷いを感じることはあるが、なにか正しい選択をしたとすればそれはその耐えがたい心理的負荷から逃げたことである。逃げた自分は全力で褒めたい。


さて、ここでもTwitterなどでも今まで転職がうまくいった人の典型みたいな余裕と満足感を放っていたとと思う。急にそれがこんな展開を迎えて驚かれるかたもいるとおもう。


この数ヶ月で気づいたことは、私がこの2年間ラッキーだったということだ。2年の間、私はそれはそれは良い大ボスの下で、白すぎて蛍光色かとおもうくらいのホワイトな労働環境で働くことができており、どこかそれを組織の性質と同一視していた。しかし、離職をめぐる数ヶ月でわかったことは、うちの大ボスのようなマネージメントを組織的に担保する仕組みはないということだ。長期出張では限りなく対局を体験したし、組織の戦略系の役務についていたこともあり、組織的な課題も理解してるつもりだったが、あまりに日常が健やかそのものだったので、どこかで楽観視しているところがあったのだと思う。


私が経験したことはかなり特異であるとはいえど、ある程度は国際機関に共通する構造的な問題である。国際機関の特徴の一つに短期の有期契約をつなげていく、流動的な雇用形態がある。一年以上のフルの福利厚生がついた契約をもってる専門職(P-staff、ローカル職員のことはG-Staffという)は国連では半分以下。4-5年の契約なんてみつけようものなら、「長期」契約をもってる特権階級だなんて揶揄われたりするものだ。


このような有期契約なので、全ての契約は部署と特定のタスクに紐づいている。言い換えれば人事異動はないし、その組織全体としてその人を抱えたという意識は希薄である。よく言えば、古き良き会社であるところの「会社が従業員を所有してる」みたいな感覚もない。


そんなわけなので国際機関は採用は9割部署・現場権限で行う。その部署やオフィスが予算獲得して、ニーズがあるので、といって募集をかけ、その採用者の上司にあたる人や管理職で採用チームを組み人を選ぶ。結果、人事の権限が非常に弱くなる。考えてみてほしい、人事異動も採用も行わない人事だ。一体何をしてるんだろうと日本の終身雇用の会社からは思われてもおかしくない。


もちろん人事規則の番人としての機能は有しているのだが、「わたしが採用したわたしの仕事をする部下なのだから、私のチームはこうする!」というマネージャーに対して、それに対抗する術をもたない。


結果、私の機関では特に顕著だったが、「上司ガチャ」で誰を引くかでかなり明暗がわかれた。なぜなら、どうしようもない上司を引いてしまったときに、それを自浄するガバナンス機能を有していないからだ。


国際機関には組織内のガバナンスを担保する様々な仕組みは役職としては用意されている。Ethics & Conduct(倫理課)、Ombudsperson(仲裁制度)、労働組合、産業医。ただ、実質的にハラスメントにあったときにその上司と対等に掛け合い、場合によってはそこに指導や処分をするに十分な仕組みはなかった。労働組合や仲裁制度は結局量的に訴状が積み上がらないと動けず、産業医はあくまで自分自身の心身の健康をサポートしてくれるエキスパートである。一番所轄範囲に近いと思われる倫理課は、結局匿名で訴えを出しても、その内容からその過程で誰かは明白になり、散々ネガキャンをくらって、あとのキャリアに響くというのがうち組織でも他機関でも聞かれることだ。結局短期契約の世界では次がつながらないと組織生命はおわる。「ま、私のこと訴えてもいいけど、次雇わないよ、あんたのこと」という態度をとるマネージャーを防ぐことは難しい。


加えて、開発(Development、平時の支援)と緊急人道支援(Humanitarian/emergency assistance、戦時や災害などでの支援)のうち、後者を所轄範囲として有している機関はこの「上司が絶対」カルチャーはかなり強まる。一言でいえば、命に関わる危険な環境だからだ。前に長期出張先での話を書いたときにも言及したが、緊急人道の世界はかなり、体育会系だ。自分たちもリスクの高い場所にいるし、裨益者もタイミングを誤れば命を落とす。そんな環境では軍隊型の組織運営は是とされる。合理的だ。「はやくしないと人死ぬよ!」ってときに「じゃあみんなの意見をまずは順番に聞こう」とかやってる余裕はないのだ。緊急人道においては縦型の指揮系統がちゃっちゃと成果を出す傾向にある。


そのため、緊急人道をやっている組織は、このような上司に強い権限を与えるようなマネージメントを是認するような人事規則や規範の中で運営されている。厳しくしすぎると、体育会運営が必要な場所でそうできなくなるから。


私は夏に上司がこのような体育会バリバリの人に変わった。コロナ下で本当にさまざまな「想定外」が起こる中で、かなり多くのことは「部署や現場判断にまかせます」というのが組織見解となった。そのため同じ課題に直面しても人によって対応はバラバラだった。私は自分に降りかかった課題について、自分の古巣で多くの人がとっている対応をお願いしたいと新ボスに願いでたがそれはことごとく叩きつぶされた。私としては理性的に話を詰めたかった。別に納得ができる理由があるなら良いと思った。しかし、そのようなキャッチボールはできず、新ボスは「私があなたのボスだから。いいからやれ」という態度を崩さなかった。


これを人事部に相談してしまったところから、状況はさらに転がり落ちていく。運の悪いことに人事部の管理職も同じく緊急人道の叩き上げ、戦火からかえってきたような人だった。私の話を聞くや否や「あんたが問題だということがわかってるか?」と電話で詰められた。上司に楯突くというジェスチャー自体がショッキングというような反応だった。最終的には48時間以内に離職するか上司の指示を飲むか決めろと迫られた。すでにこちらのメンタルをギリギリと削ってくるようなコミュニケーションに精神が衰弱してる中、この連絡をうけて、人のウェルネスも含めてマネージしてるはずの人事がこのようなことをいう場所に私はこれ以上いられないとおもい、組織を去ることに決めた。


古巣や大ボス、同僚たちからは怒りやショックの声が寄せられた。「意味がわからない」「ひどすぎる」。

でも私も含めそのときに全員が痛感したのはそう思うカルチャーは私たちの部署のそれだったということ。組織が全体として浸透させようという意思をもってはいなかったということだ。


こんな話はっきり言って、日本の会社ではよく聞く。ましてや「社員を所有してる」と考えてる会社ではそんなこと息を吸うように行われてる。つい最近も日本の友人と話していたら、明確に「こういう働き方は家族の都合上無理です」と人事面談で告げた社員に、まさに行くのは難しいと伝えたその部署を移動させたという話をきいて驚愕したばかりだ。だから、私が心底苦しかったのは青い芝に囲まれていたからかもしれない。私の古巣のES(従業員満足度)を重んずるカルチャーを横目でみながら、脳天をおしつけられて地面にぐいぐいと埋められていくのはキツい。それはガラス瓶の中にいれられて、最初はたっぷりあった酸素が徐々に抜かれていくような気持ちだった。苦しい。どんどん苦しくなる。ガラス瓶の外はあんなに楽に息が吸えたのに、と手をガラスの壁に伝わせながら外を見る。


苦しくて、酸素がなくて耳鳴りがガンガン、あたまはぐるぐるで、まともにせいかつできなくなりそうだった。だから私はガラス瓶を割って出た。割ったその手は血だらけになって刺さった破片が今もとれないけれど、でも瓶の外には逃げた。


逃げる以外の選択肢はあの時点ではなかったと思ってる。


逃げるは恥だが役に立つというのは実はハンガリーの諺だ。私のジュネーブの2年間、そして離職プロセスを通して支えてくれた友人の1人はハンガリー出身の娘だった。


「日本ではハンガリーの逃げるは恥だが役に立つって諺が有名なんだよ。自分の納得できない嫌な状況を打開する女の子のドラマで有名になったから」


「なにそれおもしろい。でもなんかその使い方はちょっと違うかも」



「そうなの?」


「この諺はね、捕食されそうなとき、敵から逃げる動物のことをいうのよね。迫り来る脅威からは逃げよう、みたいな意味」


「あ、そうだったんだ」


私は少し考えてからメッセージアプリに指を走らせた。


「じゃあ、私の今の状況だったら使えたりするのかな?脅威から逃げてきたきがしてるんだけど」


すぐ既読になったメッセージに沢山の泣き笑いの絵文字がつく


「たしかに!それ最高ね。間違いない、あなたは正しく脅威を振り払って逃げてきたのよ。大丈夫。役に立ったから」


大丈夫。役に立ったから。


Szégyen a futás, de hasznos


ヨーロッパ最高峰のマッターホルン

スイスに来るなら夏の登山が本当におすすめ


2020年7月16日木曜日

人生は舞台みたいだけれど、やっぱり舞台ではなくて

ここのところ、とてもつらいことがあった。
自分が数年間積み上げてきたと思ったものが一気に崩れ落ちるような感覚で、
足元がぐらつく中でちょっとどうしいいかわからないくらいに自分を見失った。

大好きな舞台の音楽を聴きながら私は自分を役に重ねていた。
辛さに吸い込まれそうなとき、憤怒で拳をにぎりしめているとき、舞台の音楽の力強さに私はいつも救われる。
キャラクターの独白が自分の胸のなかでぎちぎちに絡まっているものをほどいて心象風景をあざやかにそこに広げてくれる。それはいわばカタルシスである。

Evanは心細さを、Janisが裏切られた自分を、ElphabaとMatildaは抑圧への不公平感を歌に乗せて重ねてくれる。

私は彼らの言葉をなぞりながら、安心する。
舞台は私に共感してくれるからだ。

でも舞台は私に共感はしてくれるかもしれないが、現実は舞台とは異なる。
ソロのバラードに乗せて私の周りの人たちが内面を吐露してくれるシーンはない。

私の話していた相手は八方美人のCadyか、流れに身をまかせるしかなかったEvanか、役に徹しながら本当はFor Goodを心刻むGlindaか、自分が正義と信じて疑わないFloroかはわからない。

相手の目を見ながら、メールの語彙一つ一つを手繰り寄せ、行間に見えない気持ちを探しながら、
悩むことしかできない。
だから現実は戯曲ではない。
相手の本当に考えていたことなんてわからない。
シーンはいつまでたってもすすまず、見えない相手の気持ちを確かめようと目を泳がせてるとき、
自分は暗転の中で立ちすくんでしまうような気持ちになる。

例えば、相手の気持ちを手に取ることが無理でも
自分がハッとスポットを浴びてモノローグで空気を握れたらいいのに、とも思う。
EvanがWords Failで嗚咽をあげながら告白するように、JanisがI’d Rather be meで自分を貶めてくる人に付き合ってる暇はない、と宣言するように、私だって自分が苦労してなんでもないフリをしなくてもよければいいのにと思う。
I wish I also owned the discourse of the moment と思ってやまない。

でも、Pippin がOh, it's time to start livin’, Time to take a little from this world we're givenというように、私や相手の気持ちがどうなろうと、現実のシーンは先に進む。そして、シーンは絶えず次に更新されていくからこそ、私は自分のこのプロットをどうにだってできる。
Matildaだっていっている、

Like Romeo and Juliette
Twas written in the stars before they even met
That love and fate and a touch of stupidity
Would rob them of their hope of living happily
The endings are often a little bit gory
I wonder why they didn't just change their story
But nobody else is gonna put it right for me
Nobody but me is gonna change my story
Sometimes you have to be a little bit naughty

私たちの現実は舞台ではない。
運命も、既定のレールもないし、エンディングなんてきまってない。
だから、今いるプロットが嫌なら自分でどうにだって変えることができる。
それはPippinが最後サーカス小屋を剥がしていくように。
これを謳っているのもまた舞台の主人公たちだということは、驚くほどのアイロニーとウィットである。

だから私は現実は舞台ではない、という冷厳な事実にたちすくみながらも、
また少しの余裕がでてきたら、自分の気持ちを舞台の歌に託すのだと思う。
私が舞台で演じきれなかったシーンを代弁してほしいという願いと、
これから自分が描きたいプロットに期待をよせながら。


ここ数週間自分を励まし、包んでくれた曲たち
自分の救急箱にしたくてプレイリストで残してみた。

2020年5月5日火曜日

居心地良さとソーシャルバブル

一昨年転職したときに、私は自分の比較優位が強い場所よりも居心地を求めていまの職場にきたとかいた。

語学ができる!「国際感覚」なる(なにかわかるようでわからないもの)がある!そんなことを武器にしていたコンサル時代から、身の回りに全員がそれを常識として働く国連にきた。

この一年半、私はそれはそれは心地よく働いてきた。自己弁護したり、それはちがう!と偏見と戦う闘士を無理やりやるようなことは激減した。それは私の日常の中で、仕事の本質以外でのストレス負荷を大きく減らした。

しかし、同時にいま私は新たなジレンマに直面している。感覚の近い人の多い集団を求めていくと、自分を取り巻くのはどんどん均質的になっていく。すると、その小さなソーシャルバブルが自分の社会生活のほとんどを占めてしまい、その外の感覚からはどんどん隔絶していく。
自分自身の心地よさと似たもの同士の中で隔絶されることの間のジレンマにいる。

例えば、私はいまジェンダーはニュートラルに扱われるのが普通だよね、という集団にいることが日常になった。すると、男女の分断が激しい集団や、家父長的な価値観に生に触れることは本当に少なくなってしまった。「これはこの集団が特殊なのだから」と意識できていることはまだよくとも、きっと私が深く内面化してしまい、勝手に「普通」だと思っている感覚は多くあるのではないかと思う。膠着したジェンダーバランスにある環境を指して、さもそれが簡単なことのように「そんなのさっさと女性を上にあげればいいのにね」なんてお花畑のようなことを言いかねない。

去年一年で私が一番ショックをうけた瞬間の一つは「あなたみたいな人がいるからトランプが当選する」と言われた時だった。
その言葉は自分のclose kinから出てきた言葉で、それがさらに私を鋭く刺した。

相手が(少なくとも私が理解するかぎりにおいて)示したかったのは、私のように自分のソーシャルバブル外で起こっていることから隔絶されていると、establishedな社会層が自分の「普通」が社会全体に共有されてるんだろうと盲目的に信じ、アメリカ大統領選の時のように社会の流れを読み誤る、ということだった。

ここで、トランプ政権に対する評価や、価値判断を語ることはしないが、私が自分に近しい人たちの殻にこもった結果、過激な思想をパワーにのし上げてしうるという指摘はとても打撃が大きく、ショックだった。

トランプの当選、BREXITの国民投票についての論考はしばしば社会の分断、establishedな社会層の感覚のズレ、という観点から語られた。
「私たち」が「普通の感覚」、「みんなの感覚」として信じてきたものは、そうではなかったし、
マイノリティーでさえあった。それは「そうだそうだ」と声を揃える集団の中へ、中へと多くの人が閉じこもり、それが世間の全てだと誤解したからだった。

しかし、このソーシャルバブルを破ろうとする努力は個人の日々の幸せを追い求めることとは時に逆行する。
決して心地よい作業ではない。
例えば、昨今のCOVID-19危機をうけて、ネット上にはいつも以上に心のひだに爪を立てるような言葉が飛び交うようになったと感じる。
日本における中国に対するスティグマ、ヨーロッパにおけるアジア人へのスティグマ、
様々な事情によって個人の安全と福祉のために日本に帰ってくる在外日本人に浴びせられる批判の矢、
公僕として働く人たちに対して、その背景とリソースをみずに、むやみやたら叩く言葉

それはみていて自分の中が掻き毟られるように痛痒いし、見ていて心地よくない。
はっきり言って不快である。
自分のまわりでも、ソーシャルメディアで特定の語彙をスクリーンアウトして見えなくする設定にする人も出てきた。
頭の中のノイズは減るし、心理的なストレスも軽減される。
その方が心の安寧のためには良いと私も感じる。

でも、そのノイズ切るスイッチがなかなか押せない。
というより、押してはいけない、と自分の指を止める声が頭の中で響く。
それは、冒頭にのべた言葉が脳内にジンジンと蘇るからだ。

このままヒリヒリとするような言葉をミュートしてしまったら、
私は一層ソーシャルバブルの殻の中に身を閉ざしてしまうのだろう。
その危機感がある。

ましてや、私はすでに自分の日々の環境という点では、日々のヒリヒリやストレスが嫌で、そこを振り解いてきてしまった。
私は自分の日々の居心地の良さと引き換えに、自分と異とする価値観に触れ合う環境を後にした。
多様性をもとめてこの環境にきた、と私は繰り返し呪文のように唱えてきたが、
立ち止まってみると、私は一つの多様性のために、別の多様性を後にしたという方が正確なのかもしれない。

先週実は某職のための就活の面接を受けたのだが、1時間かけて行われた面接の中で面接官が聞いた質問は
「多様性をあなたの言葉で定義してください。その上でinclusion(包含)とは何かあなたの考えをのべてください」
だった。それはもっといえば、「多様性をみとめない」という価値観をどう多様性として受け入れるか、という本質的な問いにもつながる。

私の職場では、ダイバーシティを尊ぶことは踏み絵だ。

候補者がこの質問に対して「多様性なんてものはいらないし、インクルージョンなんて労働効率をさげる」なんて言おうものなら、その瞬間に選考から一発アウトを喰らうことをこの業界の全員が知っている。

人の選抜からこのような基準を設けている。私の周りは国籍も宗教もジェンダーも様々だけれども、全員が口を揃えて「社会的属性に基づく差別はいけない」「基本的人権はいかなる状況でも与えられるべきものだ」と息をするように述べる。規律教育のたまものではなく、それを全員が信じているというある意味異様な空間だ。
多様性や人権についての考え方についてグラデーションのほとんどない、とても均質的な集団である。
私の今ついている国連という職業の一つのミッションは世の中にある偏見や差別を取り払うことである。
しかし、その中にいるほとんどの人は、そのような偏見や差別に日常的に浸かり、その摩擦と心をすり減らすという日常からは遠ざかっている。
ある意味、それは見えないなにかを掴む作業である。

人は「だから国際機関は」と均質性に染まった私たちを指差すかもしれない。
もちろんその批判は組織としては甘んじて受け入れるべきだ。
しかし、それぞれの構成員の幸せを考えた時に、差しかけた指は止まる。
なぜなら、彼らの多くもただただ自分の日々のストレスやノイズを取り払いたくてそこにいるからである。
自分が心地よい場を追求するのはその人個人の自由である。
あらゆる人にそう願うように、彼・彼女たちにもなるべく心安らかに日々を過ごして欲しいと願うし、
自分の日常もなるべくであったらそうであってほしい。

この投稿に残念ながら結論はない。
自らの幸せで安らかな日常を求めたいという基本的で実にシンプルな欲求と
均質的なソーシャルバブルの殻の中でその外の流れに盲目に自分になるまいとすることは、
本質的に相反する営みであり、ジレンマをうむ
そのジレンマに自覚し、葛藤することこそが外に目を開くことそのものなのかもしれない。



ヨーロッパでは日が長くなってきました。先日気晴らしにお弁当をつめて湖畔(近所)で夕飯ピクニックをしました。


人はこれだけ非常事態でも、花は黙っていつも通り咲く。季節はもうすぐ初夏









2020年2月10日月曜日

Matildaと労働

先日久しぶりに舞台Matildaをみた。私にとっては思い出深い作品だ。初めてみたのは2014年。入社2年目のロンドン出張の時だった。舞台オタクなので、ロンドンやニューヨークに行くときは選択肢が多すぎて頭を悩ませるのだが、その時は迷うことなく、真っ先にMatildaを予約した。

転職して2年も経ったので、closetの中でなくても話せると感じはじめたが、私は前職時代本当に苦しんだ。どんな場所に旅行しても壊したことない胃腸が自慢だったのに、入社半年で逆流性食道炎になり、同じ年の秋には突然の腹痛で病院でそのまま5時間点滴につながれたりした。腹痛の原因は不明と言われた。「理由はわからないが、胃がものすごい炎症をおこしている」と。

食道炎の時と点滴の時のちょうど間くらいだっただろうか、初めての出張をした。その出張が入社以来の私のストレスと辛さを集約したような3日間だった。行き先はインド。ずっと行ってみたかった場所だったはずだった。でもインドについて私が触れることができたのは、ホテルにいたインド人従業員と、2泊で食べたインドカレーくらいだったことに嘆いた。夜、ホテルでベッドに倒れこんでふとYoutubeにあがってきた、Matildaのトニー賞受賞時のパフォーマンスをみた。見た瞬間、仕事着とメイクもそのままにボロボロ泣いた。机の上に上がり、顔を真っ赤にして叫び、ホッケースティックを振りかざし、怒る子どもたちがものすごくかっこよくみえたのだ。

だから、そのちょうど一年後にロンドンでMatildaをみたとき、私は文字通り号泣した。目の前のこどもたちが、私がいえないこと、抑圧されて私の中で窮屈にしている自我を代弁してくれるように感じた。それはある種のカタルシス体験だった。
例えば、School Song、子どもたちが新学期初めて小学校に登校した新一年生たちに対して

上級生が歌う曲なのだが、この曲に込められた皮肉は強烈だ。

So you think you're A-ble 
To survive this mess by B-ing a prince or a princess, 
you will soon C (see),
There's no escaping trage-D .
And E-ven If you put in heaps of F-ort (effort),
You're just wasting ener-G (energy),
'Cause your life as you know it is H-ent (ancient) history.
I have suffered in this J-ail .
I've been trapped inside this K-ge (cage) for ages,
This living h-L(hell),

え、おすまし顔してこのカオスを生き延びられるとでも思ってる?
すぐにわかるよ、この悲劇から逃れる方法なんてないってことを。
どんなに努力したって、それは労力が浪費されているだけ
だって、昨日までの君の人生なんてもう太古の歴史だから。
僕らもこの監獄で苦しんできたんだ
この檻の中にずっととらわれてる
この生き地獄

Like you I was Q-rious (Curious),
So innocent I R-sked (ask) a thousand questions,
But, unl-S you want to suffer,
Listen up and I will T-ch you a thing or two.
U, listen here, my dear,
You'll be punished so se-V-rely if you step out of line,
And if you cry it will be W should stay out of trouble,
And remember to be X-tremely careful.

私だって君達みたいに興味津々だった
無垢な目でいろんな質問したさ
でも苦しみたくなかったら、疑問はなげかけないほうがいい。
だから、一つここはアドバイスをあげるよ、だからよく聞いて
ここでは線を踏み外したら、厳格に罰せられるんだから
泣こうものなら、さらにきつく当たられるよ
問題は起こさないほうがいいよ
だから気を付けて


これは、私が感じてることそのものだった。
入社するまえのワクワク、緊張、自立したことへの誇り、
それを思い出しては、縛られたような窮屈と踏み外してはいけない規律については、
話してはいけないとおもった。
だって、「問題はおこさないほうがいい」から。
だから、舞台でこの曲が歌われているときに、声を潜めて話さなければならないような秘め事を大きな声で堂々と宣言されているような清々しさと感謝を覚えた。
それをほんの7-8歳の子たちが歌っているというアイロニーもすごい。
子どもは学校を楽しんで、行けることに感謝しなければならない、という無言の前提を一気にかき消すような全力の声がそこにはある。
内在した圧力を吹き飛ばすパワフルさがあるのだ。
(余談だが、このSchool Songの歌詞がA-Zの順になってるかっこよさも本当に痺れる)

私の周りをみると、日本人、日本で働いている人に特にMatildaのファンは多いように感じる。上記の私もそうだが、他にも何十も作品をみている舞台ファンがお気に入りの作品にあげたりしている。今回一緒にみにいった私のパートナーも、数か月前に初めてみたMatildaに衝撃をうけ、今回半年足らずで二人で再訪することにした。

日本はいまだ体育会型の厳格な規律が社会を駆動していると感じる。とくに労働において。第二次世界大戦を振り返ったときに、日本は権力が仕組みのなかに埋め込まれており、ドイツやイタリアのような個人のドグマを象徴として敷かれるヒエラルキーや、政治的カリスマに牽引される英米とはことなり、軍、という仕組みそのものが権力となっていたことが、その後の戦犯を裁く際もことを複雑にした、という声もある。(天皇制の理解の仕方にもよるので、あくまで解釈の一つではあるが)その後、日本は製造業を主軸産業とし、高度成長をとげた。一定の品質で生産を大規模化、効率化させていく製造業の性質もこの強い規律に駆動される労働規範に非常に合致していたのだと思われる。
いまや日本のGDPの7割はサービス業が担っている。しかし、日本はその就労文化はいまだ、軍国主義の時代、そしてそこからの大量生産の工場労働を維持しているように思える。

例えば私の前職であるコンサルを例にとってみたいと思う。
本来サービス業は提供するサービスの価値に対して対価が払われるべきだ。しかし、日本ではそうではないことが多い。日本は本当に暮らしやすい国だが、それは消費者としては、払っている金額に対してサービスが不均衡に過多であることが大きいと思っている。
コンサルも、本来であれば我々が提供してる価値、分析の質、得てきた情報の質、提案が与える示唆に対して払われるべきであると思う。しかし、現状そうとはなっていないところが多い。コンサルと一言にいっても細かく分けるとビジネスモデルは異なるかもしれないが、例えば私の前職では私の一時間の労働の対して単価がつけられ(これが私の給料になるわけではない)、何時間分の労働、またはそれに相当する成果をあげたかでコンサルタンシーフィーを顧客からもらう仕組みであった。(私の記憶が正しければ大手の弁護士ファームもそういったところが多かったように思う)。私のアウトプットの値がついているのではない。私の身に値がついているのである。もちろんその背景には時間を費やせば費やすほど良いものができるという推論があるわけだ。しかし、それは同時にコンサルティング会社が利益を出すためには常に長時間の労働をささげる以外にない、ということでもある。中には民間企業をお客さんにした場合に、アウトプットで評価してフィーを払ってくれる場合もある。しかし、その仕事で多くのお客さんが「量」で仕事を評価していたのを思い出す。

例えば新規事業立ち上げのためになるような参考事例を調べてほしい、といったとき、本来であればその新規事業に最も参考になるような良例をいかにだすか、ということが大事だとおもう。しかし、こういった事例を調べるときにも、「何十例だしてほしい」みたいなことを言われたりする。それは、その何十分の一であることが正当性を高めるからなのだが、別にその例は調査の際に3つ目にでてきているかもしれないし、絶対的な価値があるかもしれない、のにだ。

コンサルを目指す学生やその業界外から「高い専門性」で付加価値を提供しているというイメージをもたれている、なかにはコンサル自身もそのように勘違いしていることさえある。しかし、ほとんどの場合、クライアントに自社にはない時間と労力をお金で買ってもらう、というのがコンサルビジネスだ。コンサルの中で、自分がクライアントより優れているから、自分の仕事をできると思っている人がいるとしたら、それは思い上がりだと思ったほうがいい。クライアントにないのは時間と人手である、彼らは毎日の通常業務で忙しい。普段の仕事に加えて、言ったこともない途上国のビジネスチャンスを調べる時間なんてない、自社が未開拓の事業分野について参入可能性を分析する時間なんてない、マーケットの市場分析をExcelでカチカチやる若手がいない。だから、私たちコンサルを時間で買う。

コンサルというと激務がつきものだが、本質的にはそれは逃れようがないとおもっている。当たり前だ。だって、私たちが何時間働くか、でお金が入っているんだもの。労働が短くなれば得られるフィーは少なくなり、儲けは減るのである。

少し脱線したが、こうした労働集約的ビジネスの場合、強い規律は非常に大事だ。いかに長い間人を労働に従事させ、生産性をおとさずにを稼働させるかが大事だからだ。行動規範は厳格に、一糸乱れず前進することがマネジメントのコストをさげ、効率を高める。上記は私が知っているコンサルの例だが、サービス業がGDPの7割を占めるようになった今も日本の多くの業種は労働集約的な工場労働に近いのかもしれない。厳しい規律のもとに、自分の時間をささげることで価値を生むような生産活動をしながら、私たちは自分たちをマチルダのこどもたちに重ねるのであろう。先のSchool Song を初めて聞いたとき、私は新人研修の時に言われたことを思い出した。
その研修講師は私たちの前に立つと言った、この研修の中では3つのルールがある、と。
最初の二つはもはや覚えていない。互いに協力しましょう、みたいなことだった気がする。最後に彼はいった「そして、3つ目のルールは、ルールを守ること」。
ぞわっと寒気がした。中身がないルール。
なにがルールであれ、それを守ることを約束させられる。全体主義だとおもった。
大げさかもしれない。なにをいってるんだ、たかが研修だろう、その数時間の研修会社が内容をこなすためのだけの道具だ、と。でも、私はいまだ忘れられない。それは問うことを殺すような一言だった。ただ規律に従うことを「研修」で教えている。この講師は前職の職員ではなかった。しかし、むしろ様々な会社が彼にこの「ルールを守る」研修をたのむことで彼は仕事をしていたともいえる。だから、「疑問はなげかけないほうがいい」し、「線は踏み外しちゃいけない」。その研修講師の前に起立して並ぶ私たちはまさにTrunchbullの前に顔を強張らせMatildaたちだった

Matildaはよくキッズミュージカル、と形容される。しかし、この作品をキッズミュージカルと呼ぶのはあまりに過小評価だと思う。キッズが出演者の大半を占める、という意味ではキッズが出てるミュージカルではある。しかし、それは学校という誰もが経験する規律教育を通じて、圧倒的な皮肉とともに「線を踏み外しちゃいけない」大人たちに送る応援歌なのである。



2020年2月3日月曜日

あなたが嫌いな日本の会社っぽさは、日本の外ではあなたの強みかもしれないー国連にみる一見日本的な企業文化ー

海外の企業で働く人、国際機関就職者、などをみると一辺倒に、「日本/海外」、「日本の会社/国連」という二項対立で語るひとが少なくないように思う。その中には、海外の会社はこれがいい!とか、日本の会社に比べて国際機関はこんなにいい!と手放しに海外の会社や国際機関を礼賛するものもあって、びっくりしたりする。

自分の好きなものや嫌いなものがあるとして、それが何によるものなのかは冷静にみつめることは大切だと思う。それは自分がいる会社が素晴らしいのかもしれないし、上司がすばらしいのかもしれない。本当に、「日本」、「国際機関」というところがポイントなのかは検討に値するかもしれない。

例えば、日本の古臭い企業文化、非効率の助長している要因としてしばしば挙げられるものは
国連の中でも散見されるものが多い。




これらは少なくともうちの組織や、話を聞いたいくつかの国際機関では珍しくないことではないようです。
仕事をしない老害が窓際にずっといる、管理職のローテーションで全然専門外の上司がきて困っている、こんなこともよく日本・海外の対比で聞かれますが、これも国連にもみられる現象です。

私が就職してからずっと心にとめていることとして、人を恨まず、構造を恨め、というものがある。基本的に組織においては、絶対するべきではないことは懲罰的措置がされ(情報漏洩したら処分など)、積極的にしてほしいことにはよいフィードバックが与えられる(売上に貢献したからボーナスアップ)。ある行動が蔓延しているとしたら、それには大抵それが助長されるような構造がある。だから、日本であろうと、海外であろうと構造が同じだと同じような言動が見られるようになる。

国連組織は基本的に官僚組織だ。私たちが小役人的仕事をしているということは前の投稿にも書いた。

加盟国はお客様、となりの機関は競合他社ーコンサルモデルとしてみる国連ー

国連で働いていると、普段の私たちは各国に対して指導的立場でかかわり、超国家的な権力で秩序を築いているという印象を与えていることが多いらしい。それは、おそらく本や、授業、世界史や時事で出てくる国連が人道的介入のような形で行動している事例が多いからなのではないかと思う。 ...


役人というと霞が関の官庁を想像されそうだが、官庁から市役所くらいの幅を想像してほしい。さて、官僚組織の中で特異にみられる現象の一つとして、会議のための会議というものがある。会議を開いて各部署から関係者を呼び、議題に沿ってみんな好き勝手話すけど、特にそこで意思決定がされるわけではない。国連ではこれをよくcoordination とかconsultationと呼ぶ。これらの会議がある意義は、二つ。

 ‐意見の代表性を担保すること
 ‐批判の事前予防

ある取り組みを進めるにあたって、テンプレ的な意見は「この取り組みは関係者全員の同意をとっているのか」。特に公共セクターにおいては、「全員」が強調されることが多い。Selective ではなく、Inclusiveな意思決定文化である。公共の利益を実現しようとしている故の文化だ。組織の幹部に説明するにあたっても、お金をだしてるドナーに説明するにあたっても、このピースが欠けることは許されない。すると、意見を聞きましたね!という場を設けることがとても重要になる。大した意見もでない、というのはむしろいいサインの場合もある。「特に是正するべきところはないので、そのままどうぞ!Keep Going」ということなので。大した意見が出ない会議を経ると、晴れてこの取り組みは「Consultした結果、全員のコンセンサスを得られました」と表立っていえることができる。
二つ目は、一つ目にも関係するが、意見を聞く、という姿勢事体が批判を牽制することにつながったりする。「は?そんなこと知らない場所でやってたの?何これ意味わからないじゃない」という憤りのほとんどは、「自分の知らないうちに」というところにかかっている。説明の場を設けて、他の人もいる目の前で建設的な議論をすることはあとあとの本質的な批判を受けることを予防することにもなる。
さらに、この会議のための会議を前にして、この人からは厳しい意見がでそうだなーっておもったら、するのが事前の根回しである。会議のための会議は概ね了承を得るためにするので、大きな意見の衝突が予想される場合は、事前にそのネゴは行っておくのが常だ。
Inclusive な文化に基づき、加点を狙うより、減点を避ける官僚の労働倫理において、会議のための会議や事前の根回しはまだまだ果たすべき機能が大きく、こちらでもなくなる気配はない。


体育会文化もそうである。うちの組織は数百のオフィスを持っているが、同じ組織の中でも、
・作業の量と迅速性
・資金調達
を人事評価メーターにしたところはたいてい、厳しい体育会文化が育つ。
多くのことを早くやればやるほどよくて、お金を取ればとるほどよい、ということなら、
四の五の言わせずひたすら人を働かせるのが最も効率がいいからだ。
逆にチーム全体の働きやすさやスタッフの心身のケアをする責務についてマネージャー強く監督するようになると一気に体育系マネジメントは鳴りを潜める。もちろん、人格者な体育会系の人もいるが、厳しい体育会文化の下では合わないひとはつぶれてしまうことが多い。

そもそも海外!という主語が日本以外の190か国以上を十把一絡げにして、ありとあらゆる企業や文化を語ろうとしているので無理がありすぎるのだが、もしあなたが「今日も決済上げるためにハンコにかけまわり、会議の事前根回しして、隣の部署とはちっとも情報共有できてないし、日本企業なんて嫌だ!海外にいきたい!」とおもっているなら、転職先のビジネスモデルやマネジメントカルチャーはよく見てから吟味するといいと思う。
私は今の組織をとても気に入っているが、それは今までいた組織に比べて、ダイバーシティが当たりまえとされていて、フラットなマネジメント文化が際立っているからだ。
逆に上記にあげたような、会議のための会議や根回しは毎日のようにあるし、部署ごとのたこつぼ化(こちらではSylosという)はかなり激しい。しかし、これらについては私はあまり気にならないたちなので、逆に自分の強みになると思っている。こういう役人的な仕事が好きじゃない人は多い。それが苦にならないということだけで能力になる。(ということはこちらにきてよくわかった)

むしろ、官僚でなくても、民間でさえ役人ぽい仕事の仕方がしみついた日本の企業の出身者は国連の基幹業務(本部とか政策連携とか)に向いてるのではないかなぁというのが私の意見だ。
同じように日本でビシバシ体育会で鍛えられた部活出身者や、商社・ロジスティクス系の業界出身の人は、国連の中でも緊急人道側のお仕事で本当に強みがあると思う。あの特殊なカルチャーにフィットする人材は世界を見渡しても稀有だと思う。それが居心地がいいなら、それは能力なので自信をもったほうがいい(それが苦手だった私みたいな人材にはわるいことを言わないから、国連の中では開発側をすすめておく)
(緊急人道と開発の社風の違いについてはここでは割愛するが、詳細はこちらを参照)
「初めての緊急人道支援」体験記

日本の会社はこれだから疲れる、これだから窮屈だと考えて海外や国連を目指す人も少なくないと思う。日本のいまの自分の企業にないものを求めるのももちろんいいと思う。でも、まずは一度立ち止まって、自分の嫌いなその慣習や文化がどんな構造を背景として存在しているのか考えてみるのは、そう悪いことではないようにおもう。そうするとおのずと自分が次に目指したい場所、それが日本以外の国のほうがいいのかも浮かび上がってくる。
でも、もっといえば、日本の会社っぽい場所を見つけて、それを逆に強みに利用するのも手かもしれない。日本特有だと思ってる文化も、構造を同じくする全く違う国や業界でもしかしたら共通する文化かもしれないから。

先週出張で訪れたウクライナ、キエフ
ご飯がとてつもなく安くておいしくて、空色屋根のエレガントな教会建築が綺麗な素敵な場所でした。
こんなに寒くなくて、私がロシア語を話せたらぜひ住んでみたい街だった