2018年7月25日水曜日

「国連に転職する」という当たり前じゃない選択

なぜ国際機関か、なぜ国連、なぜいまの組織か。
転職を決めて、国連で移民の仕事をする、と伝えたとき、多くの人は私に「とても “らしい”」選択だと言ってくれた。
流浪してきた帰国子女で、国際政治を専攻し、語学をテコにして仕事をしてきた。
いわゆる人が納得しやすい経路なんだと思う。「国際的なさきちゃんにぴったりだね」周りは喜んでくれる。私もいつからか「グローバル人材」と呼称されることに”慣れて”しまった。そう呼ばれたときに、一度頭の中で引っ掛けて、自問することを辞めてしまった。

だから、人は私にあまり聞かない。「なぜ国連にいくの?」と。でも、私の転職のどこをとってもそれはキャリアパスとして「当たり前」ではないし、むしろ、その選択は何度も自問し、それを意味を確かめていかなければいけない、と私は思ってる。

国連での仕事について少しでも調べたことがある人なら知っているであろう。国際機関での職の多くは2-3年程度の有期雇用だ。それも若手のうちだけではない。役員クラスになってもここでは皆ずっと2年ほどの有期雇用を続けてきてる。これを話すとその次に聞かれるのは大体聞かれる。 
「じゃあ、2年経つとうまくいけば契約更新できるということ?」
実はこれもNOだ。国連では契約が終わると、そのあとまた求職のお知らせに応募しなければいけない。つまり、国連職員とは2年に一度就活をし続けるということなのである。同じオフィスにいる20年選手の部長だって、契約終了が近づくと同じようにまた就活をする。
今回の私の仕事も例に漏れず2年。そして、これが一番驚くべきことなのだが、これを言うと業界の人は「長いね」という。肌感覚だが、4割くらいの人は大体これよりも短い契約で働いている。
国連とはいわばそんなフリーランス集団だ。
日本にいたときの私は、曲がりなりにも終身雇用を用意された仕事についていた。いわゆる出来不出来で人をクビにはしない伝統的な日本企業だ。どれだけ、パフォーマンスが発揮できなくても、つまらない仕事でも、自分の生活は保証してくれた。色々古風なところは多かったが、用事があれば自己判断で早く帰り、ミーティングがなければ自宅から仕事ができ、繁忙でなければ2週間休んでも眉をひそめられることもない、(仕事量は少なくなかったけれど)日本に珍しい働き方が自由な場所だった。

そんな雇用の安定を「捨てて」有期雇用の不安定な生活に突入にするのは当たり前ではなかった。私は少なくとも怖かった。正直にいえば今も不安だ。

じゃあ、なぜ私はそれでも国連に行くという選択をしたのか。
一つは「異端児」を卒業したかったから。
これは能力と居心地の良さという観点で話したい。

就活の頃から新卒の頃にかけて気づいたことがある。
それは自分の比較優位、いわば集団の中でどれだけ際立つ存在であるか、と居心地の良さ、の二つは、
トレードオフ、ということだ。

こちらを立ててれば、あちらが立たず。
いわば交換条件なのである。

就活した時、新入社員の頃、
多くの人がそうであるように、私も不安で仕方がなかった。
自己証明をしたかったし、自分の価値を図ろうと必死だった。
そんな私にとっては、自分の持つ能力や性質に強い比較優位があるところに行くのは自己証明がとても楽だった。
前職に勤めている頃、不思議がられた。「なんでそこに勤めているの」。
いまの職場にくる前のJPOの選考でも、「なぜ国際機関を目指しているのに、その職場にしたのだ。なぜ5年も勤めたのか」と。
答えはシンプルだ。私みたいな人材が少ないからである。私の希少価値が高かったから。
国際業務が得意ではない場所で、語学や海外在住経験をテコにして来た私にとって、自分の埋めるべき穴や役割をみつけるのはそう難しくなかった。外務省や商社に行けばヤマといる私のような人材が、前職ではレアキャラだった。

しかし、同時に居心地はその犠牲になったかなと思う。
入社してすぐ、気づいたのは、自分自身が、多様で寛容な環境に慣れ切っていたということだ。
不寛容に不寛容な自分、ナイーブさに傷つきやすい自分に気がついた。
「え、帰国子女なの、ほらこれ音読して(店にあった英語のレシピ本を手渡される)」
「は、アルジェリアに住んでたの?狂ったイスラームの中で育ったんだね」
ぐっすり寝ていたところ、耳をぎゅっと引っ張って持ち上げられたような驚きと痛さだった。
他社との会話の中でも
「弊社はアフリカ中に拠点があります。ないところは全てただの砂漠です(同社のアフリカ拠点はその時点で9箇所。アフリカには全54か国ある)」
「モロッコってどこ、何語、モロッコ語?」
途上国の拠点を嬉しそうに紹介しながら「だいたいね、ここは日本の江戸時代くらいと思ってください」

開発について、人権について、国際政治については、話を広げようとはなかなか思えなかった。
そんな状況を前にして、自分自身の不寛容がおもてに出てしまうのがわかっていたし、
そんな話を始めることの方が結果疲れる作業になることもわかっていたから。

だから、自分の能力と関心にあう仕事をとってくることも楽ではなかった。
外交や開発の仕事をコンサルとして受けることが、当たり前の会社ではなかったし、
「やりたいなら、仕事を作りなよ」の一言の下、2年目からはせっせと企画書を書いて仕事を取ろうと奔走した。
会社はきっと社内をより多様化するために、チャレンジとして私のようなレアキャラを採用してみたのだろう。
でも、自分の比較優位は証明されやすい一方で、何をするにも、全てに説明が必要だった。
私の能力に、私の関心ごとに、私の存在そのものについて。
在社中に何度もBe the change you wish to see in the world (あなた自身が目指している変革そのものであれ)
という言葉を思い出したが、自分から組織全体を変えようと思うほど私には体力がなかった。

私は前職で明らかに「異端児」だったが、
異端児であることは体力を必要とする。
自分の関心ごとや、信条、が共有される環境で、居心地よく、
同じミッションの下、仕事ができる場所が欲しかった。

ナイーブな幻想は持っていない。
世界を変えられるのは国連だけじゃないし、
移民の仕事も、国際協力も開発も援助もできるのは国連だけじゃない。

でも、国連では少なくとも、国際協力で仕事をすることへの途方もなく体力のいる手間は必要ない。
それは当たり前のこととして、説明さえいらない。
そして、たくさんの「似た者同士」と仕事ができる。

職場環境としての圧倒的居心地の良さが私にとっての国連の魅力だ。
オフィスではおそらく、自国でしか生活したことがない人はおそらく一人もいない。
「おはよう」というくらいのテンションで「SDGsの目標10だけどさー」と話しだす人は珍しくないし、
私の同室の同僚はそれぞれ一つ前のポストではモロッコ、イエメン、ケニアにいた人たちだ。
日本人であるということがわかると、「私の地元のリオデジャネイロの日本人街ではさー」とか「実はJETS6年日本で英語教えてたんだよね」なんて人がいる。

これで、「グローバル人材」としての比較優位を私は無事に失った。
技術と能力はこれからは生身で勝負しなきゃならない。
でも、それと引き換えに得た居心地は代え難いと思っている。

二つ目はさらに個人的な理由だ。
私が長期的なプランで迷ったときに指針にしていることの一つに「10年前の自分に誇れる自分か?」という問いがある。
日本と他国と行ったりきたりしながら育ってきて、国際政治を勉強してきた自分にとって、国連で働くというのは自分の中での一つの答えだ。
夢というほど恋焦がれたわけではない。
でも、10年前の自分、ただの学生だった青二才の自分はとても喜ぶと思う。
きっと10年後に手が届くものと思っていなかっただろうし、そんな自分の中に住んでいる小さな自分をproudにさせてあげたい。そんな自分本位でしかない理由がある。
自分というストーリーを「語り直せるか」(鷲田清一)ということとも言えるのかもしれない。

変化の中、または全くの無変化の中で目眩がしたり、息苦しくなった時に、
自分というストーリーが一貫して繋がれていることに私たちは安心を覚える。
私にとっての国連転職はバラバラに思える自分の中のピースを回収していく作業でもあったように思える。

国連という転職について、そのミッションから話すことは難しくないし、
その公明な理念への共感に寄せて書くことだってできる。
でも、私自身に関していえば、ある意味「優等生すぎる」その理念は、いわば地球市民の模範解答であり、
私だけじゃなくて世界の大多数が求めていることだった。
もちろん、国際政治に、移民に関わる仕事はしたい。
でも、それだけじゃ、この不安定で、特殊でしかない仕事に「私が」飛び込む理由にはならなかった。

国連に飛び込むには世界の良心を背負う懐の広さと、絶えることのない情熱の炎が必要なのかと言われれば私の場合は決してそうではなかった。
むしろ、そのリスクをとって選びたかった最終的な理由は極めて個人的である。
私は、自分の居心地を求めて、また10年前の自分に誇れるストーリーを語り直せる、ということが魅力でここにきた。
これを言葉にする方が、どうかすると「世界平和のために」というより、よほどこっぱずかしい。
でもそれが本当のことだから仕方がない。

これらはどちらも国連が私に与えてくれるものだ。
だから、この場所に来たいま、その与えてもらった価値に対して、全力で自分のできることを還元したい、それを初心として、いま私はここジュネーブで仕事をしています。


そんな私の、とても大きな世界の前にして、とっても小さな自己完結をする、国連への転職の話。

2018年7月2日月曜日

正しさと正義の城下町

ジュネーブに来た。
ちょうど今週でここに越してから1ヶ月になる。
どう考えても特殊すぎるこの街に私はまだ慣れてない。
出勤初日。仮住まいのAirBnBからバスに乗った。乗ってくるひとは人種も様々、たくさんの言語が飛び交っている。でもどこを見回してもつけているのは国連マークのついたIDストラップだ。朝の混み合ったバスでひしめき合う人々のほとんどが国際公務員だという自体に目眩がしそうになる。バス停の名前は「ITU(国際電機連合)」、「Nations(国際連合本部前)」、「ILO(国際労働機関)」、「WHO(国際保健機関)」と並ぶ。

国連前のBroken Chair
ジュネーブの人口は19万人。大体東京台東区と同じくらい。そのうちなんと9500人が国連職員だ。なんとこの都市の5%が国連で働いている。これを各国の代表部で働く外交官も含めると7%にも登る。(さらに国連以外も含めると43の組織が拠点を構え、2700人が国際NGOで働いている)ここは世界のあらゆる都市で最も国連職員が多い場所らしい。

ここは正論とPCPolitical Correctness)で動く場所だ。人を見かけや出自で判断することはほぼ不可能に近いし、それはタブーである。物件の内見に行くと、迎えてくれたのはトゥブを着た恰幅のいいムスリムの女性だった。彼女はスーダンから着た国連職員でジュネーブでの5年の勤務を終え、ハルツームに帰るそうだ。スイス人のオーナーとも仲良く、「本当にいいオーナーよ」と私にその部屋を進めてくれた。飲食店やスーパーにいっても接客は丁寧だ。レジに並んでる人、街でバギーを押す誰がどこの外交官、どこの機関の要人かわからない。つい昨日もバスでヨレヨレのTシャツと短パンを履いてるおじさんが仕事帰りにジムにいったとおぼしきUNHCR(難民高等弁務官)の人だった。むしろ、「外国人」に見える人ほど、その確率は高いといえる。

Genèveのランドマーク、レマン湖の噴水。
お天気がいいと虹がかかって見える
新居に移るまで1ヶ月はAirBnBで居候をしていた。最初の2週間泊まった家はニカラグア人一家。週末なにやら広げ始めたと思ったら、市内のニカラグア人たちと数十人で集まって国連前でデモをすると言っていた。ニカラグアはいま反体制デモが本国で加熱し、すでに200人近くの死傷者がでて、国は1ヶ月以上機能停止している。
次に泊まったのは引退したてのバンカーだった。日本の大和証券にも勤めていたことがあるという彼は5ベッドルーム、トイレ3つ、バスルーム2つの大豪邸にすんでいて、色々な人を迎えるのが好きだからとジュネーブを見渡しても最低価格に近い値段でこの大豪邸を貸していた。帰宅すると私を捕まえては日本の企業文化がいかに素晴らしいか私に熱弁していた。

湖をまたぐ橋には週替わりで違う国連機関の旗がかけられる。
気のせいかもしれない。でも、PCが張り詰めたように意識されているきがする。多分ジュネボワ(ジュネーブ人)からすればそれは当たり前なんだろうと思う。空港を降りた瞬間、難民への支援を訴えるポスターが窓一面に貼られ、職場のトイレにはいると”Everybody wants to change the world but nobody wants to change the toilet paper”(世界を変えたいって皆いうけど、トイレットペーパーを変える人少ないよね[ロールを使い終わったら、変えよう])などと書いてある。市バスは、難民デー、女性デーなどがあるたびにそのキャンペーンフラッグを乗せパタパタとなびかせてる。

Do the right thing(きちんとしよう?正義は貫くよね?)ということが前提のように敷かれた場所だ。当たり前だ、国連という一大産業の城下町なのだもの。造船業が盛んなところで港が発達するのと同じようなことなのだと思う。でも、この違和感に似た何かは忘れずに居たくないなと思ってる。

「ポリコレ棒で殴る」という表現を最近よく聞く。私はいつも自分はそれを振りかざす危険がある側だと思ってきた。でもここにきて、ポリコレ棒と呼ばれるものが言わんとするある種の窮屈さみたいなものが、触れるか触れないかの距離で肌にスススっと通り過ぎていくのを感じることがある。
この感覚、この城下町で働いていると言うことをついためらってしまうような、この感覚は、摩耗させたくないなと思っている。

初めに滞在していたAirBnBの窓から。最近やっと自分のアパートに越しました。

街の中心地でもこんな感じ。
そのイメージに比べて実は随分のどかな街、ジュネーブ