はっきり言って今はかなり疲弊しているし、この数ヶ月、経験したことのないようなストレスで心身ともにギリギリだった。今までも、前職や、短期出張先で、上司があわない、労働環境がきつい、などが理由で結構なストレス負荷の中で仕事をしたことがあったが、個人を標的とされて、数ヶ月にわたる心理負荷をかけられたことは初めてで、自分にはちょっと耐え難かった。
この数ヶ月で色々「ああすればよかった」「こうできたかもしれない」とか今も後悔や迷いを感じることはあるが、なにか正しい選択をしたとすればそれはその耐えがたい心理的負荷から逃げたことである。逃げた自分は全力で褒めたい。
さて、ここでもTwitterなどでも今まで転職がうまくいった人の典型みたいな余裕と満足感を放っていたとと思う。急にそれがこんな展開を迎えて驚かれるかたもいるとおもう。
この数ヶ月で気づいたことは、私がこの2年間ラッキーだったということだ。2年の間、私はそれはそれは良い大ボスの下で、白すぎて蛍光色かとおもうくらいのホワイトな労働環境で働くことができており、どこかそれを組織の性質と同一視していた。しかし、離職をめぐる数ヶ月でわかったことは、うちの大ボスのようなマネージメントを組織的に担保する仕組みはないということだ。長期出張では限りなく対局を体験したし、組織の戦略系の役務についていたこともあり、組織的な課題も理解してるつもりだったが、あまりに日常が健やかそのものだったので、どこかで楽観視しているところがあったのだと思う。
私が経験したことはかなり特異であるとはいえど、ある程度は国際機関に共通する構造的な問題である。国際機関の特徴の一つに短期の有期契約をつなげていく、流動的な雇用形態がある。一年以上のフルの福利厚生がついた契約をもってる専門職(P-staff、ローカル職員のことはG-Staffという)は国連では半分以下。4-5年の契約なんてみつけようものなら、「長期」契約をもってる特権階級だなんて揶揄われたりするものだ。
このような有期契約なので、全ての契約は部署と特定のタスクに紐づいている。言い換えれば人事異動はないし、その組織全体としてその人を抱えたという意識は希薄である。よく言えば、古き良き会社であるところの「会社が従業員を所有してる」みたいな感覚もない。
そんなわけなので国際機関は採用は9割部署・現場権限で行う。その部署やオフィスが予算獲得して、ニーズがあるので、といって募集をかけ、その採用者の上司にあたる人や管理職で採用チームを組み人を選ぶ。結果、人事の権限が非常に弱くなる。考えてみてほしい、人事異動も採用も行わない人事だ。一体何をしてるんだろうと日本の終身雇用の会社からは思われてもおかしくない。
もちろん人事規則の番人としての機能は有しているのだが、「わたしが採用したわたしの仕事をする部下なのだから、私のチームはこうする!」というマネージャーに対して、それに対抗する術をもたない。
結果、私の機関では特に顕著だったが、「上司ガチャ」で誰を引くかでかなり明暗がわかれた。なぜなら、どうしようもない上司を引いてしまったときに、それを自浄するガバナンス機能を有していないからだ。
国際機関には組織内のガバナンスを担保する様々な仕組みは役職としては用意されている。Ethics & Conduct(倫理課)、Ombudsperson(仲裁制度)、労働組合、産業医。ただ、実質的にハラスメントにあったときにその上司と対等に掛け合い、場合によってはそこに指導や処分をするに十分な仕組みはなかった。労働組合や仲裁制度は結局量的に訴状が積み上がらないと動けず、産業医はあくまで自分自身の心身の健康をサポートしてくれるエキスパートである。一番所轄範囲に近いと思われる倫理課は、結局匿名で訴えを出しても、その内容からその過程で誰かは明白になり、散々ネガキャンをくらって、あとのキャリアに響くというのがうち組織でも他機関でも聞かれることだ。結局短期契約の世界では次がつながらないと組織生命はおわる。「ま、私のこと訴えてもいいけど、次雇わないよ、あんたのこと」という態度をとるマネージャーを防ぐことは難しい。
加えて、開発(Development、平時の支援)と緊急人道支援(Humanitarian/emergency assistance、戦時や災害などでの支援)のうち、後者を所轄範囲として有している機関はこの「上司が絶対」カルチャーはかなり強まる。一言でいえば、命に関わる危険な環境だからだ。前に長期出張先での話を書いたときにも言及したが、緊急人道の世界はかなり、体育会系だ。自分たちもリスクの高い場所にいるし、裨益者もタイミングを誤れば命を落とす。そんな環境では軍隊型の組織運営は是とされる。合理的だ。「はやくしないと人死ぬよ!」ってときに「じゃあみんなの意見をまずは順番に聞こう」とかやってる余裕はないのだ。緊急人道においては縦型の指揮系統がちゃっちゃと成果を出す傾向にある。
そのため、緊急人道をやっている組織は、このような上司に強い権限を与えるようなマネージメントを是認するような人事規則や規範の中で運営されている。厳しくしすぎると、体育会運営が必要な場所でそうできなくなるから。
私は夏に上司がこのような体育会バリバリの人に変わった。コロナ下で本当にさまざまな「想定外」が起こる中で、かなり多くのことは「部署や現場判断にまかせます」というのが組織見解となった。そのため同じ課題に直面しても人によって対応はバラバラだった。私は自分に降りかかった課題について、自分の古巣で多くの人がとっている対応をお願いしたいと新ボスに願いでたがそれはことごとく叩きつぶされた。私としては理性的に話を詰めたかった。別に納得ができる理由があるなら良いと思った。しかし、そのようなキャッチボールはできず、新ボスは「私があなたのボスだから。いいからやれ」という態度を崩さなかった。
これを人事部に相談してしまったところから、状況はさらに転がり落ちていく。運の悪いことに人事部の管理職も同じく緊急人道の叩き上げ、戦火からかえってきたような人だった。私の話を聞くや否や「あんたが問題だということがわかってるか?」と電話で詰められた。上司に楯突くというジェスチャー自体がショッキングというような反応だった。最終的には48時間以内に離職するか上司の指示を飲むか決めろと迫られた。すでにこちらのメンタルをギリギリと削ってくるようなコミュニケーションに精神が衰弱してる中、この連絡をうけて、人のウェルネスも含めてマネージしてるはずの人事がこのようなことをいう場所に私はこれ以上いられないとおもい、組織を去ることに決めた。
古巣や大ボス、同僚たちからは怒りやショックの声が寄せられた。「意味がわからない」「ひどすぎる」。
でも私も含めそのときに全員が痛感したのはそう思うカルチャーは私たちの部署のそれだったということ。組織が全体として浸透させようという意思をもってはいなかったということだ。
こんな話はっきり言って、日本の会社ではよく聞く。ましてや「社員を所有してる」と考えてる会社ではそんなこと息を吸うように行われてる。つい最近も日本の友人と話していたら、明確に「こういう働き方は家族の都合上無理です」と人事面談で告げた社員に、まさに行くのは難しいと伝えたその部署を移動させたという話をきいて驚愕したばかりだ。だから、私が心底苦しかったのは青い芝に囲まれていたからかもしれない。私の古巣のES(従業員満足度)を重んずるカルチャーを横目でみながら、脳天をおしつけられて地面にぐいぐいと埋められていくのはキツい。それはガラス瓶の中にいれられて、最初はたっぷりあった酸素が徐々に抜かれていくような気持ちだった。苦しい。どんどん苦しくなる。ガラス瓶の外はあんなに楽に息が吸えたのに、と手をガラスの壁に伝わせながら外を見る。
苦しくて、酸素がなくて耳鳴りがガンガン、あたまはぐるぐるで、まともにせいかつできなくなりそうだった。だから私はガラス瓶を割って出た。割ったその手は血だらけになって刺さった破片が今もとれないけれど、でも瓶の外には逃げた。
逃げる以外の選択肢はあの時点ではなかったと思ってる。
逃げるは恥だが役に立つというのは実はハンガリーの諺だ。私のジュネーブの2年間、そして離職プロセスを通して支えてくれた友人の1人はハンガリー出身の娘だった。
「日本ではハンガリーの逃げるは恥だが役に立つって諺が有名なんだよ。自分の納得できない嫌な状況を打開する女の子のドラマで有名になったから」
「なにそれおもしろい。でもなんかその使い方はちょっと違うかも」
「そうなの?」
「この諺はね、捕食されそうなとき、敵から逃げる動物のことをいうのよね。迫り来る脅威からは逃げよう、みたいな意味」
「あ、そうだったんだ」
私は少し考えてからメッセージアプリに指を走らせた。
「じゃあ、私の今の状況だったら使えたりするのかな?脅威から逃げてきたきがしてるんだけど」
すぐ既読になったメッセージに沢山の泣き笑いの絵文字がつく
「たしかに!それ最高ね。間違いない、あなたは正しく脅威を振り払って逃げてきたのよ。大丈夫。役に立ったから」
大丈夫。役に立ったから。
Szégyen a futás, de hasznos
ヨーロッパ最高峰のマッターホルン
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