2019年11月8日金曜日

知の地平とその先に秘められた暴力と

31歳になりました。
ジュネーブに越してきてから1年4か月、
毎年のように思うことですが、今年は特にあっというまに過ぎていった一年のようなきがしています。
この一年と少し、あまりにもたくさんの変化があり、
驚くほどたくさんのことを経験し、それらを頭に浮かべ振り返るだけでも、その濃密さに頭がくらくらします。
文字通り酸いも甘いも経験したこの一年を経て得た学びの一つ、
それは、無知は人を傷つける、ということでした。

人はだれしも全知ではないし、私自身恥ずかしいほどに、自分の視界が捉えられる世界は狭いわけですが、
それはあくまで自分自身への制約であり、自分のケイパビリティ―の分界を示すものであるとなんとなくかんじていた。
受動的な形で自他に限界を強いてしまうことはあっても、能動的に人に作用するものではないと無自覚に感じていた。
しかし、無知は人を傷つける。
自分の知を超えた先に地平が広がっていることに無自覚であると、言葉や振る舞いは、あまりにも簡単に暴力になりうる。
「無知の知」とは、ソクラテスが説いた言葉として有名だ。
私はこれを、現状を常に不完全ととらえ、常に知を探求する志として理解していた。
さらなる知を追い求める野心とそれを駆動しつづけるバイタリティーといってもいいかもしれない。

しかし、いま改めてこの言葉を噛みしめながら、
この言葉が意味するところ、それは自分が広大な無知のなかに立ち尽くしていることに自覚的になることで、
自分の秘めた暴力を省みて、自制することの大切さでもあるのではないかと思っている。

誕生日に書く言葉としてはあまりに暗鬱に聞こえるかもしれないけれど、
これはこの一年で自分の視界に靄をかけていた思考のベールを一枚はぎとるような気づきをもたらしてくれた。
自分があまりにも心無い暴力や不条理を目の前にしたときに、
私はいつも大学で知の巨人たちに教わってきた、ものごとを構造化する思考に助けられてきた。
自分が今目の前にしている圧倒的な悪意や暴力に思えるものも、
それは構造的につくりあげているものではないか、という視点をもつと、
その悪はその個人のパーソナリティーではなく仕組みにあるのではないか、と理解することができる。
そうすると目の前にいる人の悪意という自分にはどうしようもなく、生で触れるのはどうにも辛いものに原因を帰することがなくなる。

無知の暴力はこの思考をさらに先にすすめてくれた気がする。
また、自分の知の地平の先にある広大な無知は暴力を秘めているという自覚は、自らの謙虚さと誠実さを常に思い出させてくれるように思う。

31歳にして、まだまだ自分がここまで大きく価値を揺さぶられることに驚きながらも、
なにより、そんなアップダウンを経ても支えてくれるパートナー、家族、友人に手放しの感謝を届けたい。
そういえばこの一年の一番大きな変化の一つは婚約したことでした。
一年前は想像もしなかった変化だけど、そんな無知と暴力にもかかわらず、自分を受け入れ、支え続けてくれる彼の寛容さに果てしなく驚き、感謝してます。
ダウンもたくさんあったけど、仕事はたのしいし、旅行も観劇もたくさんして、友人と家族に恵まれるという、こんなにも幸に恵まれる僥倖は自分の人生の中でも特筆すべき状況なので、
それを楽しみながら、去年に引き続き、たくさんの根を張り巡らせ、しなやかな幹をつくる年輪をまた重ねられる一年にできればと思います。